鹿児島 ─ 熊本 ─ 大分 ✫ GW明けの旅 (本篇)

なあ、こんどは 九州 いこか・・  (まえがき)

まず 伊勢志摩ライナー (15:24発)で京都(17:15着)へ
楽しみにしていたポルタのハゲ天で天丼を食べよう‥‥

ところがハゲ天に着くとお目当てにしていた天丼はランチメニューで午後四時で終了
お持ち帰りに切り替えて持って帰る

心配をしていた雨は 嵯峨嵐山駅(JR)を降りたときには まだ降っていない
別邸で食事を済ませて 翌朝の嵐電(始発の次の列車)に備える

夜半から雨が強く降り出している音が聞こえる

5月7日(火) 指宿温泉まで

1︎⃣

車折神社駅(6:15)から嵯峨嵐山駅まで 雨は小降りだったのが幸運だった

2︎⃣ 

京都駅でのひかりへの乗り換えも順調でサンドイッチとコーヒーを買う
新大阪までひかり531号で移動し 乗り換え
みずほ605号で鹿児島中央駅(11:36着)を目指す

3︎⃣

鹿児島中央駅前の観光案内所で情報収集をした後 荷物を預けて バスのフリー切符を買う

まず アミュプラザの中にあるざぼんという店でラーメンを食べて 次にシティビューのバスに乗る

西郷隆盛銅像はバスに中から撮影をして見学を済ませた
城山展望台で途中下車をして三十分で散策を済ませて仙巌園へ向かう

仙巌園は大きな庭園で 桜島が真正面に見ることができる
「千円はちょっと高いなあ〜」と言いながら 一時間余り散策をした

4︎⃣

再びシティビュー(バス)に乗って天文館で降り むじゃき白熊かき氷を食べる
練乳のかかった甘いかき氷で 大きいサイズ1つとアイスコーヒー1つ

その後 鹿児島中央駅に戻り 時間調整をしながら 指宿行きのディーゼルカー(二両)を待つ

5︎⃣

鹿児島中央駅(17:12)から指宿枕崎線の各停で 指宿温泉 を目指す
料金が1,020円なので それなりに遠く一時間ほど揺られていく

計画では指宿駅からバス移動をする予定にしていたのだが
時刻が6時を回っていたこともあってタクシー(¥900)でホテル吟松まで

6︎⃣

ホテルでは 風呂の前に 先に夕食とした
美味しい焼酎も飲んだし さつま揚げ を目前で揚げてくれるのをいただきながら初日が終わっていく

部屋は豪華で が一望でき 上階にあるお風呂も露天風呂
展望も素晴らしいというので 早朝にもう一度入浴しに出かけた

🏨 銀松(指宿温泉)


5月8日(水)鹿児島市内〜桜島観光

1︎⃣

吟松から指宿駅へはタクシー利用で 快速なのはな(8:08)で鹿児島中央駅(9:07)へ
昨日立ち寄った観光案内所を再訪し 観光情報を少し聞く

その後 バスで 桜島フェリーターミナル へ移動し 順調に「桜島フェリー」に乗船して 火山の島へ

2︎⃣

10時過ぎに 桜島フェリーターミナル を出航し 約20分で桜島に到着
島内観光のサクラジマアイランドビュー(循環バス)に乗る
このバスを待つ人の殆どが外国人で 通勤並みの混雑ぶりで 湯之平展望台 まで一時間近く立ったままだった

のちに聞いた観光案内所の人の話では 大型客船が鹿児島港に接岸したらしい
湯之平展望台へは臨時バスが来て 座って港まで戻ることができた
展望台からの桜島(火山)や鹿児島市街の眺めは迫るものがあって勇壮で 鹿児島市街から見るのとは一味違った

現在は噴火をしておらず ゴツゴツした火山の岩肌や頂上も間近に迫って見える
30分ほどで見学を終えて 順調にフェリーターミナルに戻り 天文館へと向かう

3︎⃣

天文館では 鰻の末よしという店を調べていたので直行する

メニューは「鰻丼」と「鰻重」があって 二人別々にそれぞれを食べる
丼は 普通のスタイルで、鰻重は 重箱に鰻とご飯が別々に入っているというのも名物らしい

味は 噂になっているだけあって期待通りで美味しい
思っているよりも薄い気味の味付けで 鰻の味がする‥というか 川魚を食べている匂いがするような気がした

4︎⃣

鹿児島では (バスの中から)西郷隆盛銅像西郷洞窟を見て、仙巌園湯之平展望に寄り、末よしで鰻を堪能した
一日目には「天文館・むじゃき」白熊(かき氷)も食べたし 計画通りで満足できるものとなった

5︎⃣

鹿児島市から熊本市までは さくら564号 に乗る
熊本駅に着いてすぐに 九州横断特急3号 大分行の切符を確保し 観光案内所で観光マップをもらう
少し話を聞いてドーミーイン熊本へ直行する

6︎⃣

ホテルに到着後 まだ明るいうちに 熊本市役所展望ルームを目指し 熊本城全景を楽しむ
次に 太平燕 を食べたくて 通町商店街の 紅蘭亭 で 夕食とした

太平燕のあとは軽いおつまみを買って部屋で寛ぐ
ドーミーインでは 夜鳴きそば サービスも食べて ラーメン三昧を過ごせた
温泉は高層階で 似たり寄ったりの温泉であるが 十分に癒される

🏨 ドーミーイン熊本


5月9日(木)熊本から大分へ

9日(3日目)は熊本城見学と水前寺公園を計画て 順調に進んだ

1︎⃣

まず ホテルを出て すぐに熊本城南口を目指す
入門の前に 桜の馬場城彩苑「ミュージアムわくわく座」を勧められ寄ってから天守閣を目指して歩く

地震災害の復旧が完全に終了するのは35年後になるという
天守閣へと至る歩道も立派に作られているが 崩れている石垣を見下ろしながら 仮設の橋脚が続く

応急処置で 天守閣だけが見学が可能である
お城の歴史展示を見学しながらコツコツと 6Fまで階段を上って行く

2︎⃣

天守閣から見下ろす風景は なかなか見られない雄大な景色だ
お城の見学を済ませた後に 市電のフリー切符を買い 市電水前寺公園へ移動をする

公園は 入園料も360円と安いし 綺麗に整備されていてゆっくり回ることができる
予定通りの時間で周回して 下通商店街へ向かう

3︎⃣

昨日も食べたが再び 紅蘭亭 へきてランチをする(酢豚のようなお手頃価格のランチ)
黒亭のラーメンも候補に上がっていたが 麺類が続いて 少し飽きていたのでご飯を食べる

食事を済ませ 通町を散歩をしながら ホテルに預かってもらっていた荷物を受け取り 熊本駅へ移動する

4︎⃣

駅のスタバで時間調整をしてお土産物屋さんも見て のんびりと時間潰しをして 九州横断特急3号大分行に乗る

切符が 前日に買ってあるので 熊本駅を15:5分に特急で大分駅には17:57に到着する

3時間ほどかかるので 最初は「あらっ」と驚くのだが 阿蘇を横断して行くディーゼルカーで 急な上りを唸りを上げて登っていく列車に乗ってみてなるほどと納得した

途中でJR立野駅にスイッチバックの箇所があり 阿蘇の温泉郷も通過していく
阿蘇山の外輪山も遠くに眺められ 列車に乗る楽しみを味わうことができる

5︎⃣

大分駅に着くと すぐ駅前にドーミーイン大分があった
夕飯を食べる店をホテルで教えてもらい少し歩くが人気の店であったらしく予約で満席

駅まで引き返して 駅構内にある豊後茶屋とり天定食を食べる
美味しいものを腹一杯食べてきているので 少し食欲が低下気味だ

おつまみも焼き鳥だけにしてホテルに帰り 夜鳴きそばサービスもパスした
最終日のターゲットを 海地獄鬼石温泉と決めて ゆっくりと眠った

🏨 ドーミーイン大分


5月10日(金) 別府温泉から新大阪・名古屋経由で帰宅

1︎⃣

ドーミーの朝食は 一部のマニアに人気があるようで 噂の話を聞いていると楽しい
したがって 朝から満腹でホテルを出て 別府駅に9時頃に着き観光案内所で話を聞いて荷物を預けた

すぐに海地獄に向けるバスに乗れて10時前に鬼石温泉に到着する
予定通り家族風呂(二千円)に入ることで万事順調

1時間以内で風呂から上がって すぐ横の 海地獄 に入園し ゆっくりと地獄を見学をする

地獄見物は 鬼石温泉から覗いた鬼石地獄と海地獄 の二箇所の見学で済ませた
12時過ぎに駅へのバスに乗れる

2︎⃣

駅に早く戻れすぎたのであるが 疲れも出始めているので のんびりと贅沢に時間を潰すことにした

観光案内所で聞いていたまやかしやというお店に入ってりゅうきゅう定食(鰤の漬丼)としらす丼を食べる

そのあと 時間があったので別府タワーまで歩いて行ってみる(800円/1人)

3︎⃣

そんなふうにして時間を潰して 帰りの別府駅からソニック38号に乗った
小倉駅で駅弁を買って のぞみ46号に乗り換えて一気に名古屋まで

広島で小6の坊やが乗ってきて新横浜に単身赴任をしている母さんに会いにいくという
一人で寂しく座って本を読んだり居眠りしたりしているのが可愛かった
初めてだとい言っていた
母の日も間近だから会いに行くのだろう

4︎⃣

🚃 別府駅(14:53)ソニック・にちりんソニック38号
🚄 小倉駅(16:16)のぞみ46号
🚃 名古屋駅(19:33)快速みえ23号
🚌 駅からバスで自宅近くまで(8:55)



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北海道 旅日記  草稿(二版)

26日 なぎさまち〜セントレア〜新千歳空港〜帯広〜東横イン

出発は朝8時前で 9時ころになぎさ町エアポートライン乗り場に到着。第二駐車場に車を置いて 荷物を押して船乗り場までゆっくり移動

なぎさまち〜セントレア

船は 時刻通り10時に出航し 定刻にセントレアに到着。はじめての飛行場(セントレア)を散策をして回る

ぐるぐるして徘徊している間に迷子の心配は消えていき チェックインの場所などを確認しながら たくさんの店を覗いて回って お昼の食事にお弁当を買ってオープンスペースのテーブルで済ませる

飛行機の展望デッキに出て 離着陸の飛行機をしばらく見て過ごし コメダでお茶をして時間調整をして 定刻に搭乗チェックインを済ませると 心配事が順番に消滅し 安心してピーチに乗り込める

新千歳空港へ

定刻(14時30分)に離陸し 定刻に新千歳空港に到着(16時半ころ)

心配だった荷物の受取りも難なく済ませることができ 到着後一時間以内で新千歳空港駅から列車に乗ることができ、南千歳駅でも迷うことなく乗換えて 特急『おおぞら』に乗車し帯広へ向かう。心配したような混雑もなく やや空席も目立つ程度であった

南千歳駅からは特急おおぞらに乗り少しずつ暮れてゆく北海道の景色を見ながら電車に揺られる

帯広駅(20時過ぎ)

帯広駅に着くとひんやりとやや肌寒く感じる。北海道らしい寒さだ。駅構内にあったセブンイレブンを見つけてビールなどを買ってホテルへ

東横インへ

東横インは駅から数分ホテルで、利用履歴があるので 安心。何もないホテルであるが 泊まるだけなので 簡単な朝食がついていてこれで十分だ。風呂に入って 寝るだけ

27日 オンネトー〜阿寒湖〜900草原〜摩周湖〜硫黄山〜多和平〜細岡展望台(釧路湿原)〜ドーミイイン

晴れ

朝食は東横インのスタンダードな食事で 8時前にチェックアウトを済ませ 駅のすぐ傍のオリックスレンタカーに向かう

車を借りる手続きも順調で 東横インに荷物を引上げに戻り カーナビに阿寒湖を入力して走り出したのが 8時半頃だった。阿寒湖をナビに設定し 足寄町を回って 阿寒湖を目指す

途中でオンネトーの表示が目に止まり 懐かしくなって 寄り道をする

オンネトー

オンネトーへは 車が2台通れるほどの広い道で 交通量はそれほど多くなく、湖岸まで綺麗に整備された道を走り難なく行け、駐車場には車が5台ほどで 最初の展望台で雌阿寒岳をバックに写真を撮る

1977年に野中温泉に来他頃は 山深いひっそりとしたボロボロの一軒宿だったが 今はキャンプ場などの 施設が周囲にできて賑やかになっている

雌阿寒岳が綺麗に見えるのを写真に撮って あんな高い山に夜間登山をしたのだな と感慨に浸る

1977年の周遊券ヒッチハイクの旅は 人間的にも未熟であったし まだまだ未経験で何も知らない危ない青年だった。野中温泉YH主催の雌阿寒岳夜間登山を終えた僕は田辺くんの免許証を預かってウトロへ行くのだ

1977年の北海道(R2)

オンネトーから阿寒湖は近くですぐに到着

阿寒湖畔の観光案内所の駐車場に車を停めておき 少し湖岸を散策する

エルム

『エルム』という喫茶店風の店をガイドブックで見つけていたので そこで『ミートソースとカレーのハーフ掛け』のパスタを食べてお昼とする

駐車場に戻る前に遊覧船が接岸する湖畔に出て記念写真を撮る。その後、松浦武四郎の石碑を訪ねたいと考えていたのだが、車を止めようと予定していた環境省ビジターセンターが閉館日で乗り入れられずに断念する

900草原@弟子屈

松浦武四郎記念碑は早々に断念したので 急いで900草原を目指す。大きな牧草地は広がっている360度の視界の高原だ

ルートに迷いはなく到着できるが 人や車はそれほど来ておらず 牛が放牧されている高原の中を頂上へと向かう

予想以上に時間が押していたので 次は 摩周湖を目指す

展望台には売店も設置されているが 閉まっている。ちょっと寂しい感じがした

摩周湖へ向う

真っ直ぐに摩周岳へと登って行く道路脇は牧草地で むかしに見た景色を思い出す

摩周湖では 第一展望台の駐車場(500円)車を止めて展望を楽しみ 『摩周ブルー』というソフトクリーム(500円)を食べる

摩周湖の展望台で寛いでいる間に突然 霧の雲が流れてきて湖面が隠れてしまった。写真だけを撮って 駐車券が 硫黄山とセットなので 硫黄山も経由で 多和平へと向かう

86年に来た時は硫黄山で食事もし 川湯温泉で宿泊もしている

多和平

多和平には寄りたいと考えていた。むかしに開陽台によった話を懐かしみながら道を辿る。だが カーナビが案内をするルートは寂れていて 地図を持たない旅なので全体が見渡せず不安を抱いての移動だ

天気が 小雨混じりに変わり 多和平の駐車場では少し時雨ていたので 車の中から草原を見渡すだけで済ませて 釧路湿原の『細岡展望台』を目指す

細岡展望台(釧路湿原)へ

釧路方面への道路は 地方道(道道)を通ってゆくが、牧場を横切るところもあり 牛の横断で車を止めねばならないこともあった

国道から 数キロほどくねくねとそれて行き交う車もない道を山の中へと入っていくと釧路本線が通る付近まで行ける

細岡駅釧路湿原駅があって 晴れていれば 綺麗な景色を見下ろせたはずですが・・少し霧雨っぽい

少し雲が出たり霧がかかったりの変化であっても 雨には降られず 傘なしで少し散策ができた

この展望台は 期待以上に良く 感動的だった

幣舞の湯 ドーミーインPREMIUM釧路

ホテルには夕刻6時前に到着できたが、遅かったので 立体に車を止めることになった

小雨がパラパラと降っていた。チェックインを済ませてすぐに食事に

釧路フィッシャーマンズワーフ MOO へ

ちょっと節約ムードであったが せっかく来たのだからと ビールを一杯飲んで ホッケも食べて 地場産の焼き鳥やアスパラも食べてみた

部屋に戻ると ホテルから夜鳴きそばサービス(無料)があるというので 一階のフードコートへ。ちょうどお手頃の量の 美味しいラーメンがご馳走になれて大満足

展望温泉 

13階に展望温泉がある。さらに 休憩スペースがあって アイスや飲み物がご自由にとなっている

アイスクリームは 小さい目だが 何個食べても良さそうなので 何度か足を運んで 二、三個ほど食べた

さらに 朝風呂の後には ヤクルトのような乳酸菌飲料も置いているという 至れり尽くせりなホテルだった

海鮮バイキング(朝食)

このホテルは 朝食バイキングが 海鮮食べ放題だった

朝は混雑すると説明があるが 六時から開けていて それほど並ぶことなくゆっくりと食事ができた

貝やホタテを焼いて一個づつ貰い 小さなどんぶりに海鮮を自由に盛り付けられる

小鉢もいくつか揃っていたし、食べすぎないように気をつけながら食べた

ホタテや貝はもう少し貰っても良かったのだけど 朝から食べすぎても 色々と心配後も起こるし・・・

28日(三日目) 帯広十勝へ

釧路は霧の朝だ。前夜から時雨気味だったが 朝にはほとんど苦にならないほどに小雨になっている。釧路は霧の街らしい

十勝帯広方面へナビをセットして 海岸沿いの道を走っていくけれども 霧が一向に引いていかない

ほんとうなら 十勝沖の大きな海が左手方向には広がっているはずだが 残念なことに 全く霧の中で見渡せない

池田ワイン城

念願のワイン城には11時頃に迷うことなく到着する。真正面で写真を撮って すぐにレストランへと向かう

迷うことなく 十勝牛のステーキを注文する。ステーキを注文すると ガラポンのくじが引けるというので チェレンジをする。なんと ワイン『山幸』ハーフボトルが当たりました

幸運は絶好調です。もちろん 夜にホテルで飲んだ

六花の森

ワイン城で気を良くしたので るんるんで 『六花の森』を目指す。入園料は千円

森の中を一通り回って 『六’cafe』(ロッカフェ)でお茶をしてくつろぐ

愛国駅と幸福駅

幸福駅跡と愛国駅跡 予定通り

今更何があるわけでもないのだが かつて訪ねて写真も撮ったので 同じ場所に降り立ちもう一度撮ってみるのも記念になろうと考えた

建物は廃れていく、人々の記憶も次第に薄れていく

駅に書かれている記録によると 僕たちが初めて来た1986年の夏には まだ汽車は走っていた

でも あの時僕たちが来た時には走っている汽車を見るわけでもなく 汽車と写真を残そうとした記録もない。完全に消滅してから色々な思いが湧き出てくるものだ

あのむかしにどうして汽車が来るのを待ってまで記念を残そうとしなかったのだろうか

レンタカー 雑感

レンタカーに止めるたびに気づくのだが 六割から八割ほどがレンタカーだと摩周湖の駐車場で気がついた。同年代くらいの夫婦か女性の友だち同士のようで、どの辺りから来ているのかはまちまちのようだが コースも似たり寄ったりのような旅をする人六十歳ほどの人が多い

レンタカー操作

レンタカーについては 運転操作は問題ないが 細かいボタン操作がわからないままであった

釧路で濃霧に遭遇するものの フォグランプがあるのかどうか未確認であったし、わざわざ降りて確認するのも面倒で そのままで走った。後で前に回ったら 補助ランプは装備されているものの 点灯スイッチの場所がわからないままだった

燃費

燃費は計算をしなかった

3500円余りの給油だったので20ℓの消費、燃費を30km/ℓとすると600kmになる

平均速度が40キロほど、12時間程度の運転時間ではないか

29日  帯広〜千歳空港〜セントレア〜なぎさまち

千歳空港まで

帯広から特急『とかち』で。空港では お昼に 札幌ラーメン を食べる。『雪あかり』という店だった。お土産を買ったりする余裕も十分

千歳からは順調に飛行機に乗れて

セントレアへ

ここで夕食とする。北海道に向かう時に食べるのを迷った丼物のお店で 今度は親子丼を食べる

待ち時間も 長すぎることもなく 程よいゆとりで なぎさまちまで帰り着けた

我が家に着いたのは九時前でした

「サ高住」暮らしも六ヶ月になります -  五月尽

GWが明けに京都を訪ねて以来 少し間が空いている。梅雨入りを迎え季節は次第に夏へと移り変わろうとしている

サ高住ぼちぼち

介護サービス付の住宅に入居して 今月で六ヶ月目を迎える とーさんだが 暮らしのリズムは少し落ち着いてきたのかもしない。ほぼ毎日かけてくる用のあってないような電話も 少し時間が短くなっているようだ

無責任な人たち

ツマ(長女)は毎日同じ話を聞き 同じ返事をしている。ムスメ(次女)やムスコ(長男)は 心配をしている様子も見せようとするわけもない。姉のところに (父の)様子を伺うために電話さえよこしてもこない

実のムスメやムスコなのだから 見かけほど以上に身を案じているのだろう とは思ってやりたい。しかしながら、第三者の僕から見る限りでは「もう用はないから苦しまずに凸凹なく日々を暮らして苦難なく (さっさと)亡くなってくれたらええ」と願っているようにしか見えない

今や稼いでもいないから 小遣いをくれるわけでもないし 遺産の相続においては 揉め事がゴタゴタが発生するような心配もなさそうなので、元気なうちにタカれるだけ子どもとしてタカった事だし もう齧りに行く用事もない。面倒で手間のかかる介護の世話など 長女がすれば良いし 必要以上に動いて仕事の役割を被りたくないし 自分たちの出る用はないものとしておきたいのだろう

死人を扱う

残された妻は 遺された会社の経営やお金のことで事細かく(痴呆を伴った症状でもあるが)がなり立てるような暴力的言動があったという理由で一切介護の協議の場には顔を見せず 名義が残してある会社から妻の分の給料を貰って 知られないところに部屋を借りて知らん顔をしている

介護にかかる費用については 月に何日か 面会と介護に行く長女に届くようになっている。長女の介護の様子を伺うように電話をかけてくる素ぶりもなく 全くの知らん顔を通しているように見える

人間の人生が収束してゆく期間とは このように冷たく静かなものなのだろうか、本人の暮らしぶりも周囲の人間の心も まるで死人を扱うように見える

薄情さ・さまざま

生きている時間が今後どれほどなのか・・という想像はできないし計画を立てられるものではない。しかし、たとえそれが一年であろうと十年であろうと顔色を変えずに淡々と水が枯れていくのを見るように これまでにも無関係であったように そしてこれからも何も事件にも幸にも不幸にも関わらないで 死ぬ時期を迎えようと待っているのだ

そんな姿が手に取るように見えてくる

人は その人物が何の得にもならないと分かってしまえば たとえ親子でも それまでの関係がお金をつながりにして結ばれていたのを実証するかのように そう思えるほどに ここまで薄情なものになれるのだ、と知らされる。相手が痴呆を患っていることで記憶や感情を刺激して人を悲しませる事もなくなってきているだけに 尚更 薄情である

﹅﹆﹅

「生きる」と向き合う

六月になれば再び様子を見に出かける予定だ

長女としてどんな気落ちで日々を送っているのかを その私の立場からは尋ねることはできないし 問うてみたところで答えてもくれないだろう。 また その答え自体もなく言葉にもならないのかもしれない

「早く幸せにしてあげたい」という表現をすれば それは即ち「早く楽に死なせてあげたい」と望むのだと思われてしまう。しかし、時期を急いでいるわけではない。日々に活力があるわけではなく 明日への明るさも持って楽しみを胸に抱いて 一日を過ごしているわけでもない

ならば 明日にでも亡くなった方が誰もが幸せを共に受け止めあえるのではないか・・となってくるのだが そう思っていても言葉には出せない

行き着くところは『生きるとは何か』という事なのだ

﹅﹆﹅

行き着く果て

夏を迎えるので 暑くて寝苦しくならないか、脱水症状になりはしないか、窓開けるなどを自由自在にできないので 上手く快適に過ごす方法は無いものか、アイスクリームやお茶やお菓子は足りているのだろうか

そんな心配をしている。だが、先に書いた他の兄弟やツマ(後妻さん)は 何にもそんな事を日々心配すらしないで過ごしている

そのことへの怒りも不条理も感じないのだろうか と第三者として思うのだが その不思議を口に出すこともできないし 誰かに話すこともできないし 機会もないままの毎日が過ぎてゆく

* 考え中(訂正するかも)


ヤマブキの花生けながら聞く母の話し - 穀雨篇 裏窓から (京都日記・継続中)

﹆﹅﹆
太田道灌の山吹の話

ある日、道灌が部下と狩りに出かけたところ、突然の雨に見舞われ農家で蓑(みの)の借用を申し出た。応対に出た若い娘はうつむいたまま、山吹の一枝を差し出すのみ。

事情が分からない道灌は「自分は山吹を所望したのではない。蓑を借りたいのだ」と声を荒げるが、娘は押し黙るのみ。

しびれを切らした道灌はずぶ濡れになって城に帰り、古老にその話をした。

すると、古老は「それは平安時代の古歌に『七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき』という歌があり『蓑』と『実の』を懸けています。貧しい家で蓑一つも無いことを山吹に例えたのです。殿はそんなことも分からなかったのですか」と言われた。道灌は自らの不明を恥じ、その後歌道に精進したという話である。

実話かどうか不明だが、江戸中期の儒学者・湯浅常山が書いた「常山紀談」に載っており、庶民は好んでこの話を講談や落語で取り上げた。八重山吹は実をつけずに株分けでしか増えない。普通の山吹は実をつける。

子どものころのに幾度となく母から山吹のこの歌を聞かされた。そのことに感謝をする

今では苦心もせずに『七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき』と暗唱できる

忘れるということは 意思をもってしても不可能なことがある一例で その歌もその一つだ

﹆﹅﹆
四月二十日 穀雨

ヤマブキの黄色が鮮やかで綺麗だ

父や母は花を愛する人なのだが 同じ家庭で育ちながら 好きな花の話や好きな色の話をしたことがないなとふと思う

ではその話を死に絶えるまでにしっかりしておかなアカンのかというと 人生・第四幕を迎えていながら そんなことでジタバタする必要もなかろうとも思い直す

死んだら幾つか不思議が残っても良い。それが伝わらず 歴史に刻まれなくとも そういう滅びかたがあってもいいじゃないか

父は二十五年前にこの世を去ったが 不思議がいっぱい残った

このごろになって『潔く消えて 忘れ去られるのもよかろう、所詮そんな大物でもなかったのだから』と思うようにしている

✼✼✼

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  • コレステロール
  • 中性脂肪
  • クレアチニン

こんなパラメータを心配しながら生きている
テレビやメディアでは 人が生きてゆくために不安を与える疾患情報を流し続け
人間が健康と向き合う未来を投げかけ 『生きる』『老いる』『安楽』『人生』などのキーワードから 「生きている哲学」を骨抜きにしてゆく

死に絶えることを『恐怖』(怖い)と捉えるようになったあらゆる源は 生きている間の姿勢に理念を無くしたからだろうと考える

それがいかにも「人間らしい」のだとも思うが 「豊かさと幸せ」とは何かに、つまりは振り出しに戻ることになる

「不便・不自由」から生まれて来るものを見失ったことに失策があったと言って間違いない

﹆﹅﹆

京都日記は 細々と継続をしていこうと思っている

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三月のはじめに思う

春を迎える

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「微かな濃淡」てのは素敵な言い方です。

モノにはエネルギーってのがあって、赤色ひとつとっても濃度[concentration](赤み度)と振動数[frequency]を持っている。この周波数が大きな意味を持っていると思うのです。まあ、言ってみれば揺れているわけです。

あらゆるものにおいて、この1つの状態を表すためにはこの周波数というパラメータが必要で、モノの状態は「物」でも「精神」でも揺らいでいるのが自然ということです。

銀マド

ふとブログを読み返して見つけたのでメモしておく

﹅﹆﹅

鰻が食べたくて出かけた

幸運にも早春の麗らかな日和になった

コロナ騒ぎもどうなったのだろうというほどに人出が多く お昼どきの鰻屋さんでは 何組も待つことになる

私よりも歳上らしい地元のみなさんや高齢者の夫婦が目につく

二、三人で鰻を食べている

﹅﹆﹅

前回に食べに行った鰻屋さんには今回は行かず 隣町のお手頃価格の鰻屋さんにした
ご飯が丼にたっぷりと盛ってある
「大盛」とはどこにも書いてないけれども 「普通盛り」よりはご飯は多めだろう

この地方で鰻を食べると ご飯はどこに店でも多めになっているような気がする
ご飯をたくさん食べる地域文化のようなものを受けてのことだろうか

伊勢平野の米は 旨い

二月尽に考える

そろそろ 令和五年 三月を迎える
新しい年度が始まろうとする三月というのは まさにジャンプをする時の屈んだ姿勢であり 飛行機の飛び立つ助走のような時間でもある

﹅﹆﹅

🌸 花道を如月尽きて幕下りる
🌸 昨日からチャンス伺う沈丁花

こんなことを書きながら 二月が暮れて行った

﹅﹆﹅

悠ちゃんの誕生日(五日)なので人形を買いにショッピングモールに寄った

麦畑は お盆ころに刈り取りになるのだなあと染み染み考えてみたり のんびりした二月尽


寒波くる ー 京都師走日記 番外

寒波が来て
北信越の方では大雪になって
交通遮断などが起こっている

京都は幸いにも積雪もない

☃︎☃︎☃︎

着々と『サービス付き高齢者住宅』の調査や検討が進んでいる
今月の暮れには『サ高住』に契約をして家電製品を買いに行きたい と考えている

﹅﹅﹅

♖ 認知症とどう付き合うか

認知症の進行具合は家族にしたらそれほど目まぐるしくなく日々に悪化はしていない思っているのだろうが、「高見の見物」をしているこちら側から見ると数日おきに段差を持って悪化しているのがわかる

だからといって「早く手を打たなばいけない」気持ちが押し寄せてくるわけでもなく、ある種の諦めというか 無力を感じながら、もう引き戻せないという失望感と中途半端に引き戻して手に負えなくなるのも困る、という気持ちを抱いている

うまく引き戻せたところで必ずどこかしらに認知症の症状の破片が残る事は間違いないだろうから、にこやかに話をし続けている表情を見ていると一層、そっとしておいてあげたいと思うのは周囲のほとんどの人の優しさなのだろう

どうしても入院させて是が非でも治療をしたいと思うような精神科学者の立場の医者がいるとも想像しがたいが、実際のところ本人が穏やかにしているのであれば、もうこのままそっと筋書きもなく自然消滅をしていってしまうのが幸せなのだろうと思うのも一つの見方であろう

外科的に神経のどこかを切り捨てるとか繋ぎ換えてみるとかとか刺激を与えるとか、そのような治療などないだろうし、穏やかに静かに何もなく見守ると言うのが今の処方なのかもしれない

﹅﹅﹅

気の毒にならないように幸せに暴れることなくどこかの部屋に収まってくれていれば自分たちが毎日世話をしに来るのでそれで良いではないか、と家族のそれぞれは考えているのだ

目に見えるものを感じることはできるものの、それをどうしようというような本人の意思はほとんど生まれてこない

短く切り刻まれた現在の時間があるだけであり、それは記憶にも残らない時間で、刻む事はあっても空白のまま足跡にも残らない時間である

﹅﹅﹅

このまま一人で家に置いておくわけにもいかない

  • 一人で薬は飲めない
  • 食事も取ることもできない
  • 電話はかけることもできない
  • 洗濯も風呂もままならない

こんな状態で放置してはおけないから介護に来たのであるが、ずっといて欲しいと言われても不可能なこともあるし、いつまでも傍に居てあげて対応するわけにはいかないのが実情だ

『サ高住』に出来る限り早くおさまって 介護認定に基づく介護を受け、定期的な診察や投薬をしてもらえる助けを受けながらこの先を暮らすという選択を取るのが懸命だ

本人が、当初から「ずっと家にいたい」(死ぬ時は家で死にたいというニュアンス)と言い張るのを聞いて 周りはそれに頷くしかなく それが優しさを表すことだと最初は判断したのだが・・

﹅﹅﹅

現実に 幸せとはどういう形で何を求めているのかを考えると 考えても答えの出ない事が続く

だか、日々見ていると決して我が儘を聞いてやる対応が正しいというわけではなさそうだ、とわかってくる

「男のことやお金のことを解決させるために離婚をしなくてはいけない」と頭の中で話を発展させてしまっているため これも解決させるために忘れさせなばならない

別に騙すつもりも誤魔化すつもりもないが、考える力を持たない人の言うことを聞くわけにはいかない

穏やかな時に穏やかに話をしているときにサービス付き高齢者住宅に収まろうという気持ちにさせる事が大切で 気持ちが静かな間に 契約を進める段取りで話を進めてきた

少し先が見えてきたと言うところに来ている

続 京都師走日記 ー 十二月下旬 雷山無言

(追記中・・日記R2)

九時ごろに多分お風呂に入ってそれから寝ますので今日一日を寝る前に整理しておく

パソコンが到着してセッティングはおよそ終了していますが、机が無い畳の部屋で椅子を机にする姿勢で使っている
書机スタイルは 腰が痛くなるので短時間でしか使えないが 何とか知恵を縛って使えるよう工夫したい

ボクが持ってきた膝掛け用毛布は とーさんに貸したので、二十四日に届くように通販で買って手配をした
二階のボクたちの部屋は日当たりが良いのだけど 昼間でも 温か「膝掛け」がないと結構 寒いです
寝るときには返却してもらってお布団の上に載せて使います

﹆﹆﹆

とーさん頭の中にある事 はオトコの事とお金の事だけなんです

結婚したころに周りにいた友だちとして交流のあった人のことなどが記憶に蘇ってくるようです

それは別に大した問題でもないのだけれども、何十年も経って回想とするとそれが事件に化けてしまうらしい
そのころの友人と深い関係が続いているというようなある種の病気的な「妄想」が襲ってくるらしい
そこで、妄想に腹を立てて頭に血が上るのだろう、物を投げたり危害を加えようとする行動が表出するようになる

かーさんは 別に相手(とーさん)が嫌いではないし、手間がかかり困っているわけでも世話を焼きたくないわけでもない
ただの普通の高齢者同士の夫婦だけれども、暴れられたら手がつけられ無くなるし 一旦避難をするしかない

とーさん側からすれば何もしてないのに 姿を消されたことで また再び 妄想が勝手に暴走していく
「出ていってしまったのならば早く帰ってきてほしい」と弱気に出ている時もあれば、逆上して暴言を吐き捨て危害を加えそうになる行動が出る

さらに弱ったことに その行動の記憶が残っていない

後になって静かに話かけても全てを忘れており「覚えていない」を繰り返し 事件の説明を聞き入れることができない
したがって、事態の解決方法を提案し始めても そんな事は知らないことだと説得に応じてくれず、一向に話は纏まることがない

﹆﹆﹆

厄介なのはオトコの友だちのことだけではなく お金の事にも及んでいる

自分の管理する会社のお金が悪用されているのではないかという月並みな疑念(妄想)に襲われて、早く口座を作って自分のところに振り込ませねば 大変なことになるので大急ぎで対処をせねばならない・・と言い出します
(ドラマのように妻が金を持って逃げたとか、金を持たせておくのを回避せねばならないとか・・そんな妄想が次々と出る)

会社は事業を受け継いだ息子がお金なども全て引き継ぐのだから心配不要だと、どれだけ言ったところでそういう事は理解できず、さらに妻が帰ってこないのはそのお金を悪用しているからだ、というように考えてはじめ、早くお金の流れをしっかり管理しなくてはいけない、という妄想のスパイラルに陥っていく

世の中にはこのような事例は多分いくらでもあるだろう

﹆﹆﹆

僕は悪い人間なのかもしれませんが、
全く高見の見物をして茶番劇のドラマを見てるような気持ちでいることにしています
僕が介入したところで何が解決するわけでもないし、僕の意見が聞き入れられるわけでもない
傍で見ているのはとても気の毒であるものの、一生懸命になっている長女を見ていると可哀そうだ、しかし、助けてあげることはできない

「仕方がないやろ あなたのおとうさんなんやから」というような態度で知らんふりをしている冷酷な人間になっている

﹆﹆﹆

人として とても大切な能力の一つに『重大な局面に遭遇したときに あっさりと投げ出してしまう』という性格がある

一生懸命やっても成功の道は無い、その時は 一刻も早く投げ出してしまえるような気持ちに転換すること、を僕は望んでいます

もしも僕が同じ立場になっていたとしたら、投げ出せる物なのかどうか それは 全く想像ができません
そういう意味でも無責任な発言であるが 今最も必要なのは「無責任」っぽく投げ出してしまうことだと思うんです
だって責任を持って何か努力をしても何も解決ができないからです

実はそうすることは
全く無責任でも冷酷でも投げやりでもないし、介護を放棄したことにもならないと思う
本当の愛とは何か、優しさとは何かを 試問されているのではないか

記憶を失う ー 続 京都師走日記 ・ 雷山無言

(師走日記続き)

夜も更けて参ります
更けゆく夜に日記を書き始めて二日目になります
(読み返しては書き直すので 刻々と変わってしまいます)

﹆﹆﹆

もうそろそろ今日のお勤めを終えてお休みしようという時刻ですが、とうさんは リモコンをなくしたと言うて大騒ぎをしておる

どうせ、狂気なって怒ってゴミ袋に投げつけたか、どこかに投げつけて壊したのでそれをゴミ箱に放り投げたんではなかろうかと僕は推測する

認知症に伴う「せん妄」が日常になってきて 「狂気」に似た症状になることが増えている

ツマが浮気をしているというような根拠のない記憶が真実のように変化して、似たような事件が創作ように枝葉をつけて膨れ上がり、過去の出来事もねじ曲げられて、その大間違いに興奮して「真っ赤」になって怒りを表して物を投げたり叫んだりする

次第に人は寄り付かなくなる

家人(ツマ)は (オトコのところに)逃げていった、と妄想は発展する
(暴れるのを避けて部屋を借りて出ていってしまったのが真相)

帰ってこないからキレるのは 当人にしたら当たり前のことで、リモコンはそんな暴挙・暴動の末に壊れてゴミ箱に投げ入れたとしても不思議ではない

自分で投げ捨てておきながらそのことは記憶から消えてゆくのだろう

﹆﹆﹆

人間(ヒト)は挙げ句の果てには 全てを忘れていくものなのであろう

昼間に 長男が訪ねてきた

徘徊をして「ケーサツに保護され電話があって引き取りに行った」というのが真相で 『いづうの鯖寿司』を一つ置いていったのだが、そのことさえ 尋ねても 記憶にないという

この人の幸せとは一体なんであろうか
三途の川を渡るときには 真実を知り 『せん妄』を拭って渡らせてあげたい

痴呆と向きあう Ⅱ ー 暮れゆく師走に

ウチの人はとーさんのところに行って相手をしているときは必死で 一日中相手をしてあげるのが お勤めのようにいく

明日になったら何を話したかどんなことをしていたのか半分ほども記憶にないのに
そのときは正常だという

「それは正常ではないのだ」と私は言う
「病気(異常)でありその症状が正常に見えるという異常なのだ」と私は言い続ける

可哀想なことを言う酷い奴だと思われているのであろう

自分の部屋に戻ってきてその異常度合いを思い出しながら、なぜこんなになるまで医者にかからず放置していたのだろうか、と悔やんでいるのだろうか

悔やんでも始まらないから精一杯尽くそう、と思っているのだろうか

⛄︎ ⛄︎ ⛄︎

そんなことを記録メモに書いて、私は日々を過ごすことになります

たぶん、十日ごとに定性的な観測をすれば 痴呆の悪化具合がさらに明確に目に見えて把握できるのだろうと思うものの、今更 特効薬を求めて走り回る気も残されてゆく人に湧いてきてはいないようで これらの重要な人たちは 他人事のように静かに時を待っているようにも見える

こんなにも 身内は無責任で 利己的なものか

癌に犯されたとき寄り添うて悲しそうなフリをするのも 痴呆に向き合いよそ見をして知らんふりをしているのも その根底に流れる心は 突き詰めれば同一の姿であるのであろうに・・

しかし あまりにも非情で情けが見えてこないので 驚くばかりだ

⛄︎ ⛄︎ ⛄︎

(とーさんの住む地に遠方から痴呆の生活を助けるために来ている長女がウチの人である、次女や長男は市内に住んでいるのに世話をしにこないという事実に直面してこれを書き始めている)

⛄︎ ⛄︎ ⛄︎

ウチの人は同じ屋根の下で寝泊まりを始めただけに 噛み砕けないような辛さに直面しているのだ

人間が知性とか知能というものを得たために 『知』を失うことへの抵抗や失望が発生した
『知』の喪失はどんな動物にもあるのだろうけれども そのことはすなわち野生で生きる力を失うことで 生命を賭けた大きな衝撃であったのだ

縄文人であったならどうであろうか
妖術や呪術に頼って 祈祷をするのだろうか

✾ ✾ ✾ ✾ ✾

もう何日も(無理をして)生きていても仕方がない
九〇歳で死ぬと四柱推命で占われ もうその年齢を超えたのだから死んでも構わない

投げ槍にそう言っている訳ではないことは理解できる
しかし もしも死んでしまったら後になってから そんな諦めを許せる訳でもないし
実際に過去を振り返って悔やむ人もいる
悔やむことは間違いではない

十年後に 二十年後に そのことを悔やむ

⛄︎ ⛄︎ ⛄︎

病気と向きあい死と接することは普遍的なことだ
命が滅びることは避けられない

では
この壁と いかなる姿勢で向き合うのか
早く衰弱して ほんとうに死んでしまった方がいいのか

師走澹然 ー 初旬から中旬へ 大雪篇

自處超然 
人處藹然
有事斬然 
無事澄然
得意澹然 
失意泰然


🐜 🐜 🐜

痴呆と向き合う
2022/12/15 木

『痴呆』という漢字を書いてみて改めて次々と頭に浮かび明らかなるものと向かい合う
その時間の中で、それは「知」を病むことなのだと知らされる

『癌』であれば 例として肝臓なり膵臓の臓器の一部が侵されるのだろう。
しかし、痴呆と呼ぶ疾患は 身体を切り捨てて欲しいと叫んでしまう癌のような痛みを感じるわけでもない
生命を即座に断ち切ってしまうような一撃があるわけでもない

おそらく 長い歴史の上で 祈祷や霊感が大きく人の心や生き方を左右していた古代から痴呆というものは存在したのだろう
それが文明の進化や変化に伴い信仰とも融合し 病気の中から少し片隅に追いやられて扱われてきたのだろうか
厳しく冷たい現実である

人間が心臓を拍動させながら生き続ける生命体であるがために 病気として扱われてきた「痛み」や「苦痛」の病気とは違って、知性という目に見えない感情の病は 掴みどころのないことで 祈祷や霊感の力に頼ってしまい 近代医学の治療のステージから取り残されてしまった感がある

取り残されたというようよりは むしろ 迫害されて 「気狂い」扱いの分野にも放り込まれてきた

ーーー

身近でアルツハイマーの診断を受けた人が出た
そのことで 初めて痴呆という病気の現実が身近に寄ってきている

つまり、これまで日常生活の中に全く無縁であった『介護』と言う世界がすぐ傍までやってくることになった
アルツハイマーになってしまった人を傍で見ていると気の毒でありながらも、冷酷に判断すると もはや生きている分類の仲間に入れては気の毒であり 尊厳とプライドを奪っているよう見える

癌の痛みに苦しむ人が人生を振り返ってあらゆる想いを語り吐き出して、痛みをモルヒネで誤魔化しながら命を尽くしてくのとは 痴呆は違う
何故ならば、認知症の人はもうすでに三途の川の領域に足を、紛れもなく踏み入れているのだ

正常の様相をしばしば表出するために(厳しく冷酷な言い方であるが)死人の扱いをされず、生きてる人として守られる
それを否定するつもりは毛頭ない
しかし 三途の川にすでに足を踏み入れていると割り切らねばならない

ーーー

あの世に行ってから生前にもらった言葉を思い出すとするならば、記憶障害を起こしている当人はこの期に及んでかけられた言葉を持ってあの世にゆくことはできないのではないか・・と考えた
確かに息をして体温が温かく生命としては消滅していないのだけれども(どれだけ続くかわからない最期までの時間を有意義に送ろうとするのは理解できるが)『知』は全く喪失してしまったのだから、然るべき方法を考え出してなんとかしたい、と痛切に思う

ーーー

一生懸命に「痴呆」の人を救おうとすればするほど 行き詰まってゆく
つまりは 救えないのだ。
現実社会や医学では、痴呆を救うことはできず 引き摺り回しているだけではないのか

救う決定的な方法が提案できないから 苦心している


思いつくままに書いた
間違いも 考え違いもあろうし
この後に新たえねばならないこともあろう

時間が過ぎる刹那に
何を思っていたか

十一月の或る日切り取りペンを置く ー 下旬のころに考えていること

🐤 🐤 🐤

霜月中旬に とーさんに微妙な変化が出始めたことに これまでに触れてきた
想定外ではないにしても「急に変化が…何故に今ごろ」とも 言える

九十歳を超えているのだから 何を油断していたのか
もっと早く手を打っていたならば 病状の進行は最低限に抑制できたのではなかろうか

そういうことを 寝ても覚めても悶々と考えつつ 一方で
本人は 日々 時間を何も考えることなく 曜日も日付けも怪しいまま 時間を送っている

医学も精神科学も 時代と共に進化する
幸運にも 現代人は 幸せを目指しながら 長生きをできるようになってきた

こういう状況に追い込まれて はじめて
「幸せとは何か」ということを 改めて考える人も多かろう

🐤 🐤 🐤

🐤 🐤 🐤

🐟 🐟 霜月の暮れ尽きる時の秋刀魚かな

二十九日(水)にサンマ15号を食べた
京都にしばらく居住することになる
そんな言い訳を持ち出し 鰻を食べてきたのが三十日(水)

呼び止めてもいってしまうあの人 ー 夜明けの頃に夢を見た 十一月下旬

渋柿

散歩に出たときに柿の木がある
田舎では 普通の風景だ

木の下では このうちの人が焚き火をしていた
落ち葉を燃やしているのか ゴミを燃やしているのか

話しかけるわけでもないから不明のままだが
干し柿にしないのだろうかと 疑問に思いながら 通るたびに見上げている

青空が澄み渡る日だったので 写真を撮った
ちょうど 飛行機が飛んでいて 得した気分だ

🔗 日が暮れるまでに青空を見ておこう  (二十五日


📌 呼び止めてもいってしまうあの人
📌 夜明け前そんな一句を思いつき
📌 目が醒めて時計を探せど見当たらず
📌 夢に出ても振り向いてもらえぬ悔しさ

♠︎ ♠︎

ゆうべ(二十六日)
特別な 変わった 珍しい 夢を見た
ちょっと切なく辛い朝を迎えた

偶然と不思議が同時に現れて
急にドキドキし始める
心臓が騒ぐ、胸が高鳴る

縁起でもないから 早く夢から醒めよう
そんなことを夢の中で考えたのだろうか
起きることにした

考えれば 悪循環になる

たった今
反対に
そういうふうに 思うのだから
きっと何も起こらない
大丈夫と思おう

たいてい
悪いことが起こってしまったときってのは
あとになって あれこれ思い当たるものだから

♠︎ ♠︎

今なら
もしも幸せでなくても
幸せに向かって
一生懸命になれるはず

明日が見えれば
それも幸せの予感だ

『頑張る』という言葉は辛いけど
頑張っていけるということは
ええことやないか

♠︎ ♠︎

十一月の中旬に とーさんに異変が起きた
突然ではないと思うが 症状を聞けば突然かもしれない

痴呆に関わることを調べると『せん妄』という言葉が出てくる
まだまだ痴呆には 至らないと 安心をしているわけではない
しかし 身近に迫り来ていることを実感する

追記は つづく

コロナ・やれやれ - その後(号外5)

コロナ
終わった

やれやれ


11日までは 自宅療養
色々と考えると 災難だったが 珍しい経験でもあった

生きててよかったと思う
基礎疾患系の身体なので もしものことがあったら苦しくことになる

当然 母親の心配もした
それほど症状が出ることもなく
冷や冷やドキドキすることもそれほどなかって 幸運だった
長生きしたら この事件を大いに語って振り返りたい


以下のようなことを書き残しているので 貼っておく

* *

先ごろ母親(91)が庭で転倒して骨折し入院となったことで手紙を書く機会ができた
不慮の事故を後悔しながらも、ふとした偶然のことからの意外な幸運に些か喜んだ

コロナの渦中であるから見舞いの不自由さは想像通りで、91歳の老人には家族であろうと面会はできず、老人を寝台に寝たきりにさせることで残された者たちには次々と不安や心配を生んだ
そこで思いついたのが手紙を書くことであった

学生時代に鉛筆書きで「学費のことは心配せずしっかり勉強しなさい」と手紙をくれた父や母であったが、こちらからは書いたことがなかった
タバコ屋の店先の赤電話から仕送りの工面の電話をしても「元気でやっているか」などの手紙は出さなかった

使わなくなった便箋を探し出し、寝たきりの老人を元気づけるために老眼でも読めるような大きな字を意識して「頑張って早く歩けるようになってください」と書いた
今さら母親に何を書き出すか思案に暮れて、日ごろから暮らしへの感謝も疎かにし、畏敬や感謝を粗末にしてきたことに気付かされるのであった

久しぶりに持った万年筆のインクの文字が下手くそで滲みばかりが目立ったが、その辺の戸惑いも母親には届いただろうか。

転倒による肋骨骨折事故 - その後(号外2)

▼ 三月十日

肋骨骨折のため緩やかなギプスで胸部を固定されて寝台に横になったままのようです
血圧は 元々やや高めで監視状態であったので 異変がないかを監視中
脳のCTは以上なし
食事は 平常通り摂取できている
その他 特に注意点なし


電話で簡単な対話をした結果、筆記用具が欲しいと言われました
そのほかには、マスク、櫛、手鏡 などです


▼ 入院をしてしまった当人は気の毒極まりない
しかし、ほかに処置の方法がないので 現況の治療を受け入れるしかない

では、少しでも快適な入院時間を過ごすための工夫を 周りも手伝って考えてゆくしかない


▼ sudden deathの恐怖が襲います

『死亡』でなくとも、身体・身柄の拘束に遭うことになったら 想定していないことが次々と浮かびます

もしも自分が急遽入院をすることになったらと考えると非常に恐ろしいし不安が襲い掛かります

可能性を考えれば、人によれば運命と割り切っておられる人もありますが、なかなかそうもいかないでしょう

▼ 面会不可で 孤独状態になる恐怖

日常の暮らしでは自由に話をし 物を手に取り 希望を叶え テレビやネット、新聞などを見たり読んだりして快適に暮らしています

これが 「ぷつり」と断ち切られてしまうのですから 怖いです


書きかけ *

あす死ぬと知っていること、知らぬこと ー 小正月号


あす死ぬと知っていること、知らぬこと

クリスマスイブのころ、義妹の父が裏山の枇杷の木の剪定をしている最中に梯子から落下して入院をした
最初の情報では、落下して首を傷めて、山から一人で戻りその晩は静観していたが、明くる日になって痛みが激しくなり救急車で搬送となった

ところが、14日間に容体が急変し亡くなってしまった
リハビリをできる病院を探して転院しようと進めているところだった

落下直後にどんな状況であったのか誰も詳しく聞いた人がいない
推測をすると、一人で山を這い降りて痛みを堪えて家で静観していたものの、もしや首の骨折ではないかと思え、急遽救急車で搬送してもらったという

のちの情報では、落下によって首が骨折したらしく、死因は骨折によると診断書に書かれているそうだ
93歳であったから身体はそれなりに老衰していて多臓器の機能も衰えていたことも原因だろうと家族などは話している

突然にこんな形で死んでしまうとは 多くの人が思ってもいなかっただろう
コロナの影響で面会には大きな制限があり、家族でさえ自由には会いに行けなかった
救急搬送の直後に奥さん(義妹母)が下着を持って行き、わずかに話したのが最後という

言いたかったことはなかったのだろうか、あったに違いない、それは何か

私が父を亡くしたときも、その後いつまでもこの疑問が脳裏に焼き付いている
永遠に答えの出ない問いかけだ

あす死ぬと 知っていること、知らぬこと

知っていても何ができるわけでもない
一言は残せるか

事故、災害、不運、自死など、この先に何が起こるかわからないのは、いつのどんな時代であろうと同じだ

三月十六日に考える - 雷山無言・号外

アニバーサリーなどという洒落た言葉も似合わない
単なる結婚記念日というだけである

ゆうちゃんの誕生日(5日)に写真が届いて 嬉しそうにしている顔がなかなか可愛い

三月は ツマの母の命日と私の亡き父の誕生日と私たちの結婚記念日がある

昔を振り返って偲んだり懐かしんだりするには まことにぴったしの季節であると思う


👈今年もまた三月十六日を迎えているを書いて一息

🍓 まわり舞台
人生はドラマで自分の生きて来た道はステージであった

そのステージ(幕)もクライマックスも弁当幕も終了して
終幕へと向かっている

人生のステージ(まわり舞台)はもうぐるりとまわり終わったところで
観客は弁当も食い終わって帰り支度しながら
本日の舞台の感想などを頭の中で巡らせているのだ


三十七回目の結婚記念日であった

出会った時がスタートで
未来のクライマックスをいくつも考えながら生きて来たわけではない

生きてきた後ろにドラマがあり
その舞台から見れば後ろ姿が見える

私には自分の後ろ姿は見えない
まわり終わった舞台も見えない


人生はドラマであり
幕は惹かれればドラマは終わる

名作は語り継がれることもあろうが
私は名俳優でもないし
名作の主役でもない

スポットライトを浴びて
見得を切るような場面を演じることもなく

それはそれで
よかったのだろう

・・・考えながら

新しいステージ - 立冬篇 その二、 裏窓から

👻 イチョウ並木 昔の日記は仕舞い込む
👻 日めくりは寒い季節への招待状
👻 窓越しは木枯らし劇場特等席


10日は健ちゃんの誕生日でした
三歳になりましたと上手に指三本立てている

🍀

立冬が過ぎても当然ながら何も目新しいこともなかった
そんな日々が過ぎた

健ちゃんの誕生日が10日だ
ムスメさんもこの日から職場復帰
わたしは新しい仕事を探して面接に出かけたが❌

新しいステージの幕が開いた
鳴り物入りで開いたわけではないけれども
今年度はプー太郎

🍊

わたしの辞書からはすっかり『朝寝坊』という言葉は消えた
早く起きる必要性がなくなったのだから 「朝寝坊」はありえない[

むかし 「スズメはなぜ電線から落ちないか」という問答をした事がある

「落ちそうになったら飛べばいいから」と結論づけたのだが
その後も自問自答は続いていた

飛び続けるためには 体力が必要だ
いつかは着地点を見つけて身体を休めるために降りなくてはなるまい
着地点は安全なのか、襲撃を受けないか

🍊

では

飛ぶ鳥は大空を自由に飛び回れて幸せか
地上から見上げる小さな生き物は不幸せか

人生問答は たぶん しばらくつづく


十一月のはじまりに考える - 文化の日のころ

漸を以て

学は漸を以て日に進むを貴ぶ
天下の極遠なる、固より人跡の及ばざる所のもの有り
然れども日日に力め行きて息ざれば、則ち至らざる所無きなり
学の源流は遠し
苟くも下学の功、日に進みて已まざること久しければ、則ち以て上達すべきなり
(貝原益軒 慎思録)

註:漸(ぜん)を以て、力(つと)め行きて息(や)まざれば、下学(かがく)の功

🍊

「ようやく」と読む
何度頭に叩き込んでも忘れている

脳の記憶細胞の特定の箇所に破損があるのだろう
特定の字だけが(名前だけが)繰り返して忘れているということが起こる
脳科学の問題である

日記伝(カテゴリ)を作ってみました

(号外)

どんなカテゴリ名称がええのか考え中ですが

■■

 自分史とはなにか。最初の講座で、真知子さんは言った。「お魚が美味しい干物になる前の、元気に大海原を泳いでいた頃のお話です」 「皆さんが泳いできた海の広さや、深さ、海の色の青さや、海から見上げた空のまぶしさを、ぜひ教えてください。自分史とは長い自己紹介ではありません。自分の出会った人たちや、自分の生きてきた時間の素晴らしさの物語なんです」


(ひこばえ):457 重松清 終章 きらきら星  (朝日:

■■

「出会った人に語られる人生が、その人のほんとうの人生かもしれませんよね」――弁解交じりの屁理屈とは思いながらも、「だって、人間って、誰かと出会うために生きてるわけじゃないですか」と言葉を重ねられると、屁理屈が二乗されて、あんがいと説得力を持つものなのだ。 「出会うために生きてるって、別れるために出会ってるのと同じなんですかねー」


(ひこばえ):460 重松清 終章 きらきら星 (朝日:

■■

というのを読みながら

むかしブログに書いたことも転載してみたり
新しく日記風に思い出してみてもいいかもしれない

と思い始めたのです

逝く人や伝えたきこと問い返せず ─ 冬至篇 【裏窓から】

▶️ この世をいとおしい、去りとうない、と思うて逝かねば、残された者が行き暮れよう 小暑篇 【裏窓から】 – Walk Don’t Run –

これを書いたのは七夕のあくる日だった

そして作家の葉室麟さんが亡くなったのは冬至(22日)を一日過ぎた十二月二十三日のことで、翌朝の新聞を読んで知り驚く

**

小林麻央さんの悲しい知らせのニュースのこともあって夏の盛りには
▶️ 「いつ死んでも後悔するように生きる」その姿を考える ─ 立夏篇 【裏窓から】
という回想もしている  - – Walk Don’t Run –

刻々と月日は過ぎてゆく
次々と此の世をさる人の中に同世代が年々増える (同世代=年齢±6歳)

私の父も六十六歳という年齢だった
そのことをこのごろになって考える
20年前には思いもよらなかったことを考えつく

たぶんあの年齢のときにあの人は
とてつもなくたくさんのことを考え
小さなことから大きなことまでを
尽きることなく案じ続け
それを言葉にできずに悔しがり
伝えられず考え
その果てに諦めたのかもしれない

**

亡くなった人にはそれぞれの人生があった
それははかり知れないものだが
何一つにも無駄はなく失われてはいけないものだったに違いない

まだまだ生きねばならない人もあっただろう
生きる必要もあったし
生きて
やらねばならないこともあったはずだ

そのときは予告通りだったかもしれないし
曲がり角を曲がって突然現れるようなものであったのかもしれない

**

死んでしまって
此の世で忘れ去られようという時期が
いつやって来ても
あの人はかけがえのない人であった
と振り返ってもらえるような足跡を残さねばならないし
いつまでも語ってもらえるようなヒトでありたい
と考えて生きてきた

何よりも悔やむのは
その様々な場面において
きちんと義理を果たして来なかったことだろう

**

さあ、私の番が近づいている

あれこれとそんなことを言いながら年賀の宛名を書いている
近年、宛名を書くのが座禅のようで楽しい

12月27日朝日新聞
12月27日朝日新聞

– Walk Don’t Run –

四月バカ 仕方がないやろホーホケキョ

春になって
ひっそりと
考えていたことがあるけど

みんな どっかに消えていってしまったよ

🌱

毎朝 おはようと言葉を交わすJKちゃん
卒業して東京に行ってしまう話

あれは寂しかったね
名前も知らないけど
中学から6年間も
駅で見かけて
近頃になっておはようと
挨拶するようになったところだったのに

🌱

もう一人
ポニーテールの横顔が
とてもさわやかな子もいて

この子も
おはよう 寒いなあ
とか
おはよう 眠そうやな
とか
雨降り嫌やな
なんて他愛もない挨拶を交わす子だった

先日
おはよう 四月からもまた同じ電車やな
と声をかけたら
結婚してxxxに住むんです
と話してくれた

新婚だそうで
家の準備ができたら
この列車には乗らないそうです

立て続けに
二人の 別れが来るとは

どちらも
名前は知らない
それで良かったのだ

でも

正直 寂しい

京都日記(裏窓から) 小雪篇 果てしないもの

11月22日は小雪
これを書き始めた日には既に過日となっている

秋がくれるのが些か早いような気もしたいた
それは毎年思う気のせいみたいなものであろうと自分に言い聞かせるように思いながらブルリとくる朝もジーンと冷える夜も襟を立ててやせ我慢をして11月の下旬の日々を送っている

その小雪の午後二時間ほどの休暇を取って夕方から京都へ向かった
お父さんのところに帰る前に懐かしの居酒屋で晩酌をしながら更けゆく夜を二人で過ごした
お勘定が二人でドンピシャ5千円となったことをちょっと驚いたりしながら嵐電に乗る

あくる日 23日
京都の秋の朝の寒さはピリッと冷たいかもと恐る恐る布団から出てみるものの時雨雲が空に散らばっていたせいもあってかそれほどでもなく肌寒さが少しあるので厚めの服を着て折りたたみの傘を一つ持って出かけた

有栖川車庫でバスの一日乗車券を買いそこから三条河原町まで京都バスに乗り三条河原町でモーニングコヒーを飲んだ
三条通りにもコメダがあってせっかくここまで来たのにコメダは避けたいなと言いながら三条京阪のバスターミナルまで歩くのだが、銀閣寺を経由して白河に行くバスが激混みで到着するのに呆れて、次を待っても乗れる保障がなかろうと判断し、これを避けて北大路経由で北白河へと向かうことにした

去年の秋は一人で高雄に行き散り果てた紅葉のあまりの見窄らしさに落胆して、帰りに仁和寺に寄ってきた
今年は二人で散策しようと気持ちが一致した
昔から行こう行こうと言いながらも行けずにいる曼殊院と、ツマの母校が移転した跡地界隈も歩いてみようということになって、二人とも張り切って足を伸ばしてみるつもりでいる

曼殊院から圓光寺門前、詩仙堂、八大神社をへて宮本武蔵の決闘の地でも有名な「一乗寺下り松」跡も立ち寄る
一乗寺の山々は尾根から斜面へと一面が赤や黄色に染まり京都の市街地を見下ろしている

京都にいた時間が長かったのにずっと嵯峨嵐山界隈で過ごしたため鴨川のほとりにはあまり行ったことがなく修学院方面から北大路へと向かうバスは観光気分で愉しめる

ツマの母校跡地になっている市内のど真ん中・烏丸通は地下鉄が開通したのでバス路線が廃止されていて古い町を訪ねるためにはバスを乗り継いで行かねばならないのだが、それがまた新鮮で楽しい

ツマは市電が走っていた時代をしっかりと記憶しているのでバスに乗るたびに200番台は市電の路線を走るバスだと懐かしんでいる

市内のその場所に昔の面影がどれほど残っていたのかは私にはわかってあげることができないが、いくつかの路地を歩くと御所まで辿り着けて、そこにある長くて変わることのない歴史とそれを守ってきた建物の重さを感じながら、イチョウの葉の舞う参詣道をゆっくりと歩く

激震するように大きく時代が変化して各国からたくさんの人々がやってくるようになった古都だが、流行を掴み損ねまいとして華やかに飾っている古都のなかに表と裏があって、立ち止まった路地で風景や人などのそれらに出会えると、数え切れない文化の位相(あるいはそれは波動と呼んでいいのかも)のようなものを感じる

それは人の(人間の)心理や哲学にも共通する遥か未来へと続く果てしないものなのだ

うるうの日

閏の日ももうすぐ終わります

お昼前にも時雨れたけど
夕方からも再び時雨れてきまして
でも、温かい感じがする

ムスメさん
(早く生まれるかもと先生に言われながら)
予定日の閏の日を迎えてますが
まだです。

親が一番待っているのかもしれんな

この子の時もそうやったんか…
と今更気づく

一瞬をみつめる

私の書いたコメントをメモしておく

このごろ 私も母(85歳)を訪ねて家に帰ることが少し増えたかな

意識して会っておこうと思うのかもしれません

母はむかしの話をしてくれます

私の上に姉があって死なかしてますが、その後に男の子があったけど流産したこと、さらに私の5つ下の弟との間に二人の男の子を8ヶ月と7ヶ月で流産していることなど、を話してくれます

残酷な命の絶える様子などもしますが 私は母が生きていることを染み染みと噛み締めながら同じ話であっても むかしの話を新鮮に聞いて帰ってきます。

新しい世界で行きてゆく練習か準備か まあそんなようにも思えます

話を聞いて帰っては日記に書き留めています

生まれてから一度もしなかった話も多く 脈々と記憶がどこかで生きていたのを感じます

一瞬
例えそうでもあっても とても掛け替えのない時間ですね


コメント元

傾聴ボランティア

先日、ホームの母の部屋に、傾聴ボランティアの実習生(講師は久田恵さん)の方が見えた。母の趣味の墨絵について、いろいろ聞いてもらえることになっていた。母が墨絵を始めたのは40代からで、今から半世紀近く前からのことである。このホームに入る1年ほど前まで、静物や風景などをずっと描いていた。絵の話なら喜んでするのではないかと、周囲の人は予想していた。

ところが、である。母が熱心に話すのは、戦前の女学生時代のことばかり。臨海学校のこと、伊勢神宮参拝のこと、戦争が始まったこと、勤労奉仕のこと・・・話は戦後にさえならない。夫や子供のことも話そうとしない。中年から始め、あんなに夢中だった墨絵も、「もうやってない」と言うだけ。母の戦後は何だったのだろう、結婚して家庭を持ったことも、忘れてしまったのかしら?

昨日の句会で、こんな句を出した。舌足らずで、子としての無念の思いが出ていないけれど。

鳥雲に母の戦後はただ一瞬〉  こはる

温そうな雨  【裏窓から・雨水篇】

❏ 雪景色夢にだけ見て冬終わる
❏ 餃子二つがぶりと食って雨水ぞよ

♡♡

二三日前に嫌な夢を見たので、それが正夢になったら嫌だからここに書いておくことにする。

夜中に珍しく弟から電話がかかってきて母が急に死んでしまったと非常に冷静に話す。
こりゃあ大変なことになったと慌てなくてはならないところだがやけに冷静に応対している。

夢だから細かい心理や動揺まではまったく記憶してない。
とにかく平然として電話を聞いて慌てずに私が振る舞っているのが不思議なのだ。

♡♡

夢を見ながらなのに
不思議な夢だと思って、自分の反応に空想のような非現実を感じている。

これは夢だから母はまだ生きているのだ
死んで欲しくない人殺してしまうような嫌な夢だ
そんなものを意志に反して見てしまい
だが、消せないだけに段々腹も立てている。

夢の非現実性に気付いている。

私は眠っている。
だから夢として分類していいだろう。
私は非現実なことの様々を考えつつ、うつらうつらとしている状態にあった。
やはり夢であったのだ。

だから、正夢になっては困る。
だからといって胸にしまっておくのも気持ちが晴れない。
そこで、誰かに話しておくか、
こうして書き留めてしまうのがいいのではないかと考えた。

(続く)

着々と


着々とその日を迎える準備をしている
時間がコツコツと音を立てるように過ぎてゆくように感じる

その日とは子どもが生まれる日で
予定では閏年の閏の日である

主治医の先生の話では
もうそろそろだということで
予想では10日ほど早いのではないかと
期待を募らせている

この子の母も
1週間ほど予定よりも早く
この子を生んだのだし
安産だった聞かされて
安心しながら
わが家でのんびりと時を過ごす

早いものだ
この子が生まれて
28年もたったのだから

暮れゆく年


ムスメが角煮に挑戦している頃
(角煮と蕎麦はムスメLINE)
ウチの人は伊達巻に苦心していました

はんぺんを磨り潰す道具にすりこぎを応用しました
フードプロセッサーなんてあろうわけがないから苦心したようです

ムスメさんはのんびりペースで
角煮を夕方に仕上げ
暗くなったころに近所のお店にかき揚げを買いに行ったそうです

煮しめにも挑戦して
なかなかの奥様ぶりです
▶ 元旦

西京味噌

お雑煮

嫁に行き初めて真似る母の味  (わはく

小晦 と書いて こつごもり と読むそうです

どちら様も買い物でお忙しかろう(30日)
近所の大型ショッピングセンターも大賑わいで
ムスメがおせちの材料を買い出しに来ているので付き合いました

母が事前にムスメのために味噌を買ってあったのですが
持参するのを忘れてしまって悔しがっている

味噌の写真をメールであから送るから
大晦日に近所の店で自分で探しなさい
と言っている

たぶん なかなか見つからないと思う

嫁に行き初めて真似る母の味

年の瀬に考える その2 ─ 冬至篇

【裏窓から】

冬至のあくる日に母を訪ねた。(23日 天皇誕生日)

ムスメもあと二ヶ月に迫ったこともあるので呼んでやり大きなおなかを母に見せながら正月のことなどあれこれと話をする。

母を訪ねれば昔の話をするのはどこのウチでも例外ではないだろう。近ごろはたとえ同じような話であったとしてもそんな話を聞かせてもらうのがわたしはとても嬉しい。

85歳になろうとするのに話す内容は正確で、細かい点まで記憶していることに驚く。年寄りとはそんなものだでは済ませることのできないレベルである。

例えば、親戚の人の逝去年表、家系図に登場する隅々の人までの名前、生い立ち、数々のエピーソード、それらの出来事に伴う年月日、付随する数字などなど。

真似をするとか、習うとか、はたまた、こうなりたくて自分も鍛えようとか、そう考えてできるものではない。脳みそと心の構造の問題だ。記憶しておくことや分類して整理をしておくことのメカニズムの凄さに感心する。

自叙自伝的な話も多くなった。歳をとることで昔には話さなかったことでも捨てるように吐き出せるんかもしれない。年齢と気持ちがもたらす堰のよなものが外れるイメージで話してしまうのだろうか。

今までは堪えていたのか、話すチャンスがなかったのか、それともわたしが(娘でなく)息子だったからか、孫がこうして大きなお腹をしているからか。理由までは訊ねたりしないけれど、話す内容はしっかりと聞いておかねばならないことの連続だ。

冬至のあくる日に尋ねたのは、正月の餅つきのことを訊いておきたかったからだ。
だが、いつものようにストーブの前で話し始めた母は、自分が赤ん坊を生む頃の話をし始めた。
わたしには弟があるが、死なかしてしまった子が三人あったのだという話である。

大きなお腹のウチのムスメが安心するようにと思ってか、おばあちゃんの経験的な昔話なのか、これから子どもを生む子を心理的に安心させるためなのか、それほど深くを考えてのことでもなく、むかしを単に回想しての話であったのか。

死なかした三人の子について、どんな気持ちで思い返したのだろう。
大きなお腹を見ていると昔の記憶が蘇ってくるのだろうか。

一人は1年半ほどしか生きられなかった長女の話であった。貧しいのと農家が忙しいことで、ろくに医者にも連れて行けず死なかしたという。
あとの二人はわたしと(5つ離れている)弟の間にできた子で、八ヶ月と七ヶ月でそれぞれ流産した。
生まれてからもピクピクと動いていたというような少し怖くて残酷なことも平気で言う。わたしにはこれまで一度も聞かしてくれなかった話であった。

弟は7月10日に生まれるのだが、生まれる間際の6月25日にもまだ田植えをしに田んぼに出ていたという話も聞いた。

今の子は大切にしてもらえて、更に医学も進化して安心して産めるから幸せである……というような単純な話では決してないのだ。

そこには60年の社会の進化と変化があり、人々のイデオロギーの遷り変りがある。暮らしのスタイルが姿を変え、身の回りにある物質が豊かになってきた。家族の体系が新しくなり、幸せ感にも大きな差異が出てきている。

母はそんなことを理屈でいう人ではないのだが、その糾える縄のように変遷する時代の襞のひとつひとつまでをしっかりと見つめ続け捉えている。そういう視線で語っていた。

話の深みを聞き逃すか、聞こうとしないか、聞いても理解できないのか、聞き取れないか。
貴重な話を生かすも殺すも、これからの人に任されている。

年の瀬に母を訪ねて考える ─ 冬至篇

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とうみ

九月へと跳んだ歓び 八月尽

8月30日は曇り空のスタートでした。

夜さりには雨が降っていたような覚えもあるものの、涼しくなりよく眠れるせいか、外の気配のことなどに気を使うこともなく割とぐっすりと眠っていました。

夜が明けてすぐに新聞をとりに外に出たら雨が上がっていたので、運動不足気味が気にかかっていることもありもしも小雨でも駅まで歩こうと決めていました。

でも、着くころには薄日が差して、普段のように汗が吹き出しました。気温は低いのですが。

S女子校のいつもの子におはようと挨拶をして、朝顔の写真を撮ったりして汽車を待ちました。

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9月1日は、雨降りでしたのでバスに乗って行きました

何の変哲もなく九月が始まっていくのです。
きょうから列車の中に増えた高校生もさり気なく昔の景色のように収まって、九月は雨の始まりだったのに暗くもなく始まったのでした。

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おゆうはんは、お魚でした。サバ。お昼にもお魚を食べましたけど、こういう日は別に珍しくもなく、一日一魚ではなく一日二魚やなと悦んでいます。

揚げ出し豆腐は別に食べたいといったわけでもないし最近話題にしたわけでもないのだけど、どこかわたしの気持ちが望んでいるのが通じたみたい。

八月の末の話ですが。

30日の日曜日にJR名古屋高島屋で栗きんとんを買ってきたのです。(ツマ)
それが、九州の名品だったらしく「鈴懸」というお店のものでした。とても美味しかったのです。
これまでで食べたことがある栗きんとんにはない和菓子としての気品のある味で、一番美味しかった。

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初サンマあっち向いてほいで右向いて

サンマのことを「かど」と呼ぶ。
ネット検索をしてもHITしてこないので伊勢のこの地域独特の呼び名なのかもしれない。

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子どもの頃から「カドは藁で焼く」と教わってきた。
実際には風呂の焚き口から炭を取ってきて七輪で焼く。

うちには猫がいたので盗まれないかと気を使ったことだろう。
今は頭と尻尾以外は丸ごと食べてしまうが、子どものころは骨とか腹ワタはよう食べんので猫にやったものだ。

秋のごちそうだった。

ツマはスタイルから入る方で、サンマを食べる季節になるたびに、横長のちょうどサンマが横たわるのにぴったしの大きさの皿を買いたがる。和食であろうが何であろうが綺麗に盛って食べるのは基本と教わったのだろう。

旨いものがたくさん出回るこの季節は、きれいな器に料理を盛って、美味しいお酒を飲みながら、風情を愉しむというのがいい。

そんな器量などわたしにはないのだろうが、ささやかな暮らしに見合ったささやかな食で、肥えすぎているのを解消したいと密かに思っている。

ネバネバの食事にも心がけている。夏から秋にかけては旬の野菜も豊富だから、これまでとは違った食にチャレンジしてみる。

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積極的に納豆も食べてみて、近代化された食事から少しでも遠ざかりたい。

サンマを買う前の日に焼き物の器を買った。と言ってもスーパーで棚積み(ワゴン)の美濃焼きである。横長のサンマ用の皿はやめて、何でも盛れる大きさと形の皿を二種類。

皿を買った日にサンマを買おうとしたら、一尾で300円もしたのでシャケにした。サンマは後日150円のときに買ったものである。

暮れにかけて100円以下にまで値段が変動する。今の季節には、刺し身で食べるか、丸ごと焼いて大根おろしでいただく。

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処暑のころ

稲刈り ─ 処暑篇(8月23日)を書いたころを思い起こす。
まだ暑かったなあと思う。

八月もきょうと明日で尽きる。
新しい九月が始まる。

朝夕はすっかり涼しくなった。休日に6キロほどを歩いているが、汗の出る量が少し減ってきたのがわかる。

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ちょうど「水のかたち」(宮本輝)をじっくりと読んでいるころか、読み終わって頭の中を整理していたころだろう。
出穂みて四十日 そう母が言っていたのを思い出し、ちょうど穂が出た写真を撮影して四十日目だと気づくのだ。

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昔の人は、生きるなかで様々な出来事をじっくりと考え、遡って知り、未来の自分たちの暮らしに役立ててゆく。
今でもそのことは変化ないのだが、何事にも分業化が進んで、更に完成されたものが出まわってしまったことで、詰まらんことに悩まされたり病んだりする人も出てきた。

宮本輝は期待通りの物語で、誰もがいう「宮本節」を随所で楽しめた。

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今は、ホテル ローヤル(桜木紫乃)を読んでいる。
感想はそのうちに。

疲れたのであとでかこうかな。

ソーダ水

私は冷たい麺類が大好きで、夏になっても美味しく食べ続けますので、夏バテという言葉は全く無縁です。好き嫌いも全くありませんので、四季折々の味覚を美味しくいただいて、モリモリと成長しております。

もうすぐやって来る土用の丑の日には鰻も食べます。県内ではなかなか手に入りませんが、鱧も好きで遠くまで買いに出かけたりします。

夏をそれなりに楽しみながら感じることは、楽しもうと思えば思うほどに子どものころに食べた美味しかった食べ物やお菓子に戻って行ってしまう、ということでした。スイカ、かき氷、冷や麦・冷そうめん、ソーダ水…。

文明が進化しても涼しさを呼ぶ夏の味はそれほど変化しないのかもしれません。

一生の楽しきころのソーダ水  富安風生


7月号のメールマガジンのあとがきにはそんなことを書きながら、何十年もの変遷がもたらす味覚の変化や食べ物に対する執着心そして満足心のようなものも、ずいぶんと姿を変えてきてしまったと振り返る。

成長してゆく真っ直中で自分の身体の中に染み込ませていった味とか習慣というものは、容易く変更してしまうことなどできず、好き嫌い旨い不味いなどの感覚に基づくものは他人の忠告や刺激でさえ役に立たないほど頑固であることが多い。

それでいいのだと思う。

政治の方も揺れている。今決めたことは20年30年後になって不安から現実課題へとかわり問題となって人々を困らせたり悩ませることになるだろう。

新しく選挙権を得て勇んで投票をした人々は人生の半分以上を終えたころにあの時の人たちが叫んでいた声の本当の意味を知る。

歴史はそういう長いうねりで躍動している。

「一生の楽しきころ」はたった一回しかないのかもしれないが、間違いなく次の世代に伝わっている。少しずつ姿を変えて伝わってゆくのは仕方がないことだし、何が善くて何が悪いのかは、更にその後の歴史が吟味することになろう。

このうねりを楽しみながら人生の最終コーナーを心地よく走り終えたい。

京都日記(宵々山)

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14日の朝は少し早めに駅に到着し、駅前のDOUTORでモーニングというのが定着

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京都駅に降り立ったらちょうど早めのお昼ごはん(よりもまだ少し早かったが)伊勢丹をぶらぶらとして、11階のいつものへんにきて、韓国料理のショーウインドウに目が止まった。美菜莉という店で1500円ほどだったので満足。

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かき氷も食べたい。ポルタに降りて行きランチの人たちであふれる店で冷たい氷を食べました。

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車折の家に着いて真っ先に鱧の話をしたために、お父さんが近所のお店に買い物に誘ってくれはって、ハモを買ってかえることに。

スーパーの鱧でもどこの鱧でも、夏は鱧を1回は食べておきたい。

水無月も食べたし、小鯛の笹漬けも食べた。写真はない。

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15日は朝から四条烏丸あたりへ出かけて鉾を見ようと決めていた。
烏丸の手前でバスを降りて一筋上がって、菊水鉾の前に出てきた。
記念に絵葉書を1枚だけ買ってみる。

暑いので早くご飯を食べたい。

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古今烏丸の中にあるザ・ブッフェスタイル サラに行ってみる。久しぶりだったのでウキウキです。
それほど混んでいることもなく、同じ階にある京都精華大学のギャラリーや京都シネマを見て時間を潰す。

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一生懸命に食べて一息ついて写真を撮る。タイムサービスのフレンチトースト。

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美味しかったパスタをもう一度おさらいして

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ソフトクリームは大好物なのでしっかりと2回も食べる

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高島屋に行く前に長刀鉾をちょいと見ていく

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帰りは車中で鱧の弁当を食べる。

二十五年ぶりくらいの人に会う

(きのう)

海に来てます
小雨降りだして
また止んで

海に来て木枯らし帰れぬ干潟なり わはく

パクリ先は、コレですな(↓)
海に出て木枯帰るところなし 山口誓子

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干潮時刻
13:30ころ
1時間ほど前に海にいました
25年ぶりの人にも会いました
小雨が降ったりやんだり

楯干しイベントでしたが
わたしは参加者に会いに行っただけですので
収穫なし

でっかいお魚を袋に入れて
持っている人がおって
ええなあって思ってまして

スーパーでお刺身を買いました

旨そうなモノが店にあれば買います
しびの文化

この味が気の毒なことにわからない人があるけど
それは文化の違い
わからない人は食うべからず

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誕生日イブ

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誕生日ってのはウレシイのだな
ワインを買ってこようと意見が一致して
普段は見ないようなお値段の棚を
と言っても千円ですけど
我が家にとったらとっても贅沢でした

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ムスメがいなくなったので
ホールケーキが食べられない
だからショートにしたのですが
やっぱしあした
ホールケーキを買おうと
決めたみたい

梅雨近し半額の寿司を食べた夜

梅雨近し半額の寿司を食べた夜

わたしは、家の鍵と必要以上のお金は持たないで毎日暮らしています。

つまり、会社に行くときの持ち物に家の鍵はありませんし、財布の中にはお昼ご飯代500円だけです。

きのう、買い物に出てきたツマと駅で落ち合ってお茶をしました。いつもならばそのあと一緒に買物をするのですが、先に帰って家で待ってることにしました。余裕があったらクルマで迎えに行ったるわ、等と言っていましたが。

最寄りの駅を下りて家に向かって二三歩進んだところで家の鍵がないことに気づきました。(こういうときに限ってツマのケータイの電池がカラ)

家に入れないので、近所のホームセンターとスーパーで1時間半ほど時間を潰すことになりました。

閉店前のスーパーで財布のバラ銭はたいて、半額の握り寿司を買って帰りました。

そういえばむかしこの調子で家に帰って鍵がなくて、その時ツマは京都にいたということがありまして、財布に昼食代のお釣りがバラバラとあって、それで電車に乗って実家に帰ってあくる日の夕方まで待ったということがありました。

WordPress との出会い

WordPress との出会い

五月の或日にふとしたことで WordPress.com でブログを書いている人を知り、このブログがちょっと面白そうだと感じて、二三歩踏み込みかけている。わからないことだらけであるが、そのへんにまき散らしてるブログとは少し違っているように感じている。

これと出会う前に tumblr で少し何かをやってみようと試みていたのだが、着想を刺激するようなものや発想を増殖・拡散させる触媒のようなものを掴めず四苦八苦していた。そのときに WordPress と出会う。

そういうわけでまだまだあれやこれやといじくり回しております。