令和六年大寒のころ ✤ 大寒のころ 京都日記

大寒が過ぎた

この冬になってから寒い日が続くことがあったものの 寒中にかかってから幾分温い日が巡り来て 大寒の時期も窓や庭の木々が凍てつくまでに冷え込むことはない

寒さに慣れるように知らぬ間に我慢をする習慣のせいか 部屋の温度設定も低めにすることが多くなっている

気合というつもりはないが、少々寒いぎみのほうが頭もスッキリすると考えがちで しかしながらも 身体は自然に従順らしく 毎日の血圧測定値が微妙に変化を表わし 高血圧アラームの出る要注意が続く

僅かな数値の差を気にしながら塩分表示のある食材との睨み合いが続く

『サ高住』から届く日々の様子の話にも大きな変化はなく 正月に罹ったコロナも完治して 生活リズムは元通りに戻った

いつものように部屋に行きおかしな電話がかかってきてないかなどを確認しながら ケータイ電話の着信履歴に孫のリストを見つけたので 調べるとコロナの完治直後に孫が母さんと二人で訪ねてきてくれて 鰻を食べに外出したらしい

それがわかったので驚きながら とーさん に「孫が来たのか」と問うたら「記憶にない」と言うので 親子できて鰻を食べに三人で出かけたことを忘れていた・・らしい

去年一年間には一カ月おきの頻度で来てくれる孫のことを 会いにくるたびに聞いてやると「来てくれてご飯に行った」と嬉しそうに覚えていたののに 先日の来訪は記憶にな口なっていたことを ウチの人は 諦めな口調でながら悲しそうに説明してくれた

これは ある意味では とても大きな変化なのだが、最早や大騒ぎにもしない

記憶の衰えが着々と進行するものの 食事や日常の会話に 大きな変化はないと 施設の人は説明をしてくれる

食事やテレビの相撲などの以外では 相変わらず暇なの寝てばかりだが 定期的に来る訪問ショップでの買い物もしているという

(こうして記憶が衰えてゆき 近親の人まで頭の中から順番に消えていき やがて静かに目を閉じたままになってくれ)

一度も顔を見せに来ない長男は「サ高住」での状況を風の便りにも聞いて そう考えているのだろうか

詳しい事情は知る由もないが 深い事情があるに違いない。不仲な親子というのがこの世にはあるらしいので 面会にいけない忸怩たる想いを胸に 遠くからそっと見送ろうと思っているのか

人間関係も広かった人であるから ほかにも この人を見守る人はあろうと思うが 顔も見せに来てくれない人があるのは それなりに諦めているのかもしれない

病院に入院するなら退院の見込みがあって元気になろうというものだけど 『痴呆脳』になって『サ高住』暮らしをし始めたら 未来の道は紛れもなくたったひとつだ

おばあさんも百二歳で亡くなっているが みなさんに きっと「大往生」という言葉で感謝されながらだったように思う

しかし 現実の 本心は 誰も言わない

誰もそのことを口には出さず 治療の手立てや希望にも触れることなく 未来に灯りが残されているというベンチャラじみたようなことも口にすることもない

病人ではないから見舞いには来ない
痴呆脳』の記憶と命が萎みきってしまうのをじっと待っている

私にはそう思えて仕方がない


下旬号 ❀ 京都日記 やや温い日が続く 
大寒篇 ✤

二十七回忌に考える・父の死生観 ✳︎ 大寒篇 

毎年大寒になると『その翌る日が母の誕生日でまたその翌日が父の命日』というように父のことを思い出し 心に命じる戒めを拾い上げて確かめる

日記には似たことばかりを書いているのが些か滑稽であり恥ずかしい思いをしながら 冷静に考えてゆくと 蘇って来る事柄や心に命じる気持ちは何年経っても変わらないのだ……と明らかになってくる

今年も例外になく 止め処なく記憶を辿ろうとしていた

あのときや生前のこと、あの人が生きた時代に何を考え 何を愉しみ 何に向かって生きていたのか、その日々はどんなものであったのか、どのような言葉を語り残してきたのか・・

そんなことを 思い出して考え続けている

六十歳をすぎて腰の手術に踏み切ったときには 現代医学から考えれば まだまだ命懸けであったはずの決断をして腰の手術に踏み切っている

死ぬかもしれないという不安はなかったのだろうか と想像すると 父が『生きる』ということをどのように捉えていたのかが知りたくなる

何度も救急車で病院に運ばれているし 一キロ離れた救急車がある消防署まで自力で這うようにして行き運ばれて入院をしたこともある

高血圧に起因する動脈硬化 心筋梗塞 心不全 腎臓の弱体化 脳梗塞 脳内出血 脳卒中に伴う痴呆 というように教科書を辿るように病気には侵されていた

そのような危険な身体でありながら 腰椎の手術を決断している

「身体が弱いのは若いころからだ」と母は語る

腎臓が悪かったとしか語り継がれていないので真相は全く分からないのであるが 母の語りによると結婚したころから農家の長男でありながら重労働には不適で 農家の合間に出かける土木作業員をしても激しい仕事はできなかった

そんなこともあって持ち前の器用さを活かして片耳が聞こえなかったけど重機の免許を人よりも早く取得して仕事や農業にも活かした人だった

結婚以前のころから農家をしたので 重作業による脊椎変形になりそれが四十年後にはもう我慢の限界だという痛みになってきたのだ

命を賭けて 手術に踏み切っている

その手術の結果が成功で痛みは解消したのかどうかの話も自らの口からは語るような人ではなかったので 手術後(六十歳後の人生)にどのように仕事や生活が変わったのかを はっきり知る人もいない

亡くなるまでの六年間 何を思って生きたのだろうか

しかし 人生は 思うようには行かないものだ

その疑問には 祖父や父が死亡した六十六歳という年齢に 実際に自分が到達すると漏れなくと言っていいほどぶつかる

多くの人が『人生』を考え『生きること』と何かを思案し『幸せとな何か』を何処かに問いかけるのだ

そんなものには「答えなどないのだ」と言いながらも 何かしら確たるもの(それは答えと呼べるかも)を誰ももが胸に抱いている

今 ウチに人は『痴呆脳』のとーさんに寄り添う生活が続いている

一年ほどの間に目に見える変化(悪化)がある

月・日・曜日の感覚を失くしている、面会をした人の記憶が消えてゆく、人物の記憶喪失が身近な人にまで及び始めている

面会に行く連絡をすると前回は何時来たかを覚えていたが 先日では二日続けて顔を見せているのに 昨日来たことをすっかり忘れていたという

父は 脳梗塞で何度も入院を繰り返した

痴呆の症状だったいう人もある一方で 次男である弟は「ボケたふりをしていただけだ」とまで断定したことを言い 死ぬ間際も普通であったと考えている

痴呆か誤魔化せるのなら 日常の暮らしでも極度に老化した爺さんとして扱えるかもしれない

六十六歳になった自分とあの時の父親とを並べて比較はできないのだが 一生懸命に記憶を遡れば 人の老化年齢とは 数字で見極められないことがわかる

六十六歳を過ぎると「幸せとは何か 如何に生きることなのか」「人生とは何だったのか これからどうあるべきか」「親孝行とは 何か」などと これまでに考えながらも 答えを掴めぬまま「おざなり」にしていたことに気づく

しかるべき時に ふと気がついたところで何ができたわけでもないだろうし 先んじて 手を打てるものでもない

ヒトは 「人生とは?」を考え続けることが一つの宿命なのだと思う

父は六十歳から六十六歳までの短い期間に死の不安を感じながら口には出さずにいたのだろうか

自分の部屋に篭り絵をかき 注連縄や草鞋の作品を作り続けながら 寒い小屋で何を思っていたのだろう

二十六年前の大寒のころには 生きる力を精一杯使い果たしながら 時計が刻む音に誘われるように冷たくなっていった

添い寝しながらその死に際を見届けてくれた人に そのように語り継がれるような死に方をしていった

腎臓が弱っていると診断されて 不整脈の治療を間近に控えているので 例年になく父の死生観が如何なるものだったのだろうかと 想像し考え入ってしまった

父からは画才を受け取れず 母からは長命の血筋も貰えそうにない

「人生とは」などと一言も語るのを口にしたことがない人であった
では 考えていなかったのかというと 人一倍考えていたことは間違いない

「どうしてわかるのですか・・」って「彼の 遺伝子をもらったからだ・・」
と二十七回忌の夜にそんなことを考えていた

受け継ぐもの それは何であろう・・『魂』のようなものなのだろうか



下旬号 ❀ 京都日記 やや温い日が続く 
大寒篇 ✤

『感謝』の反対語は『当たり前』 ー 大寒篇

🍊

大寒

翌る日が母の誕生日
その翌る日が父の命日

🍊

『感謝』の反対語は『当たり前』

長友佑都(サッカー選手)が 弱音を吐けなかった時に自分を支えたのは「感謝の心」だったと言うていた

『感謝』の反対は『当たり前』なのだ、だから物事を当たり前で済ませていては未来はない

﹅﹆﹅

これまで二十五回の命日を迎えてきた
その度ごとに 後悔を掘り出し 綴りながら 人生を考えて続けてきた

六十六歳という年齢で死ななくてはならなかった無念を悔しがったこともある
何もできなかった後悔もある
父のことを何も知らなかったという情けなさもある
日記に 分散的に書き綴ってきたのであるが・・

おそらくそれらの多くのことが ひと通り落ち着いて 巡り尽くして
いいえ そのように思えて

あの日に起こったことは記憶の彼方に消え去っていくかもしれない不安と無念を沁みじみと感じているのだ

あの人を振り返えってきた二十五年間よりも これから来る二十五年の間に僕はほぼ間違いなくあの世に行くだろう

あの世に行ったら まず『感謝』を伝えねばならない
その準備をしなくてはならないから 昔を振り返って嘆いてばかりも居れないのだ

ーー
つづく

いつも同じようなことばかりを考えている - 大寒篇 裏窓から

。。

二十日は大寒です

ここまで書いて大寒の夜はそのまま終わっていったのでした

ここからは追記です
ゆうべ 銀マドに書いたことを貼っておく


⛄ 大寒

今年も大寒を迎えた
ピリッと冷えた感じです
けれども朝寝しているからわからないが

寒かったようです
無理に早くから起きる必要もなかろう
暖房費もかかるし(と貧乏色が出てしまう)

一月に入ってたちまちのうちに日が過ぎて大寒を迎えた
密かに待ち遠しくしていたのかもしれない

何が待ち遠しいわけでもないが
父の命日(22日)が来るというのでそわそわしているのかもしれないし

いえいえ気を引き締めようと
幾つになっても父親には頭が上がらないままの一生なのだろう

あの日も大寒波だったのだと毎年思い起こしている
わかっているのにそのことを日記に書く
こういった反省も必要であろう

今の時代 個々の人たちは自ら豊かで筋書き通りの道を歩んでいる
然るべきに自分を自分で築き上げた錯覚(感覚)を持っ多人々が多い

何事にも反省の念を持つこと
感謝の恩を感じて生きてゆくこと
このような考えば 誰にも強要されることではない

誰かに指示されないから したがって 消滅しかかっている

。。。

⛄人生の幕が降りる

そんな言葉が手にした本のどこかに書かれていて
読むのをやめてあれこれと思いつくことを考えていた

「人生の幕が降りる」と言うけれど
観客席には誰一人いないのだ

もしかしたら家族や知人はいるのだろうか

けれども 誰も帰ろうとしない
ではアンコールを待っているのだろうか

そんなことはありえない
そもそもアンコールなんてあるわけない

私の人生
はじまりからアンコールのようなもの

。。。

⛄ もしも条件が整っていたら

昔の旅を振り返る

もしも現代のように条件が十分に整っていたならば
自分が走ってきたようなツーリングには
行かなかったような気がする

満たされていない条件を突き抜けて旅をすることに
愉しみと喜びがあったのだ

今のような旅の世界にはもう戻ることはないと思う

  • 携帯端末の普及が大きく何もかもが大きく姿を変えた
  • 天気予報をネットで正確に知ることができる
  • 携帯端末で宿を探せるし予約もできる
  • 行き先の情報を収集できる
  • 地図を検索して調べられる
  • 野営地の情報がまとまって正確に手に入る
  • 野営の道具も至れり尽くせり考案されている
  • 資金を投じれば便利なものが大抵何でも手に入る
  • 休暇も苦心しなくても取得しやすくなっている
  • 食事をする場所も探しやすい
  • 温泉がたくさんあって利用しやすい
  • 貴重品などの治安の安全面も十分なところばかりだ
  • 高速道路が充実している
  • 不意の通行止めなども少なく情報は正確だ
  • 道路は整備されているところが多い
  • バイパスが充実している
  • 悪路や辺鄙なところの道路が減少した

。。。

⛄ コロナの制限

時間制限が夜の八時までであるならそれまでに遊べばいいという考え
これには驚いた

日常のあらゆる事柄が制限というもので規制されている生活をしていると自分で考えてものを編み出すという人の機能が本能として備えた機能を退化させてしまうのだろう

決まりがないから守るもをのを失ってしまったのか

コメントのしようがないほどでまさに開いた口が塞がらない
こういうことにあらゆる場面で出会うのが現代社会の特徴なのだろうか

。。。

⛄ 六十七歳の誕生日

二十三年前の大寒を過ぎて二ヶ月後に六十七歳の誕生日を迎えようとしていた
その目前に死んでしまった父に私が似ているのではないか

そう思う
当たり前だ

二十三年間自問をしては自答を繰り返してきている

二十歳のころのともだち - 大寒篇 (裏窓から)

あのころはあの仲間を人生の中で一番大切なともだちだと思っていた

だが、ともだちに差があるわけではなく「大切」という形容に優劣はないからその時に感じた大切さというものは一体どこからくるのだろうかとのちになって思う

🌱

同じ釜の飯を食い大きな夢を見て共通した情熱を抱き「ヨイショ」勢いで同じ時期に社会に飛び出した

そのあとは砂漠か深い森を手探りで歩むようなものでみんなは各々の道を歩んで行ったのだ

彷徨い歩いたのは迷路であったかもしれないし原野の果てまで続く一本道のようなものであったかもしれない

自動車会社やテレビ局、通信会社、総合電機メーカー、世界に誇る技術部門でのホープとして飛び込んでいった仲間たちはその後の四十年間にどのような旅姿でどんな道を歩んでいったのだろうか

40年間に彼らは、何を考えながら、どのように夢をカタチを変えていったのだろうか

定年の年齢が近づいているころ、奴らの名前をネットで叩くとその有名会社の部長だとか取締役だとかXXXリーダーだとかの肩書きが付いて検索にヒットした

だが、この頃はそれほど見当たらなくなったのは、引退をしたのか重役を退いたのか悠々自適に道を変更したのか

🌱

社会は高度経済成長をしてそのあと急旋回をしながら急降下をしてゆく

多面性・多様化という変化球のような得体のしれないものが、胸に抱いていた夢や希望を無価値に変えていってしまう

グローバル化という変化は確かに華やかで強さを盛り返している不死鳥のようにも見えるのかもしれないが、私には焼け落ちてゆく巨大な宇宙船のイメージだった

「幸せと豊かさ」は原動力で、核燃料のようなものだろう

格差付されたピンからキリまでが、この微かなる夢を喰いながら手探りで生きていたのだ

「いつまで幻を追うのだ」といったところで底辺から叫ぶ声は響くことはない

いつまでも幻を追うことを「愚か」と言って切り捨てても、今の時代から次の時代へと代わり行く新しいビジョンも手がかりも明確に打ち出せないのだから、負け犬であった

🌱

あのときの仲間たち、あるいはそのあとに親しくなっていった仲間たちは、今どうしているのだろうか

いいえ、それはそれほど重要なことではなくて、その仲間たちが四十年間吹き荒れた大きな嵐が去った今、あの時代をどのような気持ちで振り返っているのだろうか、が気にかかるのだ

でも

今の政治の支持率の報道を見たりネットの馬鹿げた言いたい放題のコメントを見ていると、期待はほとんどできないかもしれない


🌱🌱 あのころのともだち達

もしも今という瞬間に初めて出会っていたら、全く興味もわかないような人であるだろう

つまり、あの時代の価値観で今でもともだちでいようと思うことは所詮無理なことで、大きなズレが生じてしまうに違いない

そして、あいつたちとともだちだった時代はもう終わったのだ、と切り捨ててしまわねばならなくなる

それは悲しすぎるでしょ


🌱🌱 ともだちは、異質な人の集まりであり、違った価値観の人の集まりであって構わない

それが分裂しないで語り合えるのは四十年前の同じ釜の飯の味を共有するだけところにあるのではないか

と僕は考えるのだが

奴らの中には大きく変わりすぎた者が多いのも事実だ


誕生日 大寒 命日 大寒篇 ─ 裏窓から

21日が大寒で母の誕生日であり
22日が父の命日で早いもので18回目を迎える

寒い時期に人が逝くような気がする
気のせいであって欲しいと冬の間は願い続ける

祖父は伊勢湾台風の来た年の12月15日に逝っている
死因は心筋梗塞だったらしいことを最近になって母の語りから聞いた

わたしには先祖から受け継ぐ運命があって
父も祖父もパタリと心臓が止まってしまって
はいそれまでだった

添い寝していた二人が
真ん中で寝ていた父の身体が
あっという間に冷たくなっていくのを
自分の身体と肌で感じ
「おい 仁が冷たくなっていくわ」
と感じたのだと話してくれたことがあった

冷たくなってしまった日は
22日で
おそらく大寒の明くる日で
山が真っ白に雪を被り
数年に1度かもしれぬという寒波が襲来していたのだった

大寒のころは特別なのだ 私にとっては

誕生日 大寒 命日

供え物も持たずに
墓を訪ねた

私の父の好物はなんだったのだろうとふと思った

すぐに答えられないほどに知らないのだ
それは 私が生きるのに精一杯だからというわけではない

親に甘えているから
それが当たり前の
ぬるま湯だからなのだ

そこにいる限りは
ぬるま湯を沸かしてくれる人のことなど
気にとめない

血脈に潜む重き流れは
凡そ一方向なのだなと犇犇と思う瞬間だ

しかし
それが理屈ではなく当たり前であったからこそ
ヒトは歴史を作ったのかもしれない

そんな大それたものでもなかろうと
仰る方々もおありかもしれないが

ヒトは未熟者のうち
散々な無礼を顧みず
馬齢を加えるにつれて恥を知り
後悔を積み上げてゆく

しかし
まあ これでいいのだ
そういう哲学でいいと思う

ヒトはそんなに完成されたものでなくてもいいのだと思う