時を失う ✣ 車谷長吉 赤目四十八瀧心中未遂

赤目四十八瀧心中未遂を読み返している

車谷長吉の小説で「時を失う」という表現が出てくる

赤目四十八瀧を彷徨い 物語の結末は心中未遂なのである
二人は 生きてゆくことの儚さと まさに「時を失う」衝撃を 感じながら 自分の生きる道の運命と闘う

「時を失う」
ものがたりの中で言葉にしてちらりと見せて しかし それが一体どういうことなのかには触れていない

この世で生きていく限りは 夢がありその夢に敗れることがある

明るい未来を諦め 現実に向き合い その泥のような沼で踠きながら さり気ない顔をしながら生きている

泥に塗れて生きていかざるを得なかった人生を 何も恨むことなく 受け止めて この道の先へと二人の行先が展開される

「生島さん。うちを連れて逃げて。」
「えッ。」
アヤちゃんは下唇を噛んで、私を見ていた。
「どこへ。」
「この世の外へ。」
私は息を呑んだ。私は「触れた。」のだ。 アヤちゃんは、私から目を離さなかった。 私の風呂敷荷物を見て、ほぼ事情を察していたのだ。私は口を開けた。言葉が出なかった。
アヤちゃんは背を向けて、歩き出した。その背が、恐ろしい拒絶を表しているようだった。私は足が動かなかった。アヤちゃんは遠ざかって行く。私は私の中から私が流失していくような気がした。小走りに追いすがった。(208P)

「おばちゃん、いまごろがっかりしてるわよ。」
「はあ、よう分かってます。私はいっつもこないして、時を失うて生きてきたんです。」
「生島さんは、やっぱりむつかしいことを言やはるわね、 好きなんやね。 時を失うやなんて、私らよう分からへん。」
「 は、 すんません。」(213P)

赤目四十八瀧心中未遂

なんべん読んでも後半部分はどこを読んでも泣けてきて仕方がない

悲しいからではない説明ができない

説明をされたとしても聴いている方もわからないだろう

迦陵頻伽(かりょうびんが)
なんて美しい悲しみだろう
涙も出ない
泣けてくる

全篇を何度も読み直す
何度読んでも

頭の中に突っ張っている人生というものの 自分なりの理解を 鋭い刃で刺し込まれるような衝撃が伝わり 何が悲しいわけでもないのに 感情が揺さぶられる

どういう理由があって この作品に引き込まれていくのかは 自分でも本当のところがわからない

目の前の現実から 逃げ出したいというわけでもなさそうだ新しいドラマを手にしたいという願いがあるわけでもない

自分とは全く違った世界での 大人の童話のようなものなのかもしれない
車谷長吉という人のナマ人物と会ったわけではないが 小説が生み出す世界とのかけ離れていながらも すぐ隣にあるような決して夢物語でもない小説のどこかに惹かれてしまったのだ

作風が私の中に自然に溶け込んできているのだろうか初めて読んだ時は数行で放り出してしまったような記憶もあるものの 何を切っ掛けにしてかすっかり引き摺り込まれてしまったのだ


時を失う

何気なしに読み流してしまい
消えてしまいそうな言葉に
見事に引き留められてしまった


さて
この師走のテーマにしている考察に入ろう

と思ったが
別日記にしようかな 長くなるし

なかにし礼 作詩の技法  (読後感想)

老驥櫪に伏するも志は千里にあり   (ろうきれき)

を座右の銘として、1980年に連載をしていたものに2020年になってあとがきを加筆している 

本のタイトルも「作詩の技法」と改めた 

なかにし礼の意思がとてもよく出ている 

この本を読みながらやはりなかにし礼という人は詩人なのであると思っていたことに確証を持つことができた 

この本を書いた後も40年間に作品を残し続け小説も手がけ随想も書いている 

歌謡曲の作詞をしている人でありながら文学色が豊かであることは歌を聞けばわかる 

一方で小説を読めば ありきたりの物語を作ってドラマ仕立てにまとめる作家とは全く違い 根底を詩が流れている上での小説を書いてきている 

なんとか賞をとって騒いでいる作品がたくさんあるが それらが年々売れであるとか受けであるとか話の流れに囚われているのが目立つ時代だ 

それらの近年の作品の作文そのものがおろそかになって行くのを嘆いても仕方がないが 

そういった意味でなかにし礼の作品は詩的な作品を提供してくれた貴重な もしかしたら最後の歌謡曲の詩だったのかもしれない 

そんなことにこだわったいてわけでもないのかもしれないが なかにし礼の作品がそうであったことの説明がこの本を読めば見えてきた 

最後まで読んで 本人が作詞ではなく作詩であるというているところで モヤモヤとしていたこちらの気持ちがスキッとした 

数々のヒットを生んだ著名な作詞家さんとは ちょっと区別して鑑賞したい 

読後に彼の作品を歌ってみた 

数々の自伝的小説も読みつつ、どこからこのセンスが生まれるのか 不思議なままだが 


🔗 なかにし礼 セレクション

🔗 なかにし礼 赤い月

(2021年1月24日 読了)

佐伯一麦 山海記  (読後感想)

佐伯一麦という作家は こはるさんに教えてもらった

全く読書の域が違う方から教わると不安があって 難しくて読めないいとか好みが全然違うと投げ出すしかなくなるので ヒヤヒヤドキドキで読み始める
佐伯一麦は 私小説作家で・・と聞いていたし、西村賢太を代表にするように私小説作家を全く僕は受け付けなかったから 詰まらないという心配もあって 相当に尻込みをして居たので不安は募る

同じ私小説でも車谷長吉は バイブルにしているから 不安の傍ら期待もしながら佐伯の小説を読み始める

作品には素直に入っていける


八木から新宮まで伸ばす路線は国内で最長の路線バスで 前から注目して実際に乗る計画も練ってみたこともあるだけに まずそこから始まれば よし読むぞ と気持ちも高ぶる

奈良盆地から紀伊半島を縦断して十津川村を経て新宮まで走るバスに乗って旅をする紀行であって 中身は軽くても それほど楽しいものではなく 面白さもなければドラマ的なものもない

実際にネットで地図を開きながら場所を確かめ さらに こまめに歴史資料を調べながら 読んでゆく

歴史には関心があるもの 全く詳しくないし 高校の供与レベルにもいかないほどの知識なので 幕末の志士の話を書いてあるが 小説を読むよりも資料を調べる時間の方が長くなる

紀伊半島の豪雨災害や東北の地震の話も 個人的な話を元に書かれている
わからないから読み飛ばしたいけど そうするとこの小説は骨抜きになってしまって面白くないだろう

佐伯一麦の作品の全てが面白いとは一二冊を読んだくらいでは言い切れないと思うが、とにかくこの『山海記』は飽きずに興味も保持しながら最後まで読めた

幕末の十津川の志士の話が出てくるので 勉強ができたので ありがたい

半島を襲った豪雨災害の記録のことも出るので、過去の災害記録も調べながら読む

さらに、自分で走った十津川村への山岳国道を思い出しながら、険しい山間を走り抜けた国道をバスが走る様子を思い浮かべる

ツーリングで紀伊半島は走り回ったし 半島の大山塊の飲み込まれてしまうような深さが 数々の旅で味わっている

その日本でも屈指の山岳道路をバスでゆくのだから そのことだけでも面白いのだから 佐伯一麦の視線と思っていることが一致すれば 小説を超えてハマりこんでいけるのだ

千早茜 しろがねの葉 (読後感想) - 小満篇

生きるということは一体どういうことかと考え、はて、相対して死ぬことを見つめている自分の姿がある

それは 手に負えなくて自力ではどうしようもならない人生というものと立ち向かうことでもあって ヒトは いざ そんな得体の見えないものと立ち向かうとなったら闘わねばならないと知らされる

時には自分の信じることには反発をしながら それは諦めという弱い心になって跳ね返ってくることもあり、勝ち負けとは違った大きな舞台で生きながら生きていく数々の壁に抗うことになる

人生を一度でも考えたことがある人であれば 勝てないものに抗うことや時には諦めることが あまりにも当たり前の筋書きの一種で 勝ち負けではなく自分の人生という道を勝手に決めてゆく一面を持っていることも知る

もしも この物語の最初の頁から読者が引き止められるとすれば この恐怖と畏れと悲しみと幸せと歓びが滲んでいる一節に 脳みその痛点をつかれるような感触を感じるからだろう

作者の 頭の中で滾るテーマへの 雄叫びのようにも思えてくる

いかにも今風の人気作品とは 正反対の 分かりにくく難解で馴染みのない筆致がもたらす 底知れぬ震えのようなものを感じながら 特に直木賞ということも気にかけないように心得てながらも 「まやかしの」賞から久々に一歩抜け出す気迫の作品に出会ったと歓びが湧いてきたのだった

読み切る自信がないほどに読者を跳ね飛ばしてやろうというようなパワーが漲った文芸といえようか

なかなかの文学作品であり今の世にも捨てきれない作品があるのだと嬉しくワクワクさせられた

読後の感想など 他人の月並みな言葉をつなぎ合わせばいくらでもかける

大切なのは 歯を食いしばって 軋ませて 死にそうになって血が滲むような怒りや無念や憤りを そして無念と失望を活くる力に変えて行く人物の 強さを どれだけ共感できるかどうかだ

読んだ人にしかわからない

それは歴史の一つの時間をステージにしているのだけれど テーマは果てしなく作者の中で脈打っているのを 感じながら愛すること 生きることを 自分に問い詰めてみたいと思うのだった

❄︎ ❄︎ ❄︎

(読後余話)

作者は女性だと書籍のどこかに書いているし 各種の情報で年齢や紹介までもが書評と一緒に目に飛び込んでくる

物語のいわゆるネタバレはどれだけされても作品自体が持つパワーは簡単にはバレて来ない

そういう意味でネタバレは怖くないが 作者のお顔などの写真や経歴などは 全く初めての私にとっては いささか邪魔な情報だった

学生時代には書物の情報というのは簡単に出回ったりせずに 作者の顔(時には性別)なども謎のままだった

何かの書物の裏表紙などに紹介されるわずかな本の情報でその作家を知り興味を持って やがてはのめり込んでゆく人になって行くケースもあったのだが 今の時代は 出版社の戦略もあろうがすっかり時代が変わってしまった

そのことを責めても仕方がない

ただ この作者には 昔のような出会いをして その作品に踏み込みたかったというような夢のようなことを考えて 作品を読み進んだ

自分を整理すると男性の作家の方を圧倒的に贔屓にする傾向があるが この人は私の中で贔屓の中に男の味を漂わせて 静かに居られる

佐伯一麦 渡良瀬 (読後感想)

山海記を読んだ後にこの作品を読んだ
作風は まったく同じだが、山海記と比べると日常の物語になる

関東平野の古河市というところで働く若い主人公の日々だ
家庭が出てくるののだけど 作者はこの後に離婚をしてしまうので どうしても悲壮的なイメージを持って読んでしまう

電気機器の会社に勤めている
自分も電気主任技術者としての日を送ったことがあるだけに 話の内容はよくわかるが 無縁の人には退屈な作品かも知れない

何も事件らしいことが起こるわけではない
そんな日常だけが読後に残る

西條奈加 心淋し川 (読後感想)

『心淋し川』は一月に図書館い申し込んで今頃順番が来て
市の文化事業の心の籠らないことにも反感を持ちながら
「ほんまに期待できるのか」とも思いながら読み始めた

だが期待以上に なかなか 面白い

映画のシナリオのタネを箇条書きにして並べたような作品が多くなって
読者は文章を味わっていないのではないかと思えると
人気の作品でもあっという間に嫌気がさして来たのだが

この作品は なかなか
作者が音読をしながら(朗読をしながら)酔いしれて書いているように思えて

読んでいて嬉しくなってくる

短編集であるが それぞれが繋がっていて
心淋し川のほとりにある心町に住む人間模様を描いている

。。。

昨日書き始めて放り出したこの日記を
今こうして書き終わって

夜明けになって
「心淋し川」の最終篇を手にしたところでこの日記はおしまい

最後の章はこんな風に書き出しています

——


灰の男

忘れたくとも、忘れ得ぬ思いが、人にはある
悲哀も無念も悔根も、時のふるいにかけられて、ただひとつの物思いだけが残される。
嘘に等しく、死に近いもの-その名を寂寥という
(最終篇 かきだしから)


。。。

西條奈加 心淋し川

読み終わった後に静かに大きな息をして 纏めきれない言葉を手繰りたくなるような余韻のある作品に久しぶりに出会った

書物として、物語は話の終焉の頁を閉じた時に 言葉が作り出していた情景の余韻として響き残っている

昨今は 物語の筋書きや人物の感情の衝突やらが荒々しくでダイナミックな作品が人気を博していたり スター俳優を擁して派手な宣伝と触れ込みでドラマや映画化して注目を集めてゆく直木賞作品が目立って そこに多少失望していた

それだけに この作品がもたらす静かな感動は それは激しいものではなく じんわりと緩やかに身体のどこかを熱くしていくような不思議な力であって 味わいながら読み終われたことにも感謝をしたくなる気持ちにもなるのだった

短い六篇の作品を集めたこの本は 一貢づつ ときには一行づつを息継ぎをしながら あるいは後戻りしながらでも 丁寧に読んでいきたい作品だ

そのような読み方をしても 綻びることもないようなしっかり作品だと 読みながら湧いてくるそのような感触に浸った

失礼なことに昨今の直木賞の横並び程度に思っていたことが申し訳なくて 読み始める前の期待をしない予想を恥じる思いだった

場所は江戸の下町あたりで 聞き慣れた地名が出てくるのだが 架空のところもあるのだろう

話も史実にあるようなものではなく 庶民が密やかに むしろ貧しく暮らしているところを 切り取って人情味を加えた人間味のある物語にしている

暮らしてゆけるのが不思議なほど貧しく にもかかわらずしたたかに生きている姿を 不幸な過去や思わぬ出来事に交えて書いている

下町の中でも 特別に暗く 淀んだ川が流れている

世の中のあるいは人々のあくせくに疲れたため息をどっぷりと染み込ませた塵芥が沁み込んで堆積しているうら寂しい川が流れている

だから「心(うら)淋し川」と呼び 町の名前を「心町」(うらまち)としたのだろう

「さみしい」という文字は『淋しい』と書く

「さんずいへん」であるところに心の悲哀を 音も立てずに激しく映しこんでくれるような気がした

日々は辛く 何も明るい未来が見えているわけではないにしても 決して真っ暗ではなく 完全に閉じてしまった暮らしではないのだ

心待ちの人々の緩やかで慎ましい日常を 絶妙に切り取って 温もりに味わいを添えて 美しい文章で綴ってくれる

声に出して読んでみて感動に自らが読み詰まってしまう苦味と甘さを味わいながら 何度も何度も頁を行ったり来たりしている

森村誠一 老いる意味 うつ 病気 夢

図書館の本がやっと順番が来て
森村誠一 老いる意味 うつ、勇気、夢
(中公新書ラクレ)

中身は それほど濃厚なものではないにしろ
われわれが普段から思っていることを
きちんと代弁してまとめてくれてあるという感じです

。。。

仕事を退いて新しいことを始めようと切り替えにかかっている

収入も無いので
負け惜しみです
けど

いまさら誰かと勝負をするわけでも無いのやし
貧相な暮らしで生きて行くしかない

最も血気盛んなときは
優雅な暮らしも目標に置いたこともあったが
先輩や同輩たちのように
取締役、部長とか執行役員などには無縁であったし

よく考えると
そのような才能があるわけないし
夢を見たり手を伸ばそうとしたことが 間違いだ

そんなことを振り返る日々で
森村さんのエッセイは
モヤモヤとしている老後の暮らしや
その姿勢、取り組み意識を代弁してくれている

誰もが考えていることであっても
まとめて書いてもらうと
うなづけて嬉しい

。。

朝の三時に起きて
パラパラと読み始めて
一日でおおかた読み終わります