生き続けるとはいかなることか…を考える ❇︎ 春分篇 ─ 雷山無言

啓蟄から春分まで
穏やかな日が続いた
手術を終えて二ヶ月目を迎え
血圧は目を見張るほど改善されないものの
上昇し続けることもなく上限値付近で横ばいを続け
減塩食生活も定着してきている
母親が突発的に体調を乱し急遽入院となったものの
数日で退院をして元通りのように暮らしている

そんな暮らしの中で
次の手術を春から夏ころにしようかとという決心も固まってきている

❇︎ ❇︎ ❇︎

◉麗らかな春に思い出す事がいくつか頭の中を流れていく

  • 入学の頃や卒業のころのこと
  • 吹奏楽団の演奏に夢中にいなっていたころのこと
  • 仕事を引退して もう働きにはいかないのだと決めたころのこと
  • クラスメイトと過ごした学校を卒業して新しい学校に行く
  • 必勝を共にするライバルたちと共に経験のない寮生活を始めたり
  • 大学に合格して大学生活を始めたり
  • 毎日を睦まじく過ごしてきた友と別れ大人の社会に旅立ったときのことなど

◉子どもは巣立って
孫たちは二人とも小学生になる

いよいよ 自分たち人生の終着を計画しなくてはならなくなってきた

若かったころやモリモリと働いていたころには考えも及ばなかった思いが
次々と頭の中に湧いてきて それが姿形を変えて巡ってくる

多かれ少なかれ 同じ年齢の人は横並びに似たような思いなんでしょう


◉そんなことを思いながら今年(令和六年)の年度末を過ごしている
もう年度末という言葉も無縁だ
定年とか出世とか昇進とか異動という言葉も無縁

いつかそんな束縛から解放されて呑気に暮らしたいと夢を見た時代があったのだ


◉仕事をやめたら 日本中の鄙びた気に入った土地に行って住んでみるのもいいな

どこに暮らしても安い家賃だけ払えれば衣食だけは同じほど必要だから…と考えてみたこともあった

雛を旅して まだ知らない村や人を訪ねてみたい…とも思った


◉夢は叶わないものだと諦めることで 人生の最終コーナーのイメージを少しずつ修正をしている
修正をすることは マイナスの判断ではないと思う

なぜならば 想定外なことは いつの時代でも常識的の起こるし ヒトの寿命が予測以上に長寿化して 高齢者の暮らす社会構造や企業体系 さらには福祉体制 景気なども変化してきたのだから

父が亡くなって二十五年以上を過ぎる間に 現代の高齢者社会に追従して生きている九十四歳というのは とても柔軟だともいえよう

***書きかけ

啓蟄篇 ❀ 閏日をすぎて八歳になる写真が届いて

❀❀❀

三月五日は啓蟄
朝から雨降りであったのだが
冷たいはずの雨であっても それほど染み込んでこない
きっと 気持ちのせいだろう
寒暖計の数値とは別に
じわりじわりと春になっているのを感じるのだ
大地が吸収してエネルギーを蓄え始めている
身体は春を迎える準備を万端に整えている

✧✧✧

血圧が高い診断を受けて新しい循環器内科にかかるようになった

そこで心房細動が見つかり アブレーション(手術)をすることになり 近隣の大きな病院で処置を済ませた

心臓の健診では『心房中隔欠損』という病気が子どものころからることもわかり この年齢まで放置したことを驚きながら 治療を進めることになった

近々 近くの大学病院を紹介してもらい 治療を始める

✧✧✧

二十年勉強してて
四十年働いて
さあこれから 何するの

長生きする人なら
我が母のように 三十年
一人で生きる

自分は無理だと悟っているから
さて残りは
十年なのか
二十年なのか
と考え始める

いつか年頭でも書いたように
一年は五十週

「週の初めに考える」を書き続けても
五十回で一年が終わってゆく計算だ

絵を描いたとしても
小説でもエッセイでも
自己反省文でも
一週間に一回考えて
五十回まで行けば一年が終わる

平均寿命を頭の片隅に置いて
これからどれだけ生きるのか
そんなことを考えると
二十年という数字が浮かぶ

✧✧✧

自分をふりかえる

啓蟄の日は ゆうちゃんの誕生日だった
閏年(申年)の二月二十九日が予定日だった
二回目の閏年を迎えて八才
四月から三年生

小学校の三年生のころの記憶を辿っってみると
残っていそうで ほとんど残っていない

裏を田んぼの真ん中を蒸気機関車が走っていたとか
線路で土筆摘みをしたこととか
今の季節なら麦踏みをしに田んぼに出かけていたとか
雲雀が天高く囀っていたこと
まもなく蓮華の花が咲いて 花の絨毯の上に寝そべってあそんんだこと
などが浮かぶ

苺がいっぱいのケーキで誕生日を祝ってもらっている写真が届く
写真も動画も何気なしに残る時代だから その映像記録の価値が曖昧になっている

動画はもちろん 写真でさえ簡単に残せぬ時代だったからこそ あのころを振り返る情景に価値が出るのかもしれない

この子たちが大人になる時代まで私が生きている数学的予測数値は 十年ごとに半減期を迎えるだろう(と思う)

父の死生観のところでも触れたが
六十歳の頃に これから七十歳まで 八十歳まで生きようと
父は それほど強く考えるような人ではなかったのではないか
と想像している

家族関係の折り合いもあり 隣に住みながら それほど孫と触れ合えなかった時期があったし 背中を傷めて腰に痛みを抱いていたことや 高血圧の診断を受けて早い時期から降圧剤を投与されていたことなど

母はあの頃を振り返って 自分が仕事で忙しかったこともあるが 食事制限を何ら考慮することなく 毎日を過ごしたと言う

今更 何が間違いだったか・・などと悔やんでみても及ばないのだが 長い人生にはそんなことは数え切れぬほどあって 何か一つを悔やむというより『どんな姿勢で生きてきたか』が振り返るときの一番の頷きどころになるのだ

母は一月二十一日に九十三歳になった
ちょうど一月前年の暮れ クリスマスに九十八才の姉が逝ってしまい
次は自分の順番だと思っているのだろう

父の二十七回忌を済ませて やれやれという気持ちながらに 死んでしまう怖さを口にすることは全くなく「生きるのがえらい」と繰り返している

京都のとーさん

京都のとーさんも九十二才
痴呆で 毎日をゆるゆると過ごしているものの 明るい話題は何一つない
明らかに 非常な家族たちは今か今かと滅びるのを待っている

✧ ✧ ✧

我思う

自分のあらゆる足跡を残すと考えてみたことがあった

しかし このごろは

残したところで何一つ待たれていないのだから 消滅(消去)しても構わないとさえ思い始めている

つまり

やがて死ぬことを想定しながら 残りを生きるのが賢いのか

車谷長吉の本で 彼は

いずれ死ぬことが分かりながら生きているのは人間だけだ』から・・と書いている

死を覚悟し睨むようになって
ほんとうの人生が始まるのか・・


外伝
啓蟄の雨あがって 土ゆるむ ✴︎ 三月上旬
閏日から三月はじめころまで ❈ 減塩五か月目に入ります

モクレンや恋する人の髪飾り ━ 啓蟄篇 裏窓から

六日 啓蟄

この日を待ち遠しい人は おそらくあちらこちらに大勢いることだろう
春という季節は 何かを待たせてくれる季節なのだ

私も『これを』というものはないのに 何かをソワソワと待っていた

それは新しく出会うものであるかもしれないし 発見するものかもしれない
新しく作り出されるものこともあるだそうし アイデアかもしれない

❀❀❀

🌷 春は静かに考える
付け足すことを考え中

❀❀❀

そんなことを書きながら
暖房を入れるのをうっかりして一日を過ごし

就寝前にエアコンがオフのままなことに気づいたのだった

そんな麗らかな日が続いている


山海記 を借りてきた
続きは後日

突然事故(母の怪我)- 啓蟄篇 (裏窓から)


書きかけておいた日記継続する(追記)


三月五日土曜日に母親が家の裏の路地脇の溝に転落をした
夕方に携帯の連絡が入り頭を打ったので市内の病院で診察してもらえるようにし緊急診断として脳のCT雨を取って確認をした
初見では異常は見られずに自宅に帰るのだがにはくしても痛みが取れないしふらつくというので再び病院に行く
検査のため何一日ニュイんとなるという報告を聞いて病院からの連絡がプツンと切れてしまった

病院とのやりとりは弟がしているため、明くる日の午後に連絡が入った
病院の説明では精密に検査をした結果肋骨の骨折が見つかったという
脳梗塞などの頭部の心配はない


心配事は 湯水のように出るということだ

突然に予定が変更になることは、日常ではあり得る
もしも自分が 『突然死』(サドンデス)に遭ったらどうなるか・・

改めて危機管理のデシジョンを明確にしておかねばならないことを思い知らされる

* 五日の日付日記であるが継続追記をしました
* 続きは日付を改めて考えることにする

桃の節句が過ぎて - 啓蟄篇 裏窓から

桃の節句が終わって啓蟄を迎えている

ゆうとが 五日に誕生日を迎える

閏年の閏の日が予定日だったことを思い出しながら毎年お祝いをする

。。。

隠居という言葉を二三日前にふと使った

あまり意識をして暮らしていたわけではないが
まさに今は隠居状態である

子どものころは 五十五歳で仕事を退職してしまうのが普通であった
どこのお父さんもその年齢を過ぎて懸命に働かず
その様子もそれほど目立たなかったように思う

農業が主であったこともあろう
しかし 年金がそれほど十分であったとも思えない

そうじ(送辞)ととうじ(答辞) 三月上旬号 ─ 啓蟄篇 (裏窓から)

新型コロナが流行して少し学校も街もドタバタ・あたふたしている
卒業式も縮小になり、受験生を持つ先生は土日も学校へという便りも届く

上級生と下級生のふれあいが日常の中から薄れていっているかもというご時世に卒号式が縮小されれば送辞はなくなったのだろうか

誰しも経験がある低学年時代の心細さをへて小学校時代は六年間という学校で暮らす期間としては一番長い年月を過ごす
その卒業式で読まれる答辞のことがラジオで話題になっていたのでふと思いついたことがあった

答辞なんて面倒臭い儀式であると考えていたなあと懐かしく思いながら本当に心を込めて「答辞」を考えるのは卒業してから十年も二十年も過ぎてから、いや四十年以上すぎて初めてその「辞」をじっくり考えている人も多いのではなかろうか

弱々しくて自信のなかった新人時代に暖かい手や視線を差し伸べられたことはかけがえないことだったと感謝の念が湧いてくるのは、過去を有終の美学として振り返ってしまう世代になってからかもしれない

送辞を読む当人には物語のプロローグも何もわからない
だが、儀式というなかれとも思うのだ

苦節の年月を経て迎える春のこの時期に考える送辞である
送り出す人の心を忘れることなく新しい年度に挑みたいと思う

所詮 儀式なのだよ と言ってしまえばおしまいである

心は言葉に
言葉は態度に
態度は熱意に

考えてみれば
卒業式ってもう半世紀も昔になるのやねえ

もはや送辞か弔辞か、そんなものを受ける立場が近づく身になってしまったが、もうひと頑張りしたいねえ

二月の下旬の落書きに
「自分の人生の大きな方向転換はこれまでに何度もやってきたが もう一度最後に一発決めてみたいような気がします」
というように書いたのだが、これが結構みんなにウケたみたいだ

頑張れということであろう

さて、五日は啓蟄でした

悠人が生まれて四年の歳月が過ぎるのだ
考えてみれば 閏の日に生まれる予定だったのがジリジリと延びたのだった

ラッキな子だ
誕生日はうるう年だというだけで覚えてもらいやすい

子どもはこうして日々すくすくと大きくなってゆく
私は着々と年を食うわけだ

来年度の仕事先が決まらないまま三月上旬を迎えている

長い年月を経てこんな時に取る態度や構え方が
だんだんと ふてぶてしく図々しくなってきている

散らかっている本棚を見つめている平成最後の春 啓蟄篇 (裏窓から)

断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている

啓蟄


4日の午後に少し時間ができたので本棚を整理する凄まじい作業をした

じっと棚を眺めてぼんやりしながら断捨離という言葉を考えていて、片付けを思いついたのだった

ふと目をやって手を伸ばした段が不運の棚だった

そこには、学生時代の日記や論文、ノートなどがびっしりと詰まっていた

万年筆で隙間なく書き込みをしたレポート用紙が綴じることなくバラバラのままで封筒に突っ込んである一方でまだ切りはずさないままで書き始めた原稿のような(下書きのような)ページもたくさん残っている

どさりと机の上に積み上げて、封筒から一掴みを取り出してみると、想定しなかった内容で、またまた驚きに襲われる

つまり、それは青春の足跡のようなもので、ちょっとセンチなものだった

確かにオモテ面には論文の原稿が書いてあったり、また、ルーズリーフの左半分には作図や考察が小さな文字で記入してあるのだが、本論とは別に本論にも劣らないほど膨大なメモが枠外から裏面へと行間を埋めるようにびっしりと残っているのだ

しかもその内容が恐るべきもので、読み始めると恐ろし過ぎて最後まで読破するのを途中放棄してしまうのです・・・

おしなべて言えば、要するに、日記や書きかけの手紙、手記風のドラマやフィクション、詩文、妄想中の思いつく言葉たち、何か意味不明のイラストなど、とても多様なものだったのです

中には、今となっては思い出せない人の名前宛てに手紙を書き始めてあったり、それが途中で途切れて放置されていたりする

当時結婚してほしいと詰め寄った女性(実は憧れた人が二人いたのだが)に宛てた手紙の原稿もあったし、またそれらの没稿らしきものもある

田舎の父母宛に書いた近況報告・落第宣告の報告や(その報告のボツ原稿や)、生まれ故郷の旧友であり初恋に限りなく近いある女性宛ての手紙など

もしも僕が著名人であれば莫大なお宝になろうなあと感心する

最初の二、三行を読むと、キザで幼稚で未熟で甘ったれていて、意味不明も多く、独善的で、褒めるところは何もない

何が辛くて読めないのかを自問自答し考えながら中断するタイミングを計っている

もう今となってはそんな過去の『深夜の自画像』のようなメモが蘇ってきたところで、何が復活するのだ(復活するものがあったとしてもそれは儚いものなのだ)・・・と思ったのだろう

「よくこんなことを毎夜毎夜書いたものだ」とほとほと呆れるのだった

しかし、心の片隅ではなんて可愛いやつなんだともちょっとは思うが・・・

思い切ってシュレッダーに突っ込んで、ゴミ袋(大)が満杯になった

もし僕が死んだ時にこの紙切れを誰かが発見していたら、恥ずかしいのだけれど、それとは別に「コイツ勉強もせんと何をやっとんや」と叱る人がいるかも

「いやいや、待てよ、もはや僕のことを叱る人などどこにもいないのではないか、叱られることもなく好き勝手に生きて来て、これを読んだ人がいるならばただただ呆れるだけだろう、名文でもないし、誰にも話さなかったことばかりが綴ってあるのだから」

そんなふうに独り言を呟いていた

シュレッダーに突っ込んだ資料の束の中に「大久保典子」さんという人があって、その人の名前をどうしても思い出せないというヒヤリとする発見もあった

手紙をじっくりと読まずに慌てて裁断(シュレッダーに)してしまったので、今となってはどなたなのかさえ迷宮である

もしかしたら、手紙を読み返せばあの頃の何かを思い出せたのかもしれないのだが・・・と考えてもみるものの、思い出したところで何も始まらないこともわかっている

いつものように、夜な夜な夢に出てくるかもしれないけれど、その際も何処のどんな人なのかはギリギリの線で不明のまま消えるのだろう

ちょっとモヤっと、ちょっとドキドキ、青春とはそんなもんや

そういうわけで、新しいときめきを探した方が賢明と思う

断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている


断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている

断捨離断捨離

 

人生を生き抜く - 啓蟄篇 【裏窓から】 

平成29年3月3日の朝日新聞コラム(おやじのせなか)で小島慶子さんが

片働きになって痛感したのは、女性は仕事を辞めても責められないけど、多くの男性は「死ぬまで働け」というプレッシャーを背負い続けているんだ、ということ。男性だってもっと色々な生き方があっていいはずなのに、「しんどい」なんて言おうものなら負け犬扱いされる。その上、家で「粗大ゴミ」とか言われたら、心が折れるよな、と。

と書いているのです
このインタビューには前後があるので
この一文だけではわかりにくいですけど
お父さんの偉大さと苦労が後になってわかってきた
というようなお話です

🍀

私は
小島さんのお父さんのように一生働き続けませんでした

50歳前に仕事を放り出して
定職のない私がいる家庭でありながら
ムスメは私学の中学高校大学を出しました

450万の日本育英会の借金ができまして
就職したムスメにさらにそれも委ねました

10年以上早く仕事を辞めてしまいましたので
年金も最低レベルしかもらえないことがわかっています

一流大企業を退職して年収は4分の1ほどになっても
しかしながら
お金がないこと以外は充実した毎日を
精神的に大きなストレスもなく送れたことは
幸せであったと思っています

世の中にこんな生き方が存在したのだと
人生の終盤になって気づいたのでした

仕事のない恥ずかしさや
社会的地位や名誉がない情けなさよりも
それまで企業というところで
そんなことも知らずに
無知に働き続けていた自分が
むしろとても恥ずかしかった

平均年令よりも10年以上早く死んでしまった
父親の年令に近づこうとしています

父は定年になってから数年間に
どれほど充実した人生を過ごし
どれほどまで満足をして
人生を終わることができたのか

生前の言葉や遺作などを集めて
それを調べたり考え始めてみると
「人生を生き抜く」という
哲学めいたことを考えてしまいます

私は
仕事を勝手に10年あまり早くやめて
いつ何時に死んでもいいような人生を
貧しく(ある意味では)幸せに送りました

あと数年で父の享年になります
その年齢になったら私の新しい人生が
無一文で始まるのです

社会人になった時の同期と比べても
年金は4分の1に満たないでしょう

でももうそんな欲はありません
老後は前借りして過ごしたようなもんです

ですからこれからの私の人生は
いつ死んでもいいような
明るく軽く愉しい人生であって欲しい

だから健康に生きることが必須なんです

🍀

(こんな一筆を知り合いに吐き出しながら)

一瞬でも私がこんなことを考えていたのなら
それを後になって訂正してもあるいは願いが叶っても
書き残しておきたいと思っています

子どもが社会人になる頃から頻繁に思うことは
「人生は恩返しをすることで終わっていきたい」
ということです

そして
その心を引き継いで遺していかねばならない
それはヒトの使命であって
故に結婚もしなくてはならないし
子どももできなくてはならない

私自身も家族も子どもも
みなさん社会の中の様々な繋がりの中にいて
助けててもらいながらここまできたのですが
ちょっとそのことに
気づくのが遅すぎたんではないか
言葉だけでわかったつもりになっていたんではないか
ということです

さらに、しかしながら
何一つ恩返しなどできない私が居るんです

だったら(反面教師であっても)
ヒントになる言葉を遺すしかないです

3月5日(土)に生まれる 啓蟄篇【裏窓から】


啓蟄に幸せの文字見つけたよ
にも書いた通り お昼過ぎに病院に駆けつけて
午後は止まったような期間を過ごしたのだった

病院の待合室(談話室)でツマが待ち続けるのを視界の片隅に置きながら、私もカバンにいつも入れてある「孔子」(井上靖)を読んだりして紛らわすものの孔子様の言葉とこのたび子どもが生まれてくることとの関連性などは何一つもなく重くじんとくる子の言葉を読み続けると自分がこれまでに犯してきた数々の失敗をひとつずつ思い出してしまうのだったが、しかも、子の言葉を読み続けるとあらゆる過ちまでもが然るべき戒めを経て再起へと向けられているようにも思えてきて、こんな時期にこの言葉を読むのが辛くなるのであった


ツマが
「もう母親の役目は終わったのやな」
と生まれた直後に呟いていたのを聞いて

さらに、生まれる少し前にその談話室で何度も涙を拭きながら刻々と時間が過ぎ時刻が来るのを待っているのを見続けて

28年前に今母になる子を産んだ時のことを思い出し、40年前に亡くしてしまったたった16年間しか一緒にいなかったツマの母のことなどを考えると

歴史は否応無しに過去を過去としてのカテゴリーに追いやって着々と新しい幕を開けていることを痛感する。

28年前にこの子の母が生まれた。そのときにわたしは仕事をしていた。

30歳という働き盛りでひとつの方向に向かって進んでいたのだ。そんな時代があって、そのころはおおよそが自分の力で突き進み、苦しい時や悲しい時試練の時には大いに悩み、そのすべての悩みも自分で片付けてゆくのだというような自信や確信に満ちていた。

今更、それを過ちだと言うつもりもないが、それはひとつの未熟のカタチであったのだと思う。

人は、あるいは若者はそういう未熟なカタチでなければ成長できないともいえる。未熟であるがゆえに地につかない不安定さがつきまとうだろう。

そこには必ず差しのべる手があり祈りがあった。ひとつも功を奏しないこともあれば命を救うこともある。その見えない力があってこそ未熟が成り立った。


わたしはこの日記に「伝」という字を入れた。伝えねばならないと考えたからだ。

伝えるものは数限りなくあり、形があるものもあれば恩義のように無形のものもある。哲学じみたものもあっても良い。わたしが祖父や父から受け継いだものの中には教義を受けなかったものもあるし言葉にさえならなかったものもあるが、先代に似ている事を指摘されてそれも受け継いた1つなのだと感じ取る。

さて、
この生まれた子どもがどんな名前をいただきどんな夢を抱いて大きくなってゆくのか。

ツマが言うように「役目は終わった」と私も思う。だから、今度は恩返しをするステージなのだと漠然と考えている。そして、実はこの恩返しのステージが人生で一番重要な幕ではないのかとも思い始めている。