誰にも言わない・誰も聞いてくれない話 ✦ (わはく百話、その十二) - 四月下旬号

今の季節(四月)は学生さんがちょうど新学期を迎えている、オリエンテーションを終えて履修届を提出して、講義が始まっている候だ

ちょっとした切っ掛けで大学時代を回想してみるのだが 思い出話をすれば苦汁が滲み出る

そんな話など聞きたいとは誰も思わないだろう、ボクは有名人でも偉人でもないただの凡人だから、でも、たとえ誰も読まずとも、自分の愚かさと反省を、ここに書き残しておかねばならない、懺悔のような気持ちがある

と言うわけで・・

✦ ✦

ぐうたらな学生時代

大学合格を目指して熱くなったあとに、勉強をサボった愚かな学生時代を振り返る

何とかなると思っている一面、高望みしすぎた希望に対して反省もしないで 滑り込めた大学にも感謝せず、「大学の勉強は必須でしょ」というブライドだけ抱き続けて、しかし、実際にはサボってしまって、遊ぼうと思っていたわけでもなかったが、アンニュイで曖昧な学生時代を頭の中で築いて過ごした五年間(六年間)

毎日講義に出かけても、詰まらない、眠い、面白くない(というバカにした)気持ちで 教室から抜け出す日が多かったのだが、それもやがて、サボってゴロゴロするか古本屋に出かけるか、音楽ばかりを聴いていた

深夜まで夜更かしをして朝寝をして、大学は休んでばかりで、何しろ、英語講義やLL授業でさえも「そんなもんアホくさい」と思って ぐうたらに受けるか、時々欠席した

成績がどん底で返ってきたときに『自分はこの仲間の中に優秀な成績で飛び込んだのだ』という入学時に持った思い込みに拘った

そんなものは早々に捨て去り素直に勉強をするべきだったのだが・・そうしなかったプライドが手伝ったのだろうか、甘い認識力が働いたのか・・大学に真面目に出ようという学生に変身することはなかった

反省の日々

そうは言っても滅茶滅茶に遊び呆けていた学生でもなかったが、やっぱし勉強はせず、楽して単位をもらえればいいと考えていた安易な甘えた学生だったわけで、悲しいことに天性の怠け者が丸出しだったわけだ

そのことを自覚するのは卒業してから二十年以上経ってからで(後悔は先に立たず)

親に学費を出してもらっている感謝は人一倍持っていたものの  日々の行動は全く極悪の怠け者だった・・ことは消し去れない

もしも その時・・僕が親なら息子を強く叱って連れ戻しただろうし大学もやめさせるほどの剣幕で怒っただろう

もしも あの時代に今の僕が戻って学生をするならば・・

講義にはくまなく出席をして1分たりとも無駄にはしない、休講があろうものなら文句を言って授業料を返せと言い出すかもしれない

感謝も間に合わず

そういうわけで、親には説明のつかないことをして取り返しもつかず申し訳ない失態を犯していた学生時代を、社会人になって即座に振り返ってわけではなく、いつまでも気づくことなく反省を怠ってきたのだった

四十歳を過ぎてから魘されることが増えて、またちょうどそのころに 父が亡くなってしまった

学生時代に犯したアホな足跡を消すことはできず、父に詫びることも叶わず、本当に取り返しがつかなくなったのだった

自分の蒔いた種で残した足跡であるのに、それを思い出すのは辛いし、思い出しても今 誰に懺悔ができるわけではない

打ち明け話をしたとしても悔いばかりが湧いて、あまり触れたくない話になるのだ けれども、どこかに白状しておかねば ボクも易々とは死ねないと思い日々が募っている

✧✧・・✧✧

最終コーナへと向かう

そんな愚かな学生時代の暮らしを送りながら 平松先生や関谷先生、菊地先生と巡り会えたおかげで就職もできた

社会で使い物にはならないような奴を使ってくれた京都の「オ社」の皆さんにも感謝が絶えない

オ社は八年ほどだったが社会人になったヒヨコのぼくを育ててくれた恩人の会社だ

その後 三十路に入り人生は「オモテとウラをひっくり返したように」荒波に打たれるものの、さらにその十余年後に幸運に恵まれて四十五歳頃からは「生きているだけで感謝しなあかん」という二十年を送れた

✧✧・・✧✧

「ひとこと」で言えば

ぼくは『その程度の器』だったのだということだと思う

しかし最初から『その程度の器』なのだと悟って生きていたら こんな生き方はできなかっと思う

ありがとう みなさん

✧✧・・✧✧

※ 写真と本文は無関係です

人生を揺さぶるもの ✦ (わはく百話、その十一)

第十話でいくつかに分けていた途上を各々にまとめて振り返ってみた

1。黎明期

受験の失敗
大学受験への挑戦
高校時代の友との出会い

﹆﹅

中学から高校卒業までを人生の黎明期とでも呼ぼう

小さいころは船乗りになりたかった子が科学に興味を持ち科学研究者を夢に見た

身の回りには模範を示す人物も適切な情報提供ができる知識人もいない鄙びた田舎で大学進学を言い出しても親は珍紛漢紛だ

農家の倅として特別な教育もなく 甘やかして育てらている

中学時代の成績は英語がクラス上位を保てたくらいで 肝心の数学や国語は中程度出会ったものの 小さいころから物知りだったので理科や社会の知識は少し役立った

運動部には関心なく運動神経も良くないので 中学時代には吹奏楽を始めた

高校受験は伊勢市にある県立高校を受するものの不合格で 同じ市内にある私立高校に通う。進学を考えているので勉強意識は高一ではクラス上位で二年三年はCコースという進学クラスに入る

しかし 二年生の五月三十一日にオートバイで車と接触事故を起こし夏休みまでの長期欠席をし ここで歯車が狂って成績はどん底に定着し そのまま卒業までビリ直前をキープした

出席簿の前の(ヒガシ君)と仲良しで そいつ影響で東京の大学を決心し 有名私立などをいくつか受験するが 全でが不合格となる

そこで 浪人となり高田馬場の早稲田ゼミナールに入り 予備校の寮でヒガシの隣部屋で一年を過ごす

ヒガシは明治大学に滑り込んで行った

私も電気通信工学科に進学が決まって 寮の仲間のシマダ君の紹介で江古田の「能生館」という早稲田の学生専用の下宿で大学生活を始めた


2。飛翔期

将来を夢みる二十歳前
大学時代の友
社会人(初篇)

﹆﹅

大学入学を果たしたら怠け者の性格が出てしまった

学校をサボってばかりで 夜更かしをして朝寝坊をし 講義をサボって 古本屋巡りをし安い本を買って 下宿ではラジオを聴いたり本を読んで日々を送った

三年時への進級試験で落第し 恥ずかしさに耐えられず「能生館」も出てアパートに引っ越し 生活はさらに荒んでいく

思い出せば おおかた講義には出席せずに 試験だけを受けて単位を取得していったのだが 最後には答案用紙に「単位をください」と拝み倒したこともあった

根は真面目なのでカンニングやズルい手法は取らず 真正面から独学で勉強をしようとしたのだから 受講した者たちとは大きな差がつくのは当たり前だ

卒業研究で平松先生ー関谷先生ー防衛医大・菊地先生にお世話になって 三年生後半から卒業までをアホなりに楽しく過ごさせてもらった

研究室や大学で友は おおかた優秀でみんな立派な進路を選んで社会に出てゆき 私も菊池先生の推薦状のおかげで京都の「オ社」の研究所に採用された

実力不相応だから みんなと横並びには仕事もできず 哀れながらそれなりの職務をもらい八年ほど勤める


3。不惑の時代

夢から現実へ三十路
社会人・結婚そして子育て
ひとり旅の放浪
仕事の方向転換

﹆﹅

母校同窓会の先輩の話などに刺激を受けて 卯建(うだつ)の上がらない現況からステップアップして 先輩のように年収1千万円超を稼ぎたい、故郷に戻って給料も保証される新しい人生を・・

そんな自惚れた夢を見て「パー」な会社に転職を試みたのが大間違いの選択で大失敗だった

その会社は狡さや悪意が満ち溢れていて これを結集させて見栄え良く飾りつけた組織で 外見だけが一流という大企業の典型的な愚劣な集団だったのだ

職場に疑問を抱き反発もし 嘘の自分で日々を送り ストレスにまみれつつも ひとり旅の放浪の余暇を過ごし 迷いながら十年ほど苦汁を舐め続けたのだが・・

社畜集団で 人間の汚さを見続けるのは辛く 世の中のリストラブームに巻き込まれるかたちで会社を見切って棄てた(棄てられた)

子どもは私立中学に行っていたので 途方に暮れる新しい舞台が始まったわけだ

退職後一年ほど「プー太郎」をしていると 神様のような人物と巡り合えそのお導きで 第三の職場に入れる

給料は4分の1ほどに減るのだが 人間的に素晴らしい人たちに囲まれて 人生観まで根っこから変化してしまうほど素晴らしい環境で仕事ができた

しかし 貧しさからは脱出できず ムスメには四百万円超の奨学金(借金)を背負わせてしまい 申し訳ないことをしてしまう

苦渋の日々を七年間 家族で耐えながら ムスメは順調に就職を果たし 二年間の僻地への転勤もこなして 自宅から通勤可能となったのち しばらくして結婚をする

この不惑の時代以降を第四コーナーと呼んでいる

会社の中に潜む悪質な面を知り 性悪説的人間関係も視野に入れて 子どもが社会人に成長する際の進路判断にも多いに参考にできた


4。天命耳順

第四コーナー篇
能力不足の気づき
新しい人生観
子どもの自立

﹆﹅

親としてお役目が終了したわけではないものの 就職をして結婚・子育てと自らの人生のレールを敷いて 親に頼ることなく判断ができるように人になれたとみなしてよかろう

アラジンのランプの魔神のように お勤めを終えてランプに戻るわけではないが ともかく一息ついたと思ってよいだろう

仕事の方は、最終コーナーを回りながら 環境部門でかれこれ二十年近く仕事を続けさせてもらいったが コロナの襲来で社会がドタバタした際に 六〇歳をちょうど超える時と重なって 仕事の席を失ってしまった

先祖を振り返れば曽祖父が村長、祖父が村会議員、父が役場職員をしていた家系の歴史を振り返り、鉄砲玉のようなアホ息子も恩返しに戻ってくるのが本来の筋であったのかと もうおおかた走りきったころで気がついたことになる


5。低空飛行

ラストスパート
加速か
スキップするか

﹆﹅

もはや 再燃焼する余力も無いし気合いも生まれない
「人生」などという今まで口にもしなかった言葉が日記に登場するようになった
いよいよ 老化・痴呆 への方へと迷い込みそうな嫌な予感が漂う
だが ここで 挫けるわけにはいかない

孔子曰く

吾十有五にして学に志す 三十にして立つ 四十にして惑はず。
五十にして天命を知る 六十にして耳順ふ
七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず(のりをこえず)

✰✰

座右に置きっぱなしにしたこの言葉も いよいよ身に染みる年齢になってきた
年齢の節目に受けた健康診断で不整脈があり二十四時間心電計測をしたら心房細動も見つかった
BNPが400に達しているとわかり ちょっと 身体を大事にしなくては行けないと思い直す
eGFRは40と要注意レベルに達していたのを気に留めるだけで対処をしていなかっただけに 精密に検査をするとボロボロと傷んだところが見つかる
そこで 令和五年十一月から塩分チェックを強化して 減塩生活を始めることになった

✰✰

長生きをしようとは 今更考えてもいないし できるという期待も持っていない
そのつもりで 燃え尽きる人生を送ってきたのだし 振り返って取り戻したいようなものもすぐには思い浮かばない
もしもあったとしても

すでに諦めの処理を終了している
先日の手術の際に麻酔のなかで妄想に溺れていった時のように
苦しみながら生命という意識から解放されて
消えてゆけたらいいだろう

具体的なことは考えると悩みは増えるばかりだ
今の『命の器』の中で精一杯に生きることを考えていきたい

雨水✰天皇誕生日篇 ─ 生きることや死ぬことの意味を 車谷長吉のふうに見直して (わはく百話、その十)

車谷長吉の「四国八十八ヶ所感情巡礼」と「世界一周恐怖航海記」を読んだことで『人生とは・・』を考え 生きることや死ぬことの意味を 車谷長吉の視点を真似して見直していた。小説家と比べるつもりもないが 人生の足跡を冷たい目で見ることは 必要なのかもしれない

(わはく百話、その十)


これまでに人生の行手を左右するまでに揺さぶった人物、出来事や事件にどの様なものがあったか・・とふと考える

他人から見れば何の面白みもないが荒波人生だった

今となっては どうってことないように見えるものだけれども あの時は 死に物狂いだったはずだ

曲がり角があり、一直線の位置であり、凸凹道であり、その都度思案に暮れた

具体的に考えてみる

1。黎明期

受験の失敗
大学受験への挑戦
小中高の友との出会い

2。飛翔期

将来を夢みる二十歳前
大学時代の友
社会人(初篇)

3。不惑に向かう

夢からの目覚め現実を考える三十路前
社会人(結婚そして子育て)
ひとり旅の放浪
仕事の方向転換(社会人中篇)

4。天命耳順

社会人最終コーナー篇
能力不足の気づき
新しい人生観
子どもの自立

5。低空飛行

ラストスパート
加速をするか
スキップするか

﹆﹅

四十歳を過ぎたらオマエを叱る奴は誰もおらんようになる。ええ気になって生きていたら アカンということや』そう言って教えてくれたのが誰であったのか。今になってはもうわからない誰かのコトバで 最後に私を鼓舞してくれたのが人のコトバだ。実はとても貴重で重要な人であるはずだが 誰なのか記憶がない

その神のような人が思い出せない申し訳なさを抱きながら その人に感謝をして人生をここまでやってこれたのだから有り難い

﹆﹅

人生は失敗の繰り返しで 未完成を叱られてばかりだった

この世の悪い奴らの圧倒的な多さに地団駄を踏みながら「バカ正直」呼ばわりされて僅かな正義で仕事に向き合ってきた。一つの信念で情熱を守れることの歓びに感謝し 多数決で割り切る今の現実社会に刃向かってでも孤高の人あろうと夢を見た

ほんと「あほんだら」な自分が情けない反面 自省の中で湧いてくる美学に少しうるっときている

行き着いたのは
自分とはその程度の器の人間だったのだから その器の中で咲けばよいのだ
ということだ

※ つづく
※ それぞれの時期については別途考えてみたいと思う



三連休 ❃ 春はもうすぐ ー 人生を揺さぶる 外伝

続・死生観  ☆

父の死生観のことをグルグルと考え続けている
前の日記を『死生観』で検索しても似たことを書いているだろう
中には 違ったことを思い直しているかもしれない
定まらない想像の中に 真実の姿を 映し出せるのだろうか

いつか直面する死を想定してあの世のことを父が語ったのを一度も耳にしたことがなかった

身体が弱いことは十分に承知をしていたはずだし 自分も父親を三十歳のころに失っているだけに 短命という不安がなかったとは言い切れない

だが 六十六歳という未来に死んでしまう(かもしれない)ことを不安だ思うとは 誰にも喋ったことはなかった

死ぬ事に立ち向かって生きようという気持ちが激しくなかったのだろうか

運命とは与えられているものだ、その時期が到来したら受け入れるしかないと そう思っている人だったのだろうか

それは子どものころからの病弱さゆえに 自然に受け入れている諦めであり 命は授かったものだという考えだったのかもしれない

命を賭けるほど手術を六十歳で決心している

それほど悲観的でもなく勇敢に挑戦してしまった本当の気持ちを 面と向かって聞けなかったままだった

あの時の決心はどこから生まれたのだろう、もしも死んでしまったらどうするつもりだったのか・・

そのことをあの時に聞こうとしなかった自分を 今となっては悔やんでいる

ぼんやりと人生を捉えて生きてきた

生きるということの壮絶さを甘く考えていた自分の人生観の甘さと死生観の意識の未熟さを今となっては後悔している

つづく


時を失う 時を遺す ❀ 令和五年の師走に考える (わはく百話、その九)

時を失う

二十六年前の師走の今ごろ 父が命を失うちょうど1ヶ月前のことで 多分何も変わりない師走を私は過ごしていた

六十六才の後半をどんなことを考えて父は生き延びているのか・・最期の師走を父は それが最期の師走だとは考えつきもしなかったに違いない

もちろん最期の言葉を何も 日記にも書面にも 残していない

私に至っては そんな迫っている師走なのだという考えにも及んでいない

『時を失う』ってきた人生だ………果たしてそうだったのか

遺す

私が生まれるよりも前の若い時から丁寧に日記をつけているような人だった

それだけに晩年には 思い当たるようなものを残していなくとも 生前においてどこかに何かを断片的であろうが書き残していたのだろう

しかしそれも 最期の日の何年か前に 事件のような気持ちの急変で 記録のおおかたを焼却してしまうという出来事があって以来 何かもが失くなってしまったと考えられる

そのことを認めながらも どこかに隠された「何か」があるのではないか………と 疑ったり期待を持った人は 誰一人としていなかった

無言

脳出血やら脳梗塞を繰り返しながら 確実に自分の生命が傷めつけられていく日々と向かい合いながら もうそれほど余命が長くはないことを充分に察知していたことは間違いない

しかし そんなにまで生きてきた人生を振り返った言葉を耳にした人は 誰一人としていない

二男(私の弟)家族と妻(私の母)と暮らしながら 側にいても家族にはそういったことを喋ることもなく無言で逝ってしまった

想定外

まさか急に息を引き取るほどまで そのころの症状が悪化をしているとは 思ってもいなかった

周囲の大勢は 長くは持ち堪えることなく いつかやがて 果てるしかない運命に直面している覚悟をしていただろう

しかし 少し離れて暮らす私に 死亡の知らせが届いた時は 全くの想定外であり突然のことであった

想定外』は『覚悟』とは別物だ

突然起こった事件の事実を 『覚悟』の気持ちが覆い尽くしてゆく

傍目には冷静に見えても 震撼は日々着実に大きくなっていく

無念

さて

その六十六歳で迎える師走であり 今 同じ歳になって師走を迎えている

六十六歳の師走が最期の師走かもしれないなどとは 私も私の周りの誰もが思ってもいないだろうし それで間違いはないだろう

心臓に疾患があって 近々手術を受けることになりそうだが 何かの間違いかミスがあって命を落とすということもなかろう

六十五歳と六十六歳で亡くなっていった祖父や父を思うと 悔しがる時間も用意されなかったのかもしれないが  生きることをその年齢で諦めねばならなくなった二人は さぞや無念で悔しい思いをしたに違いない

そんなことを考えると 生きている自分という向き合って この師走は大きな節目に見えてくる

師走に思う

祖父や父よりも長く生きる分だけ 恩返しもしなくてはならない

そんなことを考えている 令和五年の師走だ

つづく

わはく百話 - その 八、 花屋をしたい (霜降号)

わはく百話 - その 八、花屋をしたい


将来『花屋をしたい』が私の口癖だった、本当に花屋をしたかったのか、切実に夢を見ていたのかどうかは はっきりしない。花の名前に詳しくもないのに 何故に花屋をしたいと夢を見たのか

子どものころに母が 庭の花を切り花にして新聞紙に包み学校に持たせてくれて 教室に生けてもらうことで 花を愛したことが印象にあるからか。

もしかしたらそのころから「花屋になりたい」と話すようになって行ったのか。大人になったら・・という話を母とほんわかとかわすときに「花屋さんをしたいなあ」と話したような記憶がある

花屋になりたいと思う一方で 「本屋をしたい」「酒屋さんをやりたい」などとも言った。軽い夢だったのだと考えていいだろう

「船乗りになりたい」とも言っていた。多くの子どもたちが野球選手を憧れるように船乗りに憧れたのだ

「カモメの水兵さん」を歌って踊ったのは幼児期だ。船で大きな海をゆく姿をどのくらい想像していただろうか 海軍や自衛隊の船員のイメージではなく 大きく静かな海の上を航海する姿を夢見たのだろう

船乗りに近いけど「南極観測船に乗りたい」と思ったことがある。未知なものへ希望をもつことから「富士山レーダーで仕事をしたい」というのもあった。サイエンス系の子供雑誌の影響が大きかった

小学校の後半のころになると現実味が出てくるきて「アナウンサー」と言い出す。何の影響を受けたのかはわからない。ニュースを読む姿に憧れたのだろうか

父はアナウンサーという職業に憧れたのだろうか、年老いてからも「おまえはアナウンサーになりたかったんやなあ」と嬉しそうに昔を懐かしんではそんな話をした

花屋さん」は 叶わないとわかりながらも 人生の未来の姿に夢のように重ねてみては 幾つになっても考えることがあった。子どものようだがロマンを諦められなかったのだろう。何かの拍子にチャンスがあるかもくるかもしれないなどと いい大人になっても抱き続けていた

新入社員のころ 挨拶で「将来は花屋さんになりたい」夢を持っていると話し、そのことを覚えてくれていた同僚の女の子が 私が仕事をやめて田舎に帰るときに「いつか花屋さんになれるといいね」と別れの言葉を贈ってくれた。これは嬉くて感動した。何年かは技術者として働いて晩年に花屋の夢が叶いますように・・と祈ってくれたのだろう。素敵な女性だった

燃える秋 - 初めてのバイク旅をふり返る (誕生篇)-『わはく百話』その七、

『わはく百話』に追加します
その七、燃える秋 - 初めてのバイク旅をふり返る (誕生篇)

ちょうど四十年前の十月の今日あたりに僕は初めて信州という未知なるところまでバイクで旅をしたのでした

仕事が連休だったという理由で 何の計画も立てず 夏に買った新しいオートバイで走り回りたかったのだろうと思います

地図も持たずに 中山道を北に向かって走って 木曽の宿場町などで休憩をして 観光案内で名所を探して 乗鞍高原というところに向かって走ったのでした

木祖村から『境峠』を越えて乗鞍高原に入って行くわけです

そこで 初めて 信州の大きなスケールの紅葉との出会います

大きな大きな山が聳えていて その山中が燃えるように色づいていました

名前も知らない樹々が一面に赤や黄色になっている

乗鞍高原というところにやって来ます

地図を持たずに家を出ていましたので 高速道路のパーキングでもらった道路地図を参考に走りました

乗鞍高原は予習をしたわけではなく 全く初めての信州です

宿に泊まって旅をするのも 未経験で 予約の方法も知らないので 観光案内所に駆け込みます

同じように旅館を探している行き当たりばったりの人が大勢あって 数人を纏めて 観光案内所で紹介された民宿では 大きな宴会場のような(屋根裏のような)部屋に案内されたのでした

あの頃は 人を疑うというようなことが今のようにはありませんし 客扱いが悪くても不平も言わずにいましたな・・・

貴重品なども相部屋のその辺に放り出して 免許証や大事なものが入ったツーリングバックも特別に片付けるわけでもなく、共同浴場に行ったり、知らない人同士で夜中まで旅の話をして みんなで枕を並べて寝ました

乗鞍高原では 野原に湧き出している共同浴場という温泉小屋がありました

木の板で囲った東屋のようなところです

そこでお湯に浸かって 温泉ってなんて素晴らしいんだろう と感動するわけです

前に紹介した『バイク考』の中で書いたように このころはあらゆるものが未完成で 進化の途上でした

そういう時代に旅人をできて 僕はとても幸せでした

秋も深まって来ました

四十年昔に訪ねた乗鞍あたりの山が恋しいなと思います

大自然の景色は昔と同じだろうけど 旅をする人の文化は大きく変わっています

もう一度 大自然に再会したいな って思うことが時々あります

心臓のエコー心電図を受診して もう少し詳しい検査をして判断をする必要があると言われました。心電図の結果が出たら 紹介状を書いてもらって 日赤病院へ行くことになります

祖父と父は 『高血圧』→『脳出血』→『脳梗塞』→『腎不全』→『心不全』という流れで六十六歳で亡くなりました

私もその道筋を歩む覚悟をして 人生の後半を歩んできました

今ここで『心臓疾患』の項目がシナリオの一つに出てきました

やれやれ困った

六十六歳です


1974年の5月31日のこと 大雨の日でした

1974年の5月31日のこと

大雨の日でした。


文化祭か何かの準備で帰りの電車が一本遅かったかもしれない。(1本=1時間です) だから、駅からの道を急いだんだと思う。
集落から集落へと小さな山を越える小さな切通しの峠道で、道路脇から飛び出した車と接触して転倒し大怪我をしました。高校2年でした。

雨が激しかったので、目に入ると痛い。だから、うつむき加減で坂道を下ったんでしょうか。脇から出てきた車に気づくのが遅れ、右ひざから足首まで40針ほどを縫う怪我をしました。

事故の状況のことは、機会があったらどこかで書きたいと思いますが、今日は、あの出来事にまつわる読書の話をします。

大雨。
事故。
そういう、ありふれたハプニングが、幾つもあって、私の人生の筋書きをねじ曲げてきたのかもしれないな、とつくづく思います。

元々は、遠藤周作さんの「どっこいショ」という本の出会いを書いたのですが、5月31日のことが絡まっていますし、自分のために今日の日記にアップしておこうかなと思ったのです。
「どっこいショ」のレビューにしてもいいかなとも考えましたが、そちらには既に別のことを載せていましたので。

——

あのころの私は国語が嫌いで、決して活字というものを好んで読みませんでした。ところが、おかしな勘違いをしている友だちがクラスに一人おりまして、彼のおかげで人生が変わってゆくのです。

彼の名前は宮崎といいました。毎朝、電車の中で一緒にバイクや車、夕べのテレビの話をする仲間でした。休日には近所をバイクで走り回る親友だったのですが、私が読書好きだと思いこみ、さらに遠藤周作のファンだと思っていたらしいのです。

高校二年の五月三十一日の夕方、下校途中に私は車と接触事故を起こしてしまいました。バイクは破損し右足の脛を四十針ほど縫う大怪我を負い、六月と七月は入院生活となりました。

一週間ほどして宮崎が見舞いに来て単行本を一冊差し出し、「オマエは本が好きやろう、遠藤周作が好きやろう」と言うのです。そして「どっこいショ」という分厚い本を私にくれたのです。遠藤周作という作家はこのときに初めて知りました。そして、宮崎が勘違いをしていることにも気づきました。

その本は、病院へ来る途中で買ったらしく安っぽい袋に入れられ、彼はそのまま私の枕元に置きました。何でも言える仲だったので「俺はお前が思っているほどに本が好きじゃないのだ」と白状したかもしれない。傷口の縫合直後で、あと一ヶ月は安静だったので「まあ、そのうち読むわ」と返事をしたかもしれない。

そういうわけで「どっこいショ」は、枕元に置かれて幾日も過ぎ、退院してからも読まれずに棚に積み上げられたままとなり、やがて、宮崎からの見舞品であることさえも忘れられてしまうのです。

私は二学期から学校に復帰しました。宮崎にとって、私は読書好きな友人のままです。そして毎朝、彼と一緒の電車で通学し、バイクや車の話をする。だから、二人の間にはそのおかしな勘違いが続いたままとなっていました。

それから一年後の秋、十一月十四日の夜のことです。彼は取りたての免許でドライブ中に運転操作を誤り海へ転落してしまい、あっけなく命を落としてしまいます。きっとそのときもまだ、「どっこいショ」は読まれないまま本棚にそのまま置かれていたと思います。

私は受験生でした。葬儀が終わり、秋が過ぎて時雨の冬がやってきて試験の時期が近づくにつれて、見舞いにもらった本のことも宮崎自身のことも次第に頭の片隅に追いやってしまいました。

受験は失敗でした。故郷を離れて上京し一年間の浪人時代を始める私は、めまぐるしく変化する時間に埋もれて、親友を慕うことや読書のことなどは、あとまわしの生活を送り始めます。

一年が過ぎて大学生になる時期が来ました。新しい下宿に引っ越した日、荷物の山の中から色褪せた「どっこいショ」を発見します。宮崎との思い出を呼び起こし遠藤周作と再び向き合うことになった一瞬でした。「どっこいショ」が私の手元に贈られてから二年と数ヶ月が過ぎていました。

遠藤周作と高二で出会いながら作品に触れるのはこのときが最初です。つまり、私の読書人生はこのときに第一歩を踏み出したことになります。
ちょうど偶然にも一般教養科目で文学を履修します。先生は斎藤末弘さんというかたで、先生のことにはさして興味を抱かずに履修しました。斎藤先生は、キリスト教文学などの作品群をピックアップし、太宰治を始め椎名麟三、遠藤周作の講義をしてくださいました。

「きょう、これから遠藤と一杯飲みに行くんだよ」などと、ちょっと自慢めいた話もしてくれました。
「ホラ吹き遠藤って言われるけど、ほんとうでねぇー」

電気通信工学科でしたので、一般教養の文学は卒業のためのどうでもいい授業で、少なくとも大多数の学生にとっても簡単に単位をもらえるお得な講義でした。

しかし私は、専門の講義をサボることはあっても先生の文学講義は熱心に聴いてしまうようになってゆきます。それは斎藤先生の熱意の溢れる話と椎名麟三や遠藤周作がもたらすテーマに魅力があったからでしょう。文学作品を探して母校周辺の古本屋を散策する習慣もこのころ定着しました。

そのころの遠藤周作には「沈黙」や「イエスの生涯」という代表作があり、「おバカさん」「ユーモア小説集」という馴染みやすい作品も人気でした。
私がこれまで幾度となく読み返し、そのたびごとに涙を誘われる「わたしが・棄てた・女」との出会いもこの時期です。

「なあ、君たち、『棄てる』という漢字はこう書くんだよ。この漢字はなあ、紙くずを丸めて屑籠に棄てるときに使うんだ。」

斎藤先生がそう話していらっしゃるとき、熱烈な遠藤周作ファンになってしまう今の私の姿などは想像もできませんでした。

読書人生を振り返れば「どっこいショ」だけが特別ではない。けれども、見舞いに宮崎がくれた「どっこいショ」の意味が理解できる年齢になって、斎藤先生や遠藤周作との出会いからすべては始まったのだという深い感慨が滾滾と湧いてくるのです。


2006年5月31日 (水曜日) 【深夜の自画像】 | 🔗

ビール2本 - 能生館の思い出

ビール2本 - 能生館の思い出


下宿に商学部の黒金先輩という人がいた。

黒金さんは米沢興譲館出身で、浪人時代を仙台で過ごしており、そのときの仲間で「北山会」というのを作っていた。その会に萩山寮時代の島田くんがいて「黒金とういうのが下宿しているから君に勧めるよ」と紹介してくれたのが能生館であった。

島田は、飯坂温泉の電気屋の息子なんだが、弟に島田ラジオ店を任せて仙台で2浪、萩山で1浪、そしてわたしが1年の時にも1浪して、合計4浪で文学部に入った。

島田くんの世話になったときには、この二人がお酒大好き仲間だと気づかなかった。

あの頃(1977年)、ビールは195円ほどで、黒金先輩は毎晩ビールを飲んだ。
学校から帰ってくるときに江古田の駅前にある十一屋でビールを2本買って帰る。
下宿の廊下をカランカランと音を立てて部屋に滑り込んでゆく。

このころは風呂屋が150円ほど、駅前のメシ屋でラーメンを食うと300円以内だった。

わたしも黒金先輩の真似をしてビールを2本毎日飲むようになった。

だが、先輩は勉強家でビールを飲みながらではあるものの大学生とは思えないほど日常の時間を勉強に費やしていた人で、のちに山形の銀行に就職し、随分と偉くなったと聞いている。(休日は「なべの会」で奥武蔵や秩父の山を駆けずり回っていた)

真似をしなくてもいいところばかりを真似したアホなやつだったのだ、わたしは。


2015年12月 2日 (水曜日) 【深夜の自画像】 | 🔗

南国屋さん (@江古田)

【銀マド】 深夜の自画像 のカテゴリーから


南国屋さん

▼正月の肉ためたまま一月尽

1月も早いもので、もう25日を回ってしまった。
寒い夜を迎えるとまた昔の下宿を思い出してしまう。 (江古田(1)に書いた)

四畳半裸電球の下宿の部屋で
窓を開けると路地の向こうの同じボロ下宿に
年の似た女の子がいて、結構青春ドラマみたいに、
窓を開けるたびに顔を合わせた。私のことなど意識せず
裸で平気で、気にせず歩きまわったりして、
気さくなお隣さんだった。

その部屋は、南国屋さんという食堂の二階だった。
でも、彼女の名前は、吉川くんではなかったが。

ほかでも書いたが(※江古田(1)でも触れていたが)、

猫をたくさん飼っているおばあちゃんが食堂を経営している。
普通の民家に暖簾を出すだけで、
南国屋と書いてなければ、雑貨屋でも散髪屋でもおかしくない。

ガラガラと戸を開けて入る。
猫が出入りするので、少し開いていることが多かったかもしれない。
なかは土間である。

もうそんな下宿屋は都会にはないだろうな。

2012年1月28日 (土曜日) 【銀マド】 深夜の自画像 | 🔗


南国屋さん(その2)

蒸し暑い夜は昔(その1)の 下宿屋のことを思い出す。

向かいの下宿屋は、ぼろぼろの家で一階が食堂だった。

「南国屋」さんと隣近所の人は呼んだのだが、看板が出ているわけではなく、営業しているときでもその暖簾では食堂として営業しているようには見えなかった。だから、お客が入っていくところも入っている姿も見たことはなかった。二階の下宿へはどうやら食堂の戸をがらがらと開けて入るらしいのだが、夜中に帰ってきたときはどうしているのかはわからなかった。そうそう、寅さんの映画に出てくるような雰囲気に近いのかもしれない。

こちらの部屋と向かいの部屋は一間余りの狭い露地を隔てているだけだったので、向かいの下宿屋には跳べば移れそうな感じがした。窓を開けると向こうの部屋の中がよく見えた。

おそらく真正面の窓から見えている部屋と他には小さな押し入れがあるくらいだっただろう。この部屋とさほど変わらなかったに違いないが、この部屋は貧乏な大学生が住んでいる賄い付きの下宿屋で、向かいは一人で暮らす若い女の子が住んでいる小さなキッチンのある部屋だった。

その女の子はたぶん学生ではなかったにちがいない。

こちらから、窓辺に座ってちらちらとみながらいつも想像をしていた。

向こうの部屋にはカーテンなどなく、磨りガラスの窓が1枚の構造であった。だから、彼女はたいてい窓を開けっ放しで暮らしていた。ご飯を食べるときも、テレビを見るときも、寝るときも、着替えるときも。

こっちの部屋から見えていることは充分にわかってる筈だし、若い大学生の男子がいることも気づいていただろう。けれども、この部屋からしか見えないという理由なのか、その気がないのか、いつもこちらを意識している様子はなかった。

洗濯物も恥ずかしくないのだろうか、平気で窓際に干していた。

挑発的であったというわけでもない。存在を意識していないのだ。

こっちの部屋の住人にしたら刺激的なことが次々と起こることもあったが、やがて慣れていってしまう。

下着姿でうろうろしようが、着替えをしようが、ほぼ裸で寝転んでテレビを見ていようが、慣れてしまって平気になってゆく。

と、そうは言いながらも彼女がどんな女性なのか気にかかって仕方ない時期があった。

南国屋さんは猫を7匹くらい飼っていた。

店主であり下宿屋の主人だったおばさんは、その7匹の猫ちゃんを大切にしているのだが、機嫌を損なうと箒で追いかけまわすという、漫画のような人だった。

ぼくはその主人であるおばさんの顔も下宿人だった女の子の顔も、2年近くもの長い間住みながら知らないまま暮らしたのだった。

パンツを見れば誰かわかっただろうというおかしな自信がある。

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(その1)南国屋さん  2012年1月28日 (土曜日)  【銀マド】 深夜の自画像

2017年8月31日 (木曜日) 増殖する(秘)伝 | 🔗


夏休み

小さい頃の子どものお勤めといえば、お風呂の薪を焚きつけてお風呂を沸かすこと、縁側の前から家の周辺をぐるりと掃いて回ること、夕飯のお茶碗を飯台に並べること、ニワトリに餌をやること、などがあった。

他にはその日その日によって前の畑に茄子をもぎに行ったり、ニワトリ小屋に卵を取りに行ったりした。振り子のついた柱時計もあったので、こいつのネジを巻くのも仕事だったような気もするが、これはあとからそういう風景を思い出して記憶がすり変わってしまったのだろう。

子どもの私には柱時計には手が届かなかったはずだ。踏み台を置いても届かなかったはずで、毎日、たぶん、父が蝶々の形をしたネジ回し器でネジを巻いていた後ろ姿を見上げていたから、いつからか自分がやっていたような記憶に成り済ましてしまったのだろう。蝉といえばアブラゼミで、クマゼミの声はあまり聞かなかった。

友達と山へ遊びにでかけてもクマゼミを見つけると蝉の王様をつかまえたような気分だった。

私は蝉を捕ってそんなに喜ばなかった。

捕獲したところで何になるのだ、みたいな気分があったのだろう。

そのへんにたくさん散らばって鳴いているものを無理に捕ってしまう必要もないだろう、と考えていたのだろう。昆虫採集などをして整理して夏休みの宿題を完成したことなどは一度もなかった。

近所には1m程度の深さの川があって、泳ぐには最適の淵もいくつもあった。

遊泳場になっているので、午後になると保護者付きで子どもたちはそこで泳ぐのが日課だった。プールというものはこの地域には全くなかったし不要だった。

しかし、そこでも私はあまり泳いで遊んだ記憶はなく、魚釣りに行くわけでもなく、何をしていたのだろう、山の中に入って行って駆けずり回っていたような気もする。

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2011年8月21日 (日曜日) 【銀マド】 深夜の自画像 | 🔗

江古田(1)〜(5)


江古田(1) 〔2004年6月中旬号〕


西武池袋線の江古田駅の南口を出てすぐに線路沿いを西に歩く。しばらくすると稲荷神社に突き当たって、そこを通り抜けながら南へ直角に曲がると千川通りという大通りに出る。通り沿いには武蔵大学の塀が延びている。ここをひと区画ほどさらに西にゆくと武蔵大学の正門があって道路が北に向かって延びている、私の下宿は、駅からこのように北斗七星の形のように路地を曲がってゆくとあった。

玄関には「能生館」と書かれていて、スケールは小さいが大正時代の由緒のあるような旅館のような構えだった。どうやら昭和3年に建立されて東京の空襲でも燃えなかった幸運な建築物らしい。下宿屋のおばさんがお父さんに「空襲でも残ったんですものね」と染み染みと話をなさっていたのを耳にしたことがある。

隣に「南国屋」という飯屋があって、暖簾だけがぶら下げてある。暖簾が下駄屋ならば下駄屋らしいし旅館ならそれはそれでもっともらしく見えるという風情の飯屋だった。猫が7匹ほどいて、ばあさんが「ねこちゃーん、ご飯だよ」と夕方になると呼び寄せていたものだ。「さあおいで」と優しく誘いかけていると思えば、なつかない猫たちを「お前たち、どっかに行ってしまいなさい!」と追い払っているところも何度も見た。あの猫たち、料理されはしまいかと心配したものだ。そんなこともあって、ここのばあさんの飯はさすがに食う気になれず、よその店ばかりに行っていたが、一度は食ってみても良かったかもしれない。

南国屋さんは下宿屋も兼ねていて二階に若い女の人がひとり住んでいた。その彼女の部屋が能生館の私の部屋のまん前で、窓をあけるとお互いが部屋の中まで丸見えだった。女性は下着を干すのも平気で、まだ二十歳前の男が向かいに住んでいることを知ってか知らぬのか、あらわにカラフルな洗濯物を窓の手すりの前にいつもぶら下げてた。勉強机に向かってふと窓のほうを見ると風に下着が揺れて、その向こう、つまり部屋の中で女性の姿が動いているのが見えた。しばらくすると会釈くらいは交わすようになったような記憶もあるが、残念ながらそれ以上の知り合いになれたわけではなく、悩ましい衣類や年頃の私が最も好奇心を抱いていた女性という未知なるモノの姿ばかりが瞼に残っているだけである。

下宿屋は、早稲田の学生専用だったが、例外的に一階の玄関脇の広い部屋には武蔵野音大の岡戸さんという女性が住んでいた。毎朝8時になると「あー♪あー♪あー ♪」と発声練習をした。ピアノの練習よりも歌の練習が多かったように記憶する。聞くところでは教育課程が専攻らしい。
あのころは誰もがみんなが可愛く見えたが、女性にはまったく縁がなく、私の部屋に来るのは、もっぱら隣に並ぶ部屋に住む先輩たちだった。

続く

2009年3月 8日 (日曜日) 【深夜の自画像】 | 🔗


江古田(2)〔2004年7月初旬号〕


私がこの下宿に住みこむことになったきっかけは、文学部に進んだ島田君の紹介だった。島田君は仙台市で3年間の浪人生活を経て、4年目の浪人生活を最後と覚悟して東村山へやってきて、私と同じ寮に住むことになった。その1年間の話は長くなるのでまたの機会に譲ることにして・・・。

江古田の下宿には、島田君の仙台時代の親友であった黒金さんという、早稲田大学の商学部にかよう人がいて、島田君の紹介もあるが、私が下宿の新米として入れてもらうときには、この黒金さんの知人の紹介ならOKでしょう、ということで受け入れてもらえた。

家主さんは安藤さんといって、下宿屋の名前は「能生館」といった。おじさんが新潟の出身なんだって聞いてもその頃の私は何も考えておらず、この名前は新潟県の能生町から取ったものだと初めて気付いたのが社会人になって旅の途中に能生を通ったときだった。

安藤さんの家族は、真の親のような気持ちで面倒を見てくださっただけに、私はグウタラ下宿生だったので、おじさんやおばさんに申し訳ないかったなとしきりに反省をしたものだ。

「ねえ、お父さん、東京が焼け野原になってもこの能生館は燃えずに残ったらしいですものね。昭和3年に建ったんだからたいしたものよねぇ」と沁みじみと安藤さんのおばさんが話していたのを憶えている。おばさんは当時、40歳くらいだっただろうか。高校生の男の子と中学の女の子、そして少し歳が離れて小学生の男の子の母で、私たちの下宿人の夕飯も作ってくださる、私たちにとっても母のような人だった。

続く

2009年3月 8日 (日曜日) 【深夜の自画像】 | 🔗


江古田(3) 〔2004年7月中旬号〕


その家族と私たち下宿人は「コ」の字型の棟に同居をしていた。家族の皆さんが2階の向こう側、私たち下宿生がこちら側。家族の部屋の1階部分が食堂と居間で、下宿人の1階は数人の人が寄って何か作業をしている会社の皆さんがいた。「コ」の字の縦の部分の1階は玄関と武蔵野音大の岡戸さんの部屋で、2階は子どもたちの部屋だった。

下宿人の2階は、道路側から辻さん、私、黒金さん、大塚さん、爪生さん、林さんの順だった。黒金さん以外は皆さんが法学部だったので、夜にあれこれと部屋に集まって駄弁るときは勉強させてもらいました。

辻さんと大塚さん、爪生さんは東大法学部を目指していたスゴイ人で、1次試験には現役、浪人、早稲田1年と3度ともパスするが、2次は厳しい壁に阻まれていたらしい。毎日、寝息の聞こえるような間合いで生活するのだから、大体どんな生活かは想像できるのだが、それほどガリガリ勉強する様子でもなく普通に机に向かったり息抜きしたりしていた。なのに1次に通るなんてやっぱしスゴイ。

広大福山高校、山口高校、韮崎高校、米沢興譲館、札幌南高校と、よくもまあこんな名門ばかりをそろえたものだ。そんな連中のなかに飛び込んできた私だが、飛び込むだけで賢くなるならいいけど、やっぱし劣等感から抜け出れない日々でもあった。

続く

2009年3月 8日 (日曜日) 【深夜の自画像】 | 🔗


江古田(4) 〔2004年7月下旬号〕


四畳半という言葉は死語かもしれない。裸電球のぶら下がった部屋だった。戸板を開けて部屋に入る。もちろん鍵などは無い。廊下沿いに窓があって、その反対側に1メートルほどの小さな窓が、道路に面してあるだけで、タダの四畳半に押入れがあるだけの部屋だった。

廊下を人が歩くとペタペタと煩い。しかしスリッパを履かないと靴下が汚れるのである。トイレや洗面所は廊下の突き当たりに1セットあり共同だ。しかし、朝や夕方に混雑した試しもないし、トイレにしても誰かの後で臭い思いをしたこともなかった。というか、そういう思いがあまりにも当たり前で苦にならなかったので記憶に無いのかもしれない。

ある日、友人が私の部屋に遊びに来た。夜遅くまで話していたので、さぞかし騒々しかったに違いないが苦情も無かった。そういう社会なのだ、この下宿は。

話が脱線したので戻します。その友人と向かい合わせで畳に胡坐をかきビールを飲んでいたのだが、その彼がふとしたことでコップを倒してしまった。そのこぼれたビールが彼のいた所から部屋を一直線に縦断して流れたことがあった。

つまり、部屋が大きく傾いているので、コップを倒すと高いところから低いところに向かってビールが一直線に流れたのであった。それほど部屋は傾いていた。

私はそんなオンボロな下宿が好きだった。

続く

2009年3月 8日 (日曜日) 【深夜の自画像】 | 🔗


江古田(5)〔2004年9月初旬号〕


江古田駅の裏で降りて・・・いや待てよ、どっちが裏口なんだろうか。

武蔵野音大側で下りて西に歩いて踏み切りのある大通りも横切って歩いてくると「愛情ラーメン」という飯屋があった。

190円で焼き飯とラーメンが食えたので学食で食う300円ほどする定食より安上がりで重宝した。この頃、同じ駅裏にあった松屋が300円で牛丼を売り出していて、そちらも時々利用したが、値段と満腹度から愛情ラーメンは何度も利用した。

武蔵野音大や日大芸術学部や武蔵大学があったからだろう、駅前には割安感のある飯屋が多かった。天ぷらや焼き魚など、普通の定食屋では味わえないようなモノも置いている飯屋もあった。

華やかではなかったが、江古田が気に入ってゆく理由である。

9月18日(2004年)

2009年3月 8日 (日曜日) 【深夜の自画像】 | 🔗

散らかっている本棚を見つめている平成最後の春 啓蟄篇 (裏窓から)

断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている

啓蟄


4日の午後に少し時間ができたので本棚を整理する凄まじい作業をした

じっと棚を眺めてぼんやりしながら断捨離という言葉を考えていて、片付けを思いついたのだった

ふと目をやって手を伸ばした段が不運の棚だった

そこには、学生時代の日記や論文、ノートなどがびっしりと詰まっていた

万年筆で隙間なく書き込みをしたレポート用紙が綴じることなくバラバラのままで封筒に突っ込んである一方でまだ切りはずさないままで書き始めた原稿のような(下書きのような)ページもたくさん残っている

どさりと机の上に積み上げて、封筒から一掴みを取り出してみると、想定しなかった内容で、またまた驚きに襲われる

つまり、それは青春の足跡のようなもので、ちょっとセンチなものだった

確かにオモテ面には論文の原稿が書いてあったり、また、ルーズリーフの左半分には作図や考察が小さな文字で記入してあるのだが、本論とは別に本論にも劣らないほど膨大なメモが枠外から裏面へと行間を埋めるようにびっしりと残っているのだ

しかもその内容が恐るべきもので、読み始めると恐ろし過ぎて最後まで読破するのを途中放棄してしまうのです・・・

おしなべて言えば、要するに、日記や書きかけの手紙、手記風のドラマやフィクション、詩文、妄想中の思いつく言葉たち、何か意味不明のイラストなど、とても多様なものだったのです

中には、今となっては思い出せない人の名前宛てに手紙を書き始めてあったり、それが途中で途切れて放置されていたりする

当時結婚してほしいと詰め寄った女性(実は憧れた人が二人いたのだが)に宛てた手紙の原稿もあったし、またそれらの没稿らしきものもある

田舎の父母宛に書いた近況報告・落第宣告の報告や(その報告のボツ原稿や)、生まれ故郷の旧友であり初恋に限りなく近いある女性宛ての手紙など

もしも僕が著名人であれば莫大なお宝になろうなあと感心する

最初の二、三行を読むと、キザで幼稚で未熟で甘ったれていて、意味不明も多く、独善的で、褒めるところは何もない

何が辛くて読めないのかを自問自答し考えながら中断するタイミングを計っている

もう今となってはそんな過去の『深夜の自画像』のようなメモが蘇ってきたところで、何が復活するのだ(復活するものがあったとしてもそれは儚いものなのだ)・・・と思ったのだろう

「よくこんなことを毎夜毎夜書いたものだ」とほとほと呆れるのだった

しかし、心の片隅ではなんて可愛いやつなんだともちょっとは思うが・・・

思い切ってシュレッダーに突っ込んで、ゴミ袋(大)が満杯になった

もし僕が死んだ時にこの紙切れを誰かが発見していたら、恥ずかしいのだけれど、それとは別に「コイツ勉強もせんと何をやっとんや」と叱る人がいるかも

「いやいや、待てよ、もはや僕のことを叱る人などどこにもいないのではないか、叱られることもなく好き勝手に生きて来て、これを読んだ人がいるならばただただ呆れるだけだろう、名文でもないし、誰にも話さなかったことばかりが綴ってあるのだから」

そんなふうに独り言を呟いていた

シュレッダーに突っ込んだ資料の束の中に「大久保典子」さんという人があって、その人の名前をどうしても思い出せないというヒヤリとする発見もあった

手紙をじっくりと読まずに慌てて裁断(シュレッダーに)してしまったので、今となってはどなたなのかさえ迷宮である

もしかしたら、手紙を読み返せばあの頃の何かを思い出せたのかもしれないのだが・・・と考えてもみるものの、思い出したところで何も始まらないこともわかっている

いつものように、夜な夜な夢に出てくるかもしれないけれど、その際も何処のどんな人なのかはギリギリの線で不明のまま消えるのだろう

ちょっとモヤっと、ちょっとドキドキ、青春とはそんなもんや

そういうわけで、新しいときめきを探した方が賢明と思う

断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている


断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている

断捨離断捨離

 

深夜の自画像(七日間)- 春分篇 (裏窓から)

秒読みが始まったとは誰も気づけない
したがって架空で語ってゆくか
過去を巻き戻して書きとどめるしかない

この際どっちだっていいだろう
七日後には消えるというものがたりを追いかけてみる

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◆ 七日前
朝はいつもどおりに目ざめている
歳を食ってからは床をあげるようなことは全くない
身のまわりの几帳面さも欠乏して
寝床の周りには着さらしの服を放置したままだ

日記はもう数年前から書かなくなってしまった
枕元に昨日の夜の書きかけの日記があったのは
もう数年前のことで
今では幻の風景になってしまった

最初に脳梗塞で倒れたとき
激しい衝動が湧き上がり
何十冊とあった若い頃からの日記に
火をつけ燃やして灰にした

大きな事件であったが
誰も深刻な脳梗塞の重篤さを
気にかけなかった

生涯で怒りを噴出させたのは
二度だとすると
このときがその二度目だった

寒いなあ、正月が過ぎて一段と寒いなあ
と呟いたかどうかはわからない

1月15日木曜日
脳梗塞の症状ものらりくらりだ

むかしからときどき
ひとりごとをいう癖はあった
ツマの誕生日が近いことは
気づいていただろうから
もうじき歳を食うなあと囁いたかも知れない

そして自分の誕生日が
あと二か月後にくることに
何かを期待したのだろうか
まだ67歳ではないか
しかし80際までは生きられない
そんなことを漠然と思っただろうか

まさかこの冬に
自分が67歳を2か月後にひかえながら
逝ってしまうとは想像もしていない

もう少しだらだらと生きてゆくのだと
漠然と感じていたのだろう

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◆ 六日前

その朝いつものように起きて
いつものように朝ご飯を食べて
寝たままで一日をはじめた

救急車まで自ら出向いて
病院まで運んでもらったことが過去にあった
死んでたまるか
そう思ったのだ

あのとき
頭蓋骨の中には
毛細血管から吹き出た血が
満ち溢れていたのだ

そんな事件があったことを
ムスコ(長男)には話したことなどない

あのときは生きていくことに夢中で
ムスコと会話を愉しむというような歓びはなかった

いつか忘れてしまうほどのむかしに
体調を崩して寝込んだことがあって
あの日のできごとが蘇る

身体は丈夫な方ではなかった
だから寝込むことが多かった
あのときは今までにない痛みを感じたのだったか
家族が(たぶんツマが)
冗談めいて
「それはガンかも知れない」
などというものだから
落ち込んでしまう

二日間ほど床に伏していた
気持ちが落ち込んだのだ

家族は
おとうちゃん気が弱っとるわ
と冗談を言ってケラケラとしたような気がする

根っから怠け者ではないので
明るい時刻に寝ているようなことはしない
そんな姿を見た人もいないはずだ

もしも寝ていたなら
たとえそれが朝であって
誰よりも遅くまで寝ていれば
どこか具合が悪いのではないかと
誰もが疑う

頭痛や腹痛で横になることもない
根っから身体が弱かったのだが
特化した症状が出るのではなく
弱い身体が全体で悲鳴を上げるタイプだった

66歳という若い年令で
死に絶えてしまったことを考えると
身体そのものの頑丈さは持って生まれたものであり
弱い人は長くは生きられない宿命を秘めていると気づく

努力をしても早く坂道を駆け上がることもできなければ
どんなに節制してさらに上質な栄養を摂取し続けても
元々が弱い人があるのだ

それがウチのこの人であり
ウチの血脈の宿命なのだった

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◆ 五日前

当然、自分の命が果ててしまうとは想像していない
18歳で出て行ったムスコだが
まずまずのところに住んでいる
ひと目でもいいので逢っておこう
などとは考える必要もない

この日は1月17日土曜日
ムスコも休みではないか
正月に顔を見せたきりだ

クルマで1時間走れば飛んできてくれる
その時間くらいはいつでもあるだろう
そう考えていたのか

まだ生きると信じていたから
遺言を伝えようとも考えない

そもそも遺言などと言うものは
ヒトが元気なときにぼやく愚痴に似たものでもある
オラには何の不満もなければ
言い伝える言葉もない
と思っていたかも知れない

ムスコのことを
子どものころは賢かったが
大人になっても大きな人間にはなれなかったな
と思い続けていただろう

小学校の卒業文集で
アナウンサーになりたいとか
もっと小さいときには
船乗りになりたいと
言っていたのを
強烈におぼえていて

そんな夢を大人になるまで持ち続け
実現するまで粘るだろうと
心の側面で固く信じているような人だった

つまり
自分の子どものころに抱いた夢がきっとあり
それが幾つになっても夢として心の片隅に
存在していたのではないか

夢は誰にも語ることはなく
秘めたままで
誰も夢の存在すら知ることはなく
消えていったのではないだろうか
————————————————————————
◆ 五日前

日曜日
NHKの日曜美術館を見るのを楽しみにした

ドラマは見ないし
バラエティーも見ない

脳梗塞で倒れて頭が……
というか
記憶が曖昧になってきた頃から
絵も描かなくなった

几帳面な性格で
絵を描く自分の部屋はいつも片付いていた
目を閉じても何がどこにあるかを探り出せるほどだった

それも
脳梗塞の進行とともにかすれてゆく

酒も飲まないので
遊びもしないので
時間が止まったように過ぎる日々を送り

秒読みが始まると
秒針がいらないほどに
静かに呼吸だけを続けた

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◆ 四日前

寒さが来るとニュースが伝えても
元々が寒さには弱音を吐かないので
それほど苦にしていなかった

死の時刻が迫っていた
そんなことには気づかない
誰かが察することができたのだろうか

姉には
わかるのだ
予感なのか

ジンはどうや
電話をかけてくれたのか
前もって問うこともなく
この家に来たのか

兄弟には淡白だった
喧嘩をするようなこともなく
付き合う人たちにも
悪く評されることなど一切ない

日常の人付き合いも
そのままの顔で
蔑まれたり妬まれたり
憎まれることなどもない

自分を主張することもなければ
無駄に意地を張ったり
相手を貶したりもしなかった

寝床に伏しても
我が儘をねだることもなかった

したがって
人間関係において敵など居なかった

しんしんと一つの方向へと
向かっていたのだろう

静か過ぎて
気づかなかったのは
ムスコがアホだったとしか言いようがない

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◆ 三日前

明日は大寒
明後日はツマの誕生日
そう思っていたのだろう

自分の心臓の勢いが弱くなっている
そのことに気づいていたのだろうか

周りが少しざわつき始めるけれども
隣に住むムスコは仕事に出かけてゆく
月曜日

30キロほど離れたところに住むムスコ(カズ)は
この人の微妙な変化など何も知らない

正月に会って
話したことすら
どんな内容だったかも忘れている

まさか……
と楽観的に考えているのか

最期に及んでどんな言葉を交わしたかなど
誰も知ることができない

逝く人のほうも
意識がぼーっと朦朧になり始めて
あらゆることが記憶にとどまらない

カズのことも
気にとまらなくなっている

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◆ 二日前

隣のムスコは仕事に出かけ
危篤が迫るのを
ムスコたちは何も知らずにいる

ざわざわと人が集まってくる
しかしながら
いつものようにお粥を啜り
えらいなあ、ぼーっとするなあ
と言うていたのか

カズは何をしとるか
正月から顔を出しておらんな
東京に行って就職で京都に来て
そのあとこっちに帰って来ても
ロクに話もしなかったなあ
と思ったは夢の中のことか

もしも
あの世で再会できたら
そのことを問うてみよう

夢うつつの時間が過ぎて
食欲も衰えてきている

————————————————————————
◆ 一日前

ミエコさん(姉)が来る
家族(ツマ)と並んで布団に入って
さすってもらったり
何やら話しかけてくれたりする

記憶はうっすら・ぼんやりとして
周囲の人は予感を感じたに違いなかろう

離れたムスコは何も知らない
誰も知らせようともしない

ムスコ(フトシ)は覚悟をした
しかし兄を呼ばない
まだ生きると信じている

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◆ その日

姉やツマが悟る
残された人の話によると
既に相当に意識がぼーっとしてたらしい

ビールが飲みたいと言う
しかし付き添っているツマは
こんな状態で飲ましてはならんと考えた

代わりにお茶をやる

「ビールと違うやないか、まずいなあ」
そう言うて寂しそうにする

他人(ヒト)が飲むと真似して飲んだ
だから楽しそうに飲むことが多かった

タバコも嫌いなくせに吸う真似をしたし
お酒は好きだったわけでもないのに
好きなふりをした

くしくも
そんな言葉が
最期になった

死んでしまう間際でも
そういうところがあった