清明篇 ✳︎ 京都日記、余韻 ー 桜は見ごろ

京都日記 余韻

四月中旬を迎える前
ちょうど桜が咲くのを見物に行くタイミングで
京都へゆく


認知症のその後

症状が悪化した様子もなさそうだ

初日の夕方に着いて「今日のお昼は何を食べたの?」と尋ねても「忘れた」と答えている
メニュー表を見ればカレーだとわかるのに聞いているのだが 覚える気がないのか 気にとめるつもりが無いのか 記憶能力がなくなっているのか 計り知れない

半日前のことを記憶していないのなら 半月前にムスメが訪問をしたことも記憶にないのかと心配すると 少し時間の空いた出来事は ぼんやりとその頃にそんなことがあったと覚えている

しかし 物事によっては 数十日から何ヶ月もの昔になると全く憶えていないことが多いらしい

人を忘れてしまうという事例も耳にすることがあるが 今の所は娘や自分の兄弟のことは 忘れてしまっているということはなさそうだ

生きているということの 愉しみがほとんど削除されてしまっている

一日の長い時間を何に消費しているのか

生きていることと死んでいること
眠っていることと起きていることの違いのように 深く考えねばならない疑問に襲われる


京都日記は『外伝』に書いたのでこちらではお休み
四月初旬の京都日記 ❀ 嵐電鳴滝の桜 車折など 雑記余録

弥生京都日記 ✦ 時雨れる日々 五十回忌のお参りを

✦✦✦

京都嵯峨

墓参に上る坂道で時雨に遭い 老ノ坂峠の山は しぐれ雲の霞の中にあったのだが 車を霊園の駐車場に停めるときには青空が広がって 東山の山並みは雨雲に覆われていたものの 遠く京都駅のあたりまで視界が開けた

吹き下ろす風は凍りつくように冷たいが しかし 日がさせば いくらか寒さは弛んでくるように感じる

四十九年前の三月十四日、中学校の卒業式を明日に迎える日にお母さんは息を引き取ったという。それから十年後の十六日に僕たちは結婚するのですが その間のことやその昔のことについて 掘り起こすように話に聞かせてもらったことはない

人生は あの時に一度リセットして新しく始まったのだと 言葉にはしないけれどもそれに似た感情があったのかもしれない。でもそのことを詳しく尋ねてみたことはない

五十回忌を二人で、にぎりの長次郎で済まてきた(お昼ご飯)

これで最後のお勤めを済ませて あとは やがて何年後にそちらの世へ辿り着くまで待っていて・・という心持ちなのだろう

もう京都には これを機会にお別れをして 今の新しい地で 新しい家族と 新しい終わりを迎える決心なのだろうと思う

四十九年前の三月十四日 中学校の卒業式に出席することなく 母の葬儀を行い 打ちひしがれた人生を迎えることになったウチの人は 高校・大学と苦節で乗り越え 社会に飛び出し 母が亡くなって十年後に偶然に出会った人と結婚をする

命日の二日後、結婚をして四十年目を迎える

さまざまな思いが蘇るのか 一度リセットした人生であるという思いがあるのか、新しく築いた四十年という歳月と十年の苦節を如何に感じて振り返っているのかは 毎日共に過ごしていながらもその奥に潜んだものまでは知る由もない

現実というものは、長い歴史において貧富、幸不幸を問わずに平等にのしかかる。それを受けて歩んできた実績と自信と希望がこれからゆく道の勇気の源になるのだろう

父のサ高住に顔を出しながら 命が果てる日が間違いなくやがて来ることを考え、一生に受けねばならない二度目の宿命を覚悟する決意をしていたのかもしれない


とーさんの方は

痴呆が突然良くなるわけもなく 季節感もない 模様のない日々を過ごしている

五十回忌の話題は一切しなかった
思い出されて 墓に行きたいと言い出されても困るから 全く知らんふりをして過ごしている。幸いにもこちらから言い出さなければ 今日が何月何日何曜日かもわからないのだから それでいいのだ

「お菓子を買うてきてくれるか」と頼まれたらその通りしていればいい
「コーヒーが飲みたい」と言われたら買ってくればいいのだ

TV番組を楽しみするわけでもないが 間も無く初場所が始まることも教えてやらねば・・そんなことを呟き ツマは愛宕山からの時雨に遭いながら清水橋を渡ってサ高住へと出かけてゆく


三月上旬 ✳︎ 京都弥生日記 外伝

如月中旬・京都日記

初恋の傘懐かしく春の雨
#春の雨

春よ来い 春は恋や と誰ぞゆう

春の雨 雪にはならへん優しさ

書くことをはじめたのは
大学ノートの
片隅に
余白があったからだ
#余白 #はじまり

三月中旬 東京では春一番が吹いたとニュースが流れていた
京都に上がってくるときに木津川沿いの山間の道で時雨に遭う


三泊四日で 京都・嵯峨別邸に来ている
厳しい寒さの季節は終わったのだと 納得してもいいものかどうか
再び小雪が舞う日が戻ってきても じっと時を待てば 暖かくなる


サ高住

とーさんはいつも 何も変わらず 季節の感覚も持てず 部屋の温度設定が暑すぎるとも寒すぎるとも感じることもなく 暇になったおやつを食べ 時刻が来たら食事に行くというリズムを送っている

一月にコロナに罹って治った直後に来てくれた孫が 二月にもまた来てくれたという
十六日に部屋に顔を出したら すぐにその話が出たという
前回は記憶から消えていたのに今度は覚えていたので ウチの人も少し驚いたらしい

他に何も進展はないようだ
今は大リーグの大谷選手の話題もそれほど華やかではないし 相撲もない

私のことを気にかけてくれていて「手術したんやろ、よーなったか」と同じことばかりをツマに尋ねるようだ



河原町・新京極

キリンシティに行ってきた
ビールとソーセージを食べたかったからだ
銀座ライオンに行ってもう一度別の店で愉しもうと考えたわけだ

ラム肉とソーセージとコブサラダとビール
静かで雰囲気のいい店だった
ビールを静かに愉しんで 軽くソーセージを摘んで喋っていると
心が解放されていくのがよくわかる

カウンターがメインで
一人で静かに味わっている人の方が多い


如月中旬号 ✦ 京都日記 河原町新京極篇

令和六年大寒のころ ✤ 大寒のころ 京都日記

大寒が過ぎた

この冬になってから寒い日が続くことがあったものの 寒中にかかってから幾分温い日が巡り来て 大寒の時期も窓や庭の木々が凍てつくまでに冷え込むことはない

寒さに慣れるように知らぬ間に我慢をする習慣のせいか 部屋の温度設定も低めにすることが多くなっている

気合というつもりはないが、少々寒いぎみのほうが頭もスッキリすると考えがちで しかしながらも 身体は自然に従順らしく 毎日の血圧測定値が微妙に変化を表わし 高血圧アラームの出る要注意が続く

僅かな数値の差を気にしながら塩分表示のある食材との睨み合いが続く

『サ高住』から届く日々の様子の話にも大きな変化はなく 正月に罹ったコロナも完治して 生活リズムは元通りに戻った

いつものように部屋に行きおかしな電話がかかってきてないかなどを確認しながら ケータイ電話の着信履歴に孫のリストを見つけたので 調べるとコロナの完治直後に孫が母さんと二人で訪ねてきてくれて 鰻を食べに外出したらしい

それがわかったので驚きながら とーさん に「孫が来たのか」と問うたら「記憶にない」と言うので 親子できて鰻を食べに三人で出かけたことを忘れていた・・らしい

去年一年間には一カ月おきの頻度で来てくれる孫のことを 会いにくるたびに聞いてやると「来てくれてご飯に行った」と嬉しそうに覚えていたののに 先日の来訪は記憶にな口なっていたことを ウチの人は 諦めな口調でながら悲しそうに説明してくれた

これは ある意味では とても大きな変化なのだが、最早や大騒ぎにもしない

記憶の衰えが着々と進行するものの 食事や日常の会話に 大きな変化はないと 施設の人は説明をしてくれる

食事やテレビの相撲などの以外では 相変わらず暇なの寝てばかりだが 定期的に来る訪問ショップでの買い物もしているという

(こうして記憶が衰えてゆき 近親の人まで頭の中から順番に消えていき やがて静かに目を閉じたままになってくれ)

一度も顔を見せに来ない長男は「サ高住」での状況を風の便りにも聞いて そう考えているのだろうか

詳しい事情は知る由もないが 深い事情があるに違いない。不仲な親子というのがこの世にはあるらしいので 面会にいけない忸怩たる想いを胸に 遠くからそっと見送ろうと思っているのか

人間関係も広かった人であるから ほかにも この人を見守る人はあろうと思うが 顔も見せに来てくれない人があるのは それなりに諦めているのかもしれない

病院に入院するなら退院の見込みがあって元気になろうというものだけど 『痴呆脳』になって『サ高住』暮らしをし始めたら 未来の道は紛れもなくたったひとつだ

おばあさんも百二歳で亡くなっているが みなさんに きっと「大往生」という言葉で感謝されながらだったように思う

しかし 現実の 本心は 誰も言わない

誰もそのことを口には出さず 治療の手立てや希望にも触れることなく 未来に灯りが残されているというベンチャラじみたようなことも口にすることもない

病人ではないから見舞いには来ない
痴呆脳』の記憶と命が萎みきってしまうのをじっと待っている

私にはそう思えて仕方がない


下旬号 ❀ 京都日記 やや温い日が続く 
大寒篇 ✤

診察も済ませ月末に向けて ウォーミングアップ 京都日記 ❊ 大寒篇

Twitterに残されている『大寒』の呟きを拾う #大寒

毎年同日に命日を思うと 同じ句を思いつくものである
それが 我ながら 少し嬉しい


2024年01月20日(土)

軒をゆく嵐電コトコト大寒の朝 #雨降り #嵐電
明かり消して夜さり路面電車の音を聞く #京都 #路面電車
大寒や汽車の煙も凍る朝 #一番汽車 #小学校の通学路 #六十年
霜柱踏んでみたのは低学年 #霜柱 #見たことあるかい
大寒の明くる日が母の誕生日その次の日が父の命日 #二十七回忌 #大寒 #この日の日記を振り返る


2023年01月20日(金)

大寒 翌る日が母の誕生日 その翌る日が父の命日 #父の命日 
無精髭 放りっぱなしで一ヶ月 #無精髭


2021年01月20日(水)

真っ白な大学ノートの待つ言葉 #大学ノート


2020年01月20日(月)

日向ぼっこ孫の手がわりの鯨尺 #鯨尺


2018年01月20日(土)

大寒と母の誕生日父の二十年忌


2017年01月20日(金)

なんぼでも降っておくれ引きこもる
横しぐれならぬ横霙な大寒
冷たい雨きょうはバスで帰ろう
日めくりをまくって大寒 四股を踏む
京都のことやから☔️が☃️に変わることもあり得るよなあ この週末
ミッフィのブランケットおなかに巻いてお相撲さんみたいに成ってる


2016年01月20日(水)

寒くても平気やと繰り返す呪文
なあ おいしいぜんざいたべたいな #ぜんざい
嫁に行き君の住まない街に居る
風強く雪はないと覚え書き
二十回目の命日の墓に参る


2015年01月20日(火)

大寒の翌日に
まさに
力尽きて命果てた父であった
葬儀のときの寒さは忘れられないほど厳しかった
おかげで寒さには滅法強くなったわ

大寒や語り尽くせない寒さがある
白菜が丸々巻いて大寒哉

すれ違い待ちの列車の女子高生うまそうに朝ごはん食べてる
(朝の通勤汽車の中での景色)


2014年01月20日(月)

二期校の受験の逸話で酒を飲む

大寒ですが、
あすは母の誕生日
そのあくる日は父の命日

きのうは、雪が舞って少し積もった隣町
きょうは、それほど寒くなく
でも、腰が痛いのです。
あした仕事に行けるかな
弱腰

大寒やあしたは母の誕生日/あさっては父の命日


2013年01月20日(日)

きょうは
母の誕生イブで
今夜から八十二歳になります
昔でいえば八十四歳
行ってこうか

大寒や早起き鳥のその一句
眠れぬ人泣いても笑ろても大寒の朝  
大寒や目覚まし鳴っても床を出ず  
一度だけ電話きたことありました
鳥が啼き大寒明けて新聞屋

❊❊

京都日記

ガストで日替わりランチを食べたり バーミヤンで済ませている
そんな日の 夕飯は 「鰤しゃぶ」とか惣菜の「串カツ」とか 塩分表示が出ているので助かっている
6g は絶対に超えない
冨美家の「しっぽくうどん」を買うてきて食べている


京都日記 ✢ ココスでランチを ➖ 師走中旬号

京都日記も 早く 師走中旬号になる
ちょうど一年前に遡ることになる
MacBookを十二月の中旬に入手して この部屋で日記を書き始めたのだ

脳波は 去年の今ごろ以降で どれ程までに変化をし 今現在で どれほどまで正常さを示し残しているのだろうか 詳しいことを誰も知ろうとしない

もしも 癌であったら主治医に縋りついて 検査を定期的に実施し 新しい薬が無いものか一生懸命アンテナを張ったり 病状が良くなるために何か出来ないと 日々悩み 思案し主治医に話を持ちかけたり 何か工夫でも出来ないかなど あらゆる努力をするのではなかろうか

否・・痴呆脳の運命は そんな悩みや思案を持つこともなく 周囲も一体となって刻一刻と一つの瞬間を それが安らかである事を願い続けて待つのであろうか

痴呆脳になってゆく人に対して そんな面倒な気遣いをして 引き止めよう 治癒への道を探ろうとしたりすることは 一般的では無いのか
第三者としてみたり様子を聞いたりしている限りでは 周囲の人々は やはり 手の施しようはないのだから このまま放置して 脳波が平坦に日々近づいていく変化にも関心を抱かずに そのことを確かめる事もなく 日々 ケアとして寄り添うのみだ
苦しむこともなく 安泰に死んでしまう時が来るのを願っている というのが残されている人々の取るべき確実で賢い手段なのだろうか
痴呆脳は何も訴えてこないのを良いことに そのまま好きさせているのが本当に幸福を与えていることになるのか
間違いなく脳波が平坦な道へと 刻一刻と進んでいる

減塩な日々なのに 京都への途上のファミレス(ココス)で ランチを食べている
ハンバーグが食べたくなって
そこで つい 美味しそうなメニューに手を出してしまって
デミグラスなハンバーグドリアを選んで
あとで調べたら『食塩相当量=5.6g』でした

この日の夕飯は 沈んだ気持ちで 味のない白菜湯豆腐を食べた(鰹のタタキ四切れ付)

減塩日記 ❇︎ 京都日記 二、

帰りに長次郎でお昼を食べた

とーさんが 孫と数日前に行った話を聞いていたので そのお店を知って 調べてみると旨そうだったので 支出を惜しまずに行くことにした

そのあと少し紅葉を見ようと『御斎峠』を回ってみた

❇︎

とーさん は 依然として ぼんやりした日を過ごしている。
おやつを食べて 三度の食事の頃には およそ満腹になっていることが多いらしい

腹が痛いと訴えるのだが お菓子の食べ過ぎだろうと ツマは話している
「おやつを食べないように」と注意をして帰ってくるのだそうだ

ほとんど寝ているかウトウトして時間が過ぎる

一体 脳波はどうなっているのだろうかと気に掛かるが 健康的な症状には何も異変はなさそうだ

❇︎

老衰で死んでいくときは まさにこのように衰えていくのだと誰かが話していたことが私たち二人の間でも話題になる。誰々もこんな最期だったという

二年も生きてもらいたくないときっぱりと言葉にしていいながら そうすぐに死んでしまっても可哀想だとも思い これ以上いつまでこうして世話を焼くのかという不安もある

全く進んでいかない思案が ぐるぐると回っている時間が積み重なる日々だ

重くもあり軽くもある

こんなことをして自分の順番が来る日の事を憂いながら 日々を送っている

減塩な日々が始まっている ✤ 京都日記(㊙️伝版)

➤ 減塩な日々のはじまり ✤ 京都日記

✤ 外伝を書いて 一息ついて ここにきて 書きかけ

心不全の診断は続いている
それとは別に 『ニュー・デューク・オールスターズ』に参加することになり毎週練習に行く
そんなこともあって京都日記を十一月のいまごろに書くことになった

十一月初旬に立冬を迎え(八日)その後 異常に暑い日があったものの 順調に冬へと向かっている。この日記を書き足していく日々は ちょうど『小雪』を数日後に控えた中旬暮れのころで 京都はまさに秋の紅葉シーズンで人の波が溢れるとき

人混みなど諸共せずに出掛けた若きころが懐かしいと思いながら 嵯峨の別邸でぼんやりと過ごしている。このたびの京都はこんなタイミングで 人混み渋滞を恐る恐るやって来たのでした(十八日土曜日)

羨まれるほどに絶好の時季なのだが もう紅葉の景色を見に出てゆく元気は今の僕には無い。燃える秋の興奮が人々を激しく感動させていても 静かに息を潜めて見物している

たぶん 誰もが同じ一眼やコンデジを持ち同じ景色を同じ感動のふりをしてカメラに収めているのが気に入らないのだと思う。むかし僕たちを痺れるほどに感動させた自然はどんな時代になっても変わりはないはずなのに 金太郎飴のような感動の表現しか届いてこないのだから カメラを持つ魅力が失せていくのかもしれない。

出かけることもやめたの理由はそれだけではないと思うけれど

十一月初旬から 減塩食の生活が始まっている

心不全

ほんとうにそんな病気かどうかは はっきりとはまだ告げられてはいない けれども心臓の拍動が数秒止まる記録がくっきりと残っているのだから 逃げられない

原因が何かも尋ねてはいない。だが 高血圧を抑えなうてはならないと指示をされた。コレステロールも高いし 腎臓が弱っているという数値が出ている

減塩食

だから 塩分コレステロール 脂質に気を付けた食事をする必要があるのだ。腎臓がへたっているし 子どものころにも病んでいるし さらに父親譲りの面もあろうから カリウムリン 小麦粉を抑えて 高タンパクな食事を控えるように・・・

首を絞められているような宣告を受けたわけで 素直に受け入れて 十一月の初旬から減塩な日々が始まっている

書きかけ・続く

魔法にかかったように時間に残してきた足跡 ✻ 京都日記 [裏表紙・号外]

京都日記


冬を待つ束の間の季節である

秋という時間は短く足早に心を枯れさせてゆく

しかしながら
この枯れてゆく瞬間というのは
自分を静かに見つめられる
かけがえのない時であるようにも思える

数々の忌まわしい過去を捨ててしまおう
思い出など枯れ果ててもかわまわない
とそう思っている

ひとつの逃げの手段かもしれない

やがて
忘れようとしても忘れられることなどないはずの
魔法にかかったように時間に残してきた足跡

あっさりと掃き捨てられそうな気持ちになる

欲張って
自分の人生の記録帳を膨れ上がらせてきたのだが
それもよくよく考えれば
虚しいことだと気づく

その気づきが正しいという保障もないまま
行く道を探って
一つ二つと決心を重ねて
やがて行き着くところの姿を思い描く人も多かろう

答えなど
模範解答などどこにもないし
答えがあるかどうかさえ明かされないままだ

京都の時間は止まっているかのようにすぎる

痴呆の人が静かに
『サ高住』の玄関ロビーを歩いている姿を見ていると
何処かへ泳ぎつこうとする
漂流する何者かそれは漂流者にも似ているように
見えてくる

決められた動作を
繰り返すロボットのように動き回る介護施設の人たちや
それと対照的に浮遊する高齢者の姿が
決定的に病院での様子とは違うことに
遅まきながら気づき
目指すところの違いを知らされる

静かである
会話はいらないのだ

待っているのだろうか
自分がどこかに導かれるのを

息が止まる瞬間

いや
誰か人が現れるとか
恋人ができるとか
昔の友人がやってくるとか

この住処を飛び出して
何処かへ行けること

夢見るのだろうか


✢✢ 十一月十日のひとときに メモ帳に書き残したメモを載せておく

サ高住のロビーで考える - 十月はじめに

京都のSOMPOの玄関ロビーのソファにかけて 介護面会にきたツマが用件を済ませて帰るまでの1時間ほど 待つ時間がある。その間に ここに出入るする人を眺めていると 職員と家族の面会者のほかに ヘルパー業務の人が何分かおきに出入りをする。人は受付に声をかけ 静かに決められたルートで歩いていく。荷物を運び込む人や 掃除をする人もいるし 自分の部屋を出て散歩に行く人とか廊下を人の歩く姿も時々見かける

病院の入院病棟の廊下とは 雰囲気が少し違う。ここに住むのは 健康な人から痴呆の症状や老化で要介護の人までいる。定期的に通院をする人もいる。だが、大部分が事情があって自分の家に住めない人だろう。またはこのサ高住がいいと判断した人だ

病院の病棟との決定的な違いは 病気が治って退院をする人が混じっているかいないかだ。このまま一つの運命に向かって進んでいくの待つだけの人だけが 今は健康で、何の問題も支障もなく生きているという空気は どこにもないものだ

京都日記

八日(金)大津の王将でお昼、夜は簡素にイタリアン

﹅﹆

用事を済ませた日は帰り道で食事をして
家に帰って簡素な(手間のかからない)食事で済ませる

痴呆の人にはもう会いたくないと・・月のはじめに考える - 京都日記(痴呆脳)

京都に来て座敷机に腰掛け
かれこれと考え始めれば まず『痴呆脳』のことが浮かぶ
不定期の京都日記を少し書こう

秋を迎えた。(新年になれば)とーさん も「サ高住」やがて満一年を過ごす事になる。この三季節ほどで 痴呆の度合いが著しく進行したわけではないもの 行動・思考意欲が低減していることなどから 体力が衰え 暇な時は横になるとか眠っている時間が増えたようだ

何もしなくなって食べることへの自主性も無くなって『眠る時間が長くなって 死んでしまう日が来る』

そう周囲の人たちが口々に言う

「こんな日が続いて やがて 死んでしまうのだ」

はっきりとそう言う人もいれば 頷くだけの人もいる。そんな本音だけの空気の中で 毎日を生き続けている。テレビ番組を楽しみするわけでもなく 時間になれば食堂へ行き 決められた食事をする。何日かおきに 幾つかの医院に通う

医者は症状の診断をするが 死んでしまえば業務は終了なのだろう。大学の研究室なら死んでもその原因や死亡するまでの過程を分析するところだろうが 町医者の仕事としては病人の診断して死亡と同時にその仕事は終了・・となる。よく考えれば医者の本来の姿として オカシイ。

病気の進行過程を分析してこそ医学者の医者たる腕が上がり 庶民の命を預かる使命を長い時間かかって果たして行くのではないのか・・とそう思った

そう言うわけで 記憶が甦ることなど全くない日々が続き 期待もなく 残り時間がじわりじわりと削られてゆく

(私の)伯母さんが施設に入っている。大正十四年(丑年)生まれだ(九十八歳)。昭和元年(大正十五年)が寅年なのでその前年にあたる。その六年後未(ひつじ)年(昭和六年)に母が生まれていて ちょうど九十二歳になる

二人とも元気だ。母は週三回のデイに通うのを楽しみにして 今だに「数独」の腕前は工学部のムスコ(私)よりも達人だ

一方、伯母は数年前から施設に入り 先ごろ少し重度の施設に移動したと言う便りがあった。

数ヶ月前に母は姉の面会に 妹と連れ添って出かけている。その時に実の娘もいて三人が揃ったのだが 娘はわかったもの あとの二人に「あんたら誰や?」と言うたそうである

先ごろ、鰻を食べに出かけた日記を書いたが「もう会いにいく気はない」とその時にそんなことを母は言っている。悲しいのだろうけれども 諦めがついた話ぶりだった

あとは自分がどんな形であの世に行けるのか・・それも神様仏様任せのようだったが、身体はすっかり九十歳を超えた老人の動きである。まだ少し 時間が 残されているものの覚悟はしている

「京都日記」では とーさん のこれからを考えていくつもりで日記にし始めた

ところが 寝てばっかしで ツマが面会に行っても一人でテレビを見て時間を過ごし 身の回りのことあれこれして帰ってくるだけだ


蛭子さんの絵画展 - 京都日記をひと息ついて

漫画家でタレントの蛭子さん(75)が描き下ろした新作の絵画19点を展示する個展「最後の展覧会」が開かれているというニュースを読んだ

蛭子さんは レビー小体型認知症とアルツハイマー型認知症の合併症を2020年7月に公表していて、現在はデイサービスを受け通院をしているという

うちにも 認知症のとーさんがいる。去年十二月にその症状の深刻化に気づいて新年から高齢者住宅暮らしをしている。診断をする医者は アルツハイマーとは明確に言わない。しかし 診断名はそうでないにしても 周囲は「痴呆脳」の進行は明らかだと認めるし 生活にも支障が出ているので 介護認定を受けている

とーさんは 日常は介護ヘルパーさんに頼るものの 生活必需品や突発的洗濯、身の回りの世話をするために長女であるツマが出かけて行き 一か月の三分の一を近くで暮らす。私も付き添いで一緒に出掛けて 住宅の傍である実家(の近く)に滞在する

絵を描いている蛭子さんのニュースを見て思いついたことは、うちのとーさんも日常の生活の中に絵を描くという遊びを取り入れてやれば 少しであろうが痴呆脳の進行を抑えられるのではないかということだ

もともと絵を描くとかそれに色をつけることには馴染みが深い人だ

一縷の望みを託してみたいところだ

一月からの九か月間に 痴呆は目に見えぬほどであるが進んでいるように見えるが 掛かりつけの医者の診断では病状として全く変化がないようにいう。脳だけではなく身体機能も衰えているのは 傍らにいれば気づく。食欲も変化しても不思議ではなく 定時の食事は積極的ではなく おやつのお菓子ばかりを食べる様子がわかる。何かをしようとする意思が衰え お菓子を食べたりする行動だけが残って それ以外の時間は横になって休んでいる時間に取られていく

来た、会った人がみんな口を揃えて「このまま死んでしまえば幸せだ」と言う

着実に老化が進行していることは顕著化して 人間としての脳の働きは 着々と退化している


シャインマスカット(ぶどう狩り)の夢は儚く - 八月尽

暮れゆく八月

初夏に(六月末に)北海道を旅して あっという間に時間が過ぎた

京都日記(痴呆日記篇)も正月ころから始めたので 早くも八か月を書きためてきたことになる

「歳月人を待たず」という言葉を月並みに噛み締めて 涼しさが少しずつ増してゆくのを肌で感じている

月末の京都
和食のさとでランチを食べたり 嵯峨野のガストに行ったり 帰りには大津でラーメンも食べた

﹅﹆

孫たちはインフルエンザ

家族で山梨へぶどう狩りに出かける計画が取りやめになって 交互に休暇を取りながら最後の一週間を家で過ごしたのだろう

夏休みといいながらも 私たちの子どもの頃とは事情が変化し 両親が仕事に行っているし 年寄りは同居していないので 子どもは学童や保育園で毎日を過ごす

宿題をしたり自主学習をしたりしながら一日を過ごせるし 猛暑日注意にも十分に配慮が行き届き 事故などの心配は大きく減っているといえよう

危険から守られるという点では大きな進化だ。しかしながら、夏休みらしい自由と解放、自主性やスリルをギリギリのところで遊んでゆくような・・海や川でのちょっとした冒険遊びや宿題課題を放置して遊びまくり投稿前日に大慌てをしたりするような・・ハプニング的なものは消えていってしまった

八月の最後の一週間を家族でひっそりと過ごしたことは もっとも慎ましやかであり 一方で夏休みらしい時間だったのかもしれない

﹅﹆

八月を棄てて新しい秋を待つ
聞かせてよ月夜の晩にこっそりと
満月や知らんふりする睨めっこ

八月は二度満月があって、その二度目が三十一日の夜だった

京都日記に新たに書き出すような出来事があったわけでもない
山梨にぶどう狩りに出かける計画をキャンセルしてしまったことで そわそわしていた生活が ストンと終わって ステージがこれまで通りに戻る

シャインマスカット

山梨県には及ばないものの 名張市の生産直売所に買いに行こう・・そんな計画を立て始めたりしている


外伝 ➡️ 大津のラーメン屋さんに立ち寄ってみるなど ・・ 八月尽

京都日記 四、七月下旬篇 薄情とは何ぞや…

二十四日から京都日記

痴呆脳は 目まぐるしく進行するわけではない。しかし 心配なこともある

うちのんが(長女)が不定期におよそ一ヶ月に二度ほど訪ねている。その度に おやつとしてお菓子や果物を買って部屋に置いてきている。これを とーさんは楽しみにしている

正確には 長女が訪ねてくる日時の記憶は残らないので ムスメがたくさんのおやつを仕入れてくれていることは理解できるが いつから置いてあるのかは理解できていない

棚や冷蔵庫に保管されているものが目につけば食べるだけだ。今朝から二度目なのかどうかなどはまったくわかっていないのだろう

約半月ぶりに顔を出すたびに おやつは食べ尽くしてある状態だ。どんなペースで食べたのかは不明なまま・・らしい

食べることしか楽しみがないのだろう、そういう一面がある

シャトレーゼでアイスを買って冷凍庫に入れて来た。次回来る時までには間違い無く無くなっているだろう。どんなペースで食べるているのか心配はあるものの アイスだけではなくおやつも置いているので 次回の訪問時にどれだけ残っているか


孫がいる。長女のほかに長男があり子どもがある。市内に住んでいて今年から会社員として社会人を送る。とても大切にしてきた いわゆるたった一人の内孫だ。男の子で市内の国立大学修士を終了した自慢の孫だ

小さい時から可愛がって大事にしてきた。会うたびにお小遣いもあげて おじいちゃんとして大事にしてきてもらったし 自分も大事にしてきた。その孫が時々 この高齢者住宅を訪ねてきてくれて車に乗せて寿司や喫茶店に誘い出してくれる

﹅﹆

高齢者住宅にこの「とーさん」を入居させて以来 まったく薄情なまでに妻や長男、次女は ほとんど面会に来ない日々が続くことは この日記で書いてきた(明確には記述していないが)事情があるのはとてもよくわかるにしても 第三者から見れば 薄情としか見えない

この薄情な人々の中にあって 長男の息子(第一番の孫)がそうして面会に来てくれることは 涙ぐましい歓びだ

ここにある薄情を見ていると この孫がおじいちゃんを見舞ってくれていることに 長女の旦那としては感謝をするばかりである

人は ここまで御恩を受けた人に尽くしに戻って来れるものなのだろうかと感動するほどに、新入社員の忙しい今の時期の貴重な時間の合間を見て会いに来てくれているという

そこまで恩返しをできるものなのか と感動をする


そんな話を耳にしながら 七月下旬の京都での日々を過ごす

もしも 私に痴呆脳になってしまった家族がいたならば ここまで温かみを持って尽くせるだろうか。もっと薄情に 知らんふりをするか 決まりきったことしかしないんではなかろうか。人間が心の感情を共感するということへの薄情さの実態を 自分ならばどうだろうか と振り返ってみて痛切に感じている

今の時代の 今に世の中の人は 限りなく薄情ではないか・・と
それが普通になってきているのではないか! と思うのだ

六月 はじまって — 京都日記

六月がはじまって
あれこれ
思うことを
書いてみます

﹅﹆﹅﹆

健康

健康やから このままいつまででも生きておれそうや
心臓が止まる気配もない
糖尿の気配もないし
血圧も高こうない

そんなことを言いながら 介護に来てくれているムスメと話をしているのだろう
どんな会話があるのかまでは 私には想像はつかない

記憶が痴呆のせいで消えていくというわけではない

しっかりと記憶されることもあって、先ほど話した内容を しっかりと覚えており 翌日にも繰り返し呼び戻せることもあれば、「また数日したら来るわ」 と言って切った電話内容はすぐに忘れて 「今度はいつ来るのや」 と問い返していることもある

動きは鈍いが、身体の調子は何も悪くない。お菓子やアイスクリームを買い置きしてあるが 半月ほど開けて訪ねて来ると ペロリと食べてあるそうだ

エアコンの風の音が神経質であるために喧しいと言ってコンセントから抜いてしまうのだが、機械の故障の原因になるのでいけないと何度も注意しても同じことを繰り返す

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私たちが京都に来ている日は 買い物や洗濯を済ませて仕舞えば 朝のコーヒーを飲んだ後 ウチの人は とーさんのところへと 足を運ぶ

何かを話そうというような目標もなく 昔話を聞いてやろうというつもりもない

暮らしぶり

相撲がある季節は そのテレビを見せて 早めに帰ることもある。テレビにもニュースにも関心を持たなくなっているのに 大谷選手には注目しているようで 活躍の様子を それだけはテレビで見るそうだ

私たちの行かない期間は 食事をして次の食事までの時間は ここに居住する人たちとも会話をして 心配をすることなく時間を過ごしているようだ。とんでもない痴呆の人も住んでいるがそこまで自分は至っていないことも話しながら理解できるようだ。時間の刻みはスローである

五月雨や未練もないと見得を切る - 五月中旬号 (京都日記)

眼科で糖尿病の所見があるといわれる

眼科所見

日記に書くことはこれくらいや

仕事なし 健康状態は不安定だ
歴史的に昔の人の視点で見れば
社会を生き抜くには能力不足の判断をされて 仕事などさせてもらえない
まさに 私はそんな状態か

人間が持つ時間軸と社会が提供する時間軸のズレあって
その中を生きていくには 暮らしにくい世紀を迎えている

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つまりは
野生で生き獰猛な獣たちと戦って暮らしていたらなら
もはや生き延びることなどできない身体になっている

落ちぶれてきているのを認めねばならんのだ

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京都日記

車折神社の三船祭りは 来週 第三日曜です

十三日(土)のお昼過ぎから雨が降り始めまして 外に散歩に出かけるのは諦めました
そういえば「十五日は葵祭ですやんか」と思いついたのが昨夜のことでした

お天気は雨の予報ですから きっと翌る日に順延でしょう。僕は その前に京都を離れようと思っています

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『いっせい』の鰻をお持ち帰りで買って とーさんに届けてきました。「母の日」なので お店は予約で満杯で追加予約は受け付けず 次々とお客さんを断っていたようです

とーさんのいるSOMPOの家へも入れ替わり立ち替わり遠くから家族が訪れて 玄関先には車が溢れていた

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どこの じーさんも ばーさんも この季節だけは束の間の幸せだ

未来が暗い人ばかりではないものの、明日から急展開で明るくなりそうな人もいない
このまま 明かりが消えるのを待っている人たちばかりみ見える

この施設の玄関で ウチの人が帰ってくるのを待っている
時々ふらりと どんな意味か不明だが じーさんやばーさんがソファに並んで腰掛けて 話を始める

どんな程度の知り合いなのか わからないまま 静かに耳を傾けてみる

街の公園のベンチで偶然に隣り合わせになったように
━ 九十四歳ですんや、おたくは?
━ わしは八十四歳ですわ
などと挨拶を交わしているのがわかる

もしかしたら 昨日もここで会って同じように話したのではなかろうかと思うような会話をしたかもしれない

実際に 同じ話を毎日していても どちらも全く迷惑でもなく苛立ちもないような人が この建物中には 何十人もいるのだ

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うなぎ

とーさん うなぎ美味しかったかなあ
京都の人は、見栄っ張りで、ブランド志向なので 最初は 嵐山の『廣川』の鰻というていたのですが『いっせい』でもええという。ボクにすれば そんなに美味しい鰻でないのだけれど、そして江戸前と聞くとさらに それほど・・と期待も薄らいでしまうけど、ココと決めたら カタチを大事にするから 美味しいかどうかは二の次になってしまうのかもしれない。もしかしたら最初に食べて感動したとかいう思い出もあるのか

確かに とても上品ですし 江戸前なので蒸してあるので柔らかい。来客に出すならこんな鰻だと いかにも京都の味です

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老人施設でも、結核病棟でも、軍事収容所でも、癩病施設でも そう変わりがないような雰囲気のSOMPO高齢者住宅の外容ですが、とーさん自身にはそれほど悲壮感もなく、送り込まれたとか閉じ込められたという感覚はなさそうだ。それが病気のせいか、認知症の薬の投薬のせいか、人間として自然な姿なのか、不明である。だけど 切ないことにボクから見れば 穏やかに 三途の川の方を向いて 座っている毎日のように見える

時間を過ごすことにも苦心もせず 野球を見たり 相撲を見たりしていると時間が過ぎてくれるから、悲壮的なものはなく 悲しみや苦しみも 何もない、恨み辛みも湧き上がってこない。時間が淡々と過ぎるのです。人が来てくれるのが切々と待ち遠しいこともないのだが 電話をすると「今度 いつ来てくれるのや」と口癖のように尋ねる。だからと言って 行かなければ 早く来てくれとせがむこともない。

一日の時間は止まったようであり刻々と流れているようでもある、日々に愛想つかして悲鳴を上げることもない、目の前で起こっていることを記憶に残すこともないので 来客が来てくれてもやがて忘れてしまい、特に日時の感覚はなく その日が何日で何曜日であるかも (動物と同じように)意識に持つこともなく時間の流れに浮遊しているだけだ

﹅﹆

うなぎがとりわけ好きなわけでもかったはずだし、もともと食い物の味にうるさいわけでもなかったと思う。幼少だった戦後の苦労時代の食い物の苦労や生きるための苦労が頭にこびりついているから 上級なものにあり着きたいという貪欲な根性が激しく体の中を流れているので 味がわかるよりも 人並み以上に食いはぐれたくない意識がある。それを克服していつかは稼いでやろうという強い意識があって、その上での 京都の人の格式とブランドとプライド、評判と値段と見栄などが合体して いかにも京都の人らしくモノ選びをする。そこに満足があって達成された幸せを築いて来たのだろう

だから、こんな環境で「うなぎが食いたい」と言い出したとーさんの気持ちには 人生の苦心を乗り越えてきた上での栄冠をもう一度味わおうという感覚が滲み出ていると感じる。

江戸前の鰻は やはり関西好みの味では無いはずだし、京都人などは鰻なんてものよりも もっとおいしくて安いものが好きなはずだけど ある意味で鰻が高級感を持っているので 心をその点で満たしている

京都流の美味しい料理というのが頭にこびりついていて、それは守らなければ (京都人のプライドを破棄してしまうことになりかねず)よそモンに成り下がるような意識が奥深く潜在的にあるのだろう

自分たちの本質から(京都)文化を生み出したのではなく 外部からの人々が融合して侵略し合って 騙し合って、見栄を張りあって築き上げた(京都という)土地に息づいた訳で、そこで人間が生きる手法のようなものがあるのだ

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「そんなもんを食べさしたら 冥途への招待の晩餐になってしまう」と感じてしまうことは誰にも言えない。その考えは 間違っているかもしれないから、ボクの『悪言・毒舌』で留めておかねばならない

しかしながら、鰻を食べている姿は 可哀想で よー見ておらんから、(椅子もないけど)無理に同室で同席して一緒に食べると言い出せずに、ボクは部屋に帰って一人でいただきました

『ごちそうさま』と電話をして とーさんも『満足に』食べられたと 報告を聞いて やはり いっそう 悲しさが募るのだった


京都でのつぶやき

🐝 紐のなか三人寄れば汽車ぽっぽ
   #ぽっぽの意味を知っとるか

🐝 大堰川暴れて待つ葵祭

🐝 新緑の嵯峨野を濡らす本降り

🐝 十五日うっかりしてた葵祭

🐝 たんぽぽや 恋の花咲くぽっぽっぽ

🐝 雨降り出しとりました昼過ぎから(京都)

🐝 たんぽぽがふわふわ嵐電コトコト

なにも足さない、なにも引かない - 四月の初めに

待ちに待った四月になった
過ごしやすい季節だから 毎日が嬉しい

早々と桜は散ってしまった
小学校の入学式のころが満開だったもので、満開の花の下で写真を撮った時代は遠い昔になってゆく

筍が取れたお裾分けをもらったのでおいでと連絡があって(五日ころ)早速もらいに行って 母親のディの様子も聞いたりしながら半日を過ごしてきた

🔖🔖🔖🔖

  • うしろ姿凛として花一輪
  • ウソツキなあの人の熱いライブレター
  • 散るサクラ背中を向けて傘をさす
  • ハナミズキ今咲き始めたり春嵐
  • 白い躑躅 隠れて咲いても匂い隠せず(
  • 逢えねども瞼に浮かぶ梨の花 実のなる季節まだまだ遠し

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歳月には力がある。歳月を養分にして、この琥珀色は滴った。だからピュアモルトの香りは、言葉に溶けてしまわない。はっきりと呟きが聞こえる。凛としたモノローグである。朴訥だが明晰。シンプルだが、奥が深い。なんという矛盾だろう。静謐があって、覇気がある。ゆったりと、鷹揚で、大きな流れと、縦横無尽に闊歩するものとが、同居している。なにも足さない、なにも引かない。ありのまま、そのまま。この単純の複雑なこと

そんなサントリーの宣伝を急に思い出して
ダルマを飲んでみたりしている

うまいじゃないか
そういうのが感想です


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京都日記

sompo 住宅のロビーで本を読んで一時間ほどを過ごす
うちの人がとーさんのところに行っている間は 居るところがない
話すテーマもないので わたしは車の中にいるかロビーにいるか
別邸に居残っているかとなる

この日は sompo まで付き添っていき玄関フロアーロビーで時間を過ごす


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九十四歳のおばちゃんと八十六歳のじいちゃんが向かい合わせになっているソファーに並んで腰掛けて話をしている

私は九十四歳ですのや
ワシは八十六で歳ですわ

そんな会話から始まって 子どものころことや学校のことを 自然の思いつくまま しみじみと話してゆく九十四歳と トンチンカンな受け答えで頷いている八十六歳

鴨沂高校でしたんや
沢田研二の出身
終戦は 三年のときでしたなあ

若いころは映画や舞台を観にい来ましたもんや
オードリーヘップバーンが綺麗やった
南座にも行きました・・


などと 懐かしそうに話しているおばあちゃんに相槌を打ちながら

沢田研二は なくなりましたなあ

とボソボソいうている ちぐはぐな会話が 滑稽で 無責任ですが 楽しい

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六十五歳になれば入居できるというsompo の『サ高住』だ
健康な人もいれば 介護認定を受けて ヘルパーさんのお世話になっている人もいる

とーさんのように 少し認知症が出ている人もいる
それが普通の姿なのだろう

空調も行き届いている上に生活に必要なものは全て揃っている
天国のようなところだ

みなさんの姿を見ていると 感じることは山のようにある
ここで暮らせるというのは 幸せだ

しかし 決して安くはないだろう
カタログを参考にして推測をしても 最低でも二十万円以上はかかると思う
普通の老人が仕事もせず 年金だけで二十万円の都合をつけるのは 簡単ではなかろう

上級な暮らしをして十分に年金などの準備をした人であるからこそ ここに必要費用を払えるのだ、と思うと 富裕な人が入居しているのであろう

私はとーさんの家庭事情には全く関係ないので心配もしましたが、ツマは「父とムスメ」という関係だけでここに居るだけで そのほかは『無縁』なので詳細は不明です

ここでの必要経費の件は 気にしないことにして

ロビーで話をしている高齢者を見ていると
(話をせずにじっと座ったきり無言の三羽烏のような人もいるが)

こういうときを迎えたら それに合わせた暮らしをして 過去のことなど忘れて その時を生きることになるのだ

待ち時間の間 そういう静かな流れに浸っておりました

何も足さない 何も引かない


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ラブカ  安壇美緒

ラブカは静かに弓を持つ
京都で読み終わりました

Y先生に教えてもらった本です
よかった、よかった

京都日記 春分篇

京都日記 三月下旬 春分のころ

飛び石連休なのでというわけでもないが お彼岸なのでとーさんのところへ出かける
暖かくなってきているので 洋服や布団のシーツを交換してやらないと・・
入れ歯の洗浄は「サ高住」のヘルパーの人はどの程度やってくれるのか
あらゆることがよくわからず心配をして見にいくわけだ

緑内障の進行でほとんど視力がないため エアコンや携帯電話の操作が満足にできない
電話機の充電もできないかもしれないので ヘルパーさんにお願いをする
きちんと依頼が伝わってるのか
そのあたりの日常の世話が不安で仕方がない

もしも 家族が放り込みっぱなしで ほとんど面会にも来ない家庭ならばどうなるのだろうか
自宅から遠く離れているこの「サ高住」に放り込まれている人も 実際にありそうだ
どの程度の世話をしてもらえるのか
SOMPO のカタログには特に触れていないので契約書をくまなく読めばわかるのだが それは全てを相続しているムスコの役割で お嫁に行ったうちのツマ(長女)の出る幕ではない

ムスメ(長女)は 父のもとにこうして通うのだが その心の深層は私にも計り知れない
大慌てをした入居の頃の様子よりも 父は落ち着きを取り戻している
毎日の暮らしも 一人で暮らすペースを掴み始めていて 精神の動揺もそれほど見せるようもなさそうだ

認知症(痴呆)症状も 当初に心配をした 急激な悪化の様子もなく 不可能なことも見えてきて できることとできないこともわかってきた
ごく普通の認知症高齢者の老人である

毎朝 同じ時刻に起きて食事をし
ぼんやりと時間を過ごし
はたと思いついてはムスメに電話をかける
様子を聞いて 次はいつ来てくれるのかを問う
しばらくしたら忘れるので 何度か同じ話をして電話を切る
時には電話を切ってすぐにまた掛けてくることもある

誰と特別に話をするわけでもなく
日々何かを楽しみするわけでもない
見たいテレビがあるわけでもない

どうしてこんなふうになってしまったのだろう
長生きしすぎたからだろう
コロナで家にこもって悪化したのが原因だ

そんなふうに
同じことを振り返りながら
「まだまだ生きるから」と想像を語り
明日の朝 目が覚めない そういう時がいつかくるのだ
という場面を誰もが言葉にしないで脳裏に描き

時間が過ぎるのを
凹凸ない気持ちで送っている

二十日の夜は嵯峨野のガストで済ませる
他の日は スーパーの惣菜で 簡単に食べておく

外伝▶️

21日 春分

今年度最後になるかと思いながら
京都を訪ねている


建国記念の日で連休でしたが土日です

『サ高住』日記

京都に滞在する期間の昼間、ツマはとーさんのところへと顔を見せに出かけてゆく
何を話すわけでもなく時間が過ぎていくようだ

ロッキングチェアの代わりにしているマッサージ機に腰掛けたままで うつらうつらとして ペラペラと話すこともなく一時間以上も過ごして 特に寝ると言うわけでもないらしい

認知の機能が働かないところと 正常な機能箇所とは 脳の中では明確に区域が分かれているようで 何から何までもが見境もなく痴呆になってゆくわけではない

同時に身体の動作機能が衰えてくると 下着の着替えや トイレに行く動作 エアコンの操作なども 確実にできなくなってきている

緑内障の治療が迂闊だったこともあって 片目がほとんど見えないし 残された方も 手のひらサイズのデジタル時計が見えているのかさえはっきりしない状態だ

思考をする一部分は正常者に劣らないところもあるので 気の毒でもあり不幸でもあろう。しかし 機能の衰えが目立つようになってくると 幸せとは何か 生きているとはどう言う意味を持つのかというような命題と向き合うことになってくる

そういう人と一日付き合う正常な人からすれば この人にいつまで生きていて欲しいかと言う安易には言葉にできない葛藤が襲ってくるのだ

﹅﹆﹅

麦畑を見に散歩に行ったのは 六日でした
久しぶりに外に出て歩きました

週末の十日から連休で、その明けまで京都です
お決まりのおでかけです

土日は比較的穏やかな日で
京都の別邸別室で ぐうたら過ごしました

ーー

* 日々 似たようなことを書いています

痴呆脳 について考える ー 令和四年大晦日に考える

外伝🔗 こがらしの一日吹いて居りにけり ー 年末整理 の日記で

「三途の川への道標」のことに触れた

さらに 静かに考え続ける


(雑記メモ) 痴呆脳 Ⅰ

﹅﹆﹅ 痴呆脳

『痴呆脳』という言葉を思い浮かべた

「痴呆」から「認知症」へと言葉が変化するため「痴呆」は相応しくないとされるが、人の様子を表現する言葉がより病的な色合いを持ち始め 「痴呆」人を

差別的蔑視域に分類することに間違いがあるのであって、人が持っている人間味が備える「うっかり」で「ボケ」な点を 「病気」と今だに一線を引いて区分する事を思うと 「ボケ」は人類と永遠に付き合いをする「病気」であるのだから 目を叛けないためにも『痴呆』でええ

﹅﹆﹅ 脳死

「脳死」と「心肺停止」で 人は「死亡診断」をされ、つまり 生き返ることはなく『死亡』と見なして 荼毘に伏す

そこで私は『痴呆脳』という言葉を造語し 生きている人の痴呆の人の脳をそう呼ぶことにする

痴呆脳は 脳死とは生理学的には全く違うが 脳死の脳と比べて活動具合にどのような差があるというのか

﹅﹆﹅

(雑記メモ) 痴呆脳 Ⅱ

﹅﹆﹅ 痴呆脳は 生きているのだ

  • 生きているのだが 記憶を喪失するし 現状のステータスの確認もできなくなる時がある
  • 会話は交わせるものの 会話を記憶して再生して次の思考をこなすことは不可能である
  • 判断についても 自分の存在の状況を認識していないので その後にある判断は 出鱈目だ

つまり 痴呆脳の人に精一杯の情報を注ぎ込んでも その内容を持って『三途の川』を渡れない

さらには あの世に到達してもこの世のことを再現できないのではないか

そう考える

﹅﹆﹅ 痴呆の世界を無知だった

痴呆は身近であると思っていたのは大間違いだった

実は「痴呆」の人やその症状 そして周囲で介護をする人々を全く知らなかった

社会の実態を全く知らずにきたということだ

離れて住む「とーさん」に怪しい症状が出たのが十二月の初旬で その時から大慌てが始まった

﹅﹆﹅ 介護をしながら「可哀想」を連発する

つまりは 生きながら自分と会話し反応をする相手が 何も考えていないことのジレンマ

正常な時もあるが(これはそう見えること自体がすでに認知症状の一種だが)言うている事がメチャメチャなことが多い

せん妄に惑わされて 行動が不安定(暴れる、暴言を吐く)である

  • 人間らしさを感じられず
  • 元に戻る見込みが無く
  • その人らしさもなく生きている意味が感じられず
  • 見ているのも辛いことがあり
  • 可哀想で仕方がない
  • 元に戻せない
  • このまま行く末は遅かれ早かれ死んでいくのか
  • それを認知症というのだ

だから 可哀想だという

  • この人の幸せは一体何であったのか
  • これ以上の幸せがあるのか
  • 苦しむことなく楽にしてやりたい

様々な思いが頭をよぎる

﹅﹆﹅ 脳死や心肺停止のようには扱えない

しかしながら、当然、生きているのだから死なせてしまってはいけない(殺人)

と言いながらも
痴呆脳は もはや死んでいるに等しいほどに再起不能だ

生理学的に心肺を止めずに脳波が検出できても 再起不能であり 人格の残像が残っていても 脳死に限りなく近い

﹅﹆﹅ 三途の川を渡るまで

最高の介護を誰もが尽くす

この悦びを持って三途の川を渡るとすれば
この人の脳裡の中心に「生きている間の思い出」が、あらゆる過去が回想できるほどに残っているのだろうか

末期癌の人のように痛みに苦しむわけではないが、痛みのない苦しみに締め付けられているかもしれない

だから

「死なせてよい」というつもりは毛頭ない

しかしながら
本人の幸せを通り越して周囲が介護をする姿は 果たして愛に満ちているのか

単に
自分が満足し納得するためだけではないか

痴呆脳との対話が続く

(R2)

京都日記(裏窓から) 小雪篇 果てしないもの

11月22日は小雪
これを書き始めた日には既に過日となっている

秋がくれるのが些か早いような気もしたいた
それは毎年思う気のせいみたいなものであろうと自分に言い聞かせるように思いながらブルリとくる朝もジーンと冷える夜も襟を立ててやせ我慢をして11月の下旬の日々を送っている

その小雪の午後二時間ほどの休暇を取って夕方から京都へ向かった
お父さんのところに帰る前に懐かしの居酒屋で晩酌をしながら更けゆく夜を二人で過ごした
お勘定が二人でドンピシャ5千円となったことをちょっと驚いたりしながら嵐電に乗る

あくる日 23日
京都の秋の朝の寒さはピリッと冷たいかもと恐る恐る布団から出てみるものの時雨雲が空に散らばっていたせいもあってかそれほどでもなく肌寒さが少しあるので厚めの服を着て折りたたみの傘を一つ持って出かけた

有栖川車庫でバスの一日乗車券を買いそこから三条河原町まで京都バスに乗り三条河原町でモーニングコヒーを飲んだ
三条通りにもコメダがあってせっかくここまで来たのにコメダは避けたいなと言いながら三条京阪のバスターミナルまで歩くのだが、銀閣寺を経由して白河に行くバスが激混みで到着するのに呆れて、次を待っても乗れる保障がなかろうと判断し、これを避けて北大路経由で北白河へと向かうことにした

去年の秋は一人で高雄に行き散り果てた紅葉のあまりの見窄らしさに落胆して、帰りに仁和寺に寄ってきた
今年は二人で散策しようと気持ちが一致した
昔から行こう行こうと言いながらも行けずにいる曼殊院と、ツマの母校が移転した跡地界隈も歩いてみようということになって、二人とも張り切って足を伸ばしてみるつもりでいる

曼殊院から圓光寺門前、詩仙堂、八大神社をへて宮本武蔵の決闘の地でも有名な「一乗寺下り松」跡も立ち寄る
一乗寺の山々は尾根から斜面へと一面が赤や黄色に染まり京都の市街地を見下ろしている

京都にいた時間が長かったのにずっと嵯峨嵐山界隈で過ごしたため鴨川のほとりにはあまり行ったことがなく修学院方面から北大路へと向かうバスは観光気分で愉しめる

ツマの母校跡地になっている市内のど真ん中・烏丸通は地下鉄が開通したのでバス路線が廃止されていて古い町を訪ねるためにはバスを乗り継いで行かねばならないのだが、それがまた新鮮で楽しい

ツマは市電が走っていた時代をしっかりと記憶しているのでバスに乗るたびに200番台は市電の路線を走るバスだと懐かしんでいる

市内のその場所に昔の面影がどれほど残っていたのかは私にはわかってあげることができないが、いくつかの路地を歩くと御所まで辿り着けて、そこにある長くて変わることのない歴史とそれを守ってきた建物の重さを感じながら、イチョウの葉の舞う参詣道をゆっくりと歩く

激震するように大きく時代が変化して各国からたくさんの人々がやってくるようになった古都だが、流行を掴み損ねまいとして華やかに飾っている古都のなかに表と裏があって、立ち止まった路地で風景や人などのそれらに出会えると、数え切れない文化の位相(あるいはそれは波動と呼んでいいのかも)のようなものを感じる

それは人の(人間の)心理や哲学にも共通する遥か未来へと続く果てしないものなのだ