大観小言という分類にしてみるか
世の中に不平不満はないものの
ちょっと小言かぼやきが呟きを
吐き出したいことが多くて・・
大観小言
京都日記・余韻 二、
【毎日ぼんやり、寝てばかりいる】
半日前のことを記憶していないのなら半月前にムスメが訪問をしたことも記憶にないのではなかろうかと心配をする
ツマが言うには 少し時間の空いた出来事は ぼんやりと記憶していて そのころにそんなことがあった・・と覚えているのだととそういう説明を聞いて これ以上は理屈では考えてはいけないのだと自分に言い聞かせている
人と会ったことを記憶しないのであるならば また今度 誰かに会いたいから 何か行動をしよう という気が発生しにくくなるだろう
つまり 今日のこの先の時間に何かが起こることを待たなくなってしまうならば 頭の中の時間が止まっている状態と さほど変わらなくなってなってくる
これは 脳みそが生理学的に生きていたとしても 死んでいる脳みそとそれほど大差がない・・とも考えられないか
しかしだから そこで 生きているとはどういうことなのか・・という大きな命題と向かい合うことになる
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【長生きは 理想か】
医学という学問を責めるつもりはない
人が知能を持っているゆえに 科学は進化をして 縄文時代には考えもしなかった術を使って命が長くなっていることは 文明の進化であると言えるし、難病も克服したし 高齢になっても日常を快適に暮らせる社会になっている
そのおかげで 長生きできてしまう現代の高齢者が この長生きの時代をどれほどまでに歓迎しているのだろうか、と言う新しい悩みが生まれている
医学の暴走とも捉えられかねない治療技術が一般化しているような声も聞こえ、つまりは 生きている意味を考える というところに到達する
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裏を返せば痴呆脳の人は安楽死してくれれば 自他ともに幸福だということか・・
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【生きる権利】
人には生き続ける権利があって 勝手に奪うことは許されないわけだが その意思がなくなったら 停止させてもいいだろう、誰かが代わりに止めてもよいのかもしれない
問題なのは 意思がなくなったかどうかを判別する点にある
意思を表示することが出来なくなった人の意思を 奪って勝手にあるなしを判定できないところが難しい
そんなことを書いては消しての繰り返しだ
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