語らなければ何処にも記録されなかった話
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私が生まれる何年か前に私には姉があった
そのことを母が話し始めたのだ
お盆の静かな午後のひととき
危険な暑さと報道や気象予報が
やかましく報じているけれども
部屋はクーラーを入れて快適にしている
八十七年あまりを生きてきたうちで
夏の暑い一日のいくらかを
クーラーが効いた部屋で過ごしたことなど
恐らくなかったに違いなく
こうして語ることも
時間を過ごすことも
歴史上で
とてもかけがえのない時間であった
貴重な宝のようなときが時々刻々と流れていった
そこで起こっていることを冷静に考えれば考えるほどに
残り時間が幾ばくかしか残されていないことを思う
しかし
残念にも思わない
悔みもしない
怒りも憤りも湧かない
もうどうだっていいのだ
感情や感動はそのうち尽きるのだ
そこにある一つの出来事を
ひとつのモノとして私は話に耳を傾けている
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姉は生まれて一年ほどで亡くなった
今の時代ならば間違いなく生きていたのだが
栄養のあるものを食べされることもできず
病気になっても治療もできず
誰もが死なせてはいけないという行動も取らず
そんな心も 必要以上に持たないし見せもしない
とびきり貧しかったわけでもなかったが
この家系の家族がフルセットで同じ屋根の下に
暮らしているのだからというのも遠因ではあろう
父には弟が二人、妹が一人、姉が一人いる
これで五人
父(私の祖父)がいてその人の妻(祖母)がいる
さらにもうひとつ上のばあさん(曽祖母)が寝たきりでいた
それで三人が追加となる
母を入れると九人が暮らしていたわけで
しばらくして、義姉がお嫁に行く
そこで子どもができて
一人目の子を死産させて
二人目の子の時にお腹が大きくなって帰省する
秋に生まれるというので夏ころから
家に居座ったそうである
それが私の姉の誕生の時期と同じであったのだ
(母も同様に同時期に第一子を流産していた)
母の話の大事なところはこの先だ
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「ねえさんは大事にしてもらっていた」
母はそう話してくれる
もちろん姉さんはそんな優遇のことは考えたこともないし
今でも知らないままだ(姉さん=私の伯母さん)
妹が家事や食事を取り仕切り(妹=私の叔母さん)
姉の食べものは最大限に手厚くしていた
(もちろん自分も都合よくしていた)
弟たちにも心配りをして食べさせた(弟=私の叔父さん)
高校生だったからたくさん食べたという
母は農作業にも出た
夏から秋にかけては農家の一番大切な時だ
お腹が大きくて赤ん坊が今にも生まれそうでも田んぼに出たし
生まれてからも娘をほっておいて仕事をさせられたという
「ねえさんは暖かい縁側で大事にしてもろて本読んだりしてたわ」
テレビドラマの残酷な話そのもだが
まさにそんな状態が
子どもが生まれるまでから
生まれてのちも一年間続いたのちに
私の姉は肺炎で亡くなったのだ
帰省して手厚く迎えてもらっているねえさんは一人目を死産
私の母は同時期に流産をしての二人目だったのだが
今では信じられないような差別的な暮らしだった
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母は怒りも見せず
悲しそうな顔もせず
淡々と振り返りながら
あのころを話す
言い終わっておかなければ死ねないとでも考えたのか
いつまでも自分の中に置いておいても仕方がない
と考えたのか
その話を聞くと
母が言い終わってそれで尽きて
死んでしまうのではないか
とさえ思えてくる
父が亡くなって二十年以上が過ぎる
一人で二十年は長いと思う
わたしのツマは
姑が二段構えで生きていて
おまけに夫の兄弟妹まで住んでいて
さらに私の父は小さい時に耳の治療を怠って
耳がほとんど聞こえなかったという苦を患っていて
そんな苦とともに四十数年一緒に生きてきたのだから
のちの二十年の間に
孫にもひ孫にも恵まれて
のんびりと農作業を愉しむように暮らしてきたのだから
それはそれで幸せであったのだろう
今さら怒りを思い出したくもないのではないか
父が亡くなって十七年ほど後に
生前に植えた杏子の木が真っ赤な実をつけた
私はとても嬉しくて
ブログなどにも書いたけど
母は淡々と
今年は成らんだなあ
と言ってお終いだった
このマイペースの幸せがとても大事なんだろう
そのときはコロリと逝けるようにと切実に祈っている