遺すもの、遺す方法 ー sudden death と 断捨離 ー 白露篇

キーワードを考える
断捨離、エンディングノート、sudden death(サドンデス)

ついついそんな言葉で日常の思考が ぐるぐる回りをしていることがある

ならば少し 逃げないで考えてみるか


確かに高齢者の仲間入りをするわけであるが 未来をマイナス思考で考えるのはイケナイ

確かに病気を心配し健康を維持することに力を注ぐのは大事なことであるものの、その考えをメインにして生きていくのは 消極的すぎる

世の中の老人たちを見渡してみても 明るく積極的に暮らして 舗装的な様子を見せない人も多い
みんながそんなに明るく不安も抱かずに生きていけるものでもないので 不安はあってもそれを上手に秘めているのだろう

そう考えると 明るく生きた方が得ではないか
持病を持ちこれを治療しながらの人、あるいはペースメーカを体内に埋めている人もいる
この人たちはの未来は 治療や装置に依存するのだから 健康で長生きをすることは厳しいのが現実だろう
それでも明るく暮らしているのだから その姿勢は大いに尊敬できる


九月八日は『白露』

季節は 自然界が大暴れしようと 着々と変化をし 夏は終わり秋がやってきて やがて冬を迎える


遺すものはない
あえてあげれば

  • 僕の部屋にあるたくさんの書籍
  • 永年書いたブログ(日記・随想、電子)

がある

  • 残して誰かに譲っても喜ばれないだろう
  • 喜んで受け取ってくれる人にあげてほしい
  • 役立つ人に分けてほしい
  • 捨てないでほしい
  • 楽器も同じようにしてほしい
  • 安易に捨てないでほしい
  • 本当に生かしてくれる人に譲ってほしい

実現できるまで僕の部屋に保管し
『記念室』としてほしい


上述の課題とは別に
『人生で犯してしまったいくつかの過ち』を
少し考えてみたいと思っていたが
別日記で書くことにしよう

* 書きかけ 中 (改訂後 時間変更します)

四月中旬 - 続・ぼんやり (号外Ⅱ)

前篇で「断捨離」と書いたが
何をどうするかというような中身はなかった

『何故 電気通信工学科か…』
なんてどーでもええやん ということになるし

たくさん溜まった資料(史料)類を始末したい


それよりも
写真を整理して

部屋にあるツーリングの思い出や記念資料を始末したいと考える

所詮 死んだら(サドンデス)

あいつには
単車で走り回っていた日々があったなあ
勝手なもんやなあ
家族ほったらかしで…

と回想されて
写真などはパラパラと捲って見たらええ方で

十把一絡げにして ポイ と捨てるのだろう

それで終わり


有名人みたいに
『わはく記念館』‥‥なんてのが できるわけないし
作るくらいなら 「おとやん」が死んだ時に私が作っておるわ


たくさん(でもないけど)ある写真を
整理して 棚に収納しておきたい

そう考える

日記は『【バイク】旅の軌跡』にあるのを参考にすると
二十冊ほどになると見込みます

四月中旬を ぼんやりと過ごす (号外)

断捨離という言葉は嫌いだ

流行りの中で作られて注目を得ようとする一種の顕示欲のようなものを感じる
私だけだろう

隠居暮らしも一年以上が過ぎると
さすがに何もすることがないので身の回りの整理をと考えることがある

そんなものに手を出したら寿命を短くするのを手助けするようなものだ
と反発心も湧き出るのだが

辺りを見回して山積みになっているものを眺めては
それぞれに理屈づけをしている


PCに保存してある日々の日記写真--それはメシの記録がほとんどである--にしても

私の死後 他人が整理するときに困るのか
または迷うことも確認することもなく廃棄となろう(どうぞ)

偉大で多大な資産が潜んでいる予想でもあれば 誰もが関心を持つに違いない
しかし 金目になるものは何もないし 目を通す時間も惜しい


では
持ち物は何も迷うことなく早めに始末しておいた方が自分もスッキリする

これが大勢の人の考え方なのだろう

サドンデスを考えて
「言い残したことはないか」などと振り返る

▶️ なぜ 電気通信工学科だったのかとか

確かに今になって語ってもいいのでしょうけど
でも それはすでに過去のことでもある

断捨離のカゴに入れて一緒に始末するか

。。。

そうこう考えていると
残すものなど何もない

散らかっている本棚を見つめている平成最後の春 啓蟄篇 (裏窓から)

断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている

啓蟄


4日の午後に少し時間ができたので本棚を整理する凄まじい作業をした

じっと棚を眺めてぼんやりしながら断捨離という言葉を考えていて、片付けを思いついたのだった

ふと目をやって手を伸ばした段が不運の棚だった

そこには、学生時代の日記や論文、ノートなどがびっしりと詰まっていた

万年筆で隙間なく書き込みをしたレポート用紙が綴じることなくバラバラのままで封筒に突っ込んである一方でまだ切りはずさないままで書き始めた原稿のような(下書きのような)ページもたくさん残っている

どさりと机の上に積み上げて、封筒から一掴みを取り出してみると、想定しなかった内容で、またまた驚きに襲われる

つまり、それは青春の足跡のようなもので、ちょっとセンチなものだった

確かにオモテ面には論文の原稿が書いてあったり、また、ルーズリーフの左半分には作図や考察が小さな文字で記入してあるのだが、本論とは別に本論にも劣らないほど膨大なメモが枠外から裏面へと行間を埋めるようにびっしりと残っているのだ

しかもその内容が恐るべきもので、読み始めると恐ろし過ぎて最後まで読破するのを途中放棄してしまうのです・・・

おしなべて言えば、要するに、日記や書きかけの手紙、手記風のドラマやフィクション、詩文、妄想中の思いつく言葉たち、何か意味不明のイラストなど、とても多様なものだったのです

中には、今となっては思い出せない人の名前宛てに手紙を書き始めてあったり、それが途中で途切れて放置されていたりする

当時結婚してほしいと詰め寄った女性(実は憧れた人が二人いたのだが)に宛てた手紙の原稿もあったし、またそれらの没稿らしきものもある

田舎の父母宛に書いた近況報告・落第宣告の報告や(その報告のボツ原稿や)、生まれ故郷の旧友であり初恋に限りなく近いある女性宛ての手紙など

もしも僕が著名人であれば莫大なお宝になろうなあと感心する

最初の二、三行を読むと、キザで幼稚で未熟で甘ったれていて、意味不明も多く、独善的で、褒めるところは何もない

何が辛くて読めないのかを自問自答し考えながら中断するタイミングを計っている

もう今となってはそんな過去の『深夜の自画像』のようなメモが蘇ってきたところで、何が復活するのだ(復活するものがあったとしてもそれは儚いものなのだ)・・・と思ったのだろう

「よくこんなことを毎夜毎夜書いたものだ」とほとほと呆れるのだった

しかし、心の片隅ではなんて可愛いやつなんだともちょっとは思うが・・・

思い切ってシュレッダーに突っ込んで、ゴミ袋(大)が満杯になった

もし僕が死んだ時にこの紙切れを誰かが発見していたら、恥ずかしいのだけれど、それとは別に「コイツ勉強もせんと何をやっとんや」と叱る人がいるかも

「いやいや、待てよ、もはや僕のことを叱る人などどこにもいないのではないか、叱られることもなく好き勝手に生きて来て、これを読んだ人がいるならばただただ呆れるだけだろう、名文でもないし、誰にも話さなかったことばかりが綴ってあるのだから」

そんなふうに独り言を呟いていた

シュレッダーに突っ込んだ資料の束の中に「大久保典子」さんという人があって、その人の名前をどうしても思い出せないというヒヤリとする発見もあった

手紙をじっくりと読まずに慌てて裁断(シュレッダーに)してしまったので、今となってはどなたなのかさえ迷宮である

もしかしたら、手紙を読み返せばあの頃の何かを思い出せたのかもしれないのだが・・・と考えてもみるものの、思い出したところで何も始まらないこともわかっている

いつものように、夜な夜な夢に出てくるかもしれないけれど、その際も何処のどんな人なのかはギリギリの線で不明のまま消えるのだろう

ちょっとモヤっと、ちょっとドキドキ、青春とはそんなもんや

そういうわけで、新しいときめきを探した方が賢明と思う

断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている


断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている

断捨離断捨離

 

ほんとうに断捨離するべきもの - 立春篇 (裏窓から)

遅くなりましたが
立春篇です

++

++

この二つを一月に書いて
ぼくは迷路に入り込む
六十年という歳月を生きてきて
偉そうなことを言うつもりは毛頭ない

むしろ
四十歳を過ぎて五十歳を回ったころに
自分の子どものことも
さらには
子どもを取り巻く社会のことにも
不満と不安をもって
社会やその体勢や
そこで先頭に立って走る人物の人間性に
どことなく怒りを爆発させていた

だが
心配はいらない

もうそんな気持ちは収まった

ぼくは
「伝える」「遺す」
という言葉が引き出そうとするもっと重みのあるものを
一生懸命に自分の人生という過去の中に探し出そうとして
焦っていたのだ

そう思うことにした
いや気づいたのだ

つまり
何かを引き継いだり伝えたりできたとしても
それは精神論であったり
形のない遺産であって

新しい時代の新しい人類のヒトたち
即ちぼくの子ども、孫、ひ孫たちには

それほど役立たないのだということを
自分自身に冷酷なほど強烈に知り
納得しなくてはならないのだ
と思うようになったのだ

あっけらかんと言えば
いつ死んでも誰も困らない

もしも一瞬だけ困ったとしても
パスワードのわからない開からない宝箱は
丸ごと棄ててしまうだろう

新しい時代の人類は宝箱などには
それほど関心がないのではないか

それにもっと言えば
宝物の価値は新しい人類が決めるのだから

断捨離という流行言葉があるが
なんて馬鹿馬鹿しい言葉だと一蹴していたのに

ちかごろ
本当に断捨離が必要だったのは
ぼくの勉強部屋(書斎)のガラクタではなく

自分の自伝や遺言じみたものではないのか

そんな自爆な(秘伝)が浮かんでくる始末だ