自伝 三、
﹅﹆
ある時 面接をしている人に 多分気に入ってもらったからだろうと思うが 「一緒に頑張りましょう」と声をかけられたことがある
新しい職を求めて数々の面接に挑んでいた時期があったゆえの その時のワンシーンではないかと思う
その人が声をかけてくれた職場は 今となっては非日常になりつつあるが、 四十五歳の時に新地を求めてこれまでとは違った職種の世界に飛び込もうとする時のまさに「あの時」の面接だったのかもしれない・・と記憶に焼きついている
履歴書を何十通も書いた苦悩の日々があっても 再就職は叶わなかった
人並の資格も能力も実績もあると自信に満ちていただけに さすがに落ち込んでいったことは間違いない
外国語も問題なく扱えるし 国家検定の試験の上級レベルを自慢するように話しても そこで求めている人材は そんな能力を求めていなかった
『あなたみたいな人が来たら うちの会社を乗っ取られてしまうかもなあ』と上手に断られたこともあった。実際 そんな人物は不要だったのだろう。コツコツと謙虚に黙って仕事をする人が欲しかったのではないか
﹅﹆
「一緒にかんばりましょう」と声をかけてくれたのは 国家のキャリアの人で、三十歳そこそこで重要なポストで勤務し のちに任務を終えて国政に戻って 頻繁にメディアに顔を表していたほどの 大人物だった
たった一言「一緒に頑張りましょう」と面接の最後に出てきた言葉が 採用を意味する本心だったのか 儀礼だったのかは 今となって計り知れない
しかし 誰もが この面接でも 「不採用」だろう予測をしていたし 経験もない私にポストはないと考えていたのだから あの時に採用してくれた言葉には 私を呼んでくれる本心があって かっこよく言えば新しい私に期待をかけてくれたのだと思いたい
雲の上の人だった。職に就いてからも話をする機会はほとんどなかったものの その指導力の敏腕さは私にも手に取るように伝わって来た
﹅﹆
設計開発部門を二十年で見切りをつけて 別天地で新しい人の指揮を受けて働けることになった。心を爽快に持ち 持てる限りの情熱を注いで仕事をやり切れたのは あの時の「一緒に頑張りましょう」だったのだろうと振り返る
﹅﹆
1998年に父は無くなったので2003年の出来事は知らない
人生の後半を 技術者をして生きる道を捨てていることを知らないままあの世に行ってしまったし 親不孝な私は そのことを墓前で正式に報告もしていないかもしれない
そのこと以外にも 父には、何の恩返しも 生前にはお祝いやプレゼントもしなかったので ずっとずっと私は引きずって生きて来ている
だから 父の日は 反省の日なのだ
﹅﹆
* 書きかけ続く
外伝🔗: 父の日号 何の変哲も無い孫日記