T君へ の暑中見舞

はじめに

城君へ
元気でやっているようですね

著中お見舞い申し上げます

おおかた手紙を書いてから長くなってしまったことを苦笑いしている
手紙の最後になって「はじめに」を加筆している

子どもの話とか、家族の話とか
生きがいの話とか
友達同士が集まったらするような詰まらない話とか
あまりできる機会がなかったので寂しく思うが

知っている範囲で勝手にその後を想像している

三千記事以上の膨大なブログを書いているけど
特に誰にも伝えていません

読みたがるような人など誰もいない時代なんだと思います
自分のことと家族のことと日々の楽しみを満喫するのに精一杯
多くの人がそれで豊かさを満足している

十年間に渡って公式に県庁から発行してきたメールマガジンの巻頭言も
バックナンバーが頭の方から次第に消滅していくので
そのことを寂しく思う一方で
読者として熱心に意見をくれた人たちとの繋がりも消滅してゆくの

人生というものはそんなものなんだろうと納得したような気分になっています

手紙など出したら
明日死ぬかもしれない
というようなジンクスも囁かれそうな年齢になって
いよいよ、父や祖父の享年まで後三年と迫ってきた


1

ずいぶんと長い間手紙を書かなかったように思う
もう誰にも手紙など書くものかと心のどこかで腹を立てていたときもあったからだろう
話せば長い事情もある

2

それをさておき勝手にまた手紙を書く
社会的にも立派になった皆さんにこの世の果てでどん底の暮らしをしている僕のような奴から手紙を届けたところで
それが助けを求めて書く悲鳴ならばドラマか笑い話にになるかもしれないところだが
(別に意地を通しているわけでもないのだが)
なんとか死の淵からは救われて居るので
それが今のろころ意地を通しているみたいみ見えるのであるけど
格差社会の底流で生きている

3

前置きが長いのはいつものことだから許されたい

手紙を書くことにしたのは純粋に懐かしいから書いております
昔と変わっていなければ多分受け取って読んでもらえるだろうと思っているし
変わっているわけがないとも言うても大丈夫だろうとも信じている

4

みんなが競争社会の中にいて自分が一番で飛び出すことを策略しながら生きてきた時代を走り抜けてきた
その始まりの頃の段階(二十歳の頃)で偶然にも何の利害も考えないで出会った仲間だった大学生であった僕たちだったが
だが性格や生きる哲学は著しく違っていたのだろうと回顧しながら
そんな奴らが友だちになれたのは幸せなことだったと今になって喜んでいる
けれども、実際にはバラバラで音信不通の者もいたりするので、それは運命かもしれない

5

社会出た直後はある種の矜持のようなツッパリで生きてゆこうとした
競争意識や出世意識や人生にかける夢などが肌身に漲っていたのだと振り返っている
同僚だった(学生時代の)仲間たちもお互いを「糞食らえ」と思っているかのように散り散りになってゆく

四十歳過ぎくらいまでは無我夢中という言葉が当てはまるような時期もあった
社会が刻々と変化してゆく流れに追従するだけの知力と才能が僕には足りなかったのだろう
いや、その足りないという事実に気づくのが遅れた自分(いつまでも走りきれると思っていた自分)であったことが失敗であった
社会からスピンアウトしてみて古巣になった島々を遠くから眺めていると見えてくるものがたくさんあった
あんな努力やそんな夢などは阿呆らしいものだったと気付き始めたときに、初めて違って見えてきたものがたくさんあった
島に残って成功をする者もいたのだから明らかにこちらは落伍者であり漂流者であったとも言える
大企業というものや長いもの、大きいもの、強いものにヘイコラする生き方に激しく反発していたから子どもの未来での失敗は許されない
しかし親としての発言力はすっかり衰えている
反面教師にもなってい中たのだろう

とりあえず子どもは軌道に乗せたし結婚もして子ども(孫です)もできた

6

友が、あるいは、貴君が遠い友だちのように思えることがあって
手紙が書けなくなったことがある
でも、こんな時にこそ話を聞いてくれるのがアイツではないのか
社会が求める人ではないのか
と誰に問うこともできずに手紙を書かない日々が続くのだが

7

まとまらないのだが
静かに考えるようになっている

地位とか名誉とか金とかを追う一方で
人間関係の間にもそういう物差しを当ててしまっていた
友だちと付き合いにもそんな悪い物差しの使い方をしてしまっていたかもしれない

でもある意味では裸一貫で社会から放り出されたときに
学歴とか地位とか身分とかは過去のもので(そうでない人もあるけど)
肩書なしの名字だけで呼ぶ社会(年齢)に(特に地域では)なっていることにも気づき
違った考え方や生き方であっても対立することもなく日々を暮らすことを目指せた

だったら大学時代にせっかく友だちになった仲間たちよ
幸いにも?考え方も違うのだから今になって肩を並べれば
仲良しになることはなくとも
広い範囲に散らばった様々なタイプの人たちを
見渡せるチャンスが埋めれるのではないか
異種の生き方の交流にもなる、と考えた

学生時代の友だち、中学や高校なら
もっと純粋に人間として素っ裸で付き合ってきた時代の友だちだから
尚更、人生の第四コーナーからを肩を並べれば
静かに話ができるのではないかと思ったりしたのだった

8

そんなわけで幾人かに便りを出してみた

音沙汰のなかった(手紙を書いても返事もなかった)友だちもあった
静岡県の電話番号検索をすると名前からヒットしたので手紙を書いた
しかし、返事は返っては来なかった

どう思っているのかは全く不明
今さら手紙なんかと思ったのか
大きく出世をしていわゆる立派になったのでもう今さら昔の友なんてと思ったのか
僕の想像していなような事情のある暮らしをしていて、アホな奴には関わりたくないと思ったのか
単に「面倒だ、今はそんなにアツイ人間をやっていないんだ」と思ったのか

9

手紙を書けば友が減ってゆくのも辛い
(返事がなく音沙汰が消えてゆく)
しかしそれも宿命と思う

一年間、予備校の寮で辛くて苦い日々を共に暮らした仲間の一人だった奴も
鹿児島市内で立派な整形外科の医院を開業していた

「医者になることにした」と秋ころに言い出し突然方向転換をして
僕ら同僚の者たちが1浪でゴールへ逃げ込んで行く時に
もう一年チャレンジを続けて故郷の九州に帰って(鶴丸高校でしたので)
鹿児島に戻って医者になっている

其奴はとてもいい奴ですし心も知れている
「オレはお金持ちなったし、今の暮らしが達成できたから、あの頃の友だちはそれなりで十分だ」
というようなそぶりのメールを何度かくれて、メールもいつの間にか途絶えてしまう
彼のことはそういう友達が存在したのだという記録を残して大事にしておくことにした

10

年老いたからなのか
あれやこれやと回想をしながら
(貴殿の講話のユーチューブを ふとしたことで見つけて、さらりと見たりして)
貴殿に手紙を書いてみるかと思ったの

回りくどくて面白くないから
読んでくれないかもしれないけど
それは昔から変化ないので
すでにわかったことや

人生をたくましく生きてゆく力になるような話を聞かせてもらえるかもしれんな
とも思った

でも雑談でええのだ
雑談の中で生き返ってくる言葉があるだろう

11

六十歳で、およそ二十年ほど世話になった県庁を退職して
継続雇用的に公益財団法人に移ったのですが
割と安定していたけど体調不良で一年前の春にやめて
110日間の連続休暇(失業ともいう)をとって

夫婦で東北に旅行をしたりしてきた

旅から帰って
再び10ヶ月ほど県庁で臨時で使ってくれるというので働いたけど

この4月に本格的に再び(2度目の長期休暇)失業している

その後もパートタイムの採用試験に幾度か出向いているけど
さずがに空席の椅子は若い子が先ですので、こちらには回ってこない

一年ほどチェレンジを続けるつもりでいるけど
もう再就職は諦めるかなあと弱気のような悟りのような日々

12

あとがき

いつまでも書いていても終わらないので
ひとまず、ここらで終わりにしよう

ここまで読んでくれていたならば

とても感謝します、ありがとう


時間があれば、貴君の語りをゆっくりと聞きたいですね


wahakuma ®️

きさらぎの日和もよしや十五日 上島鬼貫

■ 巻頭言

例年になく寒い冬になりました。

立春を過ぎてもいっこうに寒さは衰えず、友だちが「三寒四寒」と言って笑わせてくれました。

建国記念日の朝にはうっすらと雪が道路をおおいました。

パソコンに向かうときも、冬山に出かけるような防寒対策をしています。

それでも、手が冷たいです。

二月は「如月」ともいいます。

寒さで着物を更に重ねて着るからでしょう、漢字で「着更着」とも書きます。

「きさらぎ」と読みますが、むかしの人は洒落た名前を付けてくれるな と、まことに感心をします。

きさらぎの日和もよしや十五日 上島鬼貫

鬼貫の句にはもっと難しくてインパクトのあるものを密かに期待してしまいますが、この句はホッとします。

立春も過ぎましたし「きさらぎ」とひらがなで綴ってじっと春を待つのでしょうね。

■ あとがき

先日、鳥羽市の離島を訪ねて、小さな旅を愉しんできました。

定期船で島に渡るのですが、それはそれは冷たい風が海上を吹き抜けます。

海に出て木枯帰るところなし 山口誓子

島の住人の人たちは誰もデッキに出ようとはしませんけれども、船に乗るのが大好きなので冷たい風に吹かてきました。

島の中を健康ウォークを兼ねて散策をするうちに、港の小屋の軒先で日向ぼっこをしているお年寄りを何組も見かけました。

言葉にならない暖かさを感じながら島旅ができました。

旬のお魚も美味しかったです。

この峡(かい)の水を醸して桃の花 飴山實

春は、飴山實の句がほっこりします。

寒中ど真ん中に考える

■ 巻頭言

小寒を過ぎてただいま寒中のど真ん中あたりを進行中です。

そんな日々を過ごしながら、日暮れが少しずつ遅くなり一日が長くなり始めてゆくのを感じると、真っ暗闇をさまようような不安ではなく随分と明るくウキウキな気持ちになれます。

そういった些細な節目をくり返しながら七十二候や二十四節季をひとつずつ指折り数えて春を待っています。
これが「春を待つ」人たちに通じ合う気持ちなのだろうと思いました。

山茶花が庭に咲いてそれと競うように水仙が咲きました。

結婚何周年かの記念にと、二三年前に植えたロウバイが、そろそろ今年あたりには咲いてくれないかと覗いてみましたら、黄色い小さな蕾がついています。
けれどもまだ、硬く強くしっかりと固まっているように見えました。
晩生種なのでしょうか。

これを書いてホッと一息つけば、やがて、大寒を迎えます。

大寒や転びて諸手つく悲しさ 西東三鬼

庭のロウバイ、節分のころには咲いて欲しいなと思っています。


■ あとがき

毎年一月号を書き始めるのは成人式が終わるころで、受験生がセンター試験に挑む時期でもあります。

どうしてこんな寒い時期でインフルエンザが流行するときに受験を集中させなくともいいのに……という親の温かい声が聞こえてきます。

けれどもモノは考えようで、これから大きな節目を何度も乗り越えることを考えると、荒波に立ち向かうための入門編かも知れません。

前途は未知であり多難を覚悟する人も多いかも知れませんが、人生で何度の嵐に遭遇するか、どれほど花を咲かせることができるかは、幾らかの幸運と不運、そして弛まぬ努力に依るところが大きいといえましょう。

花が咲きそろう春という季節は、ステージの終端ではなくスタートポイントでもあります。

福沢諭吉の言葉に

人生は芝居のごとし
上手な役者が乞食になることもあれば
大根役者が殿様になることもある
とかく、あまり人生を重く見ず
捨て身になって何事も一心になすべし

というのを見つけました。

この冬が大きな節目の人もそれほど大きくない節目の人も、気を緩めることなく試練を乗り越え春を迎えられますようにお祈りします。

成人式やセンター試験のニュースを見てそのようなことを感じながら新年が始まりました。

また一年間、よろしくお願い申し上げます。

十二月 迫る年の瀬に考える (巻頭言から)

12月号  (巻頭言は重複します・ご容赦)


■  巻頭言

師走を迎えて本格的にいよいよ来たかと思わせる寒波と共にフォークソング「風」を作曲してヒットさせた、はしだのりひこさん死去のニュースも飛び込んできました。

1960年代後半から一世を風靡した「ザ・フォーク・クルセダーズ」や「はしだのりひことシューベルツ」の名前を知らない人も多いかもしれません。

五十年という歴史のページをパラリと捲ってすべては過去の中にしまい込んでしまうこともできましょう。

けれども、それでは少し気が収まらないというわけで、酒を片手に音楽を聴いてあのころ・あの人を偲びました。

北山修・はしだのりひこのコンビでヒット作を放った「花嫁」も回想するなかに出て来ます。

「花嫁は夜汽車にのってとついでいくの」と歌っても何の違和感もないどころか、夢とロマンに満ちていた時代でした。

天国にはこわい神様がいて地上へと追い返されることもあったのかもしれない。

しかし今も昔も「プラタナスの枯れ葉舞う冬の道」は変わりなく、京都・都大路には「プラタナスの散る音に振りかえる」人が溢れて賑わっていることでしょう。師走は刻一刻と暮れていきます。

これを書き始めた日から配信する日まで、日一日と目まぐるしく変化する波のなかで、今年一年を省みて漢字を考えたりしながら、ふっと五十年を振り返ってみる時間があったので、ここに覚え書きをしておこうかなと思ったのでした。

みなさま、良いお年をお迎えください。


■ あとがき

時間という波のなかで新しいモノが生まれ、流行し廃れてゆきます。それをひしひしと感じるのが年末であり年度末でもあるのでしょう。

12月初旬に話題になった流行語大賞も興味深いのですが「羽生善治・永世七冠」のニュースのほうにも惹きつけられました。

そこでちょっと「羽生語録」を辿ってみると、とっても鋭く切れている言葉の数々がありまして、何れにおいても淀みのない深さや重みを感じます。

将棋・囲碁などといった勝負では凡人の私には信じられないような思考や読みが展開されます。

100手以上ともいわれるステップを冷静に見極めてゆくときの頭のなかは、どのような動きをしているのかは計り知れません。

駒や石の展開を追いかけているだけでひとつの美学に出会ったような思いに駆られますし、「羽生マジック」には多くの人が驚かされていることでしょう。もはや勝負の世界を忘れていってしまいそうです。

揮毫で「玲瓏」と書きます。その言葉の意味は、雲ひとつない晴れ渡った景色またはそのような心境で透き通った静かな心持ちを表します。「八面玲瓏」からの言葉です。

語録には

「いかに戦うか」は大局観にかかわるが、その具体的な戦略は事前研究が決め手になる。
事前にしっかり準備して万全の態勢で対局に臨んでくる人は強い。

誰でも最初は真似から始める。
しかし、丸暗記しようとするのではなくどうしてその人がその航路をたどったのか、どういう過程でそこにたどり着いたのかその過程を理解することが大切。

勝負の世界では「これでよし」と消極的な姿勢になることが一番怖い。常に前進を目ざさないとそこでストップし後退が始まってしまう。

などの名言が並びます。

顧みることも大切としながら、来る年を如何に構想するかを考えることにして本年最後のメルマガのペンを置くことにします。

1年間ありがとうございました。

霜月中旬は あたふたと 暮れてゆく

小夜時雨 ピーポーの音遠のいてゆく

18日の早朝にそんな一句を書いてみた
幸せに満ちていると
川柳が廃れてしまって
切れや味が失われていく

駄作が多くて結構 それでいいじゃないか

🍀

十一月中旬は
あらよあらよという間に過ぎてゆく

なぜって 孫っちが10日に生まれて
ムスメが15日に退院をして
そのあと名前が決まって

我が家の普段通りの
二人だけの暮らしに戻るのは
お正月までなさそうである

(週末に11月号のメルマガを発行した)

■ 巻頭言

10年ぶりに広辞苑を第七版に改訂するというニュースが、先ごろ、ちょっと話題になっていました。

広辞苑といえば、社会人1年半のころにわずかなボーナスで新しくなった第三版を思い切って買ったのが懐かしい思い出です。あれから広辞苑は3度の改訂を重ね、まもなく新たに第七版となるわけです。ちょうど同級生の多くが一斉に定年を迎えて、職場の肩書きから重荷を下ろす時期と重なり、妙な感慨が湧いてきます。

社会人として歩んできた歴史と重なることもあって、約35年の社会変遷をダイジェストで早送りするようにも思えました。

広辞苑改訂の記事では、過去に追加・廃止をした数々の「言葉」が紹介してありました。第七版に追加される身近なものとして「エコバック」「クールビズ」「ゲリラ豪雨」「熊野古道」がありました。

『無人島に移住するとして一冊だけ本を持っていけるなら何にするか』というような面白いアンケートを見たことがあります。模範や正解はもちろんありませんが、現代は電子情報の時代で辞書離れ・活字離れと言われながらも、「辞書」「広辞苑」という答えが上位にあるのを見ると、見掛け以上に活字文化が健在していて少しほっとしました。

第三版のころにはたぶん想像もしなかった世の中に変化したのではないでしょうか。あのころの葉書の値段は30円、封書は60円、大瓶ビールが120円余り、(少し大雑把になりますが)国立大学の授業料が15万円程度、大卒初任給が14万円前後。

思い出すと切りがないので、あとは晩酌の時にでもみなさんで思い出してみてください。……というわけで、広辞苑が新年早々に「クールビズ」などを追加して第七版となります。

■ あとがき

毎年のように 松茸(マツタケ)が不作というニュースが流れてきます。

子どものころは秋になると近所の山へ茸狩り遠足に行きました。わたしの地域では「茸狩り遠足」は一般的な小学校年間行事で「茸」=「松茸」のある山へ歩いて遠足に行きます。クラスの何名かは松茸を必ず見つけるので、それぞれの班の飯盒炊さんには松茸がありました。

少し前に熊出没の報道があった山ですが、近年はゴルフ場に変化してしまい、その隙間に残された山々へ茸狩りや山菜採りが目的で入山する機会も減りました。

松茸の菌を拡散するシステムがますます消えていき、松茸は年々減り続け、ご近所からお裾分けでもらう機会も少なくなりました。

一子相伝という言葉がありますが、松茸山の在処(ありか)を父親から受け継いだかというと、それは叶いませんでした。「松茸山は子にも明かさず」と昔から言うそうです(或る年寄りの話)

そんな松茸を若者の間では「好き」と答える人が年々減ってきていると耳にします。あの最高の香りを現代の若者は、決して好まないようです。

また、若者の好みの変化の話では、コーヒー好きなアラビア人たちの間で、ここ20、30年で伝統のアラブコーヒーが若者にあまり飲まれなくなり(国立民族学博物館・菅瀬晶子准教授)、代わりにインスタントコーヒーとあたためた牛乳でいれる「ネスカフェ」が好まれているそうです。

いずれにしろ、嗜好は時代とともに変化するものだ、ということかもしれません。

わたしは「すどうし」が好きで、松茸も大好きです。でも、今年はまだ、どちらも食べていません。

夜が静かで長い季節 十月中旬篇

■ 巻頭言

10月号をお届けします。

夜が静かで長い季節を迎えています。

ついこの間、子どもにお風呂が沸いているので早く入るように促すときに
── お風呂が沸いとるので「早よいり(入り)」
と言いました。

そのあとで、ふと、この言葉は通じるのやろうかという心配が浮かんできました。

はて、そうすると、今の季節であるなら
── ええお月さんが出とるのを観るから、みんなをオモテに「よぼって(呼ぼって)」
という言葉も通じないかもしれない、とも思えてきました。

少し質問をしてみると、言葉の使われ方の違いが分かってきました。

お風呂に「いる」(入る)と言うことや人を呼ぶことを「よぼる」(呼ぼる)と言うこの地方特有の音便や活用形は、聞けば分かるのですが、自分で話すことはほとんどないと説明をしてくれました。

── 「夜さり」に遅うまで起きとったらあかんわ、早よ「ねりぃ」
と、夜更かしを注意してもチンプンカンプンの時代はやがて来るのでしょうか。

地域特有の言葉において、その活用は、母から子どもへと受け継がれます。
漬け物や、味噌汁、お雑煮などの味付け度合いやコツも母から子どもへ…です。

コミュニケーションの消滅だと一言で済ますこともできますが、名月を見上げて感じる風流もしっかりと伝えたいと、丸い月を眺めながら考えていました。

すっかり秋めいてきました。

風邪などお召しにならぬように(インフルの流行も今年は早そうですし)
暮れてゆく十月をお愉しみください。

 

■ あとがき

巻頭で月の話を書きましたが、今年の中秋の名月は過ぎてしまいました。

きれいな月を見上げて、美酒を愉しんだ方々も多いかと思います。

十月よりも十一月、さらに十二月と冬至に近づくにしたがい、お月様は空のてっぺんあたりまで登るようになります。

幾分大きくなるようにも思えます。

凍えるほどの寒さのなかで見上げる冬の満月が私は大好きです。

来月号のメルマガもそんな大きな月を見上げたあとのころに発行します。

長い人生凸凹だらけ 凸が5割で凹が5割 秋分篇 (裏窓から)


秋分のころに考えていたこと・あれこれ

▶  古い船

古い船には新しい水夫が乗り込んで行くだろう
古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう

なぜなら

古い船も新しい船のように新しい海へでる
古い水夫は知っているのさ新しい海のこわさを

(これって吉田たくろうの詩です)

むかしのフォークソングになるが
それほど陳腐化したものでもないのではないかと
このごろになって感じている

ぼくも古い水夫だが
新しい海に出て行かねばならない

▶  新しい海

あらゆるものが変化をしている

変化のないものもあるが
それはひっそりと目立たないようにしている

情報化の波が押し寄せている
決して荒波ではないものの

これまでとは形も勢いも
向かってくる方角も
手強さも天気や気象までもが異なっており

短時間で波動が豹変するものだから
手を焼いている人が想像以上に多い

大海に漕ぎ出る船も時代と共に立派になり
高度な知識や技術を身につけている水夫も多い

もしも遭難してしまい
無人島に流れ着いたりすることを想定すると
サバイバルな力や知恵に少し物足りなさや不安があるが
否定ばかりもできないだろう

▶  しおれる

壇蜜日記3を断続的に読んでいる

ある日彼女はその日の最後に「しおれる」と書いた

この言葉が印象的でメモ帳にさらりと書きとめた

人の心が弱っているとき
挫けているとき
失意に満ちて前進する気力を失くしたときに
花はしおれるし
心もしおれる

実績などをみれば
彼女のそんな弱々しさの裏に
逞しさも感じるので
これは決して悲しい日記ではないのかもしれない

世の多くの人は
日々を必死で生きている中で
時にはしおれてしまう日もあろう

日記を読んで
壇蜜さんがしおれる(萎れる)と書くと
背中をそっと抱かれたような気持ちになる

萎れた花であれば
水をもらえばまた復活できる
早く活力を取り戻し花を咲かせたい

▶ 秋の陽射し

6月7月ころの県内の測定ポイントで
日射計の1日平均値が
30メガジュール/1平方メートル(MJ/m2)ほどの日が連続していたのだが
秋分のころになると
20(MJ/m2)以下の日が多くなる
間違いなく
陽射しの勢いが約半分になってきているのだ

東京辺りの年間平均値が15〜20MJ/m2らしいので
お昼と夜の時間が半分ずつとなっていることから考えても
ぼくの住む地域は一年を通してまさに
平均的な日射エネルギーを受けてることになる

秋を感じながら
人生を振り返るわけでもなく
なんとなく
「人生は第四コーナーから」
という傍題を掲げてみた(ブログ)

▶  1年フライングで

友人が1年フライングで退職をした

その知らせを聞いて驚いた
と同時になるほどとも思った
他にもたくさんのことを思ったり
ツマとそのことで話をしたりした

書ききれないほどたくさん喋ったので
中途半端に書くのもイケナイし
辞めた友人にはノーコメントのままである

そろそろ書ききれないほどにもなった感想の数々が
沈殿化してきたので
少しずつ掬い上げていけないかと考え始めている

まあ、第四コーナーからゴールまでは長いから
もう少しぼんやりと考えていてもいいだろうけど

▶  秋の空

「女心と秋の空」というてみたり
「男心と秋の空」いうてみたりして
微妙に男女の心の違いを
皮肉ってみたりするのも面白い

詰まるところ
秋を過ごす心や夏の暑い思い出などは
とうに忘れ去り
これからやってくる冬の寒さへの支度を始めている

心も体も実は切り替わっているのではないだろうか

そういう意味では
人生の結末の支度もできているのかもしれない

▶  第四コーナー

ブログで少し遊んでいる
日記を書く以上は後世の人に読んでもらえるようなことを書こうと考えたこともあったのだが
遊びで書くのだから忘れても構わないことを書いて日常を「吐き出して」みようかと思う

▶  友人も第四コーナーから

様々な意見や見解があって
ぼくの家族の中でも
そのことを考えると話題になる

他人の人生に踏み込むのは一般的現代社会ではタブーであるから
お茶の当てにして申し訳ないのだが
わからないことや考え方の違いやらを
想像したり代わりに夢見て
自分なりに未来を想像しはじめると
限りないところまで夢が膨らむ

▶  資金が必要ですね

何をするにも資金が必要なのは世の常だ

そうでもないという意見ももちろん出るが
それは至って条件が揃ったときの例外的なケースで
現実の社会では苦労をしている人が多い

そのことを本意を胸にしまって一端ウンと言って
受け止められないような柔軟さが人物にないと
今の複雑な社会構造を理解することはできないだろう
私は堅物で窮屈な人間ですと公表しているようにも思える

▶  素直な人ゆえに

さて、
自分の人生を
第四コーナーからゴールまで
計画どおりに走り抜けていただきたい

彼はちょっと変人が入っているところもあるけど
普通に天真爛漫な明るい人だ
真面目に自分の人生に向き合いたいのだと思う

▶ 彼が思いきったトリガーや動機はわからない

1年間という終幕前のステージを早く切り上げたのには
おそらく深い理由があったのだろう

通常ならば終幕前のステージであれば
それまでの良かったことや
見せ所、あるいは苦心から
成功へのステージをコマ送りにして
音楽ならば指揮者が髪を乱して
グランディオーソの章に全力を注いでいるところだ

早く辞めたということは
そういうステージはすでに終わったか
ハナからやる気がなかったのか
できなかったのか

などなど
ちょっとマイナス要素の想像も勝ってしまう

▶ 思いついたらすぐアクション

体力も行動力も
資金力も柔軟性も
段々と衰える
そんなあたりまえのことが
第四コーナーに差し掛かったころに
ようやくわかってくる

適切な時期を逸すると成功を逃すことになる
手を打つならば早い方が良い
そのように考えたのだろうと思う

▶ 友だちなんてのは水モノよ

ぼくは人生の半分ほどでそういうふうに思うことが多くなった
みんな自分に精一杯だから
格好つけているだけで
友達は大切と教科書に書いてあるかのように繰り返す反面
実際には振り向くゆとりなどないのではないか

▶ 子育てに必死よね

田舎なので
4千万円ほで家が建っているだろうか
子どもの教育費も同じくらいだろうか
大体の数字だが

やっと解放されたところだ

▶ 貧しくても生きてきた

新人時代の初任給は15万円もなかったから年間でも300万円にはとてもとても
40歳少し後にでスピンオフするときには年間800万円くらいで
それがいきなり200万円ほどに急降下だったのだから

育英会からの450万円の借金を子どもに背負わせたまま社会人に放り出してしまった
なんてひどい親だったのか

今はやっと、ムスメ夫婦の所得はぼくたち夫婦の3、4倍になったか

世の中には
もっと悲惨な家族や
悲惨というよりは
不運とか不幸という家族も多いだろう

▶ 座標の話

このごろは
貧困 - 豊か
不幸 - 幸せ
は同じ座標にはないのだなと思うことが多い

そりゃ同じ座標であればわかりやすいし
世界の人がある意味平等に幸せを享受するのかもしれないけど

つまりは
貧しくても幸せになれる
という可能性を
自分のために信じたいのだ

▶ 人生は枝葉が多くてスリリングだ

それほどたくさんのことが次々と出てくる
ひとつずつにコメントが書ける
人生が長くなるとそんな枝葉に思うことがあるのだ

でももうそれが面倒でどうでもいいよと
十把一絡げにしてしまうこともある

▶ 細かいことは考えない

明日の楽しみに影響あると困るので
細かいことは考えない
詰まらないことでも悩まない
些細なことで怒らない
明日や何日も先のことを早いうちから考えない
考えたって始まらないことは考えない
失敗をしてもくよくよしない
成功してもアホみたいに喜ばない
好き嫌いはあってもそれほど気にかけない
長い人生凸凹だらけ
凸が5割で凹が5割
周りを見渡せばいい人ばかりでもないけどそれでいいのだ

「あとがき」から 15日号 

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巻頭言

9月7日は二十四節気の「白露」でした。

俳句を愉しむテレビ番組の影響でしょうか、暮らしのなかで季節を感じるひとときを言葉で味わおうという俳句人がジリジリ増えているような気がします。

手紙を書く習慣や文化がそこはかとなしに廃れようとしていっても、日本人の脳は時候の挨拶の作法を忘れたくはないのかもしれないな、と僅かながら歓びを感じます。

白露や茨の刺にひとつづゝ 与謝蕪村

この季節に蕪村だったらどんなふうに詠むのだろうと想像しながら歳時記の本をパラパラとめくるとこんな句に出会いました。

芭蕉と蕪村、二人の句にはそれぞれの味わいがありますが、夏色が微かに残っている初秋なので、芭蕉よりも蕪村のほうが何か気持ちに響くものがありそうだと期待をしました。

引っ張ってきたこの句は、蕪村が放つ絵画的イメージをきりっと表した優しく深みのある句に思えます。

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■ あとがき

お盆過ぎころから朝になると我が家の付近でとても奇麗な声で囀る鳥がいることに気づきました。

「ちちい、ぴゅるるる…」と二三度繰り返して鳴くのですが、物陰に隠れて姿は見えず、探している間にやがてどこかへ飛んでいってしまいます。

環境学習情報センターの木村さんに、今ごろの時節に急に家の軒先に現れて早朝に奇麗な声で囀る小鳥がいるのだが、名前の見当は付きませんか、と質問をしました。

すると、声を録音するか姿の写真を撮るなどしてください、と返事をもらいました。

残念ながら、小鳥を追いかけるカメラや録音機を持っていないので、早々に諦めてしまいました。

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」 この歌は立秋のころに詠んだものでしょうが、「風」ならぬ「小鳥の声」に季節の変化を感じながら毎朝を迎えています。

さて、おおかた記事を書き終わってふっと気がついたのですが、七十二候・第四十四候(9月13日~17日)が「鶺鴒鳴」(せきれいなく)と暦に書いてあります。

そうか、あの鳥の声の正体は、鶺鴒(セキレイ)だったのでしょうか。

(語る 人生の贈りもの)佐藤愛子

(語る 人生の贈りもの)佐藤愛子

半月ほど前から新聞連載に佐藤愛子さん「(語る 人生の贈りもの)佐藤愛子」が登場し、9月1日が、最終回・その15でした。

その14のときに

書き始めると、ハチローのエゴイズムの裏側に潜んでいるものが見えてきました。小説の基本は、人間について考えることです。そして、そのためには、さまざまな現象の下にあるものを見なければならない。

という部分がありました。

そしてさらに、その15では、

私の人生はつくづく怒濤(どとう)の年月だったと思います。しかし、その怒濤は自然に押し寄せてきたものではなく、人から与えられたものでもない。私自身の持ち前の無鉄砲でそうなったのだと気がつくと、よくぞ奔流に流されず溺れずにここまで生きてきたものだと、我ながら驚いてしまいます。とにもかくにも自分の好きなように力いっぱい生きてきました。決して楽しいといえる人生ではなかったけれど、恨みつらみはありません。何ごとも自分のせいだと思えば諦めもついて、「悪くなかった」と思えるのです。

とはじまっています。

二度目に離婚をした夫のことを回想し、思わずマーキングをしたのですが

(語る 人生の贈りもの)佐藤愛子:15 最後はわからずとも受け入れる

 最後の作品になると思い、88歳で長編小説『晩鐘』を書き始めました。小説で彼を書くことによって、私はその変貌(へんぼう)を理解しようと考えました。人間を書くということは現象を掘り下げること。一生懸命に掘れば現実生活で見えなかった真実が見えてくる。そう思って書いたのでした。

 しかし書き上げても何もわかりませんでした。わからないままでした。いくらかわかったことは、理解しようとする必要はない、ただ黙って「受け入れる」、それでいいということでした。

と書いている。
その後、ふらんす堂の yamaoka さんも同じ箇所を自分のブログに引用して「ただ黙って受け入れる」というタイトルの所感で「丹田にズンと来た」に書いた。

ぼくは嬉しくなってきました。

受け入れる、ということは人生の幾つもの節々でぼくたちに要求されてくることで、或るときは否応なしなこともあります。

受験においても、子育てにおいても、社会人になっても、結婚しても。
夫婦お互いに対してもそうでしょう。

受け入れることによって滲み上がってくる身体中の抹消神経を痺れさせるような「苦味(にがみ)」のようなものに、多くの人が共感するのではないでしょうか。

ほんま、ぼくもズンときました。
まだまだ若輩モノですけど。



(語る 人生の贈りもの)佐藤愛子:14
書き始めると、ハチローのエゴイズムの裏側に潜んでいるものが見えてきました。小説の基本は、人間について考えることです。そして、そのためには、さまざまな現象の下にあるものを見なければならない。

(語る 人生の贈りもの)佐藤愛子:15
最後の作品になると思い、88歳で長編小説『晩鐘』を書き始めました。小説で彼を書くことによって、私はその変貌(へんぼう)を理解しようと考えました。人間を書くということは現象を掘り下げること。一生懸命に掘れば現実生活で見えなかった真実が見えてくる。そう思って書いたのでした。

しかし書き上げても何もわかりませんでした。わからないままでした。いくらかわかったことは、理解しようとする必要はない、ただ黙って「受け入れる」、それでいいということでした。

ともだち (七月中旬号)

ともだち

「ともだち」とは掛け替えのないものだから大切にしよう
と大勢の人が言います

「ともだち」って何でも話せて
言いにくい悩みも聞いてもらえて
居てくれてとても嬉しい

けど
別の見方もしているのです、ちかごろ

「ともだち」って
話を聞いた後にも
本当に相談に乗ってもらって
自分のゆくべき道を考えるときの大きな力になってくれるのだろうか

ともだちって言って居ながらも
それって本当はお互いが何も知らないのではないか
知ってるつもりになっているだけではないのか

ともだちっていうものの概念は
理想であって妄想のようなものではないのか
イザという時に傍にいてくれるわけでもなく
崩れてゆくわたしのあらゆるのもを
しっかりと支えてくれるわけでもない

傍にいて泣いてくれたり
死んだ時に見送ってくれることはあっても

いわゆる
そんなことってのは「なかよし」な話であって

何でも話せて本音を打ち明けてそれを聞くことと
本当の「ともだち」というものの間には
大きな隔たりがあるのではないか

「ともだち」という言葉は安易に使えないし
そんな人はゴロゴロとはいないのではないか

では
「ともだち」とはどこに居て
今のわたしとどんな位置関係にあるのだろうか

そんなことを考えている日々が続く

夕焼けを待つのさよなら言いたくて

ボクがノートの片隅に
夕焼けを待つのさよなら言いたくて
と書き残したのは11日のことだった

どんなことをそのときに考えていたのかはまったく思い出せない
けれども、どこかで美しい夕やけが見えたのだろう

誰を待つわけでもなかったし
待ちたい人がいるわけでもない

かつて
夕やけを仰ぎながら坂道を二人で歩きながら帰ったことはあったかもしれないが
それも後になって数々のドラマを書いているときに
日常と非日常が混ぜっこぜになってしまったのかもしれない

確かに
そんな風に二人で睦まじく坂道を帰れるような仲良しな人は数少なかった
或るとき偶然にバッタリと校門ではち合わせになった人が
クラスの人気者の可愛らしい子だったりすることは
ドラマでなくとも限りなく日常に近いことであったかもしれない

しかしボクの学校時代の思い出は
授業が終わると誰かの自転車のケツに飛び乗って駅までぶっ飛ばしていったような
校則との闘いのような青春だった

さようならを言って別れてまた明日会えるようなピュアな
ドラマのような日常を夢見たわけではないものの

夕やけを見ると
胸がときめくような人を
坂道の下で待ち伏せして
取り留めもない話を交わして
さようならをするというドラマを
頭のなかで創りだしてしまう

同じ夕やけを見ているかもしれない人のことを
切なく思い続けるような人は
もう今はどこにもいないのだろう
そんな気がする