(号外)九月初旬 写真日記

九月初旬 号外

思いついたら
書き足してます

  • シャインマスカットを直売所に買いに出かけた
  • 丸亀製麺でうどんを食べた(ちょっと贅沢なうどん、鬼おろし)
  • ステーキ皿を買った
  • かき氷を食べにコメダに
  • 鰻を食べに大口屋へ
  • サンマ1号
  • いとう料理店
  • ラーメンあれこれ

千早茜 しろがねの葉 (読後感想) - 小満篇

生きるということは一体どういうことかと考え、はて、相対して死ぬことを見つめている自分の姿がある

それは 手に負えなくて自力ではどうしようもならない人生というものと立ち向かうことでもあって ヒトは いざ そんな得体の見えないものと立ち向かうとなったら闘わねばならないと知らされる

時には自分の信じることには反発をしながら それは諦めという弱い心になって跳ね返ってくることもあり、勝ち負けとは違った大きな舞台で生きながら生きていく数々の壁に抗うことになる

人生を一度でも考えたことがある人であれば 勝てないものに抗うことや時には諦めることが あまりにも当たり前の筋書きの一種で 勝ち負けではなく自分の人生という道を勝手に決めてゆく一面を持っていることも知る

もしも この物語の最初の頁から読者が引き止められるとすれば この恐怖と畏れと悲しみと幸せと歓びが滲んでいる一節に 脳みその痛点をつかれるような感触を感じるからだろう

作者の 頭の中で滾るテーマへの 雄叫びのようにも思えてくる

いかにも今風の人気作品とは 正反対の 分かりにくく難解で馴染みのない筆致がもたらす 底知れぬ震えのようなものを感じながら 特に直木賞ということも気にかけないように心得てながらも 「まやかしの」賞から久々に一歩抜け出す気迫の作品に出会ったと歓びが湧いてきたのだった

読み切る自信がないほどに読者を跳ね飛ばしてやろうというようなパワーが漲った文芸といえようか

なかなかの文学作品であり今の世にも捨てきれない作品があるのだと嬉しくワクワクさせられた

読後の感想など 他人の月並みな言葉をつなぎ合わせばいくらでもかける

大切なのは 歯を食いしばって 軋ませて 死にそうになって血が滲むような怒りや無念や憤りを そして無念と失望を活くる力に変えて行く人物の 強さを どれだけ共感できるかどうかだ

読んだ人にしかわからない

それは歴史の一つの時間をステージにしているのだけれど テーマは果てしなく作者の中で脈打っているのを 感じながら愛すること 生きることを 自分に問い詰めてみたいと思うのだった

❄︎ ❄︎ ❄︎

(読後余話)

作者は女性だと書籍のどこかに書いているし 各種の情報で年齢や紹介までもが書評と一緒に目に飛び込んでくる

物語のいわゆるネタバレはどれだけされても作品自体が持つパワーは簡単にはバレて来ない

そういう意味でネタバレは怖くないが 作者のお顔などの写真や経歴などは 全く初めての私にとっては いささか邪魔な情報だった

学生時代には書物の情報というのは簡単に出回ったりせずに 作者の顔(時には性別)なども謎のままだった

何かの書物の裏表紙などに紹介されるわずかな本の情報でその作家を知り興味を持って やがてはのめり込んでゆく人になって行くケースもあったのだが 今の時代は 出版社の戦略もあろうがすっかり時代が変わってしまった

そのことを責めても仕方がない

ただ この作者には 昔のような出会いをして その作品に踏み込みたかったというような夢のようなことを考えて 作品を読み進んだ

自分を整理すると男性の作家の方を圧倒的に贔屓にする傾向があるが この人は私の中で贔屓の中に男の味を漂わせて 静かに居られる

事故 - その後(号外3)

▼ おさらいをすると

  • 5日(土)転倒
  • 7日(月)入院
  • 10日(木)見舞い
  • 12日(土)家族が見舞い
  • 13日(月)見舞い

▼ 見舞いに行っても面会ができない
そこで電話の子機を渡してもらって病院玄関ホールと待合室で話をする
おばあさんは耳が遠いし電話の子機の音声が大きな声に調整をしてないだろうこともあって話は全く捗らない

電話で話をしても用件だけである
したがって見舞いながら何も話さずに時間を過ごすという形が成り立たない

▼ 次の土曜日(19日)にまた家族が声を聞きに行くだろうからその前に欲しいものを聞きに一度訪ねてみたい
17日(木)に行ってみる


▼ どんな時間を過ごしているのか、全く想像ができない
本を置いてきたのだが 役立っているんだろうか

  • 食べるものが美味しくない
  • トイレが不自由だ

前回の見舞いでそのように話をしているが 解決をする手段はない
一刻も早く骨折箇所の痛みが引いて 歩けるようになって 退院をしてくるしかない

転倒による肋骨骨折事故 - その後(号外2)

▼ 三月十日

肋骨骨折のため緩やかなギプスで胸部を固定されて寝台に横になったままのようです
血圧は 元々やや高めで監視状態であったので 異変がないかを監視中
脳のCTは以上なし
食事は 平常通り摂取できている
その他 特に注意点なし


電話で簡単な対話をした結果、筆記用具が欲しいと言われました
そのほかには、マスク、櫛、手鏡 などです


▼ 入院をしてしまった当人は気の毒極まりない
しかし、ほかに処置の方法がないので 現況の治療を受け入れるしかない

では、少しでも快適な入院時間を過ごすための工夫を 周りも手伝って考えてゆくしかない


▼ sudden deathの恐怖が襲います

『死亡』でなくとも、身体・身柄の拘束に遭うことになったら 想定していないことが次々と浮かびます

もしも自分が急遽入院をすることになったらと考えると非常に恐ろしいし不安が襲い掛かります

可能性を考えれば、人によれば運命と割り切っておられる人もありますが、なかなかそうもいかないでしょう

▼ 面会不可で 孤独状態になる恐怖

日常の暮らしでは自由に話をし 物を手に取り 希望を叶え テレビやネット、新聞などを見たり読んだりして快適に暮らしています

これが 「ぷつり」と断ち切られてしまうのですから 怖いです


書きかけ *

三月中旬 風邪ひき記念号 号外

足おとは馬酔木咲く公園 追いかけて


これには少し説明が必要で

素敵な人が
まあそれはどこの誰で
どんな人かはご想像にお任せで

その人が部屋

を出てスタスタと
春のコートもひらひらさせて
颯爽と

職場から見下ろす公園の方へと向かったので

僕も机を大急ぎで片付けて
仕事を引き上げることにしました

「きょうは公園を遠回りで帰ろうじゃないか」
と 独り言の言い訳しながら
石段を降り駆けたのです

石段が石畳の坂道に変わって角を曲がって……公園へ続く道

路地の向こうで遮断機が降りてゆくのが見えて
その子は通り過ぎる列車の向こうに消えて湯きました

仕事帰り 夕暮れ遮断機 馬酔木は遠し




わはくま.jpg

コロナウイルスの蔓延の危険性があるという判断で社会は沈静化している
学校が休みになりイベントが中止に追い込まれる

人が動かないので流通も悪くなり物資が滞り景気良さも落ち込んでしまう

はて

景気が良かったように見せられて
裸の王様のように
幸せ気分に浸っていたのではなかろうか

見せかけで繕って
いかがですか景気はいいですから賃金もあげましょうと
誰かが拡声器で叫んだわけでもないが

お金があるような気持ちになって
コトの本質からは目を背けていたのではないか

三月中旬号 号外

ブログを間違えて書いてしまったのでそのままアップしておく


もう一個のブログに書いているつもりだったのだが
アップして確認をしてみたら『秘伝』の方のブログだった

こんなことは意外と珍しい

ミスというのは日常どこにでも転がっている
仕事でも遊びでも勝負でもつきものだ

大切なことはミスを犯してしまった時に即座にどのように対応するかが大切なのだろう


もっとも一切のミスも許されない、実際にミスというものがないのではないかというものもある
ベートーベンであっても誰でも構わないのであるが
あの音楽を演奏するピアノのソリストさん
あの人たちに間違いという言葉はないのではないか

そう常々思っているが


四月からの仕事を探しているので
欠員を募集している部署に履歴書を送っては面接に出かけるということを何度か繰り返している

昔から付き合いのある部門であるが、私など年金取得年齢の声が聞こえる人はそれほどお呼びでない

一方で、若くて力があるが、何を理由にかで(いわゆる安定した)職についていない人がポツリポツリといて、昔なら私のような爺さんが座る席を喜んで仕事にしているような姿に出会うと社会の現実(姿)を数字だけで判断をしては間違いであるのだとと痛感する

しかしそんな社会批判をしても役立たない
しばらくは空いている椅子を探して面接に出かける日々は続きそうだ

 

負けるな負けるなボクたちは塵だから塵にかえる - 小雪篇(号外)

大学に入れずに浪人をした時に出会った言葉だろう

「大学への数学」の巻頭言にさらりと書いてあった一言と記憶する

その時につけていた日記のタイトルに僕はこの言葉を選んだのだった

🌱

ちっぽけな塵のようなものだ
肩に力を入れて意気込むのはやめて
平常心で受験に挑もう

そんな風に思ったのだろうか

今更日記をめくり返して読むのもセンチすぎる

そんな時代があったのだということで
バッサリと焼き捨ててしまえばいいと思う

人間は我儘なのだというところに行き着く-大暑篇(号外)

▶︎テレビや映画でおなじみの人たちが相次いで亡くなってゆく知らせを報道で知りながら人の儚さを感じている

その一方で、人物の大きさや足跡の偉大さ、心の持ち方、生き様のそれぞれ、遺した言葉などなどをみてそこには筆舌に尽くしがたい多くのものがあったに違いない

そのことを想像をして、お涙頂戴の風潮につられてもらい泣きばかりをしたり悲愴的になってばかりにもいかないのではないかと、自分に向き合う

▶︎向き合う

これはとても難しいことだ

武道の真剣勝負ならば真剣であればあるほどに「向き合う」技加減が勝負を決める
揺るぎない姿勢は心身に要求される

平行線が交わらないとしても
向き合った二つの力は平行線のように限りなく一直線のうえでバランスを取ろうとする

死と向き合う
あるいは消滅してゆく人生と向き合うときに
わたしたちが構える姿勢において
力の逃げ道はないのだ

▶︎逃げ道

わたしたちは「あ・う・ん」というものをとても大事にしてきた

子ども叱る時にも、逃げ道を用意してから厳しく指導をする

目標に立ち向かう時も、逃げようとするわけではないものの、逃げ道がなくては押し進む一瞬に揺らぎが生じることがある

「逃げ」を許すのではないが、必要なのである

▶︎人間は我儘

世の中には人の数だけドラマがあって悲哀がある

還暦の節目を迎えるころから
事あるごとに
死ぬまで不安や余命についての話が増えてくる

大きな病は避けたい
痛みを伴う患いごさは勘弁してほしい
子どもや孫と幸せに暮らしたい
お金に不自由したくない
海外旅行などにいけたら行きたい
悠々自適・のんびりと暮らしたい
悩み事を抱かえたくない
揉め事も困る
誰からも干渉されたくない
人との付き合いで気を揉みたくない

そんな話が形を変えながら数々の事例に合わせていくらでも出てきて
老後を生きるということはこれほどまでに辛そうで苦しそうなものであったのかと
驚いてしまう

つまりは、人間は我儘なのだというところに行き着く

つづく

(裏窓から・大暑篇書きかけから