✣ GW 五月はいつも旅をしてた 三、 ✣

🔙 ✣ GW 五月はいつも旅をしてた 二、 ✣
から続いてきています


✣ ✣

しかし・・が続く

🏍️ 人生が二度あれば

もう一度同じことを繰り返すだろうか

答えはノー

旅に

⚪︎感動をもとめた
⚪︎未知なるものに惹かれた
⚪︎人のふれあいに喜びを感じた
⚪︎感動を共にしたかった

そこまでは 誰でも同じであった

🏍️ どこまでも『美的』でありたかった

しかしながら

一人旅は 無鉄砲、無謀、身勝手、逃避などの特色を持っていた
だが 決して軽々しくはない慎重な旅でもあった

実際にその地を訪ねてみたときに 想定通りの事柄が無かったりしても 驚愕で行動心が崩れ去る一方で 心のどこかで そんな覚悟も持っていた

すぐに手配できるはずのフェリーや隣街に通じる峠道での臨時工事、通行止め、開いているはずの店や想定外の混雑で泊まれそうに無いことがわかった宿であるとか

1000キロにも及ぶ青森までの道のりを 高速道路を一切使わずにB級国道、峠や歴史街道を選んで走ったりしたし
(笠松峠では涙を流し 海が見えるところでも感涙して)

そんなスリリングで冒険的な旅だからこそ その向こうに楽しみが見つけようとしたほんとうの自由があり 誰にも左右されない自分がいたのだ

自分が自分である旅を続けることができた

・・という 思い出を振り返れば
幾らでも『美的』にあの時代を甦らせることができる・・のではあるが

🏍️ 諦めるための準備

併しは続く・・

九州や東北を 列車やバスで旅をしている今がある

仕事の足を洗ってからは 列車の時刻表を念入りに確認し
宿にあっても空き状況を調べ 可能であれば予約をしてゆく

「ツーリングに飽きたのではないか」と囁かれたことがある

だが 飽きるほど徹底的に行き尽くしたわけではなく そもそも何事も飽きるまで貪り尽くすタイプではない

諦めるために納得をしようとしたのか
自分の限界を確認しようとしたのか
精一杯 死に物狂いで挑むタイプではない
燃え尽きることもない

冷静な自分と向き合いここまでできれば上出来の感触を得たら手を引くのか

それを世の大勢は「諦める」とか「飽きる」と言うのか

🏍️ その辺でやめて一体に戻ろう

そういう感覚があるのだ

家族があってムスメがいて それぞれに暮らしがある

二人の間にも 好き嫌いや興味の違いがあろうけど それを受け止め合う
譲るのではないし 我慢をするのではない 諦めたり妥協をするわけでもない
性格の違いを 合わせるというものでもない

二人が一体になって生きてゆくためにこうしようというものがある
それを自然体で日常にやっていくだけのことだ

自分の体の中で胃と腸が喧嘩をするように 一体になった二人は喧嘩もしながら 生きている

そういう時間を手にするために 実際には
失業して貧しくてバイクを維持できなかったのかもしれないが

すまし顔で 新しいステージのドラマを始めたのではなかろうか

三台の自動車のうち二台を始末して 生活スタイルを大きく縮小したし
高齢者のコーナーに入れば(人生の)ゴールを意識せねばならないことにも気づく

あとがき

家庭のことなど省みるふうでもなく
仕事の時間から逃げ出して 自分だけが
逃避をしていた時代を振り返り
それは危険を伴う旅だったのに
必死になって魔物に憑れたように走ったことを
今となっては落ち着いて静かに振り返れる・・

家庭というのは
もっと 一体となって 苦楽を共にし
日々を過ごすものであるべきだったのだ・・と思う

ただ
人にはそれぞれの生き方があり 夢もあれば幸せのカタチもある
一言では語り尽くせいない


✣ GW 五月はいつも旅をしてた 二、 ✣

続けます
🔙 ✣✣ GW 立夏篇 ー 五月はいつも旅をしてた 四国 一、


🛵 旅をした時代

十年間で四国を八回、東北を七回旅した時代があった

GWと夏休みには一週間以上の休暇を連続して取得した
オートバイに野営道具を満載して旅に出かけた時代だ

一回の旅で 一日三百キロを七日間ほど走る
つまり 二千キロ余りを走り回るのだ

高速道路を使わない遠距離への挑戦
ETCの時代ではないし高速道路そのものも少ない
初日と帰路では 耐久レースのように走った
非常に冒険的で野望に溢れた旅をしていた

ムスメはまだ小さかった
なのにツマとその子を家に置いて旅に出ている
地図に細い線で載っているような『酷道』と呼ばれる道を選んで走った

今となっては あんな危険で寂しいところをよくぞ走ったものだと思う
ぐいぐいと突き進んで山の中へ 何者かに引き込まれるように入っていった
冷静にあのころを振り返ってみながら 大きく息を吸って感心している
走ることに燃えていただけではなかった

🛵 誘なうもの

歴史街道や人々の暮らしの息吹を共感しようとしたのか
生活感を感じながら鄙びた山村を縫うようにして奥へ奥へとゆく

険しい山の中へ一人で入っていくのは 今考えてみれば未到の山岳登山に挑むようなスリリングな気持ちだったのか

何と無謀な旅をしていた事か
今になって激しく反省をする

何がそんな旅を誘ない続けたのか
取り憑かれたように 変身してしまっていた
連続休暇には 必ず旅に出た
病的だった
愚かだったとも言える(今になって)

🛵 現実からの逃避

何かから逃げ出したかったのだろうか
キャンプ場で焚き火を囲いながら出会ったばかりの旅人同士で会話が弾む
『何故 なぜ旅に出るのか』と問いかけ合う
みんなが口を揃えるように『逃避ですね』と答える

「逃げてばかりじゃ終わらない」
「逃げていても何も始まらない」

そんなことを口にもしなかったし 思いつきもしなかった

そうだ 僕も職場のストレスから解放されるために一時的に脱出してきたんだ
と思って頷き合っていたのだ
(家に置いてきた家族のことは心配しなかった)

🛵 冒険心を駆り立てる

旅は 未知なるものとの出会いが原点だ

鄙びた山村、同じように旅する人たち、地図の上を辿っただけでみたことのない景色、魅惑的な温泉‥‥

魔物に取り憑かれたように時間を確保して旅に出た時代があった

しかし 
俯瞰的に見れば違った「今の」考えも湧いてくる
もう一度 新しい視点で見直してみたいと思う


続く


九州 おでかけ ✤ ギャラリー(風景)・ コンデジ版

コンデジ写真

説明
書き足しますから・・


➤ 九州 おでかけ ✤ ギャラリー(食)
➤ 鹿児島 ─ 熊本 ─ 大分 GW明けの旅 

九州 おでかけ ✤ ギャラリー(食)

携帯端末撮影
説明は ぼちぼち書いていきます

ケータイで 食事記録です
思いついた時に撮りますので 歯抜けになっています
後半がウチの人が撮ったものです

1。ホテル吟松の食事のすべて
2。鹿児島市内「ざぼん鹿児島ラーメン
3。天文館の「むじゃき白熊(かき氷)
4。「末よし」で鰻重・鰻丼
5。熊本市内通町の「紅蘭亭太平燕
6。別府駅前「まやかしやりゅうきゅう定食(ぶりの漬丼)
7。ドーミーイン熊本の朝食「いきなり団子」も美味


➤ 九州 おでかけ ✤ ギャラリー(風景)・ コンデジ版
➤ 鹿児島 ─ 熊本 ─ 大分 GW明けの旅 

鹿児島 ─ 熊本 ─ 大分 ✫ GW明けの旅 (本篇)

なあ、こんどは 九州 いこか・・  (まえがき)

まず 伊勢志摩ライナー (15:24発)で京都(17:15着)へ
楽しみにしていたポルタのハゲ天で天丼を食べよう‥‥

ところがハゲ天に着くとお目当てにしていた天丼はランチメニューで午後四時で終了
お持ち帰りに切り替えて持って帰る

心配をしていた雨は 嵯峨嵐山駅(JR)を降りたときには まだ降っていない
別邸で食事を済ませて 翌朝の嵐電(始発の次の列車)に備える

夜半から雨が強く降り出している音が聞こえる

5月7日(火) 指宿温泉まで

1︎⃣

車折神社駅(6:15)から嵯峨嵐山駅まで 雨は小降りだったのが幸運だった

2︎⃣ 

京都駅でのひかりへの乗り換えも順調でサンドイッチとコーヒーを買う
新大阪までひかり531号で移動し 乗り換え
みずほ605号で鹿児島中央駅(11:36着)を目指す

3︎⃣

鹿児島中央駅前の観光案内所で情報収集をした後 荷物を預けて バスのフリー切符を買う

まず アミュプラザの中にあるざぼんという店でラーメンを食べて 次にシティビューのバスに乗る

西郷隆盛銅像はバスに中から撮影をして見学を済ませた
城山展望台で途中下車をして三十分で散策を済ませて仙巌園へ向かう

仙巌園は大きな庭園で 桜島が真正面に見ることができる
「千円はちょっと高いなあ〜」と言いながら 一時間余り散策をした

4︎⃣

再びシティビュー(バス)に乗って天文館で降り むじゃき白熊かき氷を食べる
練乳のかかった甘いかき氷で 大きいサイズ1つとアイスコーヒー1つ

その後 鹿児島中央駅に戻り 時間調整をしながら 指宿行きのディーゼルカー(二両)を待つ

5︎⃣

鹿児島中央駅(17:12)から指宿枕崎線の各停で 指宿温泉 を目指す
料金が1,020円なので それなりに遠く一時間ほど揺られていく

計画では指宿駅からバス移動をする予定にしていたのだが
時刻が6時を回っていたこともあってタクシー(¥900)でホテル吟松まで

6︎⃣

ホテルでは 風呂の前に 先に夕食とした
美味しい焼酎も飲んだし さつま揚げ を目前で揚げてくれるのをいただきながら初日が終わっていく

部屋は豪華で が一望でき 上階にあるお風呂も露天風呂
展望も素晴らしいというので 早朝にもう一度入浴しに出かけた

🏨 銀松(指宿温泉)


5月8日(水)鹿児島市内〜桜島観光

1︎⃣

吟松から指宿駅へはタクシー利用で 快速なのはな(8:08)で鹿児島中央駅(9:07)へ
昨日立ち寄った観光案内所を再訪し 観光情報を少し聞く

その後 バスで 桜島フェリーターミナル へ移動し 順調に「桜島フェリー」に乗船して 火山の島へ

2︎⃣

10時過ぎに 桜島フェリーターミナル を出航し 約20分で桜島に到着
島内観光のサクラジマアイランドビュー(循環バス)に乗る
このバスを待つ人の殆どが外国人で 通勤並みの混雑ぶりで 湯之平展望台 まで一時間近く立ったままだった

のちに聞いた観光案内所の人の話では 大型客船が鹿児島港に接岸したらしい
湯之平展望台へは臨時バスが来て 座って港まで戻ることができた
展望台からの桜島(火山)や鹿児島市街の眺めは迫るものがあって勇壮で 鹿児島市街から見るのとは一味違った

現在は噴火をしておらず ゴツゴツした火山の岩肌や頂上も間近に迫って見える
30分ほどで見学を終えて 順調にフェリーターミナルに戻り 天文館へと向かう

3︎⃣

天文館では 鰻の末よしという店を調べていたので直行する

メニューは「鰻丼」と「鰻重」があって 二人別々にそれぞれを食べる
丼は 普通のスタイルで、鰻重は 重箱に鰻とご飯が別々に入っているというのも名物らしい

味は 噂になっているだけあって期待通りで美味しい
思っているよりも薄い気味の味付けで 鰻の味がする‥というか 川魚を食べている匂いがするような気がした

4︎⃣

鹿児島では (バスの中から)西郷隆盛銅像西郷洞窟を見て、仙巌園湯之平展望に寄り、末よしで鰻を堪能した
一日目には「天文館・むじゃき」白熊(かき氷)も食べたし 計画通りで満足できるものとなった

5︎⃣

鹿児島市から熊本市までは さくら564号 に乗る
熊本駅に着いてすぐに 九州横断特急3号 大分行の切符を確保し 観光案内所で観光マップをもらう
少し話を聞いてドーミーイン熊本へ直行する

6︎⃣

ホテルに到着後 まだ明るいうちに 熊本市役所展望ルームを目指し 熊本城全景を楽しむ
次に 太平燕 を食べたくて 通町商店街の 紅蘭亭 で 夕食とした

太平燕のあとは軽いおつまみを買って部屋で寛ぐ
ドーミーインでは 夜鳴きそば サービスも食べて ラーメン三昧を過ごせた
温泉は高層階で 似たり寄ったりの温泉であるが 十分に癒される

🏨 ドーミーイン熊本


5月9日(木)熊本から大分へ

9日(3日目)は熊本城見学と水前寺公園を計画て 順調に進んだ

1︎⃣

まず ホテルを出て すぐに熊本城南口を目指す
入門の前に 桜の馬場城彩苑「ミュージアムわくわく座」を勧められ寄ってから天守閣を目指して歩く

地震災害の復旧が完全に終了するのは35年後になるという
天守閣へと至る歩道も立派に作られているが 崩れている石垣を見下ろしながら 仮設の橋脚が続く

応急処置で 天守閣だけが見学が可能である
お城の歴史展示を見学しながらコツコツと 6Fまで階段を上って行く

2︎⃣

天守閣から見下ろす風景は なかなか見られない雄大な景色だ
お城の見学を済ませた後に 市電のフリー切符を買い 市電水前寺公園へ移動をする

公園は 入園料も360円と安いし 綺麗に整備されていてゆっくり回ることができる
予定通りの時間で周回して 下通商店街へ向かう

3︎⃣

昨日も食べたが再び 紅蘭亭 へきてランチをする(酢豚のようなお手頃価格のランチ)
黒亭のラーメンも候補に上がっていたが 麺類が続いて 少し飽きていたのでご飯を食べる

食事を済ませ 通町を散歩をしながら ホテルに預かってもらっていた荷物を受け取り 熊本駅へ移動する

4︎⃣

駅のスタバで時間調整をしてお土産物屋さんも見て のんびりと時間潰しをして 九州横断特急3号大分行に乗る

切符が 前日に買ってあるので 熊本駅を15:5分に特急で大分駅には17:57に到着する

3時間ほどかかるので 最初は「あらっ」と驚くのだが 阿蘇を横断して行くディーゼルカーで 急な上りを唸りを上げて登っていく列車に乗ってみてなるほどと納得した

途中でJR立野駅にスイッチバックの箇所があり 阿蘇の温泉郷も通過していく
阿蘇山の外輪山も遠くに眺められ 列車に乗る楽しみを味わうことができる

5︎⃣

大分駅に着くと すぐ駅前にドーミーイン大分があった
夕飯を食べる店をホテルで教えてもらい少し歩くが人気の店であったらしく予約で満席

駅まで引き返して 駅構内にある豊後茶屋とり天定食を食べる
美味しいものを腹一杯食べてきているので 少し食欲が低下気味だ

おつまみも焼き鳥だけにしてホテルに帰り 夜鳴きそばサービスもパスした
最終日のターゲットを 海地獄鬼石温泉と決めて ゆっくりと眠った

🏨 ドーミーイン大分


5月10日(金) 別府温泉から新大阪・名古屋経由で帰宅

1︎⃣

ドーミーの朝食は 一部のマニアに人気があるようで 噂の話を聞いていると楽しい
したがって 朝から満腹でホテルを出て 別府駅に9時頃に着き観光案内所で話を聞いて荷物を預けた

すぐに海地獄に向けるバスに乗れて10時前に鬼石温泉に到着する
予定通り家族風呂(二千円)に入ることで万事順調

1時間以内で風呂から上がって すぐ横の 海地獄 に入園し ゆっくりと地獄を見学をする

地獄見物は 鬼石温泉から覗いた鬼石地獄と海地獄 の二箇所の見学で済ませた
12時過ぎに駅へのバスに乗れる

2︎⃣

駅に早く戻れすぎたのであるが 疲れも出始めているので のんびりと贅沢に時間を潰すことにした

観光案内所で聞いていたまやかしやというお店に入ってりゅうきゅう定食(鰤の漬丼)としらす丼を食べる

そのあと 時間があったので別府タワーまで歩いて行ってみる(800円/1人)

3︎⃣

そんなふうにして時間を潰して 帰りの別府駅からソニック38号に乗った
小倉駅で駅弁を買って のぞみ46号に乗り換えて一気に名古屋まで

広島で小6の坊やが乗ってきて新横浜に単身赴任をしている母さんに会いにいくという
一人で寂しく座って本を読んだり居眠りしたりしているのが可愛かった
初めてだとい言っていた
母の日も間近だから会いに行くのだろう

4︎⃣

🚃 別府駅(14:53)ソニック・にちりんソニック38号
🚄 小倉駅(16:16)のぞみ46号
🚃 名古屋駅(19:33)快速みえ23号
🚌 駅からバスで自宅近くまで(8:55)



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✣✣ GW 立夏篇 ー 五月はいつも旅をしてた 四国 一、

GWに考えている


五月はいつも旅をしてた 四国

旅が変化したことをまず理解しよう

今から三十年ほど昔のころの話になる
黄金週間に旅をしたそのころを思い出を振り返っている

あのころの旅のスタイルや旅にかける意気込みを思い出してみる
自分の生活スタイルや人生観の捉え方が長い年月をへて変化してきたことを見つめ直している

「昔は良かった」という回想はよく聞く話で、しかし、良かったこともあれば、逆にあんな時代遅れで(古臭いやり方で)やってきたのか‥‥ということもある

科学技術は進化した。特に情報科学の進歩がもたらす便利さは長い歴史の中で二十年三十年の間に急激な変化をした。それを今の人々は驚かずに筋書き通りに近代化したのだと思っているところに 実は世代ギャップを発生しさせている根源がある

裏を返せば 長い歴史の手順に従って進化をすればこれほどまで便利に変化しなかったわけで 古い時代(三十年以上昔の世代)の人はその点が心地悪く許せないわけだろう

だが、「その点」を丁寧に拾い上げて三十年の進化を論ずるのはそれほど意味がなく何よりも面白くない。だから ざっくりと 科学技術進化論を またいつかどこかで書いてみることにするとして

あまりにも旅のスタイルが変わったのは 旅そのものが「全く別の商品」になったと考えている。一例として昔と今を同じキャンプという「言葉」を考えれば 共通の宿泊手段として扱うのが難しくなったことがわかる。ルーツが同じだけで全く違うことなのだ

さて、それほどまでに姿を変えた昔の旅を 今の旅と並べて『比較』などしようものなら(昔は良かった‥など言い出せば) 誰も読まないことになる

❇︎ ❇︎

だが 少し、せっかくだから昔を思い出そう

つづく


写真 : GWのころのあれこれ

➤ 書きかけ

「諦める」のは残念なことなのか ✶ 四月尽に考える

➤老いる

ふと「老いる」を深く考えようする時間がある

そのとき 過去を振り返る心は あらゆる方向からのあらゆる視点が幾通りもの答えを導くだろう

何が正しいというものでもない中からどれかを選んで それを信じて 突き進もうと 若いころならば考えたに違いない

しかし そのように必死で抜かりなく突き進もうという気は もう今はさらさらなくなってしまっているのではないかと 自分を見つめて思う

やりたいことはおおよそ済ませたし 出来ないことにチェレンジして 一通りの失敗も経験したから 粉骨砕身の気合いで挑むことなど ひとつもない

だからと言って 達成感に満たされながら身も心も絶えてしまってもよかろうというつもりもない

自分の器に自在の姿で収まって 昔の荒波を思い出すのもよろしい、もう一度 荒波に挑んでみるのもよろしい

大空を飛んでいるような無重力感のようなモノではない、しかしながら、無気力で無欲なモノでもない

もっと冷静にありのままを見つめて 今の自分の在り方を如何にするかという損得も見栄もない落ち着いた自分の姿だと思う

『有事斬然』『無事澄然』 座右に置いた『六然』の言葉を手元によせる

➤諦める

諦めるという言葉を無意識で使っているかもしれないことで 生きる道に尻込みしているのではないかと自分を少しばかり責めてみたときがある

しかし 諦めるという言葉は もっと大きく自分を包み込んで受け止めたゆえに生まれてくる言葉かもしれないと思うことも増えた

諦めれば前に進めないという印象があるが、しかし、立ち止まって自分を見つめている姿には美しさもある

冷静さが感じられ 「考える人」の頷きに似たものが漂うような気がするのだ

素直に自分を見つめて 周囲を見回して 何がどのように変化しているのかと まず考えてゆく

諦めるということは自分の本質と真正面から向かい合うことではないか

➤見つめる

「諦めることは見つめることなのではないか」というような答えともヒントにもならないようなことを考えながら

結局のところは 終着駅に辿り着くまでに自分の着地点をしっかり見定めておくことが大事なんだ

ゴール直前のストレートを駆けるときに明るい顔でみんなに手を振りたいという夢のようなシーンや、ゴールに着いて一息ついて 祝勝会をするときの ヒーローインタビューのようなものでカッコよく人生を振り返りたいとか

そんな夢のようなことばかりを考えている

もうこれ以上 苦しんだり悩んだりしたくないから まず『自分とは一体 何なのだ』という素朴な疑問に向き合うのだろう

諦めることは イケナイことではなくて 自然に還るってことなのかもしれない

➤言い訳

だから「老いることは悪くて残念なことか」という問いに答えを求めようなんてナンセンスなのだ、老いていくことは 悔しくもないし 残念でもないし 後悔もそこにはない

というような・・言い訳のようなことを積み上げてみた

世に出回っているハウツー本や軽々しく一丁前を書く人生論もどきが流行したりベストセラーになったりする時代だ

「何も分かってはいない」と言って世代ギャップを嘆いてはいけない

老人はひっそりと奥に鎮まって居るのがよろしい


✶ 諦める:諦めるを辞書で引いてみる、諦らか:明らかに観る事、現実をありのまま観察する事

大型連休(GW) あれこれ ✡︎ 昭和の日

連休前に ウド が手に入って 今年の初ものを食べました
風神雷神は ぼちぼちスローペースで読んでます
京都は ガストのランチで始まって
孫ちゃんたちは楽しいキャンプ便りが届きました


誰にも言わない・誰も聞いてくれない話 ✦ (わはく百話、その十二) - 四月下旬号

今の季節(四月)は学生さんがちょうど新学期を迎えている、オリエンテーションを終えて履修届を提出して、講義が始まっている候だ

ちょっとした切っ掛けで大学時代を回想してみるのだが 思い出話をすれば苦汁が滲み出る

そんな話など聞きたいとは誰も思わないだろう、ボクは有名人でも偉人でもないただの凡人だから、でも、たとえ誰も読まずとも、自分の愚かさと反省を、ここに書き残しておかねばならない、懺悔のような気持ちがある

と言うわけで・・

✦ ✦

ぐうたらな学生時代

大学合格を目指して熱くなったあとに、勉強をサボった愚かな学生時代を振り返る

何とかなると思っている一面、高望みしすぎた希望に対して反省もしないで 滑り込めた大学にも感謝せず、「大学の勉強は必須でしょ」というブライドだけ抱き続けて、しかし、実際にはサボってしまって、遊ぼうと思っていたわけでもなかったが、アンニュイで曖昧な学生時代を頭の中で築いて過ごした五年間(六年間)

毎日講義に出かけても、詰まらない、眠い、面白くない(というバカにした)気持ちで 教室から抜け出す日が多かったのだが、それもやがて、サボってゴロゴロするか古本屋に出かけるか、音楽ばかりを聴いていた

深夜まで夜更かしをして朝寝をして、大学は休んでばかりで、何しろ、英語講義やLL授業でさえも「そんなもんアホくさい」と思って ぐうたらに受けるか、時々欠席した

成績がどん底で返ってきたときに『自分はこの仲間の中に優秀な成績で飛び込んだのだ』という入学時に持った思い込みに拘った

そんなものは早々に捨て去り素直に勉強をするべきだったのだが・・そうしなかったプライドが手伝ったのだろうか、甘い認識力が働いたのか・・大学に真面目に出ようという学生に変身することはなかった

反省の日々

そうは言っても滅茶滅茶に遊び呆けていた学生でもなかったが、やっぱし勉強はせず、楽して単位をもらえればいいと考えていた安易な甘えた学生だったわけで、悲しいことに天性の怠け者が丸出しだったわけだ

そのことを自覚するのは卒業してから二十年以上経ってからで(後悔は先に立たず)

親に学費を出してもらっている感謝は人一倍持っていたものの  日々の行動は全く極悪の怠け者だった・・ことは消し去れない

もしも その時・・僕が親なら息子を強く叱って連れ戻しただろうし大学もやめさせるほどの剣幕で怒っただろう

もしも あの時代に今の僕が戻って学生をするならば・・

講義にはくまなく出席をして1分たりとも無駄にはしない、休講があろうものなら文句を言って授業料を返せと言い出すかもしれない

感謝も間に合わず

そういうわけで、親には説明のつかないことをして取り返しもつかず申し訳ない失態を犯していた学生時代を、社会人になって即座に振り返ってわけではなく、いつまでも気づくことなく反省を怠ってきたのだった

四十歳を過ぎてから魘されることが増えて、またちょうどそのころに 父が亡くなってしまった

学生時代に犯したアホな足跡を消すことはできず、父に詫びることも叶わず、本当に取り返しがつかなくなったのだった

自分の蒔いた種で残した足跡であるのに、それを思い出すのは辛いし、思い出しても今 誰に懺悔ができるわけではない

打ち明け話をしたとしても悔いばかりが湧いて、あまり触れたくない話になるのだ けれども、どこかに白状しておかねば ボクも易々とは死ねないと思い日々が募っている

✧✧・・✧✧

最終コーナへと向かう

そんな愚かな学生時代の暮らしを送りながら 平松先生や関谷先生、菊地先生と巡り会えたおかげで就職もできた

社会で使い物にはならないような奴を使ってくれた京都の「オ社」の皆さんにも感謝が絶えない

オ社は八年ほどだったが社会人になったヒヨコのぼくを育ててくれた恩人の会社だ

その後 三十路に入り人生は「オモテとウラをひっくり返したように」荒波に打たれるものの、さらにその十余年後に幸運に恵まれて四十五歳頃からは「生きているだけで感謝しなあかん」という二十年を送れた

✧✧・・✧✧

「ひとこと」で言えば

ぼくは『その程度の器』だったのだということだと思う

しかし最初から『その程度の器』なのだと悟って生きていたら こんな生き方はできなかっと思う

ありがとう みなさん

✧✧・・✧✧

※ 写真と本文は無関係です

穀雨篇 ✢ 京都日記・余韻 二、長生きは 理想か

大観小言という分類にしてみるか
世の中に不平不満はないものの
ちょっと小言ぼやき呟き
吐き出したいことが多くて・・

大観小言

京都日記・余韻 二、

【毎日ぼんやり、寝てばかりいる】

半日前のことを記憶していないのなら半月前にムスメが訪問をしたことも記憶にないのではなかろうかと心配をする

ツマが言うには 少し時間の空いた出来事は ぼんやりと記憶していて そのころにそんなことがあった・・と覚えているのだととそういう説明を聞いて これ以上は理屈では考えてはいけないのだと自分に言い聞かせている

人と会ったことを記憶しないのであるならば また今度 誰かに会いたいから 何か行動をしよう という気が発生しにくくなるだろう

つまり 今日のこの先の時間に何かが起こることを待たなくなってしまうならば 頭の中の時間が止まっている状態と さほど変わらなくなってなってくる

これは 脳みそが生理学的に生きていたとしても 死んでいる脳みそとそれほど大差がない・・とも考えられないか

しかしだから そこで 生きているとはどういうことなのか・・という大きな命題と向かい合うことになる

【長生きは 理想か】

医学という学問を責めるつもりはない

人が知能を持っているゆえに 科学は進化をして 縄文時代には考えもしなかった術を使って命が長くなっていることは 文明の進化であると言えるし、難病も克服したし 高齢になっても日常を快適に暮らせる社会になっている

そのおかげで 長生きできてしまう現代の高齢者が この長生きの時代をどれほどまでに歓迎しているのだろうか、と言う新しい悩みが生まれている

医学の暴走とも捉えられかねない治療技術が一般化しているような声も聞こえ、つまりは 生きている意味を考える というところに到達する

裏を返せば痴呆脳の人は安楽死してくれれば 自他ともに幸福だということか・・

【生きる権利】

人には生き続ける権利があって 勝手に奪うことは許されないわけだが その意思がなくなったら 停止させてもいいだろう、誰かが代わりに止めてもよいのかもしれない

問題なのは 意思がなくなったかどうかを判別する点にある

意思を表示することが出来なくなった人の意思を 奪って勝手にあるなしを判定できないところが難しい


そんなことを書いては消しての繰り返し


四月中旬 花は散って 温たい日がつづく

梨の花が 咲いている
農業研究所で摘蕾をした短い日々を思い出す
人生には 予想しないことがいっぱい散らかっている
生きていればまだまだ続くだろう
毎日を生きる姿勢でいくらでも面白くできるはずだと念じて頑張ろう

✴︎✴︎

初夏はのんびり

少し通院にゆとりが出ているので
五月あたりに少し旅でもしたいな
とか思ったりしている

六月になったら大学病院にお世話になる
今のうちにのんびりしておく

減塩な日々

レトルトカレーやインスタントラーメン・焼きそばがたくさん買いだめてある
しかしみんな減塩のために賞味期限切れになっていく
半分だけ食べて 残りはツマに食べてもらって消費を試みている


穀雨篇 ✢ 京都日記・余韻 二、長生きは 理想か (秘伝)
ハナミズキが咲きました ⭐︎ 四月中旬 (外伝)

春の味を愉しむ 減塩は難しいです ⚙︎ 減塩な日々 (点描)

筍の季節ですね
父が生きていたころや母が元気に歩き回ったころは
春の山菜や秋の味覚は 豊富に手元に届いたものです
今は従姉妹が届けてくれる春の筍がとても楽しみです
今年もいただきました

写真だけの日記

減塩の日々は
厳しいものがありますが
まあまあ楽しく減塩してます


旬の味で春を愉しむ ✶ 筍が届きました

清明篇 ✳︎ 京都日記、余韻 ー 桜は見ごろ

京都日記 余韻

四月中旬を迎える前
ちょうど桜が咲くのを見物に行くタイミングで
京都へゆく


認知症のその後

症状が悪化した様子もなさそうだ

初日の夕方に着いて「今日のお昼は何を食べたの?」と尋ねても「忘れた」と答えている
メニュー表を見ればカレーだとわかるのに聞いているのだが 覚える気がないのか 気にとめるつもりが無いのか 記憶能力がなくなっているのか 計り知れない

半日前のことを記憶していないのなら 半月前にムスメが訪問をしたことも記憶にないのかと心配すると 少し時間の空いた出来事は ぼんやりとその頃にそんなことがあったと覚えている

しかし 物事によっては 数十日から何ヶ月もの昔になると全く憶えていないことが多いらしい

人を忘れてしまうという事例も耳にすることがあるが 今の所は娘や自分の兄弟のことは 忘れてしまっているということはなさそうだ

生きているということの 愉しみがほとんど削除されてしまっている

一日の長い時間を何に消費しているのか

生きていることと死んでいること
眠っていることと起きていることの違いのように 深く考えねばならない疑問に襲われる


京都日記は『外伝』に書いたのでこちらではお休み
四月初旬の京都日記 ❀ 嵐電鳴滝の桜 車折など 雑記余録

診察があった日 鰻を食べて 時を待つ ✷ 清明篇

月のはじめに考える
清明篇

平成三十年三月三十日に花束をもらって職場を去った写真を見て
それは遙か過去だったような錯覚に似た感情が蘇る

しかし それは
実はもう今の僕が求めているノスタルジーではないのかもしれない
と、ふと思った

方向転換をして
生きるということに
真正面から立ち向かおうとしている

世の中の動きに疑問と反発を持って 生きてゆくことが
目に見えない命を脅かすものと闘うことよりも
厳しくて楽しいことなのかもしれない

時を待つ

その言葉が頭のどこかにへばり付くように残っている

それは「待つ」という言葉を 不要なものにするかの如く
忘れかけている現代人への警鐘にも思える

書きかけて温めている間に次のセッションを迎えてしまう
「また明日あたりに書きますね」なんて呑気なことを言ってられない

一年中 次から次へと追われているか または せっかちに急いていたときは
目の前にくる課題を(適当ではないが)テキパキと処理をしていた

「いつかゆとりで仕事をしたい」と夢を見た

何を待つのか

ところがいざ 追われないところに座してみると 『時を待つ』などと
気取ったことを言っている

おい、何を待っているのか


診察があった日、鰻を食べて 雨上がりを待つ ✶ 清明篇 雷山無言

四月のはじめに ✿ 朔日餅も呼ばれて花見もした月のはじめの一日

ぼちぼち
孫ちゃんたちに会いに行き
桜見物に出かけて
朔日餅も呼ばれて
月のはじめの一日を過ごした

穏やかに
減塩の日々が続き
春夏の手術の不安も気になりながら
三日に循環器内科の診察の日を待っている


四月はじまり ❀ 朔日餅呼ばれて ちらほらの桜見物 点描

三月下旬 ✻ 菜種梅雨日記

二十三日土曜日あたりから雨が降り始めてぐずぐずと降ったり ザザザと襲ってきたりしながらのらりくらりと四日間ほど降り続いた

二十七日の水曜日は腎臓内科の診察と栄養指導があるの日で、幸運にも朝から晴れが戻っている

桜の開花を期待していたものの 少し前に寒さが戻ってきて 桜の開花は一週間ほど遅れたもようで 循環器内科にくる来週の三日あたりが満開になりそうだ

診察が終わったら宮川堤に立ち寄って道草をしたいと思いながら またまだ蕾の色の変化もなさそうなので 遠くから河川敷をチラ見しながら国道を帰ってきた

上着を脱いで柔らかい風に吹かれて散歩ができる日が早くくるといいなあと 晴れ間と雨が交互に来るのたびに待ち遠しいと思う

今夜から春のパジャマよ三月尽

三十日の夜から 寝床の毛布をやめて 春用のパジャマにした


三月下旬 点描 ✢ ポカポカで花咲きました三月尽

生き続けるとはいかなることか…を考える ❇︎ 春分篇 ─ 雷山無言

啓蟄から春分まで
穏やかな日が続いた
手術を終えて二ヶ月目を迎え
血圧は目を見張るほど改善されないものの
上昇し続けることもなく上限値付近で横ばいを続け
減塩食生活も定着してきている
母親が突発的に体調を乱し急遽入院となったものの
数日で退院をして元通りのように暮らしている

そんな暮らしの中で
次の手術を春から夏ころにしようかとという決心も固まってきている

❇︎ ❇︎ ❇︎

◉麗らかな春に思い出す事がいくつか頭の中を流れていく

  • 入学の頃や卒業のころのこと
  • 吹奏楽団の演奏に夢中にいなっていたころのこと
  • 仕事を引退して もう働きにはいかないのだと決めたころのこと
  • クラスメイトと過ごした学校を卒業して新しい学校に行く
  • 必勝を共にするライバルたちと共に経験のない寮生活を始めたり
  • 大学に合格して大学生活を始めたり
  • 毎日を睦まじく過ごしてきた友と別れ大人の社会に旅立ったときのことなど

◉子どもは巣立って
孫たちは二人とも小学生になる

いよいよ 自分たち人生の終着を計画しなくてはならなくなってきた

若かったころやモリモリと働いていたころには考えも及ばなかった思いが
次々と頭の中に湧いてきて それが姿形を変えて巡ってくる

多かれ少なかれ 同じ年齢の人は横並びに似たような思いなんでしょう


◉そんなことを思いながら今年(令和六年)の年度末を過ごしている
もう年度末という言葉も無縁だ
定年とか出世とか昇進とか異動という言葉も無縁

いつかそんな束縛から解放されて呑気に暮らしたいと夢を見た時代があったのだ


◉仕事をやめたら 日本中の鄙びた気に入った土地に行って住んでみるのもいいな

どこに暮らしても安い家賃だけ払えれば衣食だけは同じほど必要だから…と考えてみたこともあった

雛を旅して まだ知らない村や人を訪ねてみたい…とも思った


◉夢は叶わないものだと諦めることで 人生の最終コーナーのイメージを少しずつ修正をしている
修正をすることは マイナスの判断ではないと思う

なぜならば 想定外なことは いつの時代でも常識的の起こるし ヒトの寿命が予測以上に長寿化して 高齢者の暮らす社会構造や企業体系 さらには福祉体制 景気なども変化してきたのだから

父が亡くなって二十五年以上を過ぎる間に 現代の高齢者社会に追従して生きている九十四歳というのは とても柔軟だともいえよう

***書きかけ

春のお彼岸のころ ✦ 弥生日記 二、(号外)

弥生三月春を待つ

春を待つ陽気が心地よい日々が続く

仲春の候は 寒さに縛られる窮屈な時間から解放されて 大きく背伸びをする悦びの季節でもある

一月末に手術をして 二月末に一回目の診察をしてもらたので 今度は四月初旬に二度目の診断を受けて 次の手術を計画してして考え始める

✦✦✦

『心房中隔欠損』

心臓の壁に穴が空いているなんて想像できないし 日常生活を送っているにも何ら自覚症状がない

ずっと大昔からそんな病気があっても 気づくことなく苦にすることもなく 与えられた人生として死んでいった時代があることを思えば 幸福な時代に生まれたのだと 染み染みと思う年になった

だが そんな年寄りになってからそれが原因で心臓の疾患に悩むことにならないために七十歳になる前に治療しておくのが良いとお医者さん(武部先生)は説明してくれる

春になったら大学病院で手術を受けるように考えていく

そんな意味では

四月が待ち遠しい

自覚症状は全くない病気であっても 年を負うにつれて寿命に影響を与えるだろう

長く健康に生きることは ストンと楽に死ねる可能性を生むだろうと想像するので 痛みが怖くとも手術をしよう、尻込みをするのはよそうと考えている

人によればそこまでして生き続けたくないと言う人もある けれども 今の時代は進化したので怖くない(と思いたい)

手術のこと

幼少期に同名の病気の人(子ども)があって 手術をする話をちらりと耳にする話を母親(93)から聞いた記憶がある

六十年ほどむかしにそんな怖い手術をしたことを思えば 今で言うなら先端医療だったのだろう

病を治すのを使命とする医者にすれば輝かしく勇敢なチャレンジだったろうと想像できるし 病と闘い生きようとする人の心も窺える

お金もかかる上に命も賭けねばならなかったその時代に 「無理に手術しなくても自然に治る人もある」とも言われ六十年がすぎた

老後に

「その間に一度も(専門的に)診てもらっていないの?」と先生に聞かれたが 僕はこうしてここまで生きてきたのだ

これからの時代は七十歳までも定年を延長して働いて社会活動しようという声が 叫ばれている


確かに元気で 健康であれば その夢も遠くはないが 果たして人間として高齢を生きることを平等に過ごせるのだろうか

実際に僕は 身体も弱いし聴覚も衰えているので 横並びに七十歳定年の波には乗れない

何かを活かして社会に溶け込んでいける枠組みを作ることが必要だ

仕事に参加をしたい気持ちを柔軟に受け入れてもらえ流ならば 健康を維持して働けるものなら働きたい

寿命という数字をそのまま社会の構造の中に組み入れては歪みが必ず起こるだろう


春のお彼岸のお参り ✦ 弥生日記

✦ ✦ ✦

十七日に父の墓参りをした
昼ごはんに惣菜弁当を買って 食べながら少し母と話をする

前の日記のどこかでも触れているが 先日 激しい下血で 急遽入院となり 四日間ほど病院生活をして 月曜日(11日)から 家に帰ってきて元通りの生活を始めている

九十四歳

自由に動き回るれるわけではなくどうしても家の長椅子に寝転んでテレビを見て過ごしていることが多い

トイレは 居間の隣にあるので 移動に時間が掛かるものの一人で行ける
夜中に何度か目が覚めて行くことになるのも 苦にはなるが 自力で行く
紙おむつなどを利用して安心に過ごしているという

耳が遠いので テレビが驚くほど大きな音量になっている
電話が鳴っても聞こえないこともあるし 受話器をとりに移動する間に鳴り終わることも多い

いつ死んでもいいと時々いう
早く死にたいとは言ってはいないと思う

安楽死には関心があるようで 安楽死を選択できる海外の話をTVで見たらしく 安らかに「眠っている間に 点滴の中にそのような薬を入れてもらい死んでいける」と言って 自分も「そんなふうに行ければええのに・・」と思ったようだ

金もかかるし 周囲に世話もかけるし 国内ではまだ希望は叶わないので 一つのを持っていることになる

できれば 苦しむことなく息を引き取らせてやりたい
ギリギリまで 楽しく会話もしたい
普通に暮らしていたい

誰もがそう願っているのだ

食べるものは 好き嫌いなく何でも食べる
『数独』や『パズル』は ムスコの僕よりも遥かに(勝負にならないほど)速い

息を引き取る時がくれば たぶん あっという間にきて瞬時に済むのだろうと思い またみんなはそのように願いながら まだすぐには来ないだろうと思っているのだ


弥生京都日記 ✦ 時雨れる日々 五十回忌のお参りを

✦✦✦

京都嵯峨

墓参に上る坂道で時雨に遭い 老ノ坂峠の山は しぐれ雲の霞の中にあったのだが 車を霊園の駐車場に停めるときには青空が広がって 東山の山並みは雨雲に覆われていたものの 遠く京都駅のあたりまで視界が開けた

吹き下ろす風は凍りつくように冷たいが しかし 日がさせば いくらか寒さは弛んでくるように感じる

四十九年前の三月十四日、中学校の卒業式を明日に迎える日にお母さんは息を引き取ったという。それから十年後の十六日に僕たちは結婚するのですが その間のことやその昔のことについて 掘り起こすように話に聞かせてもらったことはない

人生は あの時に一度リセットして新しく始まったのだと 言葉にはしないけれどもそれに似た感情があったのかもしれない。でもそのことを詳しく尋ねてみたことはない

五十回忌を二人で、にぎりの長次郎で済まてきた(お昼ご飯)

これで最後のお勤めを済ませて あとは やがて何年後にそちらの世へ辿り着くまで待っていて・・という心持ちなのだろう

もう京都には これを機会にお別れをして 今の新しい地で 新しい家族と 新しい終わりを迎える決心なのだろうと思う

四十九年前の三月十四日 中学校の卒業式に出席することなく 母の葬儀を行い 打ちひしがれた人生を迎えることになったウチの人は 高校・大学と苦節で乗り越え 社会に飛び出し 母が亡くなって十年後に偶然に出会った人と結婚をする

命日の二日後、結婚をして四十年目を迎える

さまざまな思いが蘇るのか 一度リセットした人生であるという思いがあるのか、新しく築いた四十年という歳月と十年の苦節を如何に感じて振り返っているのかは 毎日共に過ごしていながらもその奥に潜んだものまでは知る由もない

現実というものは、長い歴史において貧富、幸不幸を問わずに平等にのしかかる。それを受けて歩んできた実績と自信と希望がこれからゆく道の勇気の源になるのだろう

父のサ高住に顔を出しながら 命が果てる日が間違いなくやがて来ることを考え、一生に受けねばならない二度目の宿命を覚悟する決意をしていたのかもしれない


とーさんの方は

痴呆が突然良くなるわけもなく 季節感もない 模様のない日々を過ごしている

五十回忌の話題は一切しなかった
思い出されて 墓に行きたいと言い出されても困るから 全く知らんふりをして過ごしている。幸いにもこちらから言い出さなければ 今日が何月何日何曜日かもわからないのだから それでいいのだ

「お菓子を買うてきてくれるか」と頼まれたらその通りしていればいい
「コーヒーが飲みたい」と言われたら買ってくればいいのだ

TV番組を楽しみするわけでもないが 間も無く初場所が始まることも教えてやらねば・・そんなことを呟き ツマは愛宕山からの時雨に遭いながら清水橋を渡ってサ高住へと出かけてゆく


三月上旬 ✳︎ 京都弥生日記 外伝

啓蟄篇 ❀ 閏日をすぎて八歳になる写真が届いて

❀❀❀

三月五日は啓蟄
朝から雨降りであったのだが
冷たいはずの雨であっても それほど染み込んでこない
きっと 気持ちのせいだろう
寒暖計の数値とは別に
じわりじわりと春になっているのを感じるのだ
大地が吸収してエネルギーを蓄え始めている
身体は春を迎える準備を万端に整えている

✧✧✧

血圧が高い診断を受けて新しい循環器内科にかかるようになった

そこで心房細動が見つかり アブレーション(手術)をすることになり 近隣の大きな病院で処置を済ませた

心臓の健診では『心房中隔欠損』という病気が子どものころからることもわかり この年齢まで放置したことを驚きながら 治療を進めることになった

近々 近くの大学病院を紹介してもらい 治療を始める

✧✧✧

二十年勉強してて
四十年働いて
さあこれから 何するの

長生きする人なら
我が母のように 三十年
一人で生きる

自分は無理だと悟っているから
さて残りは
十年なのか
二十年なのか
と考え始める

いつか年頭でも書いたように
一年は五十週

「週の初めに考える」を書き続けても
五十回で一年が終わってゆく計算だ

絵を描いたとしても
小説でもエッセイでも
自己反省文でも
一週間に一回考えて
五十回まで行けば一年が終わる

平均寿命を頭の片隅に置いて
これからどれだけ生きるのか
そんなことを考えると
二十年という数字が浮かぶ

✧✧✧

自分をふりかえる

啓蟄の日は ゆうちゃんの誕生日だった
閏年(申年)の二月二十九日が予定日だった
二回目の閏年を迎えて八才
四月から三年生

小学校の三年生のころの記憶を辿っってみると
残っていそうで ほとんど残っていない

裏を田んぼの真ん中を蒸気機関車が走っていたとか
線路で土筆摘みをしたこととか
今の季節なら麦踏みをしに田んぼに出かけていたとか
雲雀が天高く囀っていたこと
まもなく蓮華の花が咲いて 花の絨毯の上に寝そべってあそんんだこと
などが浮かぶ

苺がいっぱいのケーキで誕生日を祝ってもらっている写真が届く
写真も動画も何気なしに残る時代だから その映像記録の価値が曖昧になっている

動画はもちろん 写真でさえ簡単に残せぬ時代だったからこそ あのころを振り返る情景に価値が出るのかもしれない

この子たちが大人になる時代まで私が生きている数学的予測数値は 十年ごとに半減期を迎えるだろう(と思う)

父の死生観のところでも触れたが
六十歳の頃に これから七十歳まで 八十歳まで生きようと
父は それほど強く考えるような人ではなかったのではないか
と想像している

家族関係の折り合いもあり 隣に住みながら それほど孫と触れ合えなかった時期があったし 背中を傷めて腰に痛みを抱いていたことや 高血圧の診断を受けて早い時期から降圧剤を投与されていたことなど

母はあの頃を振り返って 自分が仕事で忙しかったこともあるが 食事制限を何ら考慮することなく 毎日を過ごしたと言う

今更 何が間違いだったか・・などと悔やんでみても及ばないのだが 長い人生にはそんなことは数え切れぬほどあって 何か一つを悔やむというより『どんな姿勢で生きてきたか』が振り返るときの一番の頷きどころになるのだ

母は一月二十一日に九十三歳になった
ちょうど一月前年の暮れ クリスマスに九十八才の姉が逝ってしまい
次は自分の順番だと思っているのだろう

父の二十七回忌を済ませて やれやれという気持ちながらに 死んでしまう怖さを口にすることは全くなく「生きるのがえらい」と繰り返している

京都のとーさん

京都のとーさんも九十二才
痴呆で 毎日をゆるゆると過ごしているものの 明るい話題は何一つない
明らかに 非常な家族たちは今か今かと滅びるのを待っている

✧ ✧ ✧

我思う

自分のあらゆる足跡を残すと考えてみたことがあった

しかし このごろは

残したところで何一つ待たれていないのだから 消滅(消去)しても構わないとさえ思い始めている

つまり

やがて死ぬことを想定しながら 残りを生きるのが賢いのか

車谷長吉の本で 彼は

いずれ死ぬことが分かりながら生きているのは人間だけだ』から・・と書いている

死を覚悟し睨むようになって
ほんとうの人生が始まるのか・・


外伝
啓蟄の雨あがって 土ゆるむ ✴︎ 三月上旬
閏日から三月はじめころまで ❈ 減塩五か月目に入ります

人生を揺さぶるもの ✦ (わはく百話、その十一)

第十話でいくつかに分けていた途上を各々にまとめて振り返ってみた

1。黎明期

受験の失敗
大学受験への挑戦
高校時代の友との出会い

﹆﹅

中学から高校卒業までを人生の黎明期とでも呼ぼう

小さいころは船乗りになりたかった子が科学に興味を持ち科学研究者を夢に見た

身の回りには模範を示す人物も適切な情報提供ができる知識人もいない鄙びた田舎で大学進学を言い出しても親は珍紛漢紛だ

農家の倅として特別な教育もなく 甘やかして育てらている

中学時代の成績は英語がクラス上位を保てたくらいで 肝心の数学や国語は中程度出会ったものの 小さいころから物知りだったので理科や社会の知識は少し役立った

運動部には関心なく運動神経も良くないので 中学時代には吹奏楽を始めた

高校受験は伊勢市にある県立高校を受するものの不合格で 同じ市内にある私立高校に通う。進学を考えているので勉強意識は高一ではクラス上位で二年三年はCコースという進学クラスに入る

しかし 二年生の五月三十一日にオートバイで車と接触事故を起こし夏休みまでの長期欠席をし ここで歯車が狂って成績はどん底に定着し そのまま卒業までビリ直前をキープした

出席簿の前の(ヒガシ君)と仲良しで そいつ影響で東京の大学を決心し 有名私立などをいくつか受験するが 全でが不合格となる

そこで 浪人となり高田馬場の早稲田ゼミナールに入り 予備校の寮でヒガシの隣部屋で一年を過ごす

ヒガシは明治大学に滑り込んで行った

私も電気通信工学科に進学が決まって 寮の仲間のシマダ君の紹介で江古田の「能生館」という早稲田の学生専用の下宿で大学生活を始めた


2。飛翔期

将来を夢みる二十歳前
大学時代の友
社会人(初篇)

﹆﹅

大学入学を果たしたら怠け者の性格が出てしまった

学校をサボってばかりで 夜更かしをして朝寝坊をし 講義をサボって 古本屋巡りをし安い本を買って 下宿ではラジオを聴いたり本を読んで日々を送った

三年時への進級試験で落第し 恥ずかしさに耐えられず「能生館」も出てアパートに引っ越し 生活はさらに荒んでいく

思い出せば おおかた講義には出席せずに 試験だけを受けて単位を取得していったのだが 最後には答案用紙に「単位をください」と拝み倒したこともあった

根は真面目なのでカンニングやズルい手法は取らず 真正面から独学で勉強をしようとしたのだから 受講した者たちとは大きな差がつくのは当たり前だ

卒業研究で平松先生ー関谷先生ー防衛医大・菊地先生にお世話になって 三年生後半から卒業までをアホなりに楽しく過ごさせてもらった

研究室や大学で友は おおかた優秀でみんな立派な進路を選んで社会に出てゆき 私も菊池先生の推薦状のおかげで京都の「オ社」の研究所に採用された

実力不相応だから みんなと横並びには仕事もできず 哀れながらそれなりの職務をもらい八年ほど勤める


3。不惑の時代

夢から現実へ三十路
社会人・結婚そして子育て
ひとり旅の放浪
仕事の方向転換

﹆﹅

母校同窓会の先輩の話などに刺激を受けて 卯建(うだつ)の上がらない現況からステップアップして 先輩のように年収1千万円超を稼ぎたい、故郷に戻って給料も保証される新しい人生を・・

そんな自惚れた夢を見て「パー」な会社に転職を試みたのが大間違いの選択で大失敗だった

その会社は狡さや悪意が満ち溢れていて これを結集させて見栄え良く飾りつけた組織で 外見だけが一流という大企業の典型的な愚劣な集団だったのだ

職場に疑問を抱き反発もし 嘘の自分で日々を送り ストレスにまみれつつも ひとり旅の放浪の余暇を過ごし 迷いながら十年ほど苦汁を舐め続けたのだが・・

社畜集団で 人間の汚さを見続けるのは辛く 世の中のリストラブームに巻き込まれるかたちで会社を見切って棄てた(棄てられた)

子どもは私立中学に行っていたので 途方に暮れる新しい舞台が始まったわけだ

退職後一年ほど「プー太郎」をしていると 神様のような人物と巡り合えそのお導きで 第三の職場に入れる

給料は4分の1ほどに減るのだが 人間的に素晴らしい人たちに囲まれて 人生観まで根っこから変化してしまうほど素晴らしい環境で仕事ができた

しかし 貧しさからは脱出できず ムスメには四百万円超の奨学金(借金)を背負わせてしまい 申し訳ないことをしてしまう

苦渋の日々を七年間 家族で耐えながら ムスメは順調に就職を果たし 二年間の僻地への転勤もこなして 自宅から通勤可能となったのち しばらくして結婚をする

この不惑の時代以降を第四コーナーと呼んでいる

会社の中に潜む悪質な面を知り 性悪説的人間関係も視野に入れて 子どもが社会人に成長する際の進路判断にも多いに参考にできた


4。天命耳順

第四コーナー篇
能力不足の気づき
新しい人生観
子どもの自立

﹆﹅

親としてお役目が終了したわけではないものの 就職をして結婚・子育てと自らの人生のレールを敷いて 親に頼ることなく判断ができるように人になれたとみなしてよかろう

アラジンのランプの魔神のように お勤めを終えてランプに戻るわけではないが ともかく一息ついたと思ってよいだろう

仕事の方は、最終コーナーを回りながら 環境部門でかれこれ二十年近く仕事を続けさせてもらいったが コロナの襲来で社会がドタバタした際に 六〇歳をちょうど超える時と重なって 仕事の席を失ってしまった

先祖を振り返れば曽祖父が村長、祖父が村会議員、父が役場職員をしていた家系の歴史を振り返り、鉄砲玉のようなアホ息子も恩返しに戻ってくるのが本来の筋であったのかと もうおおかた走りきったころで気がついたことになる


5。低空飛行

ラストスパート
加速か
スキップするか

﹆﹅

もはや 再燃焼する余力も無いし気合いも生まれない
「人生」などという今まで口にもしなかった言葉が日記に登場するようになった
いよいよ 老化・痴呆 への方へと迷い込みそうな嫌な予感が漂う
だが ここで 挫けるわけにはいかない

孔子曰く

吾十有五にして学に志す 三十にして立つ 四十にして惑はず。
五十にして天命を知る 六十にして耳順ふ
七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず(のりをこえず)

✰✰

座右に置きっぱなしにしたこの言葉も いよいよ身に染みる年齢になってきた
年齢の節目に受けた健康診断で不整脈があり二十四時間心電計測をしたら心房細動も見つかった
BNPが400に達しているとわかり ちょっと 身体を大事にしなくては行けないと思い直す
eGFRは40と要注意レベルに達していたのを気に留めるだけで対処をしていなかっただけに 精密に検査をするとボロボロと傷んだところが見つかる
そこで 令和五年十一月から塩分チェックを強化して 減塩生活を始めることになった

✰✰

長生きをしようとは 今更考えてもいないし できるという期待も持っていない
そのつもりで 燃え尽きる人生を送ってきたのだし 振り返って取り戻したいようなものもすぐには思い浮かばない
もしもあったとしても

すでに諦めの処理を終了している
先日の手術の際に麻酔のなかで妄想に溺れていった時のように
苦しみながら生命という意識から解放されて
消えてゆけたらいいだろう

具体的なことは考えると悩みは増えるばかりだ
今の『命の器』の中で精一杯に生きることを考えていきたい

雨水✰天皇誕生日篇 ─ 生きることや死ぬことの意味を 車谷長吉のふうに見直して (わはく百話、その十)

車谷長吉の「四国八十八ヶ所感情巡礼」と「世界一周恐怖航海記」を読んだことで『人生とは・・』を考え 生きることや死ぬことの意味を 車谷長吉の視点を真似して見直していた。小説家と比べるつもりもないが 人生の足跡を冷たい目で見ることは 必要なのかもしれない

(わはく百話、その十)


これまでに人生の行手を左右するまでに揺さぶった人物、出来事や事件にどの様なものがあったか・・とふと考える

他人から見れば何の面白みもないが荒波人生だった

今となっては どうってことないように見えるものだけれども あの時は 死に物狂いだったはずだ

曲がり角があり、一直線の位置であり、凸凹道であり、その都度思案に暮れた

具体的に考えてみる

1。黎明期

受験の失敗
大学受験への挑戦
小中高の友との出会い

2。飛翔期

将来を夢みる二十歳前
大学時代の友
社会人(初篇)

3。不惑に向かう

夢からの目覚め現実を考える三十路前
社会人(結婚そして子育て)
ひとり旅の放浪
仕事の方向転換(社会人中篇)

4。天命耳順

社会人最終コーナー篇
能力不足の気づき
新しい人生観
子どもの自立

5。低空飛行

ラストスパート
加速をするか
スキップするか

﹆﹅

四十歳を過ぎたらオマエを叱る奴は誰もおらんようになる。ええ気になって生きていたら アカンということや』そう言って教えてくれたのが誰であったのか。今になってはもうわからない誰かのコトバで 最後に私を鼓舞してくれたのが人のコトバだ。実はとても貴重で重要な人であるはずだが 誰なのか記憶がない

その神のような人が思い出せない申し訳なさを抱きながら その人に感謝をして人生をここまでやってこれたのだから有り難い

﹆﹅

人生は失敗の繰り返しで 未完成を叱られてばかりだった

この世の悪い奴らの圧倒的な多さに地団駄を踏みながら「バカ正直」呼ばわりされて僅かな正義で仕事に向き合ってきた。一つの信念で情熱を守れることの歓びに感謝し 多数決で割り切る今の現実社会に刃向かってでも孤高の人あろうと夢を見た

ほんと「あほんだら」な自分が情けない反面 自省の中で湧いてくる美学に少しうるっときている

行き着いたのは
自分とはその程度の器の人間だったのだから その器の中で咲けばよいのだ
ということだ

※ つづく
※ それぞれの時期については別途考えてみたいと思う



三連休 ❃ 春はもうすぐ ー 人生を揺さぶる 外伝

如月中旬・京都日記

初恋の傘懐かしく春の雨
#春の雨

春よ来い 春は恋や と誰ぞゆう

春の雨 雪にはならへん優しさ

書くことをはじめたのは
大学ノートの
片隅に
余白があったからだ
#余白 #はじまり

三月中旬 東京では春一番が吹いたとニュースが流れていた
京都に上がってくるときに木津川沿いの山間の道で時雨に遭う


三泊四日で 京都・嵯峨別邸に来ている
厳しい寒さの季節は終わったのだと 納得してもいいものかどうか
再び小雪が舞う日が戻ってきても じっと時を待てば 暖かくなる


サ高住

とーさんはいつも 何も変わらず 季節の感覚も持てず 部屋の温度設定が暑すぎるとも寒すぎるとも感じることもなく 暇になったおやつを食べ 時刻が来たら食事に行くというリズムを送っている

一月にコロナに罹って治った直後に来てくれた孫が 二月にもまた来てくれたという
十六日に部屋に顔を出したら すぐにその話が出たという
前回は記憶から消えていたのに今度は覚えていたので ウチの人も少し驚いたらしい

他に何も進展はないようだ
今は大リーグの大谷選手の話題もそれほど華やかではないし 相撲もない

私のことを気にかけてくれていて「手術したんやろ、よーなったか」と同じことばかりをツマに尋ねるようだ



河原町・新京極

キリンシティに行ってきた
ビールとソーセージを食べたかったからだ
銀座ライオンに行ってもう一度別の店で愉しもうと考えたわけだ

ラム肉とソーセージとコブサラダとビール
静かで雰囲気のいい店だった
ビールを静かに愉しんで 軽くソーセージを摘んで喋っていると
心が解放されていくのがよくわかる

カウンターがメインで
一人で静かに味わっている人の方が多い


如月中旬号 ✦ 京都日記 河原町新京極篇

続・死生観  ☆

父の死生観のことをグルグルと考え続けている
前の日記を『死生観』で検索しても似たことを書いているだろう
中には 違ったことを思い直しているかもしれない
定まらない想像の中に 真実の姿を 映し出せるのだろうか

いつか直面する死を想定してあの世のことを父が語ったのを一度も耳にしたことがなかった

身体が弱いことは十分に承知をしていたはずだし 自分も父親を三十歳のころに失っているだけに 短命という不安がなかったとは言い切れない

だが 六十六歳という未来に死んでしまう(かもしれない)ことを不安だ思うとは 誰にも喋ったことはなかった

死ぬ事に立ち向かって生きようという気持ちが激しくなかったのだろうか

運命とは与えられているものだ、その時期が到来したら受け入れるしかないと そう思っている人だったのだろうか

それは子どものころからの病弱さゆえに 自然に受け入れている諦めであり 命は授かったものだという考えだったのかもしれない

命を賭けるほど手術を六十歳で決心している

それほど悲観的でもなく勇敢に挑戦してしまった本当の気持ちを 面と向かって聞けなかったままだった

あの時の決心はどこから生まれたのだろう、もしも死んでしまったらどうするつもりだったのか・・

そのことをあの時に聞こうとしなかった自分を 今となっては悔やんでいる

ぼんやりと人生を捉えて生きてきた

生きるということの壮絶さを甘く考えていた自分の人生観の甘さと死生観の意識の未熟さを今となっては後悔している

つづく


減塩に取り組んでいる ✯ 二月初旬号

減塩食

減塩食を摂るように生活を見直している。伴走してくれる家族に感謝をしたい

『減塩』を考える時間が格段に増えた。そしてまず「そもそも減塩とは何ぞや」を考えるところから始める

減塩という課題は 健康な人から見れば 対岸の火事であり 死ぬまで無縁の言葉だ

では「なぜ?減塩を迫られるのか」「なぜ?塩分の摂取が増加しているのか」
この問いに一生懸命答える人は 命の危険を自覚する人だけかもしれない

塩味

塩分は 健康を保つために必要不可欠な要素だ。しかし 過剰摂取をすれば 身体を傷めつけることになる

文明の進化と共に生活に科学の知恵が加わり 食文化が大きく変化をしてきた歴史がある。その過程で ヒトが味わう食物の旨み感覚が左右されガラリと様変わりをしてきた

人間の身体は縄文時代から何も変わらないもので、歴史のある昔ながらの漬物や燻製にも塩が使われ 塩味は表には出ない地味な味覚として身体と共栄してきた。

しかし 旨みを引き出すために不可欠であるため どんどんとエスカレートして 食材の中に知らぬ間に浸透し さらに 人間としての暮らしが豊かになるにつれて 上塗りするように近代的な塩の味覚が 厚みを増していく

「塩味」という不都合な成分が余分に体内に吸収されれば身体に支障をきたすのは当然のことだ

人類という大きな視点から見ても 人間は 美味しいものを追求し続けて「塩味」だけではなく「脂質」「糖質」「小麦粉」など 現代食物学で注目されるものを美味しく食べて 豊かに暮らしている

せっかく気持ちよく美味しい食生活を送っているのに 邪魔をしないでくれと怒りを買うのも仕方あるまい

・・と言いながら 立ち止まって考えねばならない時期を迎えている

『食』の追求

小麦粉をまず大幅に減らして、マクド、ラーメン、うどん・蕎麦・パスタ、練り製品 を食べるのをやめた

さらに 添加物や塩分の多い食品を見直して、ウインナー、惣菜屋さんのおかず、お弁当を控えるようにし、特に今まで好んで食べていた 麻婆豆腐、ピザ、スパゲッティー、カツ丼、たまご丼、明太子、骨付きローストチキン、ローストビーフ、豚バラ角煮、濃いカレー・シチュー、ファミレスメニュー・チーズハンバーグ、竹輪・おでんの練製品、味噌田楽・濃いおでん、刺身の醤油、市販のお鍋の素、キムチ・日野菜・沢庵・梅干しなど漬物一般、昆布・しぐれ、またそのおにぎり などというものが日常の食事メニューから消えていった

(体重が8Kg 減量し三ヶ月が過ぎる)

減塩を始めてから食材の購入検討時に必ず 栄養成分表を確認し「塩分量」をチェックするようになったことで、スーパーの商品やレストラン・メニューでは「成分表」を検索すると塩分の量が記載されてることも知った

だが

塩分を1日6g にする必要などあるのかという疑問や反発を持っている人にはこのような話は全く無意味でしかない

「どうぞ 健康な方はどんどん塩分を摂取して美味しいものを食べてください。美味しい毎日をお過ごしください」

そう言って 別世界に消えるまえに、少しお節介をしてでも 話をしたくなるのは 「美味の追求」に一息つき『食』を見直してみようではないか と提案したいからだ

(だが、まあここまで読んだら マシな方か・・
「僕には関係ないんだから」って思っているヒトは多いだろうし)

塩味の認識

塩分削減の料理を作ると「味ない」と感じる。今の時代の人は「まずい」という表現を使うが 昔の人はおいしくないものを食べると「味ないなあ」と言った。そのことを考えていると「まずい」と「味ない」は微妙に違うようにも思えるようになってきた

塩味を減らして 味わいを出す工夫を怠って 簡単・手軽に味覚を刺激する料理や調理補助食材を開発し続けた料理人や食材会社を責めることはできない

しかし 人間がこういった「食欲」を深い欲望として追い続けることに応えてきた社会は 反省して新しい道を考え出す節目が来ているではないか・・と思うことがある

(人間が持つ大きな欲に「性欲」「食欲」があるが)・・「食欲」は追い続けながら「性欲」はそれなりに抑制をかけてきたのか。しかし、裏面・水面下で黙々と「性欲」も増殖し続けて 社会の片隅で節度を求める危ない事件がで噴出しニュースに出ている

「塩分」の抑制と「色欲」を同じカテゴリーで言うつもりはないが 人間の身体の生理的特徴を考えれば 無限大に塩分摂取に溺れていくのは危険だと認識を持つべきだ

塩味調理の取組み

そこで 「うぇーまずいなあ」というような醤油も効いていないような煮物を作ってみて この延長に「この濃さでも美味いと思える調理方法があり得るのか」を日々考え続けている

古代人が美味しいと言って食べていたものに還って 生活を見直すことは きっと有意義なことだと信じている

豊かになりすぎた道具や社会システムが 想定上に災害などの危機に脆いこともわかってきている。脆いものにパッチを当てるように綻びを繕う新しい暮らしを 現代人はもっと立ち止まり巻き戻して考えねばならないのではないか


如月や猫の背中の温もりを手のひらで撫でて春を待とう ✢ アブレーションを終えて ❄︎ 節分立春篇

順調に二月を迎えることができた
節分・立春という言葉を耳にすると ウキウキする
恵方巻きを食べて 麒麟百年 を飲んで夜を過ごす(三日)

❄︎ 読み返して
❄︎ 思いつくたびに書き直します
❄︎ 刻々と変化する日記 ✦✦


如月

『如月』という呼び名はなんとも言葉で表せない優しさがある一面、思わぬ厳しい寒さを振り翳して容赦なく襲い掛かってくることもある

おいそれと好きな季節だなどと書き出してしまうと 自己矛盾に陥ってしまいかねない

二つの顔を持った季節であるゆえに 名前まで気に入ってしまうのかもしれない

「ひなた」に ありがたみを感じながら一年で一番寒い旬を過ごしている

節分と立春の暦をこうして捲ると 魔法の杖を一振りするのように心が和らぐ

優しい言葉の響きと共に「きさらぎ」とかなで書いて 春を待とうという決心できるのかもしれない

大きな不安を抱き 自分の行く道をひとつずつ自分で決めていく手応えを感じながら日々を暮らしている

❄︎

人生

一月末に四日間の心房細動アブレーション手術を終えて また新しい1コマへと一歩進んだのだと自分に頷いている

長い人生であるから故に進行方向が前に向くこともあれば後ろ向きになることもある

「三歩進んで二歩下がる」と歌った人の心が 歳を重ねるにつれて染み染みとわかってくるのが 些か気恥ずかしい

『人生』という言葉にも 大仰しく重みを感じてここまで生きてきたのであるが 六十五歳のコーナーで舵を切ったら いつの間にか日常語になるつつある

この変化に薄々気づいて 周囲に打ち明けても 反応するのは年上の人ばかりで 改めてそのことに「なるほど」と納得するのだった

「人生」の説法は お釈迦様の講話に任せるのが良いのだと教えられたわけだ

「人生」を語るのは面白い

❄︎

二十歳前の若者の半数以上が百歳になるなるまで生きると言われている時代だ

そこで 高齢者たちが語る「人生というもの」も 世代を超えてやがては変化していくことになる

そうなると 生まれてから死ぬまでの時間の大部分を占める「働いている」期間を生きるときに その未来の生き方や暮らしの姿を想像する様々な基本が新しく変化していく

ステージが大きく変化をしていくなかで それに伴い 毎日を生きていく姿勢や心構え、夢までもが 想像以上に変化するだろう

(つまり 考え方が全く違ったものになっていくだろう)

夢というものは前例のないものであって 新しい根っ子の上に生まれてくる夢は想像を超えたものとなって出来上がってしまうかもしれない

それこそが本当の意味での夢である

❄︎

時代が生む新しい「人生論」にやがては飲み込まれていってしまうと分かっている

しかしながら 今の人生を語っておきたいと思うのは いかにも古い人間のすることだ

歴史はうねるように進化し また繰り返す

新しい海には 新しい船新しい水夫が 漕ぎ出すのだ


月のはじめに考える

一月の最後の四日間でアブレーションの手術を受けた

健康を真剣に考える機会は誰にも普段から増えていると言えども 真正面に『刃』をたてられたら幾ら呑気に生きてきた人生であった自分であっても 流石に背筋を伸ばすのだった

まだ死ぬとは思わないが 現代の健康医学に疑問ばかりを投げているのではなく 少しは自分の生命も考え これからどのように生き延びるかという その姿勢を考えねばならないと 悟った

誰も『苦言』も『小言』も『助言』もくれない

それは即ち 六十五歳を過ぎれば 誰もがみんな 真剣勝負だからだ



二月初旬 短信 ❄︎ アブレーション その後 節分・立春篇 外伝

三泊四日 あとがき ❇︎ 二月のはじめにふり返る 時を待つ

二十八日

昼(ツマと二人で)と病院に来る
詰所の前まで送ってもらってツマは帰る

時間は長い
本を読んで過ごすしかない
先生が来てくれて簡単な話をしていく

夕飯が出た
Wi-Fiもあってロビーで使える

静かで過ごしやすい

二十九日
朝は六時前に起きている
夜中三時過ぎに目が覚め
十時から三時までは緩い記憶のない夢を見ている

よく眠れたほうだと思う

時を待つ

二十九日 朝六時から暇である
ノートを出してきてこれを書く

手術を控えて着替えをする
朝食はなし
MacBook をロビーまで持って行って
「よろしく」とアヤにメールを入れておく

予定通り進んでいる

手術あけ

三十日

朝六時に起きて動きを待つ

大腿の付け根にメスを入れて動脈にカテーテルを挿入したらしい
動脈にメスを入れたらちが弾け飛ぶであろうにと思う
穿刺するのは切るのとは違うのか

血圧測定、採血、出血を抑える包帯をとってもらう
代わりに絆創膏のようなテープを貼る
歩けるようになり トイレに行き
MacBookを持ってロビーへ出て
アヤにメールで状況を説明し「母にも伝えて」と伝言をする

術後の後書き

昨日の夜に書いた日記などそれほど丁寧に読み返すことなどないだろう
再び読んでまで圧迫された心理を呼び戻して感じたいとは思わないだろう

未来に持っていくのは頭の中に残されているもので良い
それは誰もが知る必要もなく知らせたところで無意味だろう
知らせておきたい一面もあるが記憶を蘇る儀式のようなものだ

死ぬ時にはこんな苦しい時もあるのだろうと体感したのだが
あれよりもきつい苦しさなら耐えられずに気を失ってしまうだろう
もしかしたら 自分もその苦しみのために気を失ったのか
それを緩和するための麻酔で眠ってしまったのか
判別がない

自動車事故で死んでいくときの方が一瞬だろう
病気の苦しみも(今の自分よりは)小さいかもしれない
苦しみながら 様々な考えが浮かんでは消えていく
今度秋にする次のカテーテル手術の方がもっと苦しかったらどうしようか
これ以上苦しいのはどんな苦しみなのか

瞬間を苦しみながらそんなことを思い浮かべている
夢のようなものを見ている

こんな夢を見るものなんだという感想を持ちながら現実と非現実の不思議な混在の中を浮遊しているのがわかる
見覚えのある人が登場してくるし訳のわからないことが起こっているのが見える
こちらも何かアクションをしようとするのだが とてつもなく息が苦しい

大きく息を吸う
苦しいのだというところを動きで見せようと必死で呼吸をする
鼻にマスクが当てられているのがわかる

苦しみというのは
こんなんなら死んでしまうと思う
こんなふうに死んでいくのだろうと冷静に捉えたり
これよりも苦しいと気を失うし 息ができない
しかし今は麻酔で死んだも同然だ

この苦しみが自動車追突死より苦しそうだ
というような余裕のある思考もしながら
周囲の音もガタガタと聞こえてくる

「先生心臓が止まって大変です」というようなコメディのコントがドリフなどであったのを思い出しているからおかしい

「止まったら死ぬな…カタカタという雑音の他には無駄な会話などなく真面目なものなのだ」
と思ってみたり
「早う呻き声を聞いてなんとかしてくれ」

と叫びたくなったりしながら そのうちに眠ってしまったようだ

目が覚めたら

病室にいた

(意識が戻ったのを確認して話しかけながら)
鼻にチューブの器具が通されてるのを外してくれた
鼻腔の構造により無呼吸になっているので急遽 器具で対応)

言葉が話せない
意識が戻っても口がきけなかった

手術室に入れられて準備の部屋のざわめきにまみれて
麻酔が打たれてしばらくしたら手術だったのだろう

大きな液晶モニターが幾つも並んでいる部屋に四人から八人ほどの人がいたか
動物実験室の機材のように冷たく見えて 人間であっても生き物を扱う体制にはそれほどないものかとぼんやり考えていた

ベットに乗せたままで手術室(アンギオ室)に運び込まれたのが十時五十分

それに二分ほど遅れてツマとムスメが到着したらしいが 意識のあるところでは面会できず

終了したのは約二時間半ほど後の一時十五分頃だったと後で聞く
目が覚めてドタバタに目が覚めて
時刻を気にして時計を見たら四時頃だった
四時間あまり眠っていたことになる

二人は喫茶店に行ったりロビーにいたりしながら待ってくれた
そんなに心配感は なかったみたい

不治の癌だったとしても こんなふうに死んでいけたら 死ぬ方は逃げていくようで楽だ
申し訳ないことを残さぬこと(が大事だ)


入院前の一週間ほどは落ち着きませんでした
俎板の鯉やから観念しなさいと言われながら
本を四冊持って入院となる

特別 号外 ❄︎ 心房細動 アブレーション 一月下旬

三泊四日 
閻魔様に仕置きを受けるような夢の中を彷徨うて
痛みはなく 予想以上に 思っていたより 楽だった

(二十八日から三十一日)
詳しくは
記憶の中に収めておこう
でもきっと
時間が経てば忘れてしまうだろう

令和六年大寒のころ ✤ 大寒のころ 京都日記

大寒が過ぎた

この冬になってから寒い日が続くことがあったものの 寒中にかかってから幾分温い日が巡り来て 大寒の時期も窓や庭の木々が凍てつくまでに冷え込むことはない

寒さに慣れるように知らぬ間に我慢をする習慣のせいか 部屋の温度設定も低めにすることが多くなっている

気合というつもりはないが、少々寒いぎみのほうが頭もスッキリすると考えがちで しかしながらも 身体は自然に従順らしく 毎日の血圧測定値が微妙に変化を表わし 高血圧アラームの出る要注意が続く

僅かな数値の差を気にしながら塩分表示のある食材との睨み合いが続く

『サ高住』から届く日々の様子の話にも大きな変化はなく 正月に罹ったコロナも完治して 生活リズムは元通りに戻った

いつものように部屋に行きおかしな電話がかかってきてないかなどを確認しながら ケータイ電話の着信履歴に孫のリストを見つけたので 調べるとコロナの完治直後に孫が母さんと二人で訪ねてきてくれて 鰻を食べに外出したらしい

それがわかったので驚きながら とーさん に「孫が来たのか」と問うたら「記憶にない」と言うので 親子できて鰻を食べに三人で出かけたことを忘れていた・・らしい

去年一年間には一カ月おきの頻度で来てくれる孫のことを 会いにくるたびに聞いてやると「来てくれてご飯に行った」と嬉しそうに覚えていたののに 先日の来訪は記憶にな口なっていたことを ウチの人は 諦めな口調でながら悲しそうに説明してくれた

これは ある意味では とても大きな変化なのだが、最早や大騒ぎにもしない

記憶の衰えが着々と進行するものの 食事や日常の会話に 大きな変化はないと 施設の人は説明をしてくれる

食事やテレビの相撲などの以外では 相変わらず暇なの寝てばかりだが 定期的に来る訪問ショップでの買い物もしているという

(こうして記憶が衰えてゆき 近親の人まで頭の中から順番に消えていき やがて静かに目を閉じたままになってくれ)

一度も顔を見せに来ない長男は「サ高住」での状況を風の便りにも聞いて そう考えているのだろうか

詳しい事情は知る由もないが 深い事情があるに違いない。不仲な親子というのがこの世にはあるらしいので 面会にいけない忸怩たる想いを胸に 遠くからそっと見送ろうと思っているのか

人間関係も広かった人であるから ほかにも この人を見守る人はあろうと思うが 顔も見せに来てくれない人があるのは それなりに諦めているのかもしれない

病院に入院するなら退院の見込みがあって元気になろうというものだけど 『痴呆脳』になって『サ高住』暮らしをし始めたら 未来の道は紛れもなくたったひとつだ

おばあさんも百二歳で亡くなっているが みなさんに きっと「大往生」という言葉で感謝されながらだったように思う

しかし 現実の 本心は 誰も言わない

誰もそのことを口には出さず 治療の手立てや希望にも触れることなく 未来に灯りが残されているというベンチャラじみたようなことも口にすることもない

病人ではないから見舞いには来ない
痴呆脳』の記憶と命が萎みきってしまうのをじっと待っている

私にはそう思えて仕方がない


下旬号 ❀ 京都日記 やや温い日が続く 
大寒篇 ✤

二十七回忌に考える・父の死生観 ✳︎ 大寒篇 

毎年大寒になると『その翌る日が母の誕生日でまたその翌日が父の命日』というように父のことを思い出し 心に命じる戒めを拾い上げて確かめる

日記には似たことばかりを書いているのが些か滑稽であり恥ずかしい思いをしながら 冷静に考えてゆくと 蘇って来る事柄や心に命じる気持ちは何年経っても変わらないのだ……と明らかになってくる

今年も例外になく 止め処なく記憶を辿ろうとしていた

あのときや生前のこと、あの人が生きた時代に何を考え 何を愉しみ 何に向かって生きていたのか、その日々はどんなものであったのか、どのような言葉を語り残してきたのか・・

そんなことを 思い出して考え続けている

六十歳をすぎて腰の手術に踏み切ったときには 現代医学から考えれば まだまだ命懸けであったはずの決断をして腰の手術に踏み切っている

死ぬかもしれないという不安はなかったのだろうか と想像すると 父が『生きる』ということをどのように捉えていたのかが知りたくなる

何度も救急車で病院に運ばれているし 一キロ離れた救急車がある消防署まで自力で這うようにして行き運ばれて入院をしたこともある

高血圧に起因する動脈硬化 心筋梗塞 心不全 腎臓の弱体化 脳梗塞 脳内出血 脳卒中に伴う痴呆 というように教科書を辿るように病気には侵されていた

そのような危険な身体でありながら 腰椎の手術を決断している

「身体が弱いのは若いころからだ」と母は語る

腎臓が悪かったとしか語り継がれていないので真相は全く分からないのであるが 母の語りによると結婚したころから農家の長男でありながら重労働には不適で 農家の合間に出かける土木作業員をしても激しい仕事はできなかった

そんなこともあって持ち前の器用さを活かして片耳が聞こえなかったけど重機の免許を人よりも早く取得して仕事や農業にも活かした人だった

結婚以前のころから農家をしたので 重作業による脊椎変形になりそれが四十年後にはもう我慢の限界だという痛みになってきたのだ

命を賭けて 手術に踏み切っている

その手術の結果が成功で痛みは解消したのかどうかの話も自らの口からは語るような人ではなかったので 手術後(六十歳後の人生)にどのように仕事や生活が変わったのかを はっきり知る人もいない

亡くなるまでの六年間 何を思って生きたのだろうか

しかし 人生は 思うようには行かないものだ

その疑問には 祖父や父が死亡した六十六歳という年齢に 実際に自分が到達すると漏れなくと言っていいほどぶつかる

多くの人が『人生』を考え『生きること』と何かを思案し『幸せとな何か』を何処かに問いかけるのだ

そんなものには「答えなどないのだ」と言いながらも 何かしら確たるもの(それは答えと呼べるかも)を誰ももが胸に抱いている

今 ウチに人は『痴呆脳』のとーさんに寄り添う生活が続いている

一年ほどの間に目に見える変化(悪化)がある

月・日・曜日の感覚を失くしている、面会をした人の記憶が消えてゆく、人物の記憶喪失が身近な人にまで及び始めている

面会に行く連絡をすると前回は何時来たかを覚えていたが 先日では二日続けて顔を見せているのに 昨日来たことをすっかり忘れていたという

父は 脳梗塞で何度も入院を繰り返した

痴呆の症状だったいう人もある一方で 次男である弟は「ボケたふりをしていただけだ」とまで断定したことを言い 死ぬ間際も普通であったと考えている

痴呆か誤魔化せるのなら 日常の暮らしでも極度に老化した爺さんとして扱えるかもしれない

六十六歳になった自分とあの時の父親とを並べて比較はできないのだが 一生懸命に記憶を遡れば 人の老化年齢とは 数字で見極められないことがわかる

六十六歳を過ぎると「幸せとは何か 如何に生きることなのか」「人生とは何だったのか これからどうあるべきか」「親孝行とは 何か」などと これまでに考えながらも 答えを掴めぬまま「おざなり」にしていたことに気づく

しかるべき時に ふと気がついたところで何ができたわけでもないだろうし 先んじて 手を打てるものでもない

ヒトは 「人生とは?」を考え続けることが一つの宿命なのだと思う

父は六十歳から六十六歳までの短い期間に死の不安を感じながら口には出さずにいたのだろうか

自分の部屋に篭り絵をかき 注連縄や草鞋の作品を作り続けながら 寒い小屋で何を思っていたのだろう

二十六年前の大寒のころには 生きる力を精一杯使い果たしながら 時計が刻む音に誘われるように冷たくなっていった

添い寝しながらその死に際を見届けてくれた人に そのように語り継がれるような死に方をしていった

腎臓が弱っていると診断されて 不整脈の治療を間近に控えているので 例年になく父の死生観が如何なるものだったのだろうかと 想像し考え入ってしまった

父からは画才を受け取れず 母からは長命の血筋も貰えそうにない

「人生とは」などと一言も語るのを口にしたことがない人であった
では 考えていなかったのかというと 人一倍考えていたことは間違いない

「どうしてわかるのですか・・」って「彼の 遺伝子をもらったからだ・・」
と二十七回忌の夜にそんなことを考えていた

受け継ぐもの それは何であろう・・『魂』のようなものなのだろうか



下旬号 ❀ 京都日記 やや温い日が続く 
大寒篇 ✤

診察も済ませ月末に向けて ウォーミングアップ 京都日記 ❊ 大寒篇

Twitterに残されている『大寒』の呟きを拾う #大寒

毎年同日に命日を思うと 同じ句を思いつくものである
それが 我ながら 少し嬉しい


2024年01月20日(土)

軒をゆく嵐電コトコト大寒の朝 #雨降り #嵐電
明かり消して夜さり路面電車の音を聞く #京都 #路面電車
大寒や汽車の煙も凍る朝 #一番汽車 #小学校の通学路 #六十年
霜柱踏んでみたのは低学年 #霜柱 #見たことあるかい
大寒の明くる日が母の誕生日その次の日が父の命日 #二十七回忌 #大寒 #この日の日記を振り返る


2023年01月20日(金)

大寒 翌る日が母の誕生日 その翌る日が父の命日 #父の命日 
無精髭 放りっぱなしで一ヶ月 #無精髭


2021年01月20日(水)

真っ白な大学ノートの待つ言葉 #大学ノート


2020年01月20日(月)

日向ぼっこ孫の手がわりの鯨尺 #鯨尺


2018年01月20日(土)

大寒と母の誕生日父の二十年忌


2017年01月20日(金)

なんぼでも降っておくれ引きこもる
横しぐれならぬ横霙な大寒
冷たい雨きょうはバスで帰ろう
日めくりをまくって大寒 四股を踏む
京都のことやから☔️が☃️に変わることもあり得るよなあ この週末
ミッフィのブランケットおなかに巻いてお相撲さんみたいに成ってる


2016年01月20日(水)

寒くても平気やと繰り返す呪文
なあ おいしいぜんざいたべたいな #ぜんざい
嫁に行き君の住まない街に居る
風強く雪はないと覚え書き
二十回目の命日の墓に参る


2015年01月20日(火)

大寒の翌日に
まさに
力尽きて命果てた父であった
葬儀のときの寒さは忘れられないほど厳しかった
おかげで寒さには滅法強くなったわ

大寒や語り尽くせない寒さがある
白菜が丸々巻いて大寒哉

すれ違い待ちの列車の女子高生うまそうに朝ごはん食べてる
(朝の通勤汽車の中での景色)


2014年01月20日(月)

二期校の受験の逸話で酒を飲む

大寒ですが、
あすは母の誕生日
そのあくる日は父の命日

きのうは、雪が舞って少し積もった隣町
きょうは、それほど寒くなく
でも、腰が痛いのです。
あした仕事に行けるかな
弱腰

大寒やあしたは母の誕生日/あさっては父の命日


2013年01月20日(日)

きょうは
母の誕生イブで
今夜から八十二歳になります
昔でいえば八十四歳
行ってこうか

大寒や早起き鳥のその一句
眠れぬ人泣いても笑ろても大寒の朝  
大寒や目覚まし鳴っても床を出ず  
一度だけ電話きたことありました
鳥が啼き大寒明けて新聞屋

❊❊

京都日記

ガストで日替わりランチを食べたり バーミヤンで済ませている
そんな日の 夕飯は 「鰤しゃぶ」とか惣菜の「串カツ」とか 塩分表示が出ているので助かっている
6g は絶対に超えない
冨美家の「しっぽくうどん」を買うてきて食べている


喪中葉書と年賀状とのせめぎ合い ✴︎ 小正月篇

旧友宛の手紙に

五十歳を超えて六十歳を通過していく間に
昔の友達が だんだんとそっけなくなってくるのを感じて
そのことを残念がって書いても
誰も関心を示さず 相槌も打たなくなりつつあります
そんな愚痴めいたことを本音で書ける人かな
と(貴君を)感じているからか また書いています
みんな 家族の方を向いているのか
昔のことには関わりたくないのか
よーわからん

と書いて新年の挨拶としたのだが 返信が来ない
理由は 不明で 推測は果てしなく次々と浮かび… ある一点に収束してくる

友達なんてのは もはや 丁寧に対応したり 深い感慨や思い出を大切に共有する年齢ではない・・のか

🔥自分がこれから行く果てはどうなるか
🔥この先をどれだけ幸福に満たされて生き抜くか
🔥襲いかかる不運や災難からどうやって上手に逃げ切るか
🔥そんなことを考えている毎日
🔥そんな📨手紙にいちいち反応しているゆとりはないのだ

そんなところがほんとうの気持ちなのだろう

小正月

寒中見舞いが一枚届いて お母様(91)が亡くなられたという知らせだった
二、三年前あたりから 喪中ハガキの方が 年賀を追い越す勢いだ

下旬(21日)には うちの母も九十三歳を迎える
年末に九十八歳の姉を送ったところだ

今年が最期の正月かもしれないと覚悟をする
一方で 素直に構えれば長生きしてくれそうな気もする
あまりそのようなことを口にすれば 縁起でもないことを呼ぶような気もする

心房細動

月末にアブレーションの手術を受ける
その心構えのことで頭がいっぱいの毎日
高血圧

ダイジェスト


㊙️伝
成人の日 から 小正月まで 1月15日
寒さのせいで 血圧が微妙に上昇中 ⚙︎ 寒中 ぼちぼち 1月11日

自處超然 ✧ 寒中篇

手術を前に色々考えることはある
疾患の場所が心臓ということもあるけど

成人の日が過ぎて
日々日常の様子に特別な変化もなく
時々刻々と時間は刻まれていく

自處超然

福沢諭吉の言葉

人生は芝居のごとし
上手な役者が乞食になることもあれば
大根役者が殿様になることもある
とかく、あまり人生を重く見ず
捨て身になって何事も一心になすべし

を参照した日記を発見

➣ 寒中ど真ん中に考える – わはく㊙️伝2018年1月15日
➣  『二十歳のとき、何をしていたか❓』 ー 十月はじめに考える – わはく㊙️伝

二十歳や成人式のころを 振り返る二篇では「今の自分を見失わないことが大切だ」と言う思いを静かに自戒している

このころ ふと目を通した記事で自らの日記の行方に触れていた人があった

毎日の日記は永年の人生の蓄積だが いざ死を目前にした時にこれを遺族に明かすか明かさぬものかを思案し短い言葉で悩んでいる

日々の思いを新聞コラムの如く書き綴る人があれば どこにも吐き出せない思いを ひっそりと書き留める人もあろう

死の宣告が予期できるものであっても思わぬものであっても この日記の行方をどうしたものか・・と考える人は多かろう

もしも明かしたいというならば それは「伝えたい」のだろうから「受け取る」側にも支度が必要になる

我が日記を振り返れば 四千数百篇の記録がある

命を失えばこの世から姿が消えて PCのリセットボタンを押せば 全ての記述が一瞬のうちに消える

消えてしまう「発言」がとても惜しいと 私は思う

父は 晩年に書いた絵画作品が何点かあったほかには モノも日記も言葉も残さなかった

十年・二十年の年月が過ぎるうちに 思い出という記憶だけなのが「人生最大の失敗であり後悔」と感じるようになる

高齢を迎えて 考えが少しずつ変化し 余分な拘泥は 削ぎ取られてゆく

五百週間生きるか 千週間生きるか

勝負を賭けるつもりもないが 攻略方法を練るのも面白いじゃないか


ちかごろ ギャラリー

塩分を気にしながらも おやつのたい焼きシュークリームを食べたり ガストのランチを食べています
ガストは ランチメニューを検索すると 塩分成分表を参照できます

『地震カミナリ火事おやじ』の警鐘  ✦ 令和六年 新年 雑考 (小寒篇・裏窓から)

令和六年 新年 雑考

『地震カミナリ火事おやじ』という言葉がふと思い浮かぶ
現代人が忘れている言葉だ

忘れていってしまうこと自体はとても幸せて豊かなことなのだ

けれども
しっかりと刻んでおくべきことを粗末にすることは 避けねばならない

切り捨てる

先人の言葉をしっかりと受け取ることは大切なことだ

しかし そんな自明なことが わかっていない人も多く、一生懸命に説明をしても 真意が届かぬことも多い

だからと言って 一度 痛い目に遭えばええのや と切り捨てるわけにもいかない

災難

地震と事故のニュースが続いた

報道は 冷ややかな澹然さで震度7を伝えつつも 炎に包まれて飛び散る航空機を映し出す

これを見ていると遠い国で起こっている戦闘の叫びが絵空事のように捉えられて 温かい新年の団欒の中で それらの様子が 歪んで伝わっていくようで恐ろしい

災害の報道を 『高みの見物』的に報道するメディアの姿勢に 思わずとても腹が立ってきて「皆さんはいかがか」と呟いてしまった

恩を返す

だが それは メデイアにとっても安泰で幸福な国民からすれば 本音であり、怒りでありながらも不安でもあり辛辣にいえば『対岸の火事』なのだ

何も手を差し伸べられない焦りとモヤモヤの奥には 本来なら飛んで行って何か役に立ちたい気持ちがある一方で、幸せボケにどっぷりと使った自分に嫌悪感が突き刺さる

だが今の自分には これらの事態に対応できる余力を失った暮らしをしている

かつて 少しばかり豊かだったころには 中流ぶって何も行動を起こせずにいたくせに・・と振り返ると 募る心配のやり場がない

ヒトというものは 辛酸・苦汁を舐めてこそ そこに潜む本当の姿に出会え ヒトとしてのあるべき姿や恩返しの意味をやっと知る

辛酸を舐めることが必要条件とは言えないにしても 「現代人は甘い世界に浸りきってしまい 幸せに溺れている・・少し身勝手すぎるのではないか

そう思いながら 「これを言うたら嫌われる」と言葉を飲み込んだ

✩✩

胸に手を当てる

アル中の従兄弟がいて、家族も(多分本人も)そのことを悩んでいる

人生六十年を過ぎたら 歩く姿勢もモノを見る視点も 喜怒を感じる触覚も 軌道修正をしていくのが望ましいと考えている

鬼が現れて悪戯・愚行をする若造を叱るのは 人生の前半での場面でのことだ

四十歳を超えたら誰も叱ってくれなくなってくる(これは仕事でも似ている面がある)

それには叱る必要がない理由があるからで、愚行を決して許したわけではないのだ

ヒトは この怒られなくなることが怖いことで そこの意味に思いを巡らせ胸に手を当てることが大切なのだ

我が従兄弟には 最早や鬼が近づいて苦言を吐くことはないだろう

『地震かみなり火事おやじ』── 心に鬼を棲まわせて 自分の胸に手を当ててみる

✩✩

孔子の言葉は重く響く

子曰く
吾十有五にして学に志す
三十にして立つ四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳順う
七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず

✩✩

六十六年

平成六年が明けて いきなり大惨事が連続的に発生した

私にとって六十六年目の年を迎えており、この数字は 祖父や父が亡くなった年であるということであるゆえ 次々と自戒の思いが浮かんでくるのだ

二人は それぞれ六十年・二十七年前に何も言葉を残さずに逝ってしまった

幾つかの格言を口癖にしていたのを記憶するものの それを胸にする自らの思いを聞かせてくれたことはなかった

✩✩

『地震カミナリ火事おやじ』の警鐘

地震に襲われたり 飛行機が炎上する映像を目にして 過去から未来へと必ず右上がりに進化してきた現代を立ち止まって見つめ直してみたい

恵まれた環境を築き上げ、豊かな暮らしと幸せを手に入れて、自らが苦渋を舐めて勝ち取らねばならぬものがなくなっていく

経済の進化がお手本のように与えてくる新しい生活文化やAIが提示する提案に 素直な顔をして暮らしを築くまじめでおとなしい現代人

常に生活の苦痛と貧困に対峙していた世代から見ればもどかしさを拭いきれない

ガス、水、電気、灯(あかり)・・確かに何が欠落しても生活に支障が出ることは否めない

しかし 縄文人・古代人をこんな時に比較に持ち出せば非難されることは納得の上で その時代の人々は 果たして 苦難で不自由で寂しく悲しく貧しく不幸せな生活をしていたのだろうかと思いを馳せる

『地震カミナリ火事おやじ』

この言葉の奥には 現代人への厳しい警鐘が潜んでいるのではないか


 新年ギャラリー


➤ (外伝) 新年 ダイジェスト ✦ 点描

大晦日に思っていたこと ✦ 痴呆脳と共に一年

令和五年大晦日を迎える
今年も大きな病気をせず倒れることなく一年を終われることに大いに感謝したい

心不全の症状が見つかったものの怯えることはないと思っているので、真正面から治療をすればきちんと治るだろう

塩分制限が始まっているけれども それほど苦にせず 面白半分の気分で減塩をやっている(去年の十一月から)

食べることの欲を抑えようとすると 確かに我慢であり 寂しさもある
諦めがあるので 苦痛は然程ない

食べることとは 何のためなのか
人類は食べる暮らしと 如何に関わってきたかを振り返って考えてみるいい機会だ

暮らしとは如何なるものか・・
それは人類が目指すものは何か・・にも通じる

お正月であるから「おとうさんを家へ連れて行ってやれば・・」という知人もいますが、しかし それはできません

サ高住」には お正月の話題はない

来客も職員もそのことについては一言も口い出さないし触れようとしない
そのような連想は 御法度なのだ

『痴呆脳』の記憶を刺激することは 罪悪だ

サ高住には 家に帰れない人や帰りたくない人、また 帰ってきてほしくない家族があって この住宅に追い込まれた人々の扱いは 優しさに満ちているようであっても様々で おおよそが冷たい

ウチも とーさんには 家の話はしない

もう家には誰も住んでいないかのような雰囲気を伝えてあり、帰っても誰もおらず何もないと思い込んでもらっている

「サ高住に入っていれば (毎日何も心配しなくても)ご飯が食べられるから・・」と説得してあるが、どこまで本当の事情を理解して記憶しているかは不明だ

社会には 重荷を背負って暮らす人が想像以上にたくさんあって それぞれの人々が やり場のない悩みや 不満を含んだ感情を胸に生きている

真っ当に漲ってくるはずの感情を 殆ど失ってしまっている『痴呆脳』の人には 自分自身におめでたいお正月が来て 旧友にも再会できるかもしれない筋書きは思い浮かばない

したがって そこには悲しみもない

何もない・・エンプティー(数学では空集合という)なのだ
そのことが、一年ほど付き添うてみて わかってきた

冷暖房の行き届いた部屋で 時間が過ぎてゆくのを ただひたすら待つ(過ごす)

おなかが減ったらお菓子を食べればいい
食事の時間を見失わないよう大きな時計を備えてもらっている
時間が来れば食堂へ歩いてゆく

そんな日々を ただ送っているだけだ

相撲や大リーグの大谷翔平の野球は 分かる
だが 季節が移ろうことは 身に染みてこない

暑さ寒さを感じ取ることも近ごろは危うくなってきた
春物の服から夏物へ そして秋物から冬物への衣替えも意識から消えてしまった

「また二週間ほどしたら来るわ・・」といつも言って帰ってくるが それが一か月でも二ヶ月でも三ヶ月になっても「多分わからない」だろう・・

当然、そのことに家族は気がつくわけで、だったら「放ったらかしでも問題ない」となる家族もあり それを理由(切掛)に 放置されてしまう人も大勢ありそうだ

そうは言うても しかしながら また年が明けたら顔を見に行く予定にしている

身の回りを掃除と整理整頓をして、洗濯をして、季節のものを買い揃えて、おやつも補充して・・何も記録に残らないような会話をして 数日過ごして帰ってくる

一人の人間の周囲には幾人もの人がいて お互いがその人たちを支えて・支えられて生きている

痴呆脳になってしまうと 大勢が知らん顔をする様子に出会う
昔から無縁だったのだというような顔をして振る舞う人も中にはあって 損得を見抜いての判断の人もある

所詮そんなものかと 残念になるのだが、そのウラには オモテには出てこない人々も潜んで居る
人々それぞれの思いや葛藤がきっとあるのだろうが こちらは神様でもないし 全てを見渡せ・見抜け・探れるわけでもない

大晦日の夜 寝静まった空に除夜の鐘が響いているのだろうか

一年を振り返ることは 即ち『痴呆脳』と対峙してきた日々を振り返ることでもある

充実した年末年始を迎え 新しい年を明るく迎えられるように祈ろう
健康で清々しい元旦を迎えられるように祈ろう

ここで思いついた目標をしっかりと胸に 来年も元気にいきたい


✦✦✦

🎍 外海の遙かな果てを夢見続け
🎍 輝く太陽のまだもっと向こう
🎍 九割以上が失着だった人生
  #三三を嫌がった生き方
🎍 星占い雨降り出して大晦日
🎍 大晦日リセットボタンを押しとなる
🎍 大晦日さらばとゆうて締めくくろ


師走・元旦 ダイジェスト ✦ ギャラリー (外伝)

二十六年前の師走を考えていた ❄︎

❄︎草稿

二十六年前の師走を考えていた
父は最期の師走をどんなことを思いながら過ごしたのだろうか
今、同じ歳になって師走を迎えている
そのようなつぶやきをメモし 「師走を迎えて考える」を考える時間が続く

❄︎ 『忄』(りっしんべん)の漢字から師走を振り返る ❀ 冬至篇 裏窓から
❄︎ 時を失う 時を遺す ❀ 令和五年の師走に考える (わはく百話、その九)

❄︎

ちょうど考え事をしているとき
冬至の朝 トミちゃん(伯母98)が亡くなったと電話が入る

幾日も前から愈愈あかんと聞いていたが、ついに力尽きてしまったか
老衰の痴呆が出ていたので 幸せに静かに息を引き取ってゆけることを祈っていた
きっと幸せにあの世にいけたことだろうと思う

年の瀬にこのような話が届いて 暮れゆく時間の狭間で 消えててゆくものをまたひとつ送った

新しく迎える何かがあり希望の芽が開くこともあれば 姿を消すものもある

『逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず』(孔子)

まさに流転の渦の中に晒され 年を重ねるとその波動が激しくなるのを痛切に感じる

❄︎

日記(ブログ)を少し「師走」で検索すると 数年前の今ごろから 染み染み一年を振り返る記述が とみに目立ってくる

手にとって読み返すと 何年経っても似たようなことを書いているので 苦笑いが溢れるばかりだ

年の瀬を迎えている

「心を滅ぼし」「時を失って」生きてきたことに再び目を向けてしまう時間に襲われている

それは膿となっているのか、傷口のままなのか、傷痕なのか

後悔はしないが 自信に満ちているものでもない

心を枯れさせて感情を廃れさせてしまいながらも 生きる望みに祈りをかけ続けることができているのは これから歩む先に光が見えるからではないか

光が見えないほどの失意に襲われても 再び光を呼び戻せる何かの確信や手掛かりがあれば 新しい一歩を踏み出すことができよう

しかし それさえもな叶わないことがある

様々な年月を送って、思うように生き抜いてきたとは決していえない人生があったからこそ、人生を語れるのかもしれない

︎ ❄

❄ つづく

『忄』(りっしんべん)の漢字から師走を振り返る ❀ 冬至篇 裏窓から

『忄』(りっしんべん)の漢字のことが目が覚めた直後に浮かんできて 二度寝ができずにしばらく考えていると「亡びる」「亡ぼす」と『忄』を合わせると「忙しい」「忘れる」になることを思い浮かべる。人生の終盤に差し掛かった者にとっては こういう漢字はまさに「心」に沁みこんできて 感慨が深いものが多い

❖ 忘れる

令和五年の師走を迎えている。そんな折に「忘れる」という言葉を思うている

この世を生きてきて 人はそれぞれ忘れたいことがいくつもあるに違いなかろう。だが ヒトは 自らの意思で記憶を忘れ去ることは ほぼ不可能に近く、過去にあった忌まわしい出来事を「忸怩」たる思いで振り返ることもあれば 生きる力となる歓びに感謝することもある

❖ 惚ける

「惚ける」という言葉を今年は頻繁に使った。身の回りでもボケてしまう人と接したり ボケてしまった人の話が耳に飛び込んでくることが多かった。目の前で起こる身近な出来事に目を背けないで 「惚けて」ゆく人を見つめ続けるしかない一年であった

医科学と永年付き合ってきていながら 惚けるということにおいては そそくさと諦めしまっていたかもしれないと振り返った。生命哲学との絡みもあり 精神科学が医学の王道では無い側面もあり、難しい社会問題を抱えている

❖ 忌まわしい

仕事を引退してから人との交流が激減して『忌』しい日常の出来事が少なくなったことは事実であるが それは美しい話では決して無い。忌まわしいものとは一体何かと考える

しかしながらそこで、人が生きていくにおいて 忌まわしいものに出会い 許せないことに怒り 苦い水を飲みながら生きていくのが常道であると気づき、それゆえ 都合のいいことにばかり目を向けて生きていれば 行き詰まりに遭遇して苦しむことになりかねないこともわかってくる

邪魔で都合の悪いことは忘れて仕舞えば良いかろうし 何よりも楽であるものの なかなか思うようにも行かない

平凡に生きている限りは 自らの意思で記憶をコントロールできないのだから 忘れたくても忘れられないことがどうしても残るのは当然のことで、そいつと どうやって付き合ってゆくのかということが 人生の最終コーナーでの課題の一つとなってくる

だから 都合のいいことを自由に勝手に忘れてし舞えるのならば それは死んでいるのと同じだ

忘れたくても忘れられないことがある一方で 忘れてはいけないこと山積している人生の最終コーナーで、物事を都合よく忘れて、大切なこととそうでないことの区別がつかなっくなってくるならば それは「惚」けの始まりだと言える

❖ 年を忘れる

師走を迎えている。忘年会の季節である

塩分制限生活を始めたので 年末年始の飲み食いの誘いはお断りをしていく予定だが それを聞いて寂しそうにしていたのは 母(92)だ
年末年始は 気兼ねなく飲み食いをして 年忘れをしたいと思ったのだろうか

大勢の人が集まった昔の年末年始の頃には 年の暮れを家族だけで静かに過ごしたいと夢見たこともあっただろう

だが、二十六年前に一家の主人である父が死んでしまって以来 その同じ時代に合わせるように 親戚中が寿命を迎え さらにこのご時世で 遠縁の付き合いや先祖の供養を簡素という名目で薄情に済ませるように社会が変化をしている

親子だけで静かに年の暮れを仕舞って 新しい年を厳かに家族だけで迎えたかろうと かつては夢に描いた違いない

今やっと夢が叶いそうな歳を迎えたら 九十歳を回っていたということか

❖ 訃報

こんなことを書いて師走の日々に自問を続けているとき、今朝、その九十二歳の六歳上の姉の死亡の知らせが届いた

孔子の言葉が浮かんだ

『逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず』

❖ 『忘』

忙しい、忸怩、怨めしい、怯む、怯えるなどという字を次々と連想しながら 『忄』(りっしんべん)の漢字を探ってみると 二百以上が飛び出す

忘年会の『忘』という字を白紙の片隅に書いて今年をキッパリと忘れよう……と考えたら 「水には流せない」ことがたくさん思い浮かんできて 一年分の苦渋を思い出し次々と振り返ることになった

『心』という字を漢字に含ませると 喜怒哀楽のうちの『怒』と『哀』に関わる漢字が多いように思えるの気のせいなのか

号外 ✤ ギャラリー 十七日〜冬至まで

十七日から二十二日(冬至まで)
減塩日記 ギャラリーです

お鍋、豚バラ大根、雑炊、タニタの減塩味噌、すごい納豆、日野菜、鯛、鰻、唐揚げ

鰻は 大きな病院での診察の帰りに うなぎを計画したのですが、水曜日で狙っていた店がお休みでした

そこで 別の店に行ったけど それが残念な味でしたので、悔しくて・・

次の日に孫ちん連れて 『はし家』さんへ行って食べ直し。満足です

冬至を迎えました

「裏窓から」をしっかり考えて書きたいと思っています

時を失う 時を遺す ❀ 令和五年の師走に考える (わはく百話、その九)

時を失う

二十六年前の師走の今ごろ 父が命を失うちょうど1ヶ月前のことで 多分何も変わりない師走を私は過ごしていた

六十六才の後半をどんなことを考えて父は生き延びているのか・・最期の師走を父は それが最期の師走だとは考えつきもしなかったに違いない

もちろん最期の言葉を何も 日記にも書面にも 残していない

私に至っては そんな迫っている師走なのだという考えにも及んでいない

『時を失う』ってきた人生だ………果たしてそうだったのか

遺す

私が生まれるよりも前の若い時から丁寧に日記をつけているような人だった

それだけに晩年には 思い当たるようなものを残していなくとも 生前においてどこかに何かを断片的であろうが書き残していたのだろう

しかしそれも 最期の日の何年か前に 事件のような気持ちの急変で 記録のおおかたを焼却してしまうという出来事があって以来 何かもが失くなってしまったと考えられる

そのことを認めながらも どこかに隠された「何か」があるのではないか………と 疑ったり期待を持った人は 誰一人としていなかった

無言

脳出血やら脳梗塞を繰り返しながら 確実に自分の生命が傷めつけられていく日々と向かい合いながら もうそれほど余命が長くはないことを充分に察知していたことは間違いない

しかし そんなにまで生きてきた人生を振り返った言葉を耳にした人は 誰一人としていない

二男(私の弟)家族と妻(私の母)と暮らしながら 側にいても家族にはそういったことを喋ることもなく無言で逝ってしまった

想定外

まさか急に息を引き取るほどまで そのころの症状が悪化をしているとは 思ってもいなかった

周囲の大勢は 長くは持ち堪えることなく いつかやがて 果てるしかない運命に直面している覚悟をしていただろう

しかし 少し離れて暮らす私に 死亡の知らせが届いた時は 全くの想定外であり突然のことであった

想定外』は『覚悟』とは別物だ

突然起こった事件の事実を 『覚悟』の気持ちが覆い尽くしてゆく

傍目には冷静に見えても 震撼は日々着実に大きくなっていく

無念

さて

その六十六歳で迎える師走であり 今 同じ歳になって師走を迎えている

六十六歳の師走が最期の師走かもしれないなどとは 私も私の周りの誰もが思ってもいないだろうし それで間違いはないだろう

心臓に疾患があって 近々手術を受けることになりそうだが 何かの間違いかミスがあって命を落とすということもなかろう

六十五歳と六十六歳で亡くなっていった祖父や父を思うと 悔しがる時間も用意されなかったのかもしれないが  生きることをその年齢で諦めねばならなくなった二人は さぞや無念で悔しい思いをしたに違いない

そんなことを考えると 生きている自分という向き合って この師走は大きな節目に見えてくる

師走に思う

祖父や父よりも長く生きる分だけ 恩返しもしなくてはならない

そんなことを考えている 令和五年の師走だ

つづく

時を失う ✣ 車谷長吉 赤目四十八瀧心中未遂

赤目四十八瀧心中未遂を読み返している

車谷長吉の小説で「時を失う」という表現が出てくる

赤目四十八瀧を彷徨い 物語の結末は心中未遂なのである
二人は 生きてゆくことの儚さと まさに「時を失う」衝撃を 感じながら 自分の生きる道の運命と闘う

「時を失う」
ものがたりの中で言葉にしてちらりと見せて しかし それが一体どういうことなのかには触れていない

この世で生きていく限りは 夢がありその夢に敗れることがある

明るい未来を諦め 現実に向き合い その泥のような沼で踠きながら さり気ない顔をしながら生きている

泥に塗れて生きていかざるを得なかった人生を 何も恨むことなく 受け止めて この道の先へと二人の行先が展開される

「生島さん。うちを連れて逃げて。」
「えッ。」
アヤちゃんは下唇を噛んで、私を見ていた。
「どこへ。」
「この世の外へ。」
私は息を呑んだ。私は「触れた。」のだ。 アヤちゃんは、私から目を離さなかった。 私の風呂敷荷物を見て、ほぼ事情を察していたのだ。私は口を開けた。言葉が出なかった。
アヤちゃんは背を向けて、歩き出した。その背が、恐ろしい拒絶を表しているようだった。私は足が動かなかった。アヤちゃんは遠ざかって行く。私は私の中から私が流失していくような気がした。小走りに追いすがった。(208P)

「おばちゃん、いまごろがっかりしてるわよ。」
「はあ、よう分かってます。私はいっつもこないして、時を失うて生きてきたんです。」
「生島さんは、やっぱりむつかしいことを言やはるわね、 好きなんやね。 時を失うやなんて、私らよう分からへん。」
「 は、 すんません。」(213P)

赤目四十八瀧心中未遂

なんべん読んでも後半部分はどこを読んでも泣けてきて仕方がない

悲しいからではない説明ができない

説明をされたとしても聴いている方もわからないだろう

迦陵頻伽(かりょうびんが)
なんて美しい悲しみだろう
涙も出ない
泣けてくる

全篇を何度も読み直す
何度読んでも

頭の中に突っ張っている人生というものの 自分なりの理解を 鋭い刃で刺し込まれるような衝撃が伝わり 何が悲しいわけでもないのに 感情が揺さぶられる

どういう理由があって この作品に引き込まれていくのかは 自分でも本当のところがわからない

目の前の現実から 逃げ出したいというわけでもなさそうだ新しいドラマを手にしたいという願いがあるわけでもない

自分とは全く違った世界での 大人の童話のようなものなのかもしれない
車谷長吉という人のナマ人物と会ったわけではないが 小説が生み出す世界とのかけ離れていながらも すぐ隣にあるような決して夢物語でもない小説のどこかに惹かれてしまったのだ

作風が私の中に自然に溶け込んできているのだろうか初めて読んだ時は数行で放り出してしまったような記憶もあるものの 何を切っ掛けにしてかすっかり引き摺り込まれてしまったのだ


時を失う

何気なしに読み流してしまい
消えてしまいそうな言葉に
見事に引き留められてしまった


さて
この師走のテーマにしている考察に入ろう

と思ったが
別日記にしようかな 長くなるし

京都日記 ✢ ココスでランチを ➖ 師走中旬号

京都日記も 早く 師走中旬号になる
ちょうど一年前に遡ることになる
MacBookを十二月の中旬に入手して この部屋で日記を書き始めたのだ

脳波は 去年の今ごろ以降で どれ程までに変化をし 今現在で どれほどまで正常さを示し残しているのだろうか 詳しいことを誰も知ろうとしない

もしも 癌であったら主治医に縋りついて 検査を定期的に実施し 新しい薬が無いものか一生懸命アンテナを張ったり 病状が良くなるために何か出来ないと 日々悩み 思案し主治医に話を持ちかけたり 何か工夫でも出来ないかなど あらゆる努力をするのではなかろうか

否・・痴呆脳の運命は そんな悩みや思案を持つこともなく 周囲も一体となって刻一刻と一つの瞬間を それが安らかである事を願い続けて待つのであろうか

痴呆脳になってゆく人に対して そんな面倒な気遣いをして 引き止めよう 治癒への道を探ろうとしたりすることは 一般的では無いのか
第三者としてみたり様子を聞いたりしている限りでは 周囲の人々は やはり 手の施しようはないのだから このまま放置して 脳波が平坦に日々近づいていく変化にも関心を抱かずに そのことを確かめる事もなく 日々 ケアとして寄り添うのみだ
苦しむこともなく 安泰に死んでしまう時が来るのを願っている というのが残されている人々の取るべき確実で賢い手段なのだろうか
痴呆脳は何も訴えてこないのを良いことに そのまま好きさせているのが本当に幸福を与えていることになるのか
間違いなく脳波が平坦な道へと 刻一刻と進んでいる

減塩な日々なのに 京都への途上のファミレス(ココス)で ランチを食べている
ハンバーグが食べたくなって
そこで つい 美味しそうなメニューに手を出してしまって
デミグラスなハンバーグドリアを選んで
あとで調べたら『食塩相当量=5.6g』でした

この日の夕飯は 沈んだ気持ちで 味のない白菜湯豆腐を食べた(鰹のタタキ四切れ付)

心房細動がみつかって・・ ✤ 大雪篇(裏窓から)

悩むということ 一、

『悩む』という言葉に引き留められている
青春時代はこの言葉が嫌いで仕方がなく 受験雑誌などに出てくるたびに頁を閉じて逃げていた。今はそれが懐かしい時代になった

あのころは「悩み」が多かった。大雑把に言ってみれば 二十歳代の時代は 未知なものだらけで 前に進むには不安だらけだったということだろう

進学で悩みで悩んだ。人間関係でも悩んだ。そのころの僕たちには「人間関係」という難しい言葉は身近ではなかったのだが 自分の頭にある像と実像との食い違いに悶々と解決策を見つけようと悩んだのだろう

実現できない自分の夢が 叶うことなど本当にあるんだろうか、と考えることがあれば 同時に目の前の難関を乗り越えて受験の勝者になろうと闘志を燃やした日々もある

夢を叶えられない奴は根性なし弱虫か・・というように考えたのだろうか、努力が足りないのだ、自分には甘さがあるのだ、というように自分を責めた時もあった

高校生や大学生はそんなことに悩み暮れているのが青春だったのだ
四十数年も荒波に揉まれた。荒波というと格好がいいが実は一言では表せない凸凹の人生だった

悩むとは一体どういうことだろうか

受験で火花を散らす時代ではなくなった
早稲田慶應が惹きつける魅力は 今や失せてしまった

優秀な人は間違いなく増加している一方で 優秀を計る尺度には好成績を残せるのに 使い物にならない(教え直さねばならない)高学歴な若者が増えていることも間違いない

甘いというか 緩いという言葉が 浮かんだ

つづく


悩むということ 二、

『悩む』という言葉は長い人生の間に 何処かに捨てたか、いいや 何かの拍子に忘れかけていったか、ノートの片隅にも出てくることが殆ど無くなった

もう悩まなくなったのか 悩みが変形したのか・・それを今は判別できない
思案に暮れることは これまでに幾度となくあった
そのたびごとに迷っている

しかし結論を見透すコツが身についたのか
あるいは 人間が冷めたのかなとも思う

あたふたとしないのだ
悪い奴らをたくさん見て 躱すのは上手になった
世の中こんなもんや、この程度の集まりや と舐めてかかれるようになった

そしてもう一つ
世の中にはまだまだ「もの凄い奴」が居るのだと言うことを知った
冷静になれば動じず 道がいくつも見えてくる

全ての道には言い分がある

表があれば 裏がある
裏(ウラ)を否定してはならない

つづく


悩むということ 三、 ─ 狡い奴たち

過去に在籍した会社で出会った人間の善悪な顔を思い出しながら少し脱線しよう

過去の道のりには人間の醜さが溢れていてそこでオロオロしていた期間が少しあった

でも そこを抜け出してからの人生で 視野を変えて 社会を冷静に分析すると「表・裏」が見えてくる

あそこで(悪を)学んだことを振り返ってみれば そのおかげで 人としての厚みと深さを備えた懐を得て 逞しくなった自分ができたのだと振り返っている

世の中には美的な談話の数と同じほど醜く『エゲツない』話がある

真面目に生きれば 周囲には善人ばかりがいるように思えるけれど ところが 実際に紛れ込んだ目前の社会(組織)には 優秀で使える人材が一割ほど その一方で不出来な奴が三割ほど しかも 全体の八割は 悪い奴だ(過言だが)と考えてよいことも知った

そう知らしめたのは 三十代に過ごした組織での凸凹な道だった

人生の選択の時に悩んでいる日記を書いている人を見かけるたびに もっと視点を変えようと言いたいが こちらの声は届かないし耳を傾けられることも少ない

そんな根拠を探るために「醜い」とは何かを考えてみたい
あまりいい話ではないがどうしても書いておきたいの触れておく

パーな会社に長年在籍したことで 二つの人間性をみることができたし 自分も成長できる礎ができた
メモを探ると いくつかの言葉が出てくる

「狡い 貶める 卑しい 蔑む 謗る 腐す」
「卑怯 誹謗 冷淡 非情 悪賢い 身勝手 薄情 横着」
「中傷 侮辱 脅迫 叱責 怒鳴 」
「逃げる 無関心 すばしこい 貧困な精神」──
「パーな会社には 『狡い奴』が満ち溢れていたことを忘れてはいけない」

──と書いている

国立大学や有名大学の出身者のデパートのような集団で 世間から見えればエリート集団であり人気企業であり難関な会社でもあった

ところが 中に飛び込んだら(まあ何事でもそういうものだが)全く様子が違うわけで 総じて言えば「醜い」人間性の集団だった

松下幸之助の言葉は 素晴らしいし人生訓としても社会人としての手本としても 掛け替えのないものだったのだし 触発されて飛び込んできた面々は各々 入社したころは 清く美しく純真無垢な新卒だったのだろうと思う

ところがそこでそれを手本にしたはずの集団は 大きく期待外れの集団に姿を変える

それはそれで なるほどと認めて 集団とはこんな風にも成長⤵️するのだと納得することにしている(それ以上悪口を言ってもコチラの品が下がる・・)

大切なのは『そんな集団に変化していったのは何故か』を様々な角度から考えてみるのが良い

その(一種の)反省は 会社をスピンアウトしてから二十年間ほど別の新しい組織で社会人としてやっていく過程で大いに役立った

世の中には こういうギャップが存在して 表と裏があって 醜いものがあって 汚い奴らがいて そんなものをほどほどに(最低限度でいいので)体験するのがいい

八割が悪い人間だと書いてはいるが 私は性善説でそれらの人が『性悪』というわけではなく 日常に暮らすぶんには「イイ人」のことも多いと感じている

悩むということを乗り越えるには 悪いものを一通り乗り越えておく必要がある

昔からいう「人のふり見て我がふり直せ」を体感をすることだ

そういうわけで悩むなんてのはまだまだ青い証拠で 悩んでいるくらいならもっとやらなあかんことがあるのだという話

つづく


「悩むということ」に続いて

年の瀬で就活の波に揉まれている人の声にちょっと耳を傾けた 、けど

もう 蘇るのは四十年以上も昔話であるし 景気が良く楽な時代だったので僕に就活は無かったと言える

研究室の教授に話が来て 面々の中から「ほいキミがここに行くか」と声をかけられて 就職先が順番に決まっていった

試験も受けないで 形だけの面接があったかどうか

みんな大手や有名企業ばかりに振り分けられ もれなく彼らは出世して偉くなっていった時代だ、新聞で名前を見かけても引退の色合いが濃い

それぞれの時代にはそれぞれの悩みがあって 胸に描く夢もその時代のその人々によって違ってくるのだ

振り返ってみれば 激動の時代だったと感じるのだ、けど
本質にはそれほど差はないのではないか

大きな夢を抱いてトップ企業に滑り込んでも夢破れて ひと時は 人生を諦めるほどまでになったとしても 何が運命でどう道が開けるかということは 未知だ

運ではない、自力でもない、瞬間の判断でもない
日頃の行いでも 徳を積むものでもない
言葉にできないものがあって 今がある

さて、それをどうやって伝えるか、だが


雲外蒼天

悩むこと』に続くことなどなく
もっとさっぱりとクールに捉えてよかろう

社会で生きていくこと(人生)とは
深い森を抜けて高い山に登りに出かけているようなものだ
頂上が見えていることがあれば 見えないことだってある
それは雲に隠れていることもあれば地形的に見えないことがある
頂上が見えていたがそれは 一歩手前の(あるいは別の峰の)小峰かもしれない

頂上に到着しても『雲外蒼天』とは限らない
裏切りもあれば 落とし穴もある
悪天候もあれば クマも出る

出現する数々の想定外な事柄は
冷静な後からの考察では 全く例外ではなく

想定上の壁程度のことも多い
悪い奴や狡い奴も居て当たり前だと心構えをすることも大事だ(った)

そんな中で
筋書きにないような人に出会い
大いに刺激を受け
考え方にも大きな感動を受けて
道を進む上で
掛け替えのない影響をもらう人も出現する

三人の息子を順次京都大学入れた知人がいる
車が好きなのを我慢して 子どもの教育を最優先に考え生きてきた

頂上に辿り着いたら さて 大空に舞い上がることを考えるのか
羽を背につけて崖から空に向かって飛ぶのか

長くて暗い森を抜けて険しい崖を登って辿り着く頂上は 本当に人生の目的なのか
ヒトは 頂上を目指すべきものなのだろうか

負け惜しみ人生を送ってきた私だが
ここにきて 余命に欠陥ではないがそこには限界が存在すると宣言されるような(大袈裟)診断の結果を聞いた

百歳まで生きる事は可能かも知れない時代だが「そこまでするつもりもない」というのが日頃の信条だ

しかし 意思を伴わずに折って捨てるような事は考えない
引退後は もはや 頂上を目指すことを強く考えていたわけではない

だが
五合目にある別荘のようなところで 頂上や麓を眺めながら暮らしはじめて

さて、何をしようか
なのだ

✤ 


師走のはじめに ✴︎ 子どもたちがアウトドアに出かけて

減塩生活はそれほど苦にならない
小麦のカットと減塩食で 体重も72Kg ほどまで減っている(多い時は79キロ近くもあったから)
外食や惣菜も削減して 塩分量をこまめに確認しながら食事を作るだけだ
 ─(時々刻々)

師走を迎えて考える時間が募る
何が纏まって浮かぶわけではない

孫たちは 家族で週末からキャンプにお出かけで
ロッジで寝るので寒くもなく 電気が来ているのでテレビもあるようだ

バーベキューをするのか 焼き芋をするのか・・
どんなことをして楽しむのか

アウトドアでの遊び方のスタイルが大きく変わった
私が楽しんできた野営とは全く別物になっている

✴︎ アウトドア

アウトドアという言葉は華やかで頻繁に使うこともなく ツーリングで宿が取れないときは野営やキャンプで夜を明かした

それは宿泊費の節約か宿を確保できないのがもっぱらの理由で 非常用に始まり 次第に便利なスタイルとして定着していった

それが いつの間にか新しく御洒落なスタイルとして定着したのが「アウトドア」という呼び名で そこには不便で貧相なイメージがすっかり消えてしまっている

キャンプ用具も「グッズ」と呼び名が変わり 苦痛を伴わない快適な夜を過ごす手段となっている

雨が降っても寒さに襲われても嫌気も襲ってこない楽しいものだ

❅ 新時代のアウトドア

グッズは 至れり尽くせりの便利なもので 野営時代の間に合わせのような材料はまったくない。考案して工夫をした便利で快適な道具ばかりだ

持ち運びや使い勝手に不満があったキャンプツーリング時代のものとは打って変わって安心で便利である。何でも揃うのでツーリングの荷物がグッズで溢れることがあるかもしれないが 不安な旅はしなくてよい

キャンプサイトも十分な備品が揃い ホテルに泊まるレベルになっているのだが お金をかけて快適というなら 元々の姿とは遠くなりすぎて モヤっとした気持ちもある

もう 今のアウトドアの遊びの世界には戻っていこうという気にはならない
それは バイクツーリングにも戻ろうとしないのと同じものが心の奥にあるからだ


(外伝) 師走はじまる ✾ 減塩ぼちぼち

日記が『減塩』の文字ばかりになっていく ❋ 十一月尽

連休とその後の減塩

勤労感謝の日(飛び石)が過ぎて減塩な日々へ ➤ (外伝)

十一月初めに循環器に通いはじめて あっという間に十一月下旬を迎える

塩分を控えた食事にチャレンジ中だ
血圧の値は 130mmHg(120mmHg) - 90mmHg(80mmHg)付近で 落ち着いているようすだ
140mmHgという大きめの値が出ることがなくなったので 減塩の効果が出ているのかもしれない

体重は 四キロ減って 朝目覚めて体重計に乗ると 73kg よりも軽いことがある
これは ここ一年間ほどの間で 80kg に達することもあっただけに 大きな変化だ
きっと 小麦を一切やめてたことによるのだろう
うどん・ラーメン・パン・マクド・ウインナーなどを食べなくなったし 総菜弁当やおかずも パクパクとは食べない。卵も食べたとしても一個丸々は避けている
ステーキなどの肉は 六切れから三切れにまで減らした

みなさんが「素材の味が楽しめるようになりますよ」と仰る
つまり それだけ 味付けが薄くなって キツイ調味料の味が消えていくというのだ

アルコールよりも怖い塩分

僕はそう気づいたわけで 環境破壊の警告を仕事で発信(引退済み)してきたのと同じように 塩分による健康破壊を 叫びたいくらいだ

美味しいものに知らぬ間に味覚が犯されていって 塩分とコレステロールが健康な身体を蝕んでいるのだ。でも 叫んでも 幸せに食べ続けている人の心にはなかなか響かないだろう

書きかけ

早や夏秋もいつしかに過ぎて時雨の冬近く- 小雪のころ

循環器科の診察の予定がカレンダーの骨組みを作っていく
そんな日々
その間に「ニュー・デューク・オールスターズ」の練習と京都日記が入り込む

早や夏秋もいつしかに過ぎて時雨の冬近く
この部分を引いて、歌舞伎の「雁金」という曲なのだと福永武彦の「忘却の河」で紹介する一節があって、それを読んだときから秋になるたびに、ここにただようもの悲しい風情と秘められた大人の妖しくも美しい惑いを感じるのです
誰が何をどうしようと時間は刻々と過ぎ去りやがてあの忌々しい時雨の冬がやってくるのだろうと思いながらもそこはかとなく冬を待つ私がいるのです

雁金の結びし蚊帳も昨日今日 残る暑さを忘れてし 肌に冷たき風たちて昼も音を鳴く蟋蟀に 哀れを添える秋の末 露の涙のこぼれ萩曇りがちなる空癖に 夕日の影の薄紅葉 思わぬ首尾にしっぽりと結びし夢も短夜に 覚めて恨みの明けの鐘 早や夏秋もいつしかに過ぎて時雨の冬近く 散るや木の葉のばらばらと 風に乱るる荻すすき草の主は誰ぞとも 名を白菊の咲き出でて 匂うこの家ぞ 知られける

(黙阿弥 「雁金」から)

飛び石連休であった
何もいつもと変わりなく時は過ぎる

今は減塩との闘い・・いや 闘っているつもりはないけど

✢ 書きかけ

減塩日記 ❇︎ 京都日記 二、

帰りに長次郎でお昼を食べた

とーさんが 孫と数日前に行った話を聞いていたので そのお店を知って 調べてみると旨そうだったので 支出を惜しまずに行くことにした

そのあと少し紅葉を見ようと『御斎峠』を回ってみた

❇︎

とーさん は 依然として ぼんやりした日を過ごしている。
おやつを食べて 三度の食事の頃には およそ満腹になっていることが多いらしい

腹が痛いと訴えるのだが お菓子の食べ過ぎだろうと ツマは話している
「おやつを食べないように」と注意をして帰ってくるのだそうだ

ほとんど寝ているかウトウトして時間が過ぎる

一体 脳波はどうなっているのだろうかと気に掛かるが 健康的な症状には何も異変はなさそうだ

❇︎

老衰で死んでいくときは まさにこのように衰えていくのだと誰かが話していたことが私たち二人の間でも話題になる。誰々もこんな最期だったという

二年も生きてもらいたくないときっぱりと言葉にしていいながら そうすぐに死んでしまっても可哀想だとも思い これ以上いつまでこうして世話を焼くのかという不安もある

全く進んでいかない思案が ぐるぐると回っている時間が積み重なる日々だ

重くもあり軽くもある

こんなことをして自分の順番が来る日の事を憂いながら 日々を送っている

減塩な日々が始まっている ✤ 京都日記(㊙️伝版)

➤ 減塩な日々のはじまり ✤ 京都日記

✤ 外伝を書いて 一息ついて ここにきて 書きかけ

心不全の診断は続いている
それとは別に 『ニュー・デューク・オールスターズ』に参加することになり毎週練習に行く
そんなこともあって京都日記を十一月のいまごろに書くことになった

十一月初旬に立冬を迎え(八日)その後 異常に暑い日があったものの 順調に冬へと向かっている。この日記を書き足していく日々は ちょうど『小雪』を数日後に控えた中旬暮れのころで 京都はまさに秋の紅葉シーズンで人の波が溢れるとき

人混みなど諸共せずに出掛けた若きころが懐かしいと思いながら 嵯峨の別邸でぼんやりと過ごしている。このたびの京都はこんなタイミングで 人混み渋滞を恐る恐るやって来たのでした(十八日土曜日)

羨まれるほどに絶好の時季なのだが もう紅葉の景色を見に出てゆく元気は今の僕には無い。燃える秋の興奮が人々を激しく感動させていても 静かに息を潜めて見物している

たぶん 誰もが同じ一眼やコンデジを持ち同じ景色を同じ感動のふりをしてカメラに収めているのが気に入らないのだと思う。むかし僕たちを痺れるほどに感動させた自然はどんな時代になっても変わりはないはずなのに 金太郎飴のような感動の表現しか届いてこないのだから カメラを持つ魅力が失せていくのかもしれない。

出かけることもやめたの理由はそれだけではないと思うけれど

十一月初旬から 減塩食の生活が始まっている

心不全

ほんとうにそんな病気かどうかは はっきりとはまだ告げられてはいない けれども心臓の拍動が数秒止まる記録がくっきりと残っているのだから 逃げられない

原因が何かも尋ねてはいない。だが 高血圧を抑えなうてはならないと指示をされた。コレステロールも高いし 腎臓が弱っているという数値が出ている

減塩食

だから 塩分コレステロール 脂質に気を付けた食事をする必要があるのだ。腎臓がへたっているし 子どものころにも病んでいるし さらに父親譲りの面もあろうから カリウムリン 小麦粉を抑えて 高タンパクな食事を控えるように・・・

首を絞められているような宣告を受けたわけで 素直に受け入れて 十一月の初旬から減塩な日々が始まっている

書きかけ・続く

魔法にかかったように時間に残してきた足跡 ✻ 京都日記 [裏表紙・号外]

京都日記


冬を待つ束の間の季節である

秋という時間は短く足早に心を枯れさせてゆく

しかしながら
この枯れてゆく瞬間というのは
自分を静かに見つめられる
かけがえのない時であるようにも思える

数々の忌まわしい過去を捨ててしまおう
思い出など枯れ果ててもかわまわない
とそう思っている

ひとつの逃げの手段かもしれない

やがて
忘れようとしても忘れられることなどないはずの
魔法にかかったように時間に残してきた足跡

あっさりと掃き捨てられそうな気持ちになる

欲張って
自分の人生の記録帳を膨れ上がらせてきたのだが
それもよくよく考えれば
虚しいことだと気づく

その気づきが正しいという保障もないまま
行く道を探って
一つ二つと決心を重ねて
やがて行き着くところの姿を思い描く人も多かろう

答えなど
模範解答などどこにもないし
答えがあるかどうかさえ明かされないままだ

京都の時間は止まっているかのようにすぎる

痴呆の人が静かに
『サ高住』の玄関ロビーを歩いている姿を見ていると
何処かへ泳ぎつこうとする
漂流する何者かそれは漂流者にも似ているように
見えてくる

決められた動作を
繰り返すロボットのように動き回る介護施設の人たちや
それと対照的に浮遊する高齢者の姿が
決定的に病院での様子とは違うことに
遅まきながら気づき
目指すところの違いを知らされる

静かである
会話はいらないのだ

待っているのだろうか
自分がどこかに導かれるのを

息が止まる瞬間

いや
誰か人が現れるとか
恋人ができるとか
昔の友人がやってくるとか

この住処を飛び出して
何処かへ行けること

夢見るのだろうか


✢✢ 十一月十日のひとときに メモ帳に書き残したメモを載せておく

✤ 鰻を食べたけど食事制限を・・ 立冬篇

立冬を迎えている

これまでに生まれてから歳の数だけ冬を迎えてきたことを思うと それが六十数回ということに驚く一方でたった六十六回なのかと冷静に見つめる時間もある

冷静に見つめるということが大事であり 意味の深いことなのだと思う

前にも触れたが 一年を50週間と切り捨てて考えると 10年は500週間だ。たった500回なのか とんでもない500回なのかは それぞれの対象に依る。あと10年生きるとして 目標に決めたことに500回チャレンジするような 活動的な暮らしを取り戻すべきだと常々思うのだが

様々なことに直面している

心房中隔欠損』に加えて『心不全』の症状がある。節制して暮らしていれば長生きできるさ と明るく話してくれる人の言葉は貴重だ。別に何も悲観的には考えていないから大丈夫

生命科学分野を卒論に選んだこともあって一生 このことに関心を持ち続ける人生を送ってきたわけだが 今ここにきて人が生き続けることへの使命や節理のようなことを考えることが増えている

紛れもなく 痴呆脳との出会いが大きい。自らの生命もその終端を如何にあるべきなのか、考えることが増えている

面倒な話はやめよう

✣ ✣

京都に来て 介護面会をする生活を 送っている。その間の食事を簡易的な台所ですることもあって 「ままごと」のようなおかずをツマが作ってくれる。これがまた今までになく新鮮で美味しく食べられる。今までテレビの料理番組やグルメ料理店のCMのような華やかな料理を作って愉しんでいた毎日から 急旋回となった

先日の循環器科の平岡先生の話を受けて 食事メニューを見直している結果 『ままごと』のような料理を毎日食べるわけだが 美味い食材で作る料理よりも 頭の片隅にある「十年後の健康」を思うと これまでの食事が「裸の王様」に見えてくる

明日に続きを書くことにする


✤ 鰻を食べに出かける – 十一月初旬号

腎臓病(CKD)を学ぼう - 月の初めに考える 霜月

外伝✺ 塩分など制限厳しい日々・・十月は足早に過ぎて ✢ 十一月はじめに  ➣

⚡︎

十月は 飛騨高山に出かけたり 心電図の連続計測を受診したり サンマも連続して食べた

サンマ6号(16日)
サンマ7号(27日)
サンマ8号(29日)
食べ続けました

けれども

⚡︎

心房細動

心房中隔欠損』の他に 心電図解析の結果 『心房細動』も見つかります(31日)

⚡︎

不整脈の薬にこれから世話になる
腎臓病(CKD)の恐れがあること 遺伝的にも 予測がついていた
コレステロール脂肪塩分との闘いの日々が始まる

12月の初めに血糖値の上昇の検査(HbA1c)を受けます。その結果を診て 日赤で精密検査か、しばらく 食事療法を続けるのか。この先はまだ私にはわからない

⚡︎

美味しいもの

ウインナー ソーセージ、ハンバーグ、ラーメン、パン、竹輪、ハム、マヨネーズ、サーロインステーキ、ベーコン、バラ肉、スパゲッティ、たらこ、エビ、小麦粉製品、バター類、卵類、鰻

こういったものは 要注意でして 大きく制限がかかってきます
しばらくは お別れになりそうな気配です


つづく・・・

わはく百話 - その 八、 花屋をしたい (霜降号)

わはく百話 - その 八、花屋をしたい


将来『花屋をしたい』が私の口癖だった、本当に花屋をしたかったのか、切実に夢を見ていたのかどうかは はっきりしない。花の名前に詳しくもないのに 何故に花屋をしたいと夢を見たのか

子どものころに母が 庭の花を切り花にして新聞紙に包み学校に持たせてくれて 教室に生けてもらうことで 花を愛したことが印象にあるからか。

もしかしたらそのころから「花屋になりたい」と話すようになって行ったのか。大人になったら・・という話を母とほんわかとかわすときに「花屋さんをしたいなあ」と話したような記憶がある

花屋になりたいと思う一方で 「本屋をしたい」「酒屋さんをやりたい」などとも言った。軽い夢だったのだと考えていいだろう

「船乗りになりたい」とも言っていた。多くの子どもたちが野球選手を憧れるように船乗りに憧れたのだ

「カモメの水兵さん」を歌って踊ったのは幼児期だ。船で大きな海をゆく姿をどのくらい想像していただろうか 海軍や自衛隊の船員のイメージではなく 大きく静かな海の上を航海する姿を夢見たのだろう

船乗りに近いけど「南極観測船に乗りたい」と思ったことがある。未知なものへ希望をもつことから「富士山レーダーで仕事をしたい」というのもあった。サイエンス系の子供雑誌の影響が大きかった

小学校の後半のころになると現実味が出てくるきて「アナウンサー」と言い出す。何の影響を受けたのかはわからない。ニュースを読む姿に憧れたのだろうか

父はアナウンサーという職業に憧れたのだろうか、年老いてからも「おまえはアナウンサーになりたかったんやなあ」と嬉しそうに昔を懐かしんではそんな話をした

花屋さん」は 叶わないとわかりながらも 人生の未来の姿に夢のように重ねてみては 幾つになっても考えることがあった。子どものようだがロマンを諦められなかったのだろう。何かの拍子にチャンスがあるかもくるかもしれないなどと いい大人になっても抱き続けていた

新入社員のころ 挨拶で「将来は花屋さんになりたい」夢を持っていると話し、そのことを覚えてくれていた同僚の女の子が 私が仕事をやめて田舎に帰るときに「いつか花屋さんになれるといいね」と別れの言葉を贈ってくれた。これは嬉くて感動した。何年かは技術者として働いて晩年に花屋の夢が叶いますように・・と祈ってくれたのだろう。素敵な女性だった

燃える秋 - 初めてのバイク旅をふり返る (誕生篇)-『わはく百話』その七、

『わはく百話』に追加します
その七、燃える秋 - 初めてのバイク旅をふり返る (誕生篇)

ちょうど四十年前の十月の今日あたりに僕は初めて信州という未知なるところまでバイクで旅をしたのでした

仕事が連休だったという理由で 何の計画も立てず 夏に買った新しいオートバイで走り回りたかったのだろうと思います

地図も持たずに 中山道を北に向かって走って 木曽の宿場町などで休憩をして 観光案内で名所を探して 乗鞍高原というところに向かって走ったのでした

木祖村から『境峠』を越えて乗鞍高原に入って行くわけです

そこで 初めて 信州の大きなスケールの紅葉との出会います

大きな大きな山が聳えていて その山中が燃えるように色づいていました

名前も知らない樹々が一面に赤や黄色になっている

乗鞍高原というところにやって来ます

地図を持たずに家を出ていましたので 高速道路のパーキングでもらった道路地図を参考に走りました

乗鞍高原は予習をしたわけではなく 全く初めての信州です

宿に泊まって旅をするのも 未経験で 予約の方法も知らないので 観光案内所に駆け込みます

同じように旅館を探している行き当たりばったりの人が大勢あって 数人を纏めて 観光案内所で紹介された民宿では 大きな宴会場のような(屋根裏のような)部屋に案内されたのでした

あの頃は 人を疑うというようなことが今のようにはありませんし 客扱いが悪くても不平も言わずにいましたな・・・

貴重品なども相部屋のその辺に放り出して 免許証や大事なものが入ったツーリングバックも特別に片付けるわけでもなく、共同浴場に行ったり、知らない人同士で夜中まで旅の話をして みんなで枕を並べて寝ました

乗鞍高原では 野原に湧き出している共同浴場という温泉小屋がありました

木の板で囲った東屋のようなところです

そこでお湯に浸かって 温泉ってなんて素晴らしいんだろう と感動するわけです

前に紹介した『バイク考』の中で書いたように このころはあらゆるものが未完成で 進化の途上でした

そういう時代に旅人をできて 僕はとても幸せでした

秋も深まって来ました

四十年昔に訪ねた乗鞍あたりの山が恋しいなと思います

大自然の景色は昔と同じだろうけど 旅をする人の文化は大きく変わっています

もう一度 大自然に再会したいな って思うことが時々あります

心臓のエコー心電図を受診して もう少し詳しい検査をして判断をする必要があると言われました。心電図の結果が出たら 紹介状を書いてもらって 日赤病院へ行くことになります

祖父と父は 『高血圧』→『脳出血』→『脳梗塞』→『腎不全』→『心不全』という流れで六十六歳で亡くなりました

私もその道筋を歩む覚悟をして 人生の後半を歩んできました

今ここで『心臓疾患』の項目がシナリオの一つに出てきました

やれやれ困った

六十六歳です


二十四時間心電計と心臓エコーを受診 - 十月中旬号

二十四時間心電計と心臓エコ検査を十月十日に受診した
その結果の話を ゆっくり書こう

続く(書き足す)

心房中隔欠損症という病気の疑いが子どものころにあった
しかしそれは成長に伴い治っていく病気であると言われそのまま大人になったわけです

この歳になりながら 少し前の市の健康診断で「心臓の脈動に気にかかるところがある」と指摘を受けて 循環器の内科を紹介してもらっていた

紹介状を持って 平岡先生を訪ねることにし 二十四時間心電計の診断と超音波エコー検査をして受診する

エコーを見ながら先生は さらに 精密に RIで検査をした方がよいから 日赤病院を紹介する・・という

血液を採取したので 月末にわかる二十四時間心電計のデータ解析結果を待って、その後 紹介状を持って 隣接市の日赤病院に行くことになります

つづく


外伝

布団一枚干して寒露の朝を待つ - 寒露篇 裏窓から

布団一枚干して寒露の朝を待つ

寒さが一段飛び上がったようにました
二、三日でこれほどまでに朝が冷え込むようになるものか

#秋を待つ
じっと秋を待っていた九月の末ころの残暑が全く嘘のようだ

気象データの記録を何年か昔まで調べると なるほど十月になると途端に気温が下がる日が増えている
八日(日)は #寒露

❄︎

八日は寒露だから 寒露篇 は 朝を迎えてから考えよう


🍄 朝焼けや寒露の海を焼き尽くす

#寒露
#朝焼け

✴︎

寒露の海を焦がしてゆく
夢のような物語が浮かんでくる

熱さを肌に感じる

空模様は下り坂で
言い訳は許さない

断崖から見下ろす大海原

✣✣

🍄 寒露待つ茶器に迷うた日暮れかな
#寒露

✣✣

🍄 布団一枚干して寒露の朝を待つ
#寒露
#秋を待つ

こんなことを 纏めてインスタやmixi に書き残している
死んでしまったら どれが自然消滅するのか 全く予想がつかない
みんな一斉に泡となって消えるのか

布団を一枚 少し夜中には暑いと感じたものの それもやがてカラダが 馴れるだろう

仕事をしていたときは 毎朝 駅までの道のりを歩く中で 道端の草木に朝露がつくのに気付き さらに空きが深まれば ひつじ田に霜が降りる朝をみて季節を感じた

今は毎日が のんびり 朝寝の日々だ

心配事といえば数日後に控えた 『二十四時間心電計装着』の診断が迫っていることくらいか


サ高住のロビーで考える - 十月はじめに

京都のSOMPOの玄関ロビーのソファにかけて 介護面会にきたツマが用件を済ませて帰るまでの1時間ほど 待つ時間がある。その間に ここに出入るする人を眺めていると 職員と家族の面会者のほかに ヘルパー業務の人が何分かおきに出入りをする。人は受付に声をかけ 静かに決められたルートで歩いていく。荷物を運び込む人や 掃除をする人もいるし 自分の部屋を出て散歩に行く人とか廊下を人の歩く姿も時々見かける

病院の入院病棟の廊下とは 雰囲気が少し違う。ここに住むのは 健康な人から痴呆の症状や老化で要介護の人までいる。定期的に通院をする人もいる。だが、大部分が事情があって自分の家に住めない人だろう。またはこのサ高住がいいと判断した人だ

病院の病棟との決定的な違いは 病気が治って退院をする人が混じっているかいないかだ。このまま一つの運命に向かって進んでいくの待つだけの人だけが 今は健康で、何の問題も支障もなく生きているという空気は どこにもないものだ

京都日記

八日(金)大津の王将でお昼、夜は簡素にイタリアン

﹅﹆

用事を済ませた日は帰り道で食事をして
家に帰って簡素な(手間のかからない)食事で済ませる

潔く語らない -[わはく百話]その 六、

じいちゃんたちの過去に触れてみたい
というような熱い想いは
今の子たちにはないと思う

『深夜の自画像』『わはく百話』 その六、

その 六、 潔く諦める

じいちゃんたちの過去に触れてみたいというような熱い想いは今の子たちにはないと思う。そんな必然性もない

過去は押し付けられて学ぶものではないし、そのころの暮らしの感覚や物に触れる心などには 興味もなかろう

一つの時代を生きて来た人に直にその時代を聞ければ (例えば戦後を辿るとか)そのことをもっとしっかりと知れるのに・・と私たちが考えたような気持ちは 今の子にはない

生活文化が大きく変化したことなどが そうなった原因であろう。やはり幸福感覚が右上がりではなく 水平になってしまって 好奇心が向いていく方向が変化したのだ

ヒトの感覚や知性を刺激するものは 変化率である。変化が少なくなったことで 残念だが ヒトは本能的な生きる能力までも退化せてゆく

そういうわけで 昭和を語ることは「潔く」諦めることにしたほうがいいのだろう

痴呆の人にはもう会いたくないと・・月のはじめに考える - 京都日記(痴呆脳)

京都に来て座敷机に腰掛け
かれこれと考え始めれば まず『痴呆脳』のことが浮かぶ
不定期の京都日記を少し書こう

秋を迎えた。(新年になれば)とーさん も「サ高住」やがて満一年を過ごす事になる。この三季節ほどで 痴呆の度合いが著しく進行したわけではないもの 行動・思考意欲が低減していることなどから 体力が衰え 暇な時は横になるとか眠っている時間が増えたようだ

何もしなくなって食べることへの自主性も無くなって『眠る時間が長くなって 死んでしまう日が来る』

そう周囲の人たちが口々に言う

「こんな日が続いて やがて 死んでしまうのだ」

はっきりとそう言う人もいれば 頷くだけの人もいる。そんな本音だけの空気の中で 毎日を生き続けている。テレビ番組を楽しみするわけでもなく 時間になれば食堂へ行き 決められた食事をする。何日かおきに 幾つかの医院に通う

医者は症状の診断をするが 死んでしまえば業務は終了なのだろう。大学の研究室なら死んでもその原因や死亡するまでの過程を分析するところだろうが 町医者の仕事としては病人の診断して死亡と同時にその仕事は終了・・となる。よく考えれば医者の本来の姿として オカシイ。

病気の進行過程を分析してこそ医学者の医者たる腕が上がり 庶民の命を預かる使命を長い時間かかって果たして行くのではないのか・・とそう思った

そう言うわけで 記憶が甦ることなど全くない日々が続き 期待もなく 残り時間がじわりじわりと削られてゆく

(私の)伯母さんが施設に入っている。大正十四年(丑年)生まれだ(九十八歳)。昭和元年(大正十五年)が寅年なのでその前年にあたる。その六年後未(ひつじ)年(昭和六年)に母が生まれていて ちょうど九十二歳になる

二人とも元気だ。母は週三回のデイに通うのを楽しみにして 今だに「数独」の腕前は工学部のムスコ(私)よりも達人だ

一方、伯母は数年前から施設に入り 先ごろ少し重度の施設に移動したと言う便りがあった。

数ヶ月前に母は姉の面会に 妹と連れ添って出かけている。その時に実の娘もいて三人が揃ったのだが 娘はわかったもの あとの二人に「あんたら誰や?」と言うたそうである

先ごろ、鰻を食べに出かけた日記を書いたが「もう会いにいく気はない」とその時にそんなことを母は言っている。悲しいのだろうけれども 諦めがついた話ぶりだった

あとは自分がどんな形であの世に行けるのか・・それも神様仏様任せのようだったが、身体はすっかり九十歳を超えた老人の動きである。まだ少し 時間が 残されているものの覚悟はしている

「京都日記」では とーさん のこれからを考えていくつもりで日記にし始めた

ところが 寝てばっかしで ツマが面会に行っても一人でテレビを見て時間を過ごし 身の回りのことあれこれして帰ってくるだけだ


子どものころの夢の話 [わはく百話]その 五、

子どものころに アナウンサーになりたいと言った
そのことを父は喜んでいつまでも語った

『深夜の自画像』『わはく百話』 その五、

その 五、子どものころの夢の話

小学校の卒業で「アナウンサーになりたい」と寄せ書きに残した。そのことを父はずっと私に話し続けた。そんな夢をみる息子が嬉しかったのだろう。きっとその夢を叶えて欲しかったのだ

こんな感覚を持つ父のような人は 自分も叶えたい夢が子供時代に必ずあったに違いない。だが そんな話を 酒を酌み交わしたりして語らうチャンスには残念ながら恵まれなかったため 二人の間で話題になったことはなかった

『大人になったら何になりたかったのや?』

そんなふうに 聞かれたことはなかったが(なれなかったけど)『アナウンサーになりたかったんやなあ』と 口癖のように話した

私は、料理人、大学の研究者、電車の運転手、作家、医者、花屋さんなどを思い浮かべるような気の多い子だっが、何もそれらに近づく気配もないまま人生を走り抜けた

父は、死んで二十五年が過ぎているが 子どものころにはきっとたくさんの夢を持っていた人だったに違いない。おしゃべりは嫌いではなかったものの そんなことはあまり語らない人だった

爺さんがむかしを語っても面白くなかろう
子どもや孫たちは むかしの話を聞きたいと思うのだろうか

夢を語る 九月尽 Ⅲ - [わはく百話] その四

夢を語る
そんな話もしてみたかった

『深夜の自画像』『わはく百話』 その四、

その 四、 夢を語る

学費のことや遠距離通学で苦労をさせた。自分は親に甘えまくって卒業したのに 一転して子供には厳しく言った

三百万円以上の借金が育英会にできていたが、卒業後 数年間 ちょうど結婚までに娘は片づけた。学費の借り入れの返済について 親として何一つ手を差し伸べられなかった。

恨んでもいないと思うが、充実した学生時代を過ごせたと振り返ってあるのだろうか。夢は大きく持っていただろうから、叶わなかったかもしれないが、結婚式に揃った友人たちを見てれば良い青春だったのだろうなと 思っている

あんな事がしたいというような夢の話は ふだんからもあまり聞かなかったから、何を夢に抱いていたのか、知りたい気がするものの そんな話は思ったほどに話題に出ないものだ

あっさりと就職して、お決まりで遠方に二年行って 任務を終えて帰ってきてトントンと結婚してくれたのは計画通りなのか

天文学者になりたいとか、作家になりたいとか

そんな話をしたりする時間があっても良かったのかもしれない

むかし話 九月尽 Ⅱ - [わはく百話] その三、

むかし話
もしも尋ねられたら

話してもいいかもしれない

『深夜の自画像』『わはく百話』 その三、

その 三、  

昔を振り返るのはこの年齢の宿命

自分の今が完成された幸せの体系であるから 源流まで遡って考える必要がない。

かつて 赤電話を使って遠方の親元に電話をかけるために10円玉をポケットにいっぱい詰めて下宿の路地の煙草屋の軒先まで行った青春時代の白黒映画のような様子は 漫画か何かでさらりと読んで「はい、わかりました」でいいのだ

親の苦労を知らない」と言って子供をぼやいてはいけない

何故なら・・自分も親に散々な苦労をかけて大学を卒業させてもらったにもかかわらず 全くその恩返しもせず 親の還暦祝いも忘れていたかのように知らん顔だったのだから

子どもはそれでいいのだ
(こっちはそんなに苦労とは思わず 道に迷わせてはいけないと思い 必死だった)

一回目で書いた就職の話をとっても 悔やむことは多い

しかし 人生を振り返れば それでだけよい。誰かに話すこともないのかもしれない。埋もれてしまっていいのだ

それが生きていく上での筋書きであって 一つの運命なのであろう

この歳になってそう思う
そんなふうに ぐっと飲み込んでいるような同じ思いの同年代人も多かろう

九月尽のころ - [わはく百話] その二、

九月の暮れを迎えた
もうむかしの話には 関心はないのだ

『深夜の自画像』『わはく百話』 その二、

その 二、  

昔話はそれほど望まれてない・・のだ

百話と題して書こうとし始めてみたものの 思った以上に話題がない
子供に語り継ぐものもないし 伝えておかねばならないこともない

父の死後 刻々と時が過ぎて過去の思い積み重なるにつれ 生前の父の言葉が記録にない事を悔やみ、今更 探れないだけに これからの人つまりは子どもや孫には伝えたい。それは使命ではないかと考えた

ところが 何年も考えるうちに年齢が還暦をまわり 着地点がぼんやりと見え始めてきて 気持ちに変化が現れ始めた

つまり 冷めて見つめれば 新世代の子たちは何も求めていないのだと気づいたのだ。先祖がどんな暮らしをして どんな苦労をして 何を幸せと感じてきたのか・・今の子は そう言ったことには 関心を持たず その必要性もなく 省みることにも 知っておくことにさえも価値を感じていない。だからサラリと触れておしまいという感覚なのだ

生活文化史として学部には魅力がなく 家系図を辿り過去の足跡に触れる重要性は 今のこの時代には求められていない

衝撃であった

「深夜の自画像」姉妹篇に『わはく百話』を - 秋分篇

十月になると六十六歳の誕生日を迎える
祖父と父は 六十五歳、六十六歳という若い年齢で亡くなっている
今この時に 何を振り返っているのか
そういうものを筋書きもなく 少し書きなぐってみようかと
思う

『深夜の自画像』『わはく百話』

その一、

娘には可哀想なことをしたと思うことがある
暗に 一生働かなばならぬように 就職させてしまったからだ

働いて稼いで社会的にも出世して自立もして生きてほしいと思ったからだろう

これからは働く女の時代になる、自分の能力を全面に生かして社会に貢献する
そういう女性であれば、強く同時に楽しく また充実して生きてゆけるのだ と思ったのだ

それは私の考えた夢だったのかもしれない
決断の時にどのように悩んだのか 思案したのか 選択を迷ったのか わからない
が 娘は 親の言うように現在の仕事に就いた

試験を幾つか受けて 不合格になりながら 現在の職に就いたのだから 自分の意思の他に幸運の女神がいたのかもしれない

だが、果たしてそれでよかったのか
それをこのごろになって思うことがある

元には戻せないのだからその思いはナンセンスかもしれない
これで行くしかないのだ
しかし 自分の心が弱っている時が来ると 反省を呼び誘うように弱い虫が出てくる

これからは 女性が働く時代だ
自分の力を包み隠さず生かす時代だ

旦那さんと一緒に並んで、早く出世して 偉くなりなさい
人の上で組織を動かす仕事ができるようになりなさい

とはいうものの・・
育児で時短勤務中であっても 苦心は多いし 子どもへの負担もある
子どもが熱を出して寝込んでいる話が届くと 夫婦で働きながら育児をする苦労を心配する

今は 未来に期待するしかないのか


鰻(25日)サンマ1号、2号、3号、4号(8日、17日、22日、26日)
外伝:ディズニーオンアイスに行く、サンマ3号4号 - 九月尽  9月28日

ヒトの生き方を見て 振り返ってみる ─ 九月下旬

「転職」や「人生・今の生きがい」に触れている記事を目にすると あれこれと古傷をほじくられる。これを「取り戻せない時間」と感じるのか 輝かしい過去の栄光と思うか 難しいところだ・・

(しばらく考えている日が続いた)

転職に直面していたころ 血が騒いだ時期(とき)があった

あるときに母校同窓会関西支部総会で大先輩と巡り会い 僕の二倍あるいは五倍以上の年収をもらっている人の話を聞いて「僕もそうなろう」と決意し それに刺激されて意気が上がった。しかし 気合いが大きすぎて 空回りになったり夢を追うだけの結果を招いてしまう。人生のゴール近くまで来て 振り返ると反省点も多い

転職を思い立つ人は多かろうし 理由は様々だろう。昨今は転職斡旋(人材賞紹介)の会社のCMが目立つ。給料が伸び悩んできた社会が長年続いている。ここらで一踏ん張ってチャンスを掴もうとする人がいてもは 必然のチャレンジ精神だ

転職を ギャンブルに例える人がある。しかし それとは違って「大きな手術」に例える方が相応しいかもしれない とも考えてよいのではないか。病気を治癒し健康な身体へ脱出を図りながらも 人生に(身体に)メスを入れる事が どのようなマイナスをもたらすかは 実際に体験してみて失敗に気づいた人でしか実感できない

年収が30代から40代には 500万円、600万円、800万円と増えていった。家族は豊かな暮らしを手にし 働く充実感がある反面、ストレスにも直面していた。精神的な圧迫は 人それぞれで受け止め度合い(衝撃)や形が違ってくる。簡単にヘコタレて逃げ出せば 衝撃は軽く済むだろう。転職という大きな使命感を背負い 人生を歩みながら目に見えない束縛を背負ったときが自分にもあったのだ。しかし それは家族と共に将来を築きあげる構想の上での 必然の重みでもあり歓びでもあった

長い年月で失ったものも多い反面 家族と共に歩んだ足跡は 掛け替えが無いものだ。転職の良し悪しの判別は難しい。現在の人生の到達点まで歩いてきて 今や巻き戻してやり直せない故に「そこにはただ風が吹いているだけ」を回想することしかできない。なのに これから変化を起こそうとする人の行先に変化を与えるような刺激や意見を言うことは 歴史の改竄に手を出すのに似ているかもしれない

今の子は完成された(ように見える)社会システムに恵まれ 「豊か」で「幸せ」な暮らしをほぼ保障されている。二世代も隔たった新しい人からすれば 歴史的な進化の過程に耳を貸す気にはならないだろう。自分で進める自信に溢れている。だから関心も示さないようだ。だが・・

野生で生きる力を潜在能力として失いつつあるかもしれない現代人。完成された携帯電話を与えられ 便利を結集させた列車の予約や運行システムを利用し 科学に基づく天気予測をリアルタイムで手に入れて行動できる。何が問題なのかと胸を張るのだ

嵐が来て電気が途絶えたり 水が枯れたり 寒さが襲いかかってきたりすることへの対策として 充電器を備え水を蓄え保温グッズを準備する。人間の姿の原点を求めるなら 暗くても明るくなるまで持ち堪えて 自然の水を有効に活用して 寒さに負けない工夫をするところまで遡るべきだ

ライフステージががらりと姿を変えてしまっても、転職という深い溝を飛び越すことに 新旧もないと思いながらも 役に立つことはもはや幾許もないかもしれない

そう感じているにも関わらず 何かをカタチにしたいのだ。どんどん脱線していってしまう・・

複数の職を経験したことによって自分の層が一枚上になったと感じる根拠をいくつか挙げてみる

⚾︎仕事をかわるならその行先を しっかり『見る』

バク転するときに 上手くできない人は着地をする手の先の地面を見ていない・・からで、しっかり手をつくところを見ること(森末慎二)

「見る」ということは 人生でも何でも大事だ。数学の恩師の先生が入試の難問を出して『しっかり問題を見ること』と指導してくれた。恋人ができた時も彼女の顔をしっかり見ることが大事だと気づいたし、大学の進路を決める時も就職する時も 目標点をしっかり見ることが大事 (〜だったのだ)と気づいた

転職紹介会社のCMのようなノリは軽い。惑わされずに しっかり『見て』分析して 裏まで探って 予測して 悩んで 決めることが大事だ

そう言われてもピンとこないだろうけれども 二十年ほどすれば「ああ、あのことか」とわかってくるような事かもしれないけど その手法を今 手にするのは やはり難しい

⚾︎魅力ある人に出会う
新しい仕事について何年もの月日が過ぎると いい人材と悪い人材を 自分が人事部長なったように見えてくる。複数の色合いの会社を渡ったのでなおさら善し悪しが区別できる

⚾︎働きアリは二割、期待にそぐわないアリは八割
どんなに立派な会社でも使えない奴は必ずいる。経験を語れば 名門大学と有名国立大学のデパートのように 華やかな経歴の面々が並んでいる組織にいたのだが 安全パイではあるもののスカな奴は必ずいた。人物の知識や経歴と、仕事の出来栄えが一致しない奴をどう始末して組織を運用するかは 結構難題かもしれない

⚾︎有能人と仕事をすると仕事が楽だ
有能な人に恵まれると 仕事が楽だ。言ってみれば当たり前で 毛並みの劣った自分までもが 上出来な人間に思えてくるから 天狗にならないように気をつけねばならないが 仕事のやりがいは満たされる

⚾︎自分の才能(器量)を振り返る
優秀手段で仕事をして痛切に感じるのは 世の中には凄い奴がいくらでも揃っていると言うことだ。母校の名前を大声で叫び大きな顔をしていたのはほんの束の間で やがてそんな名札にしかならないようなプライドは打ち砕かれ 器の大きさが問われるようになる。器量というのはその懐の深さも含めて誤魔化しなど効かない。その人物がどれほどか、つまり自分の相応を知っているかが生きる道では大切なのだ

そのように自分を見通して仕事ができるようになって もう一度その職場に戻ってきたくなるような職場があれば そこを最も勧めたい。だが、ヒトは進化を使命としているゆえに、未熟だ。そんな理想の職場を引き当てるなんて、至難の業である中で どうやって自分とベストマッチする職場を見つけるのか

そこにはただ風が吹いているだけ

そうなのだ。私は科学者になろうと思ったり 医科学者になってみたいとも夢見た。(気が多いから)政治家になろうとして地元議会に立候補しようと考えたこともある

とりあえず二十年ほどは設計開発者としての道を進み 最先端の技術とも触れ合って一区切りをつけたのだから そのあとに自由にストレス無しで暮らせてもいる。どん底の暮らしがよく似合う運命だったのだ(「これでいいのだ」バカボンのパパ)

先代から 村長さん、村会議員、公務職員と三代を来たのだ。しかし ここに来て反発したのか もっと大きいことを狙ったのか 違った分野で飛び出したいと思ったのか、人にはそう言って暴れることも不可欠なのだろう

自分が阿保な夢を追いかけたことを認めて 夢のために可能性を無視してチャレンジしてしまう性格を反省している。ギャンブルには興味を示さない人間がギャンブルよりも危ない道を選んで渡ってきたことに 自ら驚きながら 自分の才能がないにもかかわらず 挑もうとしたことに足跡を振り返りつつ気づいた自分はその不確実な行動に呆れるばかりだ

自分の『器量』と言うものをしっかりと把握し それ相当の道を選び自分に当てはめて その道で花を咲かせていくことが社会への恩返しだと思うようになったのは 最後に勤めた職場で黙々と日々の責務に就いた時だった。

(その職場が公務だったのだが)

曽祖父、祖父、父が服した仕事に何を思って反発したのか、今更ながら苦渋の念が襲う。遠回りしたが 「そんなもんやろ」と 自戒している


続いてきて

-- 言い残したことはないですか?

必死に考えても 思うようには行かんことを伝えたかった

-- 転職で年収が増えた時があるのですね

そうです。給料を増やすために、そして偉くなるために、いつかは重役になっていこうというような勢いを持つ奴が多かった

-- 給料が増えるってやり甲斐じゃないですか

確かにやり甲斐は出ます。
600万円だった給料が800万円に、さらに転職をしてもっと増えていく

でも転職で給料増加を狙うのは 筋が違う

-- 一生懸命仕事に励めるわけですね

しかしよく考えると 増えることは大事じゃない。なりふり構わずに会社は仕事をさせたました。金曜の夜などは土曜の明け方まで煌々と研究室には電気が灯り 不夜城と呼ばれていました

-- 頑張れば お給料ももらえますから

僕の新人時代は 電気労連の初任給は 14万円に満たなかったのです。80年頃です。しかし、10年ほどで10万円ほど月給がアップした時代です。

どんどん仕事をして 優秀な奴にはいくらでも仕事が回ってくるし それをこなして給料も増えて出世もします。

でも、バブルが弾けて 給料は増えない暗黒の時代が来ます。初任給上昇曲線がずっと横ばいです

-- どうされたんですか?

リストラで会社から弾き出されました。優良な人材も悪質な人材もまとめて三万人とも四万人とも言われています。阪大や早稲田出身の同僚も転出して行きました。きっとどこかで成功していると思います。僕は田舎に引き篭もりました。

同時期に辞めた工場勤務のパートのおばさんは勤続二十年余りで リストラに合う条件として退職金は五倍もらって四千万円だって言ってました。そこまでして 会社の三割近くの人員整理をした時代でした(内実はニュースにはなってないけど)

-- 仕事を弾かれてどうなりましたか

自営で仕事をしてましたけれども 能力がないのだから それほど繁盛しませんでたが 知り合いが (多分本来なら定年後に再就職するような)仕事を紹介してくれまして 私の定年後人生が二十年早く始まったわけです

-- 二十年も早くからご隠居生活ですか

お給料はそう言うわけでそれほどなかったのですが 仕事は私の能力にあった程度のゆるい仕事で 責任はもちろん求められますがストレスや使命感のプレッシャーは昔ほどもなかったので 二十年間 粉骨砕身で働いた反動と思って 少しステップを緩めて過ごしました(年金受給額は少なくなります)

子どもは少し遅れて大学を卒業したので 幸運だったとも言えます

-- 転職のことを振り返ると色々と思うことが多いのですね

給料をもらうために人の顔色を見て働くとか 職場の雰囲気を気遣うと言うようなことに神経も使いました。もっと 正直に生きるべきでした。見栄も張らずに 身に応じた夢を追い続けることが大事です。若い時はパワーがありますから それ相当に気合いも入れますが 毎年自分と同じような(またはそれ以上の)実力者が増産されてくるんです。(スポーツの世界でもそうです)
そこで勝ち続けるのは 自分を見極める冷静な判断と将来を見る視線が必要なんです

ずっと後になって築くことです。ですから 先んじて言葉にして伝えることはそれはそれで適切では無いのかもしれません

-- そうなると伝えたいのは 失敗をしないように何かを伝えることですか

転職の手法などは紹介サイトが氾濫してますから それに乗っかるしかない。自分が自分をどうしたいのか、今のお悩みは何かということを振り返るときに、Z世代の人は 昔の世代から見るとどうしても甘いわけです。しかし 今そのことに小言や助言をすることはナンセンスです。このナンセンスが気の毒でかわいそうです。小言や助言は聞いても 不採用にすることができますから なるべく多くの意見を広い視野で聞いて欲しいです

食べログの例になりますが 他人がつけた点数が氾濫しています。世間がどう評価するかを参考しにて判断するわけです

経験的に 他人の声を集積させたサイトの点数を信じて その店舗を利用し失敗をした経験がある人で そのことは何を意味するのか を考えたことがある人は 今の社会のいい加減さがわかっていると思います

現代社会は 本質までしっかりと考えることを嫌う社会でありますが、働く社会というものの「そもそも論」を見直してみるのもいいでしょう

ああ、今はさらにこれにAIが絡んでくるのか

後日追記

蛭子さんの絵画展 - 京都日記をひと息ついて

漫画家でタレントの蛭子さん(75)が描き下ろした新作の絵画19点を展示する個展「最後の展覧会」が開かれているというニュースを読んだ

蛭子さんは レビー小体型認知症とアルツハイマー型認知症の合併症を2020年7月に公表していて、現在はデイサービスを受け通院をしているという

うちにも 認知症のとーさんがいる。去年十二月にその症状の深刻化に気づいて新年から高齢者住宅暮らしをしている。診断をする医者は アルツハイマーとは明確に言わない。しかし 診断名はそうでないにしても 周囲は「痴呆脳」の進行は明らかだと認めるし 生活にも支障が出ているので 介護認定を受けている

とーさんは 日常は介護ヘルパーさんに頼るものの 生活必需品や突発的洗濯、身の回りの世話をするために長女であるツマが出かけて行き 一か月の三分の一を近くで暮らす。私も付き添いで一緒に出掛けて 住宅の傍である実家(の近く)に滞在する

絵を描いている蛭子さんのニュースを見て思いついたことは、うちのとーさんも日常の生活の中に絵を描くという遊びを取り入れてやれば 少しであろうが痴呆脳の進行を抑えられるのではないかということだ

もともと絵を描くとかそれに色をつけることには馴染みが深い人だ

一縷の望みを託してみたいところだ

一月からの九か月間に 痴呆は目に見えぬほどであるが進んでいるように見えるが 掛かりつけの医者の診断では病状として全く変化がないようにいう。脳だけではなく身体機能も衰えているのは 傍らにいれば気づく。食欲も変化しても不思議ではなく 定時の食事は積極的ではなく おやつのお菓子ばかりを食べる様子がわかる。何かをしようとする意思が衰え お菓子を食べたりする行動だけが残って それ以外の時間は横になって休んでいる時間に取られていく

来た、会った人がみんな口を揃えて「このまま死んでしまえば幸せだ」と言う

着実に老化が進行していることは顕著化して 人間としての脳の働きは 着々と退化している


白露篇 その二、循環器科で診断を受ける (裏窓から)

心房中隔欠損症
上室性期外収縮
洞結節
房室結節
─ 平岡内科循環器科 説明妙録

白露から三日ほど過ぎて 十一日に『平岡内科循環器科』で診察を受けた

メモ用紙に病気の用語を書きながら説明をしてくれた先生は 私の母親が子どものころからよく知る田舎の先生の息子さんだった。とても気やすく話をしてくれて今後の診察のことも聞かせてくれた

それほど心配をするものでないとみるけどしっかり検査をして見極めておきましょうということで 十月の中旬に二十四時間の心電計を装着する予約をしてきた


子どものころに「心臓に穴があいていて・・」なんていうように親から言われたことのある人が多いだろうが それがこの病気で実施に寝室の壁に穴があいているそうです

生きるのには別状なく 大人になって心配するほどのものでなくなって行くケースが多いものの、やはり中には非常に深刻なこともあり 決して侮ってもいけないようだ

今は エコーがあるから しっかりと確認をできるので 僕は十月の検査を待つばかりとなった

﹆﹅

循環器科受診の前の日には 駅前の大口屋に鰻を食べに行き ステーキ皿を買って 黒毛和牛のステーキ(80グラム)を食べた。季節の移り変わりのはっきりしない天気が続く

受診のあくる日から京都に移動した。京都もまだまだ暑いといながらも 朝夕は涼しく 汗まみれで眠れない夜を過ごすことはない。大津の国道沿いでラーメンを食べたりしながら京都入りとなった(十一日)

(号外)九月初旬 写真日記

九月初旬 号外

思いついたら
書き足してます

  • シャインマスカットを直売所に買いに出かけた
  • 丸亀製麺でうどんを食べた(ちょっと贅沢なうどん、鬼おろし)
  • ステーキ皿を買った
  • かき氷を食べにコメダに
  • 鰻を食べに大口屋へ
  • サンマ1号
  • いとう料理店
  • ラーメンあれこれ

いよいよ秋を迎える ひそかに嬉しい - 白露篇 (裏窓から)

白露の時節を迎えた
朝夕が涼しい
さすがに夏の暑さは身体にこたえた
やれやれである

例年にない猛暑日の連続であった夏を過ごし
やれやれと思っている人も多かろう
このまま地球温暖化傾向が続くとなると
人類はどうやって新しい知恵を生み出すのか

冷静に考えてみれば何も難しくない

埋蔵資源や宇宙の光エネルギーを閉ざされた地球の上で消費している
エネルギーは最初の安定した物質から 音、光、熱、動作に変換されていく

石油を消費して電気を起こしクルマを走らせ暗い部屋を明るく照らすときに、効率が100%となることはないのだから 変換の損失は無駄な熱エネルギーとなって発散する

地球の温暖化現象は この熱が蓄積しているからに他ならない

大昔の人々の時代からこのような『発熱生活』をしてきたのだから 消費が悪だとは言えない。だが、消費の量が桁違いになっていることを考えれば 熱を放出する日常を原始時代から送ってきた人類の暮らしを じっくりと省みることが大事だ

現実は簡単なものではなく、家庭で消費する電力を一つ取っても 膨大な熱を生み出す暮らしが常識の時代だ
電気を使わず化石燃料を消費せずにこの地球上で生きていくことは 今や不可能である

しかし 消費すれば必ず熱を発する

九月の初めに三人で昼食を✦悠ちゃんお作品展示を見にいくための休暇✦市内に以前から狙っていたけどいつも一杯だった「いとう料理店」というイタリアンな店

高齢者の仲間入りをしたことにこれまで何度か触れてきた
健康に気をつけて暮らすということに心がけている
だが それくらいか


たった1000週間しかないのだと思うのか
おやおや1000週間も残っているではないかと考えるのか

残りは1000週間 ー 新年年頭に考える

新年にはそんなことを書きながら 一向に進歩がない
裏窓から』見る景色も変わり映えしないものになっているのか

脳神経科、内科胃腸科、呼吸器科、循環器科、皮膚科、耳鼻咽喉科
まさか こんなに多くの医者に定期的にかかっていかねばならないことは想像しなかった

医者にかかれば長生きできるというものでもなかろう
この六つの診療科目はサイコロの目のようだ
僕はどの目を引いて死んでいくのだろうか

ふとそんなことを今思った

そろり九月が始まって 月のはじめに考える

九月は雨

過ぎゆく夏が 不憫に思えるのか

暑さの日々を呪いたくなるほど憎かったけれど
過ぎてゆくなら 笑顔でさようならを言おう

雨は今の所ジメジメと降ってはいませんが
台風が12号13号と立て続けに列島に近づくふりで
怖がり屋さんたちは また嫌な夜を迎えるのを心配している

﹆﹅

スーパームーンの話題がネットにあった
僕は月を見上げて何か想いに耽ることなど
もうこのごろは無縁になってしまった

(詩篇)

日が暮れはじめると東の空に十番目ほどの月が見えていることに気づいた

白く薄く化粧をするような影が月を幻想的にしていた
私たち十年後にこの月の下で再び会えることがあるかな
オンナはそんな夢のようなことを呟いた

旅はゆきずりの出会いだ
お互いの名前も知らない

月は傾き
夜はふけて
怪しい時間が過ぎてゆく

﹅﹆

(書き始めて 四日から六日へと日が過ぎてゆく)


月のはじめに考える

秋の風揺れるパンツの赤と黒
パーカーのインク枯らしたままである  #十六夜
涼風に寝たふりしている夜明け前
八月を棄てて新しい秋を待つ

九月になったからといって誰かに手紙を書くわけでもなく
パーカーのインクは 補充することもなく ペン立てにある

少し涼しくなって寝る時の温度調整が楽になっている
エアコンは依然 入れたままだが ほとんどが作動しておらず よく眠れる夜が二、三日続いている

不整脈

平岡内科循環器科に連絡をして 診察をしてもらう予約をした
深井くんにメールをして 不整脈のことを書いたら 彼もそのような診断を受けているがそれほど取り立てて治療をしておらず 心配をしすぎなさんな というようなことを書いてくれていた

それほど深刻には考えていない
母も九十二歳まで生きていて 若いころから心臓に心配があると言われ続け、六十歳の時には数時間にも及ぶ大腸癌切除手術も乗り越えている

心臓が止まって死ぬなら それはそれでサッパリと人生を終わろうと思う
そうもいかない心配が多いから 僕の場合は困ったもんだ

シャインマスカット(ぶどう狩り)の夢は儚く - 八月尽

暮れゆく八月

初夏に(六月末に)北海道を旅して あっという間に時間が過ぎた

京都日記(痴呆日記篇)も正月ころから始めたので 早くも八か月を書きためてきたことになる

「歳月人を待たず」という言葉を月並みに噛み締めて 涼しさが少しずつ増してゆくのを肌で感じている

月末の京都
和食のさとでランチを食べたり 嵯峨野のガストに行ったり 帰りには大津でラーメンも食べた

﹅﹆

孫たちはインフルエンザ

家族で山梨へぶどう狩りに出かける計画が取りやめになって 交互に休暇を取りながら最後の一週間を家で過ごしたのだろう

夏休みといいながらも 私たちの子どもの頃とは事情が変化し 両親が仕事に行っているし 年寄りは同居していないので 子どもは学童や保育園で毎日を過ごす

宿題をしたり自主学習をしたりしながら一日を過ごせるし 猛暑日注意にも十分に配慮が行き届き 事故などの心配は大きく減っているといえよう

危険から守られるという点では大きな進化だ。しかしながら、夏休みらしい自由と解放、自主性やスリルをギリギリのところで遊んでゆくような・・海や川でのちょっとした冒険遊びや宿題課題を放置して遊びまくり投稿前日に大慌てをしたりするような・・ハプニング的なものは消えていってしまった

八月の最後の一週間を家族でひっそりと過ごしたことは もっとも慎ましやかであり 一方で夏休みらしい時間だったのかもしれない

﹅﹆

八月を棄てて新しい秋を待つ
聞かせてよ月夜の晩にこっそりと
満月や知らんふりする睨めっこ

八月は二度満月があって、その二度目が三十一日の夜だった

京都日記に新たに書き出すような出来事があったわけでもない
山梨にぶどう狩りに出かける計画をキャンセルしてしまったことで そわそわしていた生活が ストンと終わって ステージがこれまで通りに戻る

シャインマスカット

山梨県には及ばないものの 名張市の生産直売所に買いに行こう・・そんな計画を立て始めたりしている


外伝 ➡️ 大津のラーメン屋さんに立ち寄ってみるなど ・・ 八月尽

蜩やあの世に誘うような声 ー 処暑 暮れる

  • 蜩やあの世に誘うような声
  • コロナ来てあれからずっと日曜日
  • 朝顔や孤独にみえる夜明け前
  • 桔梗生けて占うようにひとりごつ
  • いきたいなあ鈍行列車の行き止まり旅  #予讃線
  • 夜明け前 少し冷やりとする窓辺

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ちかごろは
俳句作品を
どこかに投稿することもなく
ひとりで作って遊んでいる

まあそれでいいだろう
詰まらない作品を量産しても
何も残らなくなるし

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サルビア

あのとき
あの人が手を伸ばしたのは
真っ赤なサルビアの花ではなく
そばにあった私の手だった

黙って添えて
微笑んだあと
すうっと引っ込めてしまった

花は知らん顔で
そこにいた

私たちが言葉もなく交わした約束を
見抜いていたのだろうか

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処暑が過ぎてしまった
暑さのせいもあるが 腰をやられてから 歩くのが少し辛い
三十分以上を回ってこようとすると 腰に痛みが出る

言い訳になるだろう

(歩く)
歩数を稼ぐのが重要ではない
健康増進や長寿、痴呆防止に役立つのは適度の運動である

そのように都合よく解釈して
毎日も歩かない、長距離歩行もやめにしている

(体操)
腰のストレッチを積極的にやっている
ストレッチといっても 屈伸程度だ

関節を柔軟に曲げて 関節部分の血行促進を図りたいと思っている

* 書きかけ

夏バテ知らずに暮らしている - 八月下旬

八月中旬の最後の日に孫たちがキャンプに行った様子が届いた
今の子どもたちは 夏休みに山を駆けずり回ったり川で遊んだりしない
遊ばないから余計に危険が伴うようになり 事故が起これば目立つのだろうか

健康診断に行って 肺がん、肝炎、前立腺の検査も入れてもらった
今年は無料でやってもらえるというのでありがたくお願いをした

不整脈も見つかって 平岡先生宛の手紙も書いてもらった
九月になったら心臓の検査を受けに行こう

鰻を食べに回り道をした
「川新」は二度目で 初めての時はお持ち帰りにした
お店で食べるのが美味しい

(処暑)
そうこうしている間に処暑が過ぎた
北海道で買ったお土産が埋もれた荷物の中から出てきて 風を切って食べてみる

旅に出かけたのは六月の下旬だ
日が過ぎるのは早い


➡️ 不整脈があるのが気にかかる - 八月下旬号 外伝

京都日記ノート 

﹅ これが 台風7号8月14日9時 の様子です。残しておこう

お盆の真っ最中に台風7号が紀伊半島潮の岬から山陰地方へと抜けていった
当地は15日の午前中に風雨共に強くなってきた
県内各所で停電も起こり 台風数値的強さ以上に暴れている
我が家では幸運にも停電も風による被害もなかった

草稿として温めていても何か新しいことが閃くわけではない

夏はそのうち
気づかぬように終わるだろう
それでいいのだ
命も
気づかぬように・・なのか

先日も呟いてみたが

高齢者住宅の玄関ロビーで
人を一時間ほど待つ
読書をしながら待った

僕の前には
九十歳くらいの爺さんが
ポツンと一人ソファーに座って
前を見て じっとしている

一時間
そのまま

つぶやき

SOMPO住宅でツマがとうさんと話をしてから帰ってくるまでの間
玄関ロビーで待った時の感想です

時間は止まっているように見える
しかし
刻々と刻まれていて そこにいる人はその刻みの波に乗って呼吸をする

これまでに
生きるとはとういうことか
愉しいとは どんなことを言うのか

などを考えてきた

もしも命がここで止まったとしても
何も変化も起こらないし
激情の波が湧き立つものでもない

台風7号が紀伊半島に接近している - 八月中旬

何年か先のある日に 今夜の嵐を思い出すことがあるかもしれない
ふと思う

ならば もしかしたら 記憶を呼び戻す何かの切っ掛けになるかもと思い 台風の進路予想をスクラップして ここに貼ってみる

未来には何が起こるかわからない
予想通りになるとは限らない
自分の命にも何が起ころかわからない

今のところ雨も風も静かだ(14日夜10時)


📍 入選句を 思い出す ─ 三月尽 ひととき

八月がはじまり 立秋を迎えるころ - 立秋篇 裏窓から

さて 裏窓から
八月は・・・と考えた

八月(葉月)を迎えて このページの写真に一言を添えようと考えたが一向に思いつかない日が続いた

諦めるわ

朝起きてコーヒーとパン
新聞をPCで読む
天気予報を見る

楽器を吹く
日記を書く

昼寝をする
たまに 買い物に付き添う

そんな日々が繰り返される
惚けないかが心配

八月をぼんやり送る - 八月上旬のころ

ネットでシニアな人の日記に目を通しながら 自分の行く果てを考えてしまう

憂鬱を煽るような記事も目立つ

高齢者が五割に迫る勢いなのだから 体調に異常が出る人もあろうし 疾患を持つ人も居て不思議ではない

健康福祉にに行政予算も多く投じられるのだから この市場で商売を考えるのは当然だろう

不安を煽ることが『人道的』か否かは深い課題であるが 不安を抜きにしても『健康に生き抜く』ことを拒む人は少なかろうから 安心した暮らしを目指したいのは誰もの願いだ

過剰な心配はやめて
大らかに生きよう


夏休み 作られたアウトドアな気が少しするのだ・・  八月はじめに考える

八月初めになっても考えることがなくて


7月29日、30日 孫たちはキャンプ
8月1日 図書三冊

  • 澤田瞳子
    火定
    星落ちて、なお
  • 山脇りこ
    50歳からのごきげんひとり旅 だいわ文庫

八月回顧

八月になればソワソワしていたものだ
夏休みを十日間ほどもらえたサラリーマン時代には 取り憑かれたようにバイクに荷物を積んで旅に出た

冷静に回顧すれば あれは異常なほどに職場から逃げ出そうとしていたのだろうか
家庭も置き去りにして一人旅に出るのは のちに反省しても 行き過ぎていた身勝手だという感が残る。もちろんその時の当人はそんなことなど反省もせずに既得権として遊びに出掛けてしまっていた

数々の反省が 残される時期であるものの もう後悔しても戻せない
もしも あの時間のあの行動がなかったとしたら 人生が違ったものになっていたのかどうか

責めることもできないし いまさら 塗り直すこともできない

自分の足跡に自信と確信を持つのが 一番なのだろう

アウトドアな時代

孫たちはアウトドア三昧で夏を過ごす

むかしなら 夏休みは学校科から解放されるのだが 今の子は親が仕事をしているのでそうはいかない

爺さん婆さんが近所に住まなければ 夏休みであっても普段通り 学童や幼稚園に行く

それが当たり前だからそれでいいわけであるものの 昔の世代から考えると やりきれないものも感じる

子どもは 勉強や習い事を淡々とこなし 夏休みは 滞りなく終了してゆくのだろう

熱い夏

水の事故のニュースも届く中 猛暑日の最高気温記録も日々更新をしていく

命に関わる危険な暑さ という言葉も飛び出す

大変な時代がやってきたと言って騒いでいるだけでは済まされない時代が近づいているのを感じる


池の底の月を笊で掬う ━ 赤目四十八瀧心中未遂

生島さん、あなたにはも早、小説を書く以外に生きる道はないんです。人は書くことによってしか沈めることが出来ないものがあるでしょう。

尤も小説を書くなんて事は、池の底の月を笊で掬うようなことですけどね

赤目四十八瀧心中未遂172ページ 山根

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赤目四十八瀧心中未遂 (車谷長吉)を何度も読み返す

何度読んでも初めてのときのような感動が迫ってくる

京都日記 四、七月下旬篇 薄情とは何ぞや…

二十四日から京都日記

痴呆脳は 目まぐるしく進行するわけではない。しかし 心配なこともある

うちのんが(長女)が不定期におよそ一ヶ月に二度ほど訪ねている。その度に おやつとしてお菓子や果物を買って部屋に置いてきている。これを とーさんは楽しみにしている

正確には 長女が訪ねてくる日時の記憶は残らないので ムスメがたくさんのおやつを仕入れてくれていることは理解できるが いつから置いてあるのかは理解できていない

棚や冷蔵庫に保管されているものが目につけば食べるだけだ。今朝から二度目なのかどうかなどはまったくわかっていないのだろう

約半月ぶりに顔を出すたびに おやつは食べ尽くしてある状態だ。どんなペースで食べたのかは不明なまま・・らしい

食べることしか楽しみがないのだろう、そういう一面がある

シャトレーゼでアイスを買って冷凍庫に入れて来た。次回来る時までには間違い無く無くなっているだろう。どんなペースで食べるているのか心配はあるものの アイスだけではなくおやつも置いているので 次回の訪問時にどれだけ残っているか


孫がいる。長女のほかに長男があり子どもがある。市内に住んでいて今年から会社員として社会人を送る。とても大切にしてきた いわゆるたった一人の内孫だ。男の子で市内の国立大学修士を終了した自慢の孫だ

小さい時から可愛がって大事にしてきた。会うたびにお小遣いもあげて おじいちゃんとして大事にしてきてもらったし 自分も大事にしてきた。その孫が時々 この高齢者住宅を訪ねてきてくれて車に乗せて寿司や喫茶店に誘い出してくれる

﹅﹆

高齢者住宅にこの「とーさん」を入居させて以来 まったく薄情なまでに妻や長男、次女は ほとんど面会に来ない日々が続くことは この日記で書いてきた(明確には記述していないが)事情があるのはとてもよくわかるにしても 第三者から見れば 薄情としか見えない

この薄情な人々の中にあって 長男の息子(第一番の孫)がそうして面会に来てくれることは 涙ぐましい歓びだ

ここにある薄情を見ていると この孫がおじいちゃんを見舞ってくれていることに 長女の旦那としては感謝をするばかりである

人は ここまで御恩を受けた人に尽くしに戻って来れるものなのだろうかと感動するほどに、新入社員の忙しい今の時期の貴重な時間の合間を見て会いに来てくれているという

そこまで恩返しをできるものなのか と感動をする


そんな話を耳にしながら 七月下旬の京都での日々を過ごす

もしも 私に痴呆脳になってしまった家族がいたならば ここまで温かみを持って尽くせるだろうか。もっと薄情に 知らんふりをするか 決まりきったことしかしないんではなかろうか。人間が心の感情を共感するということへの薄情さの実態を 自分ならばどうだろうか と振り返ってみて痛切に感じている

今の時代の 今に世の中の人は 限りなく薄情ではないか・・と
それが普通になってきているのではないか! と思うのだ

大暑篇 「裏窓から」の筆休み 余白

なかなか纏まらずに外伝を書いて さて 裏窓を書こうか
と大きく息を吸っても テーマが浮かばなくて・・
(外伝)➡︎ 梅雨も明けて ゆっくりと大暑に 七月下旬号


───── どうして「裏窓から」を書き出せなくなったのですか?

まず生活リズムが単調化したからでしょうね
朝から晩まで家にいて 日々同じことをして過ごす
テレビや映画を見たりするわけでもない
食事も変化がなく うどんなどの麺類を食べたり冷蔵庫をご飯をチャーハンにしたりしてます
簡単にできる麺類は 飽きもせずに重宝しています

───── それだけではなく生活面ではどうですか

腰痛が少し治って歩けるようになったのですが ウォーキングに出かける頻度が落ちました
歩く距離を不必要に多くするのはやめて 団地内を一周する程度にしています
休日に街歩きや山歩きに行くことがなくなって 家に居て部屋で楽器を吹いている時間が増えました

───── 認知症の心配もするわけですか

そうです
物忘れには気を遣っています
いつから認知症が出てくるかが 全くわかりません
年齢的に いつ兆候が出ても おもおかしくないわけですから 心配をします
しかしながら 簡単にこれといった対策で予防ができるわけではないので 不安が募ります
ただ 必要以上に心配をして精神的に暗くなっていくのは考えものだと思っています

───── おとーさんが高齢者施設にいるんですね?

そうです
高齢者住宅という種類の施設で よく似た高齢者の人が住んでいるマンションのようなものです
介護が必要な人もありますし 痴呆が始まって医者に通院する人もあります

この日記でも 半年ほど前から 痴呆のことに少し触れることがあります(京都日記)
自分の高齢化のことを考える時間も増えたので そのことを書くときもあります

まだ梅雨は明けないみたい(十二日)ワインの封を切る- 七月中旬号

ワインのこと
少し書いておこうか

我が家にとって歴史的高価なワイン購入でしたが
やっと 今夜一つ目の封を切りました

『清見』の栓をあけてウチの人はハンバーグを作ってくれて
チーズも買ってワインをいただきました

私たちにはもったいない味です
とてもいい香りがする
甘すぎないし 酸っぱすぎるわけでもない
なるほど 美味しいワインというのは わざとらしくアピールして来ない味なのだ

﹆﹅

九日がむすめの誕生日
お祝いを何もしなかったので
このワインを贈ろう

でも ダンナさんは1%の酎ハイでも酔うてしまうから
ワインは嬉しくないだろうなあ
仲良く 乾杯をしてもらえるとええなあ

線状降水帯を知らせる報道が続く日々 - 小暑篇 七月初旬号

七月になった
精神的に随分と老いぼれてしまった

痴呆脳の話を書いているが 自分も心配になってくる一方で そのようなことをくよくよ考えるから病に冒されていく側面もあるのではないかとも思う

六月までの電気料金が五千円以下で収まったので 後二ヶ月余りは気兼ねなく冷房を使って過ごそう

『裏窓から』を考えながら 頭の整理をすると

老後の生き方について
痴呆脳が回避できないのをどうするか
一人で暮らさねばならなくなったらどうするか
健康を維持することや病気の苦痛を回避する対策などあるのか

などを考えている

社会が行末に少子化の問題を負うてどうなるかとか
国際紛争が起こって若者が兵役にゆかねばならなくなったらどするか

などとは 想像しても 『勝手にしやがれ』『高齢者や先輩人生からの声に耳を傾けない罰当たりだ』と思っている

そうだ
近年 『バチ当たり』という言葉や概念が消えていった

これが そういう社会風潮が『ストレスを生む社会』を作り出し 『人権ばかりを主張する自己中な世の中』を誘発しているのだ

と 持っっともらしいジジイの主張をして 独りごちている


(短信)
星乃珈琲店でカツカレーを食べて 少し贅沢を味わう
九日は ムスメの誕生日で ケーキの写真が届く
北海道への旅の勢いでワインを五本も買って 一生最後の贅沢
誕生日とクリスマスのお祝いにしようと考えているが・・

* 裏窓から

『しっかり 考えてみたい』と書きながら
一向に書こうとしないのである

待っている人はいないと思うので
その辺で自然消滅をするのがよかろうか

・・

考え中

北海道 旅日記  草稿(二版)

26日 なぎさまち〜セントレア〜新千歳空港〜帯広〜東横イン

出発は朝8時前で 9時ころになぎさ町エアポートライン乗り場に到着。第二駐車場に車を置いて 荷物を押して船乗り場までゆっくり移動

なぎさまち〜セントレア

船は 時刻通り10時に出航し 定刻にセントレアに到着。はじめての飛行場(セントレア)を散策をして回る

ぐるぐるして徘徊している間に迷子の心配は消えていき チェックインの場所などを確認しながら たくさんの店を覗いて回って お昼の食事にお弁当を買ってオープンスペースのテーブルで済ませる

飛行機の展望デッキに出て 離着陸の飛行機をしばらく見て過ごし コメダでお茶をして時間調整をして 定刻に搭乗チェックインを済ませると 心配事が順番に消滅し 安心してピーチに乗り込める

新千歳空港へ

定刻(14時30分)に離陸し 定刻に新千歳空港に到着(16時半ころ)

心配だった荷物の受取りも難なく済ませることができ 到着後一時間以内で新千歳空港駅から列車に乗ることができ、南千歳駅でも迷うことなく乗換えて 特急『おおぞら』に乗車し帯広へ向かう。心配したような混雑もなく やや空席も目立つ程度であった

南千歳駅からは特急おおぞらに乗り少しずつ暮れてゆく北海道の景色を見ながら電車に揺られる

帯広駅(20時過ぎ)

帯広駅に着くとひんやりとやや肌寒く感じる。北海道らしい寒さだ。駅構内にあったセブンイレブンを見つけてビールなどを買ってホテルへ

東横インへ

東横インは駅から数分ホテルで、利用履歴があるので 安心。何もないホテルであるが 泊まるだけなので 簡単な朝食がついていてこれで十分だ。風呂に入って 寝るだけ

27日 オンネトー〜阿寒湖〜900草原〜摩周湖〜硫黄山〜多和平〜細岡展望台(釧路湿原)〜ドーミイイン

晴れ

朝食は東横インのスタンダードな食事で 8時前にチェックアウトを済ませ 駅のすぐ傍のオリックスレンタカーに向かう

車を借りる手続きも順調で 東横インに荷物を引上げに戻り カーナビに阿寒湖を入力して走り出したのが 8時半頃だった。阿寒湖をナビに設定し 足寄町を回って 阿寒湖を目指す

途中でオンネトーの表示が目に止まり 懐かしくなって 寄り道をする

オンネトー

オンネトーへは 車が2台通れるほどの広い道で 交通量はそれほど多くなく、湖岸まで綺麗に整備された道を走り難なく行け、駐車場には車が5台ほどで 最初の展望台で雌阿寒岳をバックに写真を撮る

1977年に野中温泉に来他頃は 山深いひっそりとしたボロボロの一軒宿だったが 今はキャンプ場などの 施設が周囲にできて賑やかになっている

雌阿寒岳が綺麗に見えるのを写真に撮って あんな高い山に夜間登山をしたのだな と感慨に浸る

1977年の周遊券ヒッチハイクの旅は 人間的にも未熟であったし まだまだ未経験で何も知らない危ない青年だった。野中温泉YH主催の雌阿寒岳夜間登山を終えた僕は田辺くんの免許証を預かってウトロへ行くのだ

1977年の北海道(R2)

オンネトーから阿寒湖は近くですぐに到着

阿寒湖畔の観光案内所の駐車場に車を停めておき 少し湖岸を散策する

エルム

『エルム』という喫茶店風の店をガイドブックで見つけていたので そこで『ミートソースとカレーのハーフ掛け』のパスタを食べてお昼とする

駐車場に戻る前に遊覧船が接岸する湖畔に出て記念写真を撮る。その後、松浦武四郎の石碑を訪ねたいと考えていたのだが、車を止めようと予定していた環境省ビジターセンターが閉館日で乗り入れられずに断念する

900草原@弟子屈

松浦武四郎記念碑は早々に断念したので 急いで900草原を目指す。大きな牧草地は広がっている360度の視界の高原だ

ルートに迷いはなく到着できるが 人や車はそれほど来ておらず 牛が放牧されている高原の中を頂上へと向かう

予想以上に時間が押していたので 次は 摩周湖を目指す

展望台には売店も設置されているが 閉まっている。ちょっと寂しい感じがした

摩周湖へ向う

真っ直ぐに摩周岳へと登って行く道路脇は牧草地で むかしに見た景色を思い出す

摩周湖では 第一展望台の駐車場(500円)車を止めて展望を楽しみ 『摩周ブルー』というソフトクリーム(500円)を食べる

摩周湖の展望台で寛いでいる間に突然 霧の雲が流れてきて湖面が隠れてしまった。写真だけを撮って 駐車券が 硫黄山とセットなので 硫黄山も経由で 多和平へと向かう

86年に来た時は硫黄山で食事もし 川湯温泉で宿泊もしている

多和平

多和平には寄りたいと考えていた。むかしに開陽台によった話を懐かしみながら道を辿る。だが カーナビが案内をするルートは寂れていて 地図を持たない旅なので全体が見渡せず不安を抱いての移動だ

天気が 小雨混じりに変わり 多和平の駐車場では少し時雨ていたので 車の中から草原を見渡すだけで済ませて 釧路湿原の『細岡展望台』を目指す

細岡展望台(釧路湿原)へ

釧路方面への道路は 地方道(道道)を通ってゆくが、牧場を横切るところもあり 牛の横断で車を止めねばならないこともあった

国道から 数キロほどくねくねとそれて行き交う車もない道を山の中へと入っていくと釧路本線が通る付近まで行ける

細岡駅釧路湿原駅があって 晴れていれば 綺麗な景色を見下ろせたはずですが・・少し霧雨っぽい

少し雲が出たり霧がかかったりの変化であっても 雨には降られず 傘なしで少し散策ができた

この展望台は 期待以上に良く 感動的だった

幣舞の湯 ドーミーインPREMIUM釧路

ホテルには夕刻6時前に到着できたが、遅かったので 立体に車を止めることになった

小雨がパラパラと降っていた。チェックインを済ませてすぐに食事に

釧路フィッシャーマンズワーフ MOO へ

ちょっと節約ムードであったが せっかく来たのだからと ビールを一杯飲んで ホッケも食べて 地場産の焼き鳥やアスパラも食べてみた

部屋に戻ると ホテルから夜鳴きそばサービス(無料)があるというので 一階のフードコートへ。ちょうどお手頃の量の 美味しいラーメンがご馳走になれて大満足

展望温泉 

13階に展望温泉がある。さらに 休憩スペースがあって アイスや飲み物がご自由にとなっている

アイスクリームは 小さい目だが 何個食べても良さそうなので 何度か足を運んで 二、三個ほど食べた

さらに 朝風呂の後には ヤクルトのような乳酸菌飲料も置いているという 至れり尽くせりなホテルだった

海鮮バイキング(朝食)

このホテルは 朝食バイキングが 海鮮食べ放題だった

朝は混雑すると説明があるが 六時から開けていて それほど並ぶことなくゆっくりと食事ができた

貝やホタテを焼いて一個づつ貰い 小さなどんぶりに海鮮を自由に盛り付けられる

小鉢もいくつか揃っていたし、食べすぎないように気をつけながら食べた

ホタテや貝はもう少し貰っても良かったのだけど 朝から食べすぎても 色々と心配後も起こるし・・・

28日(三日目) 帯広十勝へ

釧路は霧の朝だ。前夜から時雨気味だったが 朝にはほとんど苦にならないほどに小雨になっている。釧路は霧の街らしい

十勝帯広方面へナビをセットして 海岸沿いの道を走っていくけれども 霧が一向に引いていかない

ほんとうなら 十勝沖の大きな海が左手方向には広がっているはずだが 残念なことに 全く霧の中で見渡せない

池田ワイン城

念願のワイン城には11時頃に迷うことなく到着する。真正面で写真を撮って すぐにレストランへと向かう

迷うことなく 十勝牛のステーキを注文する。ステーキを注文すると ガラポンのくじが引けるというので チェレンジをする。なんと ワイン『山幸』ハーフボトルが当たりました

幸運は絶好調です。もちろん 夜にホテルで飲んだ

六花の森

ワイン城で気を良くしたので るんるんで 『六花の森』を目指す。入園料は千円

森の中を一通り回って 『六’cafe』(ロッカフェ)でお茶をしてくつろぐ

愛国駅と幸福駅

幸福駅跡と愛国駅跡 予定通り

今更何があるわけでもないのだが かつて訪ねて写真も撮ったので 同じ場所に降り立ちもう一度撮ってみるのも記念になろうと考えた

建物は廃れていく、人々の記憶も次第に薄れていく

駅に書かれている記録によると 僕たちが初めて来た1986年の夏には まだ汽車は走っていた

でも あの時僕たちが来た時には走っている汽車を見るわけでもなく 汽車と写真を残そうとした記録もない。完全に消滅してから色々な思いが湧き出てくるものだ

あのむかしにどうして汽車が来るのを待ってまで記念を残そうとしなかったのだろうか

レンタカー 雑感

レンタカーに止めるたびに気づくのだが 六割から八割ほどがレンタカーだと摩周湖の駐車場で気がついた。同年代くらいの夫婦か女性の友だち同士のようで、どの辺りから来ているのかはまちまちのようだが コースも似たり寄ったりのような旅をする人六十歳ほどの人が多い

レンタカー操作

レンタカーについては 運転操作は問題ないが 細かいボタン操作がわからないままであった

釧路で濃霧に遭遇するものの フォグランプがあるのかどうか未確認であったし、わざわざ降りて確認するのも面倒で そのままで走った。後で前に回ったら 補助ランプは装備されているものの 点灯スイッチの場所がわからないままだった

燃費

燃費は計算をしなかった

3500円余りの給油だったので20ℓの消費、燃費を30km/ℓとすると600kmになる

平均速度が40キロほど、12時間程度の運転時間ではないか

29日  帯広〜千歳空港〜セントレア〜なぎさまち

千歳空港まで

帯広から特急『とかち』で。空港では お昼に 札幌ラーメン を食べる。『雪あかり』という店だった。お土産を買ったりする余裕も十分

千歳からは順調に飛行機に乗れて

セントレアへ

ここで夕食とする。北海道に向かう時に食べるのを迷った丼物のお店で 今度は親子丼を食べる

待ち時間も 長すぎることもなく 程よいゆとりで なぎさまちまで帰り着けた

我が家に着いたのは九時前でした

なぜ 北海道か その二、

なぜかを考える

旅に出かけようとした動機を振り返る

北海道に旅する必要はなかった

はじめは銀山温泉へを計画してあれこれと宿を探すものの思い通りに計画が立てられず、ふと検索で出てきてしまった飛行機のフライトの値段が安かったので北海道へと心が動いた

安く行けるのならばいつかは北海道へと考えていたこともあって少し詳しく調べ始めてみると すっかり北海道を少し楽しんでみようという気になっていく

心のどこかに北海道はあったのだが

二ヶ月前に予約をすると割安でチケットが買えることがわかり 計画は最初とは大きく変化していく

北海道にこだわりがあったわけではないが 旅人生の始まりが北海道からだったこともあって いざ行くとなったら密かに思い続けている北海道を楽しもうという思いが 日に日に大きくなる

その気持ちを そうように押して行ったのが 父が晩年に旅をした思い出の話であった

最後の思い出に

母は先に死なれてから二十五年を過ごし 昔の話しを時々聞かせてくれる中で 二人であちらこちらにツアーに連れ添ったエピソードを話し「死んでしまう前に満足がいくほどに旅をした 後悔することな何一つない」ときっぱりと言う

そのきっぱりとした言葉のキレが こちらの心を動かしたのだ

思い出は 自分のために作るのではない

残された人のためにも 思い残すことなく北海道の旅を満足しておかねばならないのだ

1977年にヒッチハイクで回ったのが北海道だったと言うこともあるし もう行けないかもしれないという弱気もある

なぜ・・北海道か

北海道に行こうと考えたのは はっきりとした理由はないが八割くらいはそんな感じで・・と言う答えが 纏まったので公表した

2割ほどはもう少し補足をしたいが それは機会があれば・・と言うことで

話せば長い
読んでくれますか?


モモ北海道との出会い

中学時代に最果てに憧れて最果ての街の文通友達ができた

長い手紙友達だったが時の流れの中で手紙は途絶えてしまっている

だからというわけではないが 北海道はゆっくりと旅をしたいところのままだ


モモ初めての北海道

1977年の夏にふと立ち寄った本屋で目にした北海道マップに着火されて二日後には京都から急行『北国』に乗って旅に出た

ブログに僅かな日記を書き残している
1977年の北海道(R2)


モモまた北海道

1984年の夏と1986年の夏に 今度はオートバイ(@夫婦二人乗り)で旅に出た

1986年の日記は書き残っている
1986年の北海道〔夫婦・タンデム〕


モモひとりの北海道

1989年の夏にひとりで出かけた

日記は残っていない

帰りの『モト・トレイン』を大阪駅で降りた写真が残っている


モモ旅の原点

始まりは衝動的な思いつきだ

キーワードは『ヒッチハイク』『周遊券』だった


モモ昭和の北海道

鉄道が走っていた。夜行のディーゼルカーで街から街へと移動して 宿泊代を節約した

駅前の歩道には野営を明かす旅人の姿が珍しくなかった

道路は 未舗装のところも多く残っており 名の知れた場所への道路は 次第に便利になりつつあった

裏摩周湖の展望台への道は 登山道だった

知床峠の山岳道は 現在の道路は全く未開通で 羅臼から登る道は 『鎖場』から始まっていた


モモ鉄道の廃止

いつの間にか鉄道が廃止された

オホーツクの廃線跡の艸が茫々に生えた道路の踏切跡に『ここは汽車は走りません』と書かれていたのが強烈に印象に残る


モモ道路も変化

高速道路は 十分すぎるほどに整備された

ETCも当たり前になった

峠道は 近代化が進み 広くて安全に越えることができるようになる

『酷道』などという言葉も生まれた


モモ旅の姿の変化

人々の旅の姿も変化した

大きなキスリングザックを背負った旅人の姿は消えて バックパッカーに変わり それも今は見かけない

野営で旅する人やヒッチハイクをする人もなくなっていった

便利で軽快で合理的な楽しい旅が普通になって 美味しいものや流行や話題が重宝される


モモ人々の求めるもの

みんなが豊かで幸せになっていく一方で 価値観は統一化され誰もが同じ顔をして同じものを求めて旅をする姿が目立つ

新しく迎えた時代というものが 湯水のように提供してくる新しい幸せの価値観を抱いて 誰もがストレスから逃れようと旅に出る

好奇心という言葉を昔の人のように熱く語る人は減っていったように感じる


モモ魅力の変化

乗り遅れてはいけないし流行を逃してもいけない

ブランドを掴み損ねてもいけない

展望台から見下ろす風景は 長い歴史において変化はない

けれども こちら側は 平成・令和の文化だ



モモふたたび訪ねる理由

変化することは 破壊することではないし 衰退することでも 失うことでもない

そのことはわかっているけれど 心の中のどこかで 消えていく昔を惜しんでいる

消えてはいけないというつもりはない

忘れてしまってはいけない・・と息を荒げるつもりもない


では何故だろう

ふたたび訪ねようとする理由は・・


モモ過去を巻き戻さない

巻き戻るものではない

そこには諦めに似たものがあるのは否めないが 新しく生まれ変わったのだと考えているのか

化粧直しをしたのだと言い聞かせているのか


モモ自分を塗り替える

自分が過去を上手に蔵うことから始めねばならないのではないかと考えたのではないか

答えの掴みようのない旅の動機だ

聞かれても 即座に答えられない


熱い思い出を呼び戻そうなどとは考えてはいない

もう一度 あのころのページをめくり戻そうとも考えない

むしろ 今の姿を見て ひとつの区切りとして 新しいステージにゆく準備としたいと思っているのだろう

そんな気がしている


モモ新しい海へ


新しい海には新しい水夫が行くのだ

新しい操作を信頼して海を渡る

海の姿は何万年もの古代から変わらないものであっても 航海をする人々は今を生きる人だ

なぜ・・北海道か

夏至のころに 考えるあれこれ - 旅をする 夏至篇 裏窓から

旅をする計画を立てた
飛行機に乗って道東(北海道)へ行こうというものだ


﹆﹅

夏至が過ぎて いよいよ夏本番となる

夏を迎えるにあたってその前に 北海道旅をしようと考えている

父は 亡くなる前の十年ほどの間に母と連れ添って ときどき国内を旅していた

ツアー企画をする人が身近にあって その人の誘いで出掛けたのがきっかけだった

どのような旅をしていたのかを 帰ってから旅談話として聞いたこともある

晩年の旅人生を一通り満足したころに 一段落ついてか まさか ぽっくりと死んでしまったので、旅の話の一部始終や喜怒哀楽な出来事を しみじみと聞かしてもらう機会はそれほどなかった

人生の山あり谷ありの話を ほとんど交わさないまま逝ってしまうとは 考えてもいなかった

﹆﹅

この世を去って何年もして・・父のあのときの年齢に愈々到達することになり考えることが多い

旅をして過ごしているころの父は とても幸せだったのではなかろうか

旅好きだとか こだわり旅を好んだとか 美食家だったかというとそうでもない

しかし 世間様のするような旅を 自分の好奇心のままに愉しんだことと思う

﹆﹅

もしも(どちらが)息が先に途絶えても 悔いのない足跡を残そう、生きてきた証を残そう、それは私の欲望としてではなく 残された人への思いでのプレゼントのようなものとして・・と考えた

父の残した足跡は 残された人にとって掛け替えのないものである

『あの人は 気の毒な人生の一面を持ちながらも晩年は旅もして ゆっくりと生きてなさった』
と多くの人に言うてもらえるような人生の終盤だった

ならば 生きている間にできる最後の責任を私も果たしておこう・・それは四十年以上もの長い間 共に暮らした人へのお礼であり恩返しなのだ、今のうちに(生きている間にできることは)やっておこう・・と考えたわけだ

﹆﹅

父は みんなから 自由に気ままに生きた人だった と言われることが多い。しかし それは 外野の話であるから 人一倍の苦労や悩みや絶望があったのだろうと 子どもの私にはわかる

耳が聞こえなかったことも大きいが 身体も丈夫ではなかったので 無理をして仕事をすると 家で弱って(伏して)いたのを思い出す

明るい性格のようにも見られたが 繊細な一面もあった

あらゆるところで 親譲りであるから わかるような気がする

ということは 私の子どもも 私を少し(私が死んでしまってから)わかってくれるのだろうか・・

* ひとまずペンを置く


外伝🔗:夏を迎える準備をしなくてはならない

 『一緒にかんばりましょう』と人生の舵を切ったころ - 父の日 の頃にあれこれ想う

自伝 三、

﹅﹆

ある時 面接をしている人に 多分気に入ってもらったからだろうと思うが 「一緒に頑張りましょう」と声をかけられたことがある

新しい職を求めて数々の面接に挑んでいた時期があったゆえの その時のワンシーンではないかと思う

その人が声をかけてくれた職場は 今となっては非日常になりつつあるが、 四十五歳の時に新地を求めてこれまでとは違った職種の世界に飛び込もうとする時のまさに「あの時」の面接だったのかもしれない・・と記憶に焼きついている

履歴書を何十通も書いた苦悩の日々があっても 再就職は叶わなかった
人並の資格も能力も実績もあると自信に満ちていただけに さすがに落ち込んでいったことは間違いない

外国語も問題なく扱えるし 国家検定の試験の上級レベルを自慢するように話しても そこで求めている人材は そんな能力を求めていなかった

『あなたみたいな人が来たら うちの会社を乗っ取られてしまうかもなあ』と上手に断られたこともあった。実際 そんな人物は不要だったのだろう。コツコツと謙虚に黙って仕事をする人が欲しかったのではないか

﹅﹆

「一緒にかんばりましょう」と声をかけてくれたのは 国家のキャリアの人で、三十歳そこそこで重要なポストで勤務し のちに任務を終えて国政に戻って 頻繁にメディアに顔を表していたほどの 大人物だった

たった一言「一緒に頑張りましょう」と面接の最後に出てきた言葉が 採用を意味する本心だったのか 儀礼だったのかは 今となって計り知れない

しかし 誰もが この面接でも 「不採用」だろう予測をしていたし 経験もない私にポストはないと考えていたのだから あの時に採用してくれた言葉には 私を呼んでくれる本心があって かっこよく言えば新しい私に期待をかけてくれたのだと思いたい

雲の上の人だった。職に就いてからも話をする機会はほとんどなかったものの その指導力の敏腕さは私にも手に取るように伝わって来た

﹅﹆

設計開発部門を二十年で見切りをつけて 別天地で新しい人の指揮を受けて働けることになった。心を爽快に持ち 持てる限りの情熱を注いで仕事をやり切れたのは あの時の「一緒に頑張りましょう」だったのだろうと振り返る


﹅﹆

1998年に父は無くなったので2003年の出来事は知らない
人生の後半を 技術者をして生きる道を捨てていることを知らないままあの世に行ってしまったし 親不孝な私は そのことを墓前で正式に報告もしていないかもしれない

そのこと以外にも 父には、何の恩返しも 生前にはお祝いやプレゼントもしなかったので ずっとずっと私は引きずって生きて来ている

だから 父の日は 反省の日なのだ

﹅﹆

* 書きかけ続く


外伝🔗: 父の日号 何の変哲も無い孫日記

毒ガスを吸って苦しむ夢を見る - 入梅のころ

入梅の暦のころに
夢を見て
日記に少しメモを書いている

その後
過去の出来事を夢で思い出す話にも触れている
ここに書き残しておく

﹆﹅﹆

毒ガスを吸って苦しむ夢を見る

。。

夢には匂いがある(色もある)

正確には 吸わされている
相手が誰かはわからない

強烈に苦しかった

死んでしまうから 起きねばならない・・と思って
必死で目を覚ました

もう一度寝て
ふたたび同じ夢を見た

さて、

﹆﹅﹆

もしも過去の出来事を頻繁に思い出すことがあるならば、『その時の何か』が今の自分に必要だと 潜在的に思っている証しなのだ

という話をしていた人があった

ふむふむ面白い話ではないか・・と少し頭を働かせみる

常に自分の成して来たことに間違いがなかったかを考え続けるものだ

そのことで深層心理を刺激して たくさん夢を見る。怖い夢や悔しい夢、失敗をして再チャレンジをする夢、窮地に入り込んで逃げ出せない夢など、寝言を言って魘されるようなものが 意外と多い

確かに、思い起こしてみれば、夜中に目を覚まし枕元のメモ用紙にアイデアを書き込んだこともあった

この説をお借りして少し考えてみた

夢を見ている私は 再びある時を蘇らせようとしているのだ
「苦しみを突破したいという強い願望」が蘇っているのだ

それは一種の『必要であり必然』なのかもしれない・・

と考えは 深まってゆく

壁を乗り越えていくためには 壁だと思ってはいけない

イチローは 「壁がある時はチャンスだ」
と言っていた (壁を作らない)

この説を証明することは難しいのだろう

だが、この説に背中を押されて迷路を抜け出せるならば とても面白いことである


外伝 : 毒ガスを吸う夢  / 過去の出来事の夢

六月 はじまって — 京都日記

六月がはじまって
あれこれ
思うことを
書いてみます

﹅﹆﹅﹆

健康

健康やから このままいつまででも生きておれそうや
心臓が止まる気配もない
糖尿の気配もないし
血圧も高こうない

そんなことを言いながら 介護に来てくれているムスメと話をしているのだろう
どんな会話があるのかまでは 私には想像はつかない

記憶が痴呆のせいで消えていくというわけではない

しっかりと記憶されることもあって、先ほど話した内容を しっかりと覚えており 翌日にも繰り返し呼び戻せることもあれば、「また数日したら来るわ」 と言って切った電話内容はすぐに忘れて 「今度はいつ来るのや」 と問い返していることもある

動きは鈍いが、身体の調子は何も悪くない。お菓子やアイスクリームを買い置きしてあるが 半月ほど開けて訪ねて来ると ペロリと食べてあるそうだ

エアコンの風の音が神経質であるために喧しいと言ってコンセントから抜いてしまうのだが、機械の故障の原因になるのでいけないと何度も注意しても同じことを繰り返す

﹅﹆﹅﹆

私たちが京都に来ている日は 買い物や洗濯を済ませて仕舞えば 朝のコーヒーを飲んだ後 ウチの人は とーさんのところへと 足を運ぶ

何かを話そうというような目標もなく 昔話を聞いてやろうというつもりもない

暮らしぶり

相撲がある季節は そのテレビを見せて 早めに帰ることもある。テレビにもニュースにも関心を持たなくなっているのに 大谷選手には注目しているようで 活躍の様子を それだけはテレビで見るそうだ

私たちの行かない期間は 食事をして次の食事までの時間は ここに居住する人たちとも会話をして 心配をすることなく時間を過ごしているようだ。とんでもない痴呆の人も住んでいるがそこまで自分は至っていないことも話しながら理解できるようだ。時間の刻みはスローである

「サ高住」暮らしも六ヶ月になります -  五月尽

GWが明けに京都を訪ねて以来 少し間が空いている。梅雨入りを迎え季節は次第に夏へと移り変わろうとしている

サ高住ぼちぼち

介護サービス付の住宅に入居して 今月で六ヶ月目を迎える とーさんだが 暮らしのリズムは少し落ち着いてきたのかもしない。ほぼ毎日かけてくる用のあってないような電話も 少し時間が短くなっているようだ

無責任な人たち

ツマ(長女)は毎日同じ話を聞き 同じ返事をしている。ムスメ(次女)やムスコ(長男)は 心配をしている様子も見せようとするわけもない。姉のところに (父の)様子を伺うために電話さえよこしてもこない

実のムスメやムスコなのだから 見かけほど以上に身を案じているのだろう とは思ってやりたい。しかしながら、第三者の僕から見る限りでは「もう用はないから苦しまずに凸凹なく日々を暮らして苦難なく (さっさと)亡くなってくれたらええ」と願っているようにしか見えない

今や稼いでもいないから 小遣いをくれるわけでもないし 遺産の相続においては 揉め事がゴタゴタが発生するような心配もなさそうなので、元気なうちにタカれるだけ子どもとしてタカった事だし もう齧りに行く用事もない。面倒で手間のかかる介護の世話など 長女がすれば良いし 必要以上に動いて仕事の役割を被りたくないし 自分たちの出る用はないものとしておきたいのだろう

死人を扱う

残された妻は 遺された会社の経営やお金のことで事細かく(痴呆を伴った症状でもあるが)がなり立てるような暴力的言動があったという理由で一切介護の協議の場には顔を見せず 名義が残してある会社から妻の分の給料を貰って 知られないところに部屋を借りて知らん顔をしている

介護にかかる費用については 月に何日か 面会と介護に行く長女に届くようになっている。長女の介護の様子を伺うように電話をかけてくる素ぶりもなく 全くの知らん顔を通しているように見える

人間の人生が収束してゆく期間とは このように冷たく静かなものなのだろうか、本人の暮らしぶりも周囲の人間の心も まるで死人を扱うように見える

薄情さ・さまざま

生きている時間が今後どれほどなのか・・という想像はできないし計画を立てられるものではない。しかし、たとえそれが一年であろうと十年であろうと顔色を変えずに淡々と水が枯れていくのを見るように これまでにも無関係であったように そしてこれからも何も事件にも幸にも不幸にも関わらないで 死ぬ時期を迎えようと待っているのだ

そんな姿が手に取るように見えてくる

人は その人物が何の得にもならないと分かってしまえば たとえ親子でも それまでの関係がお金をつながりにして結ばれていたのを実証するかのように そう思えるほどに ここまで薄情なものになれるのだ、と知らされる。相手が痴呆を患っていることで記憶や感情を刺激して人を悲しませる事もなくなってきているだけに 尚更 薄情である

﹅﹆﹅

「生きる」と向き合う

六月になれば再び様子を見に出かける予定だ

長女としてどんな気落ちで日々を送っているのかを その私の立場からは尋ねることはできないし 問うてみたところで答えてもくれないだろう。 また その答え自体もなく言葉にもならないのかもしれない

「早く幸せにしてあげたい」という表現をすれば それは即ち「早く楽に死なせてあげたい」と望むのだと思われてしまう。しかし、時期を急いでいるわけではない。日々に活力があるわけではなく 明日への明るさも持って楽しみを胸に抱いて 一日を過ごしているわけでもない

ならば 明日にでも亡くなった方が誰もが幸せを共に受け止めあえるのではないか・・となってくるのだが そう思っていても言葉には出せない

行き着くところは『生きるとは何か』という事なのだ

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行き着く果て

夏を迎えるので 暑くて寝苦しくならないか、脱水症状になりはしないか、窓開けるなどを自由自在にできないので 上手く快適に過ごす方法は無いものか、アイスクリームやお茶やお菓子は足りているのだろうか

そんな心配をしている。だが、先に書いた他の兄弟やツマ(後妻さん)は 何にもそんな事を日々心配すらしないで過ごしている

そのことへの怒りも不条理も感じないのだろうか と第三者として思うのだが その不思議を口に出すこともできないし 誰かに話すこともできないし 機会もないままの毎日が過ぎてゆく

* 考え中(訂正するかも)