かき氷のことを思い出す 八月初旬二号


というわけで
イオンにあるコメダでかき氷を食べる

。。。

🔖 夾竹桃 咲いて本気の夏になる


巨峰は 期待して買うたけど
ちょっと熟してなくて残念
諦めずにしばらくしたら買おう
夏は 巨峰と幸水が美味しい

毎年 ぶどう狩りか 梨狩りに 連れて行って欲しい
と言われるのですけど 実現してません

。。

🍧 かき氷 を食べながら考える

子どものころは「かき氷」は贅沢品で
製氷ができるような新型の冷蔵庫を買った時に
そのころブームになった「家庭用かき氷作り器」で
母が作ってくれたくらいのものだ

上にかけてくれる蜜が美味しいのだが
高価なので 子どもながらに辛抱をした記憶がある

その後 堂々とかき氷というものに出会うのは
大学時代まで一気にジャンプしてしまう

大学からの帰りにボロボロの丸ノ内線を降りて池袋駅で西武百貨店に涼みにゆく
見すぼらしい格好でよくぞそんなところをうろついたものだと今更ながら恥ずかしいが
小さな喫茶店があって ちょっと小銭が財布に残ると贅沢をしに寄ったもだ

「かき氷」という上品な(料理に近い)ものに出会うのも西武百貨店だった

🍝 冷やし中華

西武百貨店で出会ったものに冷やし中華がある

いつも連れにしてくれていたサイトウ君が
そこの店に連れってもらい 東京の『冷やし中華』と出会う

まあ どこにでもあるのだと考えればわかるけど
貧乏な生活で生きてきているから 
贅沢に関しては遙かに「うぶ」であった

田舎もん丸出しであろうが構わずに 
百貨店の喫茶で「冷やし中華」というものを食った

三百円の定食を大学の食堂で食っていた時代である
西武百貨店の冷やし中華はたぶん三倍ほどしたはずで
贅沢な一食を楽しんだのであろう

サンシャイン60が完成したころだから
記憶の映像は セピア色に変色している

母の日篇 - 裏窓から

📌 母の日


🔖 たんぽぽや飛びたつまえの深呼吸

🔖 そんなことを書いている


うちのんは
十五歳の時に母の日を終了し
三十三年前から
『新・母の日』
を設けている

つぶやきにそう書いて
ワインを買いに酒屋さんへ出かけたくらい

🎬 

ムスメが子どもの医者通いに忙しい

つまり
公園で走り回って転倒して前歯を折らかしてしまったり
喘息の症状が表出したり
朝起きると微熱があったりすのだ

十一月から仕事を再開して四時間勤務を経て五月からは六時間勤務
小学校に上がったらフル稼働の計画であるが
子どもは そんなことは御構い無しだ

🎬

子どものころの自分を省みる
母から話に聞いていることを思い起こす

風邪をひく 熱が出るのは日常
かいなが抜ける(二の腕)
耳垂れが出る(弟)
扁桃腺が腫れる
などで医者に行かねばならない

医者は 汽車の乗って三十分
汽車の駅まで未舗装のドロドロの田んぼ道を一キロ
汽車は 一日に五回ほどで医者に間に合うものは半分にも満たない
バスはない
自転車もない
車もない
徒歩では十キロ以上

子どもの発病は時期を問わない
子どもは歩いてくれるわけではない
頼れる人はいない

つまりは
時刻を待って汽車に乗るしかなかった

蒸気機関車の窓から煙が入り込み
トンネルでは煤が目に沁みた

🎬

今の子は 今の子で大変である
いつの時代でもそれぞれに大変である
子どもを持つ母の苦労は大きい

男女同権だとか人権尊重とかを叫ぶのはもっともなのだが
原点が見失われていないか


師走を過ごしながら考える - 冬至篇 裏窓から

六十六歳という年齢には 深い意味が隠されている

明治二十八年(1895年)に生まれ昭和三十七年(1962年)に亡くなった祖父
昭和六年(1931年)に生まれ平成十年(1998年)に亡くなった父

二人とも年齢計算では 六十七歳で亡くなっている
しかし 誕生月が曖昧であり 知る人も残っておらず
そこで考えるに 実際のところは
六十六年を精一杯生きて尽きたらしいと語り継がれる

祖父が逝く当時のことを記憶する人は殆ど無く
私の母親があの当時のことを訥々と話してくれるくらいのもので
その場ではメモは取らず家に帰って思い出しながら手帳に書き留めている

私は五歳で 弟が七月に生まれハイハイを始めたころだったという

先日母を訪ねたときに祖父の本命日が十二月十五日であった話をしながら
いつものように昔話をしてくれた

こういった記憶は どこにも記録されないまま
ささやかに語り継がれ
やがて忘れられてゆくのだろうと思った

残せない無念を悔しがったこともあったが
遺さなくともそれが運命となることもあるのだ

。。。。

十二月二十一日、冬至

年が開けると父の二十三回目の命日を迎え生きて居れば九十歳になる誕生日も来る
そして私が六十四歳になり愈愈残すところあと二年に迫る

(書き足しました)

。。。。

。。。。。

裏窓からを書きながら 思うことがある
それはモヤモヤとしたもので

つまりは 書くことが浮かばないのである

社会はコロナで混乱しているし 政治は腹立たしいことばかりを強引に進めている
かつてであればこういったことに腹を立て 何かしら日記に書き留めていったのだが

近ごろは腹が立たないのか
そういったものに関心がないのか
言いたいことは書き尽くしたのか
心が踊ることがなくなったのか

いわゆる
どーでもええわ
勝手にしてくれ
今さら口出ししてもしゃーないわ

となっているのだ

🎈 🎈 🎈

このままでは 萎れて 枯れていってしまうのではないか・・と心配になる反面

世間の真っ当な爺さんらしく家にいて 意味もなく何もしないで
時に孫のことで一喜一憂したりしながら
取り留めのないアホなTV番組を 集中することなく見て
刻一刻をそれなりに楽しんでいる

🎄 🎄 🎄

年末の雰囲気といえば
大掃除をしたり障子を張り替えたりして
いかにも今年を終えるのだという気持ちが現れていたものだ

父は夜なべでしめ縄を作り 付き合いのある人に配っていたと思う
縄を綯う時に一年を思い出していたのだろうか

六十歳で仕事を辞めた後も かれこれと仕事を続けていた姿は
働き者の人生を送ってきた人のそのものの姿だった

私は安心しきっていて つまりは油断をしていて
父の脳梗塞がジリジリと進行していることを気遣うこともなく
二十歳を過ぎてから あるいは結婚をしてからのペースと同じように
我が家を訪ねる続けるだけであった

🎍 🎍 🎍

もっと対話や会話をして
愉しく食事をしたりお酒を飲んだりする時間を取ればよかったと
なんども後悔をしてきたが

そんな思いも二十三年という月日が過ぎて
諦めでもなく後悔でもなく

あれこれは許してしまおう
許してもらおう

そんな気持ちになっている

人生の残りをどれほど生き続けるかは 全く未知数である

明日死ぬかもしれないと覚悟することも大事なことであろうが
一旦はここでピリオド として
新しく出直す気持ちも必要だ

第四コーナーからゴールまでの距離はわからない

だったら ここでもう一度
滑空する夢を見てもいいのかもしれない

ふとそんなことを考えていた

うしろ姿の静かな意思 - 大雪篇 裏窓から

十二月七日 大雪を迎える

🔥 健ちゃんのうしろ姿

二人兄弟は いつも一緒の服を着ている
だから 双子の兄弟と思われてしまう

それがなかなか嬉しくて
そろいの服を選んで着せてしまうのだろう

兄弟の性格は正反対の点もある
その心理は不明だが

幼稚園に出かける毎朝に
兄は十分に余裕を見て準備ができ
早々に車に乗り込む

(時刻は読めないが)弟は時計を気にせず
急がねばならないことは十分にわかってるだろうに
平気で飯台に向かって正座でパンを食べている
その写真がある

兄の悠ちゃんは 車でスタンバイである

母は玄関で着替えを持ち
「早くしなしなさい」
と叫んだそうだ

それでも泰然としているうしろ姿が美しい

。。。。

。。。。

🔥 師走である

一月から一体どんなことが起こってきたのか
振り返ってみたいと思い手帳を繰ってみた

三月まで勤務してその後はプーの暮らしであった年である
年の初めから耳鼻咽喉科に通い続けなかなか完治せずに悶々と過ごした日々であった
コロナは以前と鎮火することはなく社会の外にいて眺めている
九十歳になる前に二十三回忌の食事として一泊で出かけたいと
母が言うていたことも実現できた

それくらいが思い起こせるような出来事ではないか

🔥 うなぎを食べる

うなぎを食べに立ち寄った
(母の耳鼻咽喉科医院への付き添いがメインであった)

三十年以上昔だろう
父と母と私ら夫婦で来た店である

あのとき 母はうなぎをよう食べなかったので
鰻好きの父の連れられて来たものの
席に腰掛けて見ていただけだったのか
ご飯だけを食べたのか
自分でも記憶が曖昧らしいのだが
その時のことを思い出しては懐かしむ

他の記事でも触れてきたが 父との思い出は少ない
食事をしたり 一杯飲んだりした思い出は
指を折ろうとしても出てこない

かと言って 父は寂しい思いをしながらあの世に逝ってしまったのかというと
残された人の話では そうでもないらしい

うなぎを旨そうに食べている姿は 全く強烈には焼き付いていない

蘇るほとんどの記憶が明確ではなく
マッタケを山のように採ってきた時の顔
ズガニをたくさん獲った時の嬉しそうな朝の顔
川で獲ってきたうなぎを 裏の流しで捌いている時の顔

そんなことを偲びながら うなぎを食った
うなぎの味は不変である

。。。。

エンディングノートに何を書くのか ー 伝記篇 その1

ノート  伝記篇


🐤 小学校以前

おじいさんっ子

小学校に入るう直前まで祖父(おじいさん)に育てられました
入学の前年に祖父は亡くなりますが、最後まで大事に育てられたといいます

自転車が田舎にも普及し始めた頃で、祖父はいち早く自転車を購入し膝の間にサドルを設けて、あらゆるところへ乗せてってくれました

津市の中心部に三重会館のビルができた時に、そこにエスカレータという珍しいものがあると聞いてバスに乗って出かけたこともあるそうです

蒸気機関車(C11)

そのころの雲出川沿岸の地域には、川上や興津、丹生俣からバスが通っていました
名松線が走っていましたが、バスで津市内に出る人も多かったようです

伊勢川口駅から久居まで走っていた軽便鉄道は、昭和18年に廃止になって姿を消していました

名松線は蒸気機関車で、おそらく小学校4年生(昭和43年)ころまでは走っていたと思います

鉄道には、伝説的な話が数多く残っています

おじいさんの思い出

おじいさんは、村議会議員をしていたこともあって社会に関心が強い人だったのでしょうか、社会の出来事に関心が深く、農業の仕事からは引退して毎日新聞を読んだりして、まさに隠居生活であったらしいです

対話をしたとか叱られたりしているような記憶は全くありません

声も記憶にはないし、顔はおそらく肖像画とか残された数枚の白黒写真から作られたものではないかと思います

小憎たらしい孫

「大平官房長官がなあ・・・」とニュースの切り売りを読み上げるように近所に触れて回ったりした小憎づらい子供だったといいます

将来は政治家になるか何か大物になるかもしれなんな、と近所の人が褒めてくれたそうです

ひいおじいさんは村長さんで、確かに期待はあったかもしれません

🐤 保育園は不登園の魁

保育編へは行かなかった

二年保育の時期になって保育編へ通おうとしますがしばらく行ってやがて不登園になってしまいます

近所の子にバスに乗るときに引っ掻かれたのだと母が言いますが、そんな記憶もないし保育園の中で楽しく遊んでいる様子を少し記憶しているので、他に理由があったのでしょうか

明言はできないですが、今でいう「虐められっ子」のようなところがあったのかもしれません

のちになって自分の性格を分析するときに、虐められることに対してノータッチでものを考えようとする傾向がありますし、そのような状況になりそうなときには過敏に反応するような気がします

後年、高学年以降などにはどちらかというと虐める側にするりと仲間入りして済ましているようなところがあり、自己分析はまんざらでもないかもしれない

🐤 小学校

おしゃべり

よその子より時も早く覚えたし時計も早くから読めたと言います
なんでもよく知っていたそうですが、おしゃべりでした

授業は知っていることばっかしだったからペチャクチャと喋ってみんなの邪魔をしていたのではないでしょうか

(つづく)

胸の前で腕組みをして考える ─ 立夏篇  裏窓から


一、五月が始まる

動き出すものがいくつもある
夏という季節もその一つで、茶摘みが始まり、日差しが厳しくなり温度計も急上昇する

子どものころには麦畑が多かったので、この季節は青々とした麦穂が風に揺れていた

今は時代が変化して麦を見かけるのは少なくなって、この季節にはおおよその水田では田植えを終えている

コロナ禍であっても田植えの姿に変わりはなかった

五月五日は立夏である

母を訪ねて家に行ったら田植えは完了したと話してくれた
農家の長男であるが、不出来な奴である

タケノコとスナップエンドウをもらって帰ってきた


二、コロナで突然死

コロナをもらったら間違いなく死んでしまう
そんな話をしてきた

死ぬのは怖くない
もう九十歳になろうとしているのやから、惜しいものもない
残すものもない
悔やむこともない

そんなことを繰り返しながらも
生きていたいと思っているのだろう

生きるというよりも
毎日を苦もなく送るのが日常で
昔のように次々とは歓びがくるわけではないものの
暮らしの中に昨日とは違った新しい変化があり
それは進化であって
ヒトがもたらすものであり
孫によるものであったりする

過去のことも振り返りながらも
過ぎたことは悔やんでも仕方がないという感覚なのか
話をしてくれる苦渋に満ちた話であっても
表面的には激しく悲しんだり悔やんだりしていないようで

今日明日をどうやって生き延びようかと考えるような毎日であるものの
日々を、日めくりを繰るように生きている


三、コロナで中断は悔しい

それだけに
コロナで中断するのは惜しいと思うわけで

誰にも会わず
特に用事がなければ出かけず
無理もせず
怒りもせず
後悔もせず
欲もなく
ヒトの言うことに耳を傾け

淡々と生きていくのが
何よりもの得策で
幸せである

言葉にして説教をするわけでもないが
そんな話をのらりくらりとして帰ってくる


四、遺言は喋り終わったか

父が亡くなって23回忌を年度の末にして
ゆっくりと家族で旅をしようとしていたが
四月に予約していた宿をコロナ騒ぎでキャンセルして
どうやらここで打つ手が失くなったと
そんな感覚でいるのだろう

父の死後23年の間に遺言にできることは全て話した
聞いた方がしっかり聞いていなかったことも多かろうが
気は済んだと思う

死ぬときは
一週間ほど床に伏し
訪ねてくれる人に惜しまれて
挨拶をしながら死にたいという

もしも叶わなかっても
おそらく悔いはないだろうけど

あの人の最期の言葉 土用の丑 号 - 裏窓から(号外)

父の居場所
いつも現代農業を読んでいた。寝床に入ると勉強をしていたのだろう。どのようにしたら、この限られた田畑から少しでもたくさんお米が獲れるのだろうか、そのためにはどうすればいいだろう、おいしい米はどうしたらできるのか、と考え続けていた人だった


そんなふうに始まっている日記(2014年4月16日)をふと読み返して父の「最期の言葉」を思い浮かべた

「なあ ビール飲みたいなあ」だったか。床に伏している父がそういうようなことを言うので飲ませてやったのだと母が話してくれたのを覚えている。脳梗塞で倒れて元気も失い床に伏したままだったのだ

まさか、そんなにすぐには死ぬとは思ってもいない人が多いという。すぐあとではなく、何日かあとを覚悟をする人は多いが、たった今と覚悟をして待つ人は少ないという。それだけに電話で私を呼びたしたりもしてこない

慌てふためいてあたふたしたり、身近な人たちに電話連絡をする余裕の時間というものは、もしものときでも多かれ少なかれあるだろうという潜在意識を持ってしまっている人が多いのだろう。誰もが「まさか・・」と思っているのだ

ぼくのおとやんが死ぬときはあっという間で連絡が届いたのは死んでしまってからだった


おとやんは ほんまにビールが飲みたかったんやろか

あとで冷静に考えてそう思う。ビールはときに好物ではなかったし、普段からも飲みたがらなかった。まして逝ってしまう大寒のころにビールを欲しがるなんて、喉が乾くわけでもないし、いったい、何を思っていたのだろうか

夢を見ていたのだろうか、意識が朦朧としていたのだろうか。度重なる脳梗塞で倒れてのち幾日もの歳月が過ぎて、いつの頃から生きている時空と死んでいる時空の狭間を彷徨っていたのではなかろうか

好きでもないビールを飲みたいというのだ。そこには深い理由があったのではないか。いいや、なんの理由もないのだろうか

大勢の人が集まり歓談をして話が盛り上がっているところへ彷徨い戻っていたのだろうか

脳みその細胞は日に日に、時々刻々と壊れて失われてゆくときに、残された一欠片の脳みそが人生の最高の瞬間を蘇らせていたのだろうか

母が飲ませてやろうとしたビールは、ほんの少し口に含んで飲んだという。すでに胃潰瘍に激しく侵されていた胃の中へと流れ込んでいったのだろう

亡くなったのはビールが欲しいと言った直後ではなかったと思う。正確には最期の言葉ではなかったのかもしれないが、意識は、記録に残るほど回復をしないまま心臓が止まる時刻を待った

時間は後ろからは遡れない

冷たくなってゆく身体に添い寝いていた母が気付いたとき、冷たくなっていくわ……という意識が身体中に沁み広がっていくようで、すっと死んでいってしまった、と母は回想している



ビールの泡をふとゆっくり見つめる瞬間に、おとやんはほんまにビールが飲みたかったんやろか と思った

いつかは二人でふっくり酒でも飲みたいな と思ったことを一度も叶えることもなく 何を思いながら最期の言葉のあとにビールを飲んだのだろうか

何を受け継ぐべきなのか - 処暑篇 (裏窓から )

語らなければ何処にも記録されなかった話

🌱

私が生まれる何年か前に私には姉があった
そのことを母が話し始めたのだ

お盆の静かな午後のひととき
危険な暑さと報道や気象予報が
やかましく報じているけれども
部屋はクーラーを入れて快適にしている

八十七年あまりを生きてきたうちで
夏の暑い一日のいくらかを
クーラーが効いた部屋で過ごしたことなど
恐らくなかったに違いなく

こうして語ることも
時間を過ごすことも
歴史上で
とてもかけがえのない時間であった

貴重な宝のようなときが時々刻々と流れていった
そこで起こっていることを冷静に考えれば考えるほどに
残り時間が幾ばくかしか残されていないことを思う

しかし
残念にも思わない
悔みもしない
怒りも憤りも湧かない
もうどうだっていいのだ
感情や感動はそのうち尽きるのだ

そこにある一つの出来事を
ひとつのモノとして私は話に耳を傾けている

🌱

姉は生まれて一年ほどで亡くなった
今の時代ならば間違いなく生きていたのだが
栄養のあるものを食べされることもできず
病気になっても治療もできず
誰もが死なせてはいけないという行動も取らず
そんな心も 必要以上に持たないし見せもしない

とびきり貧しかったわけでもなかったが
この家系の家族がフルセットで同じ屋根の下に
暮らしているのだからというのも遠因ではあろう

父には弟が二人、妹が一人、姉が一人いる
これで五人
父(私の祖父)がいてその人の妻(祖母)がいる
さらにもうひとつ上のばあさん(曽祖母)が寝たきりでいた
それで三人が追加となる

母を入れると九人が暮らしていたわけで
しばらくして、義姉がお嫁に行く
そこで子どもができて
一人目の子を死産させて
二人目の子の時にお腹が大きくなって帰省する

秋に生まれるというので夏ころから
家に居座ったそうである

それが私の姉の誕生の時期と同じであったのだ
(母も同様に同時期に第一子を流産していた)

母の話の大事なところはこの先だ

🌱

「ねえさんは大事にしてもらっていた」

母はそう話してくれる
もちろん姉さんはそんな優遇のことは考えたこともないし
今でも知らないままだ(姉さん=私の伯母さん)

妹が家事や食事を取り仕切り(妹=私の叔母さん)
姉の食べものは最大限に手厚くしていた
(もちろん自分も都合よくしていた)
弟たちにも心配りをして食べさせた(弟=私の叔父さん)
高校生だったからたくさん食べたという

母は農作業にも出た

夏から秋にかけては農家の一番大切な時だ
お腹が大きくて赤ん坊が今にも生まれそうでも田んぼに出たし
生まれてからも娘をほっておいて仕事をさせられたという

「ねえさんは暖かい縁側で大事にしてもろて本読んだりしてたわ」

テレビドラマの残酷な話そのもだが
まさにそんな状態が
子どもが生まれるまでから
生まれてのちも一年間続いたのちに
私の姉は肺炎で亡くなったのだ

帰省して手厚く迎えてもらっているねえさんは一人目を死産
私の母は同時期に流産をしての二人目だったのだが
今では信じられないような差別的な暮らしだった

🌱

母は怒りも見せず
悲しそうな顔もせず
淡々と振り返りながら
あのころを話す

言い終わっておかなければ死ねないとでも考えたのか
いつまでも自分の中に置いておいても仕方がない
と考えたのか

その話を聞くと
母が言い終わってそれで尽きて
死んでしまうのではないか
とさえ思えてくる

処暑
処暑

父が亡くなって二十年以上が過ぎる
一人で二十年は長いと思う

わたしのツマは
姑が二段構えで生きていて
おまけに夫の兄弟妹まで住んでいて
さらに私の父は小さい時に耳の治療を怠って
耳がほとんど聞こえなかったという苦を患っていて
そんな苦とともに四十数年一緒に生きてきたのだから

のちの二十年の間に
孫にもひ孫にも恵まれて
のんびりと農作業を愉しむように暮らしてきたのだから
それはそれで幸せであったのだろう

今さら怒りを思い出したくもないのではないか

父が亡くなって十七年ほど後に
生前に植えた杏子の木が真っ赤な実をつけた

私はとても嬉しくて
ブログなどにも書いたけど
母は淡々と
今年は成らんだなあ
と言ってお終いだった

このマイペースの幸せがとても大事なんだろう
そのときはコロリと逝けるようにと切実に祈っている