✣ GW 五月はいつも旅をしてた 三、 ✣

🔙 ✣ GW 五月はいつも旅をしてた 二、 ✣
から続いてきています


✣ ✣

しかし・・が続く

🏍️ 人生が二度あれば

もう一度同じことを繰り返すだろうか

答えはノー

旅に

⚪︎感動をもとめた
⚪︎未知なるものに惹かれた
⚪︎人のふれあいに喜びを感じた
⚪︎感動を共にしたかった

そこまでは 誰でも同じであった

🏍️ どこまでも『美的』でありたかった

しかしながら

一人旅は 無鉄砲、無謀、身勝手、逃避などの特色を持っていた
だが 決して軽々しくはない慎重な旅でもあった

実際にその地を訪ねてみたときに 想定通りの事柄が無かったりしても 驚愕で行動心が崩れ去る一方で 心のどこかで そんな覚悟も持っていた

すぐに手配できるはずのフェリーや隣街に通じる峠道での臨時工事、通行止め、開いているはずの店や想定外の混雑で泊まれそうに無いことがわかった宿であるとか

1000キロにも及ぶ青森までの道のりを 高速道路を一切使わずにB級国道、峠や歴史街道を選んで走ったりしたし
(笠松峠では涙を流し 海が見えるところでも感涙して)

そんなスリリングで冒険的な旅だからこそ その向こうに楽しみが見つけようとしたほんとうの自由があり 誰にも左右されない自分がいたのだ

自分が自分である旅を続けることができた

・・という 思い出を振り返れば
幾らでも『美的』にあの時代を甦らせることができる・・のではあるが

🏍️ 諦めるための準備

併しは続く・・

九州や東北を 列車やバスで旅をしている今がある

仕事の足を洗ってからは 列車の時刻表を念入りに確認し
宿にあっても空き状況を調べ 可能であれば予約をしてゆく

「ツーリングに飽きたのではないか」と囁かれたことがある

だが 飽きるほど徹底的に行き尽くしたわけではなく そもそも何事も飽きるまで貪り尽くすタイプではない

諦めるために納得をしようとしたのか
自分の限界を確認しようとしたのか
精一杯 死に物狂いで挑むタイプではない
燃え尽きることもない

冷静な自分と向き合いここまでできれば上出来の感触を得たら手を引くのか

それを世の大勢は「諦める」とか「飽きる」と言うのか

🏍️ その辺でやめて一体に戻ろう

そういう感覚があるのだ

家族があってムスメがいて それぞれに暮らしがある

二人の間にも 好き嫌いや興味の違いがあろうけど それを受け止め合う
譲るのではないし 我慢をするのではない 諦めたり妥協をするわけでもない
性格の違いを 合わせるというものでもない

二人が一体になって生きてゆくためにこうしようというものがある
それを自然体で日常にやっていくだけのことだ

自分の体の中で胃と腸が喧嘩をするように 一体になった二人は喧嘩もしながら 生きている

そういう時間を手にするために 実際には
失業して貧しくてバイクを維持できなかったのかもしれないが

すまし顔で 新しいステージのドラマを始めたのではなかろうか

三台の自動車のうち二台を始末して 生活スタイルを大きく縮小したし
高齢者のコーナーに入れば(人生の)ゴールを意識せねばならないことにも気づく

あとがき

家庭のことなど省みるふうでもなく
仕事の時間から逃げ出して 自分だけが
逃避をしていた時代を振り返り
それは危険を伴う旅だったのに
必死になって魔物に憑れたように走ったことを
今となっては落ち着いて静かに振り返れる・・

家庭というのは
もっと 一体となって 苦楽を共にし
日々を過ごすものであるべきだったのだ・・と思う

ただ
人にはそれぞれの生き方があり 夢もあれば幸せのカタチもある
一言では語り尽くせいない


✣ GW 五月はいつも旅をしてた 二、 ✣

続けます
🔙 ✣✣ GW 立夏篇 ー 五月はいつも旅をしてた 四国 一、


🛵 旅をした時代

十年間で四国を八回、東北を七回旅した時代があった

GWと夏休みには一週間以上の休暇を連続して取得した
オートバイに野営道具を満載して旅に出かけた時代だ

一回の旅で 一日三百キロを七日間ほど走る
つまり 二千キロ余りを走り回るのだ

高速道路を使わない遠距離への挑戦
ETCの時代ではないし高速道路そのものも少ない
初日と帰路では 耐久レースのように走った
非常に冒険的で野望に溢れた旅をしていた

ムスメはまだ小さかった
なのにツマとその子を家に置いて旅に出ている
地図に細い線で載っているような『酷道』と呼ばれる道を選んで走った

今となっては あんな危険で寂しいところをよくぞ走ったものだと思う
ぐいぐいと突き進んで山の中へ 何者かに引き込まれるように入っていった
冷静にあのころを振り返ってみながら 大きく息を吸って感心している
走ることに燃えていただけではなかった

🛵 誘なうもの

歴史街道や人々の暮らしの息吹を共感しようとしたのか
生活感を感じながら鄙びた山村を縫うようにして奥へ奥へとゆく

険しい山の中へ一人で入っていくのは 今考えてみれば未到の山岳登山に挑むようなスリリングな気持ちだったのか

何と無謀な旅をしていた事か
今になって激しく反省をする

何がそんな旅を誘ない続けたのか
取り憑かれたように 変身してしまっていた
連続休暇には 必ず旅に出た
病的だった
愚かだったとも言える(今になって)

🛵 現実からの逃避

何かから逃げ出したかったのだろうか
キャンプ場で焚き火を囲いながら出会ったばかりの旅人同士で会話が弾む
『何故 なぜ旅に出るのか』と問いかけ合う
みんなが口を揃えるように『逃避ですね』と答える

「逃げてばかりじゃ終わらない」
「逃げていても何も始まらない」

そんなことを口にもしなかったし 思いつきもしなかった

そうだ 僕も職場のストレスから解放されるために一時的に脱出してきたんだ
と思って頷き合っていたのだ
(家に置いてきた家族のことは心配しなかった)

🛵 冒険心を駆り立てる

旅は 未知なるものとの出会いが原点だ

鄙びた山村、同じように旅する人たち、地図の上を辿っただけでみたことのない景色、魅惑的な温泉‥‥

魔物に取り憑かれたように時間を確保して旅に出た時代があった

しかし 
俯瞰的に見れば違った「今の」考えも湧いてくる
もう一度 新しい視点で見直してみたいと思う


続く


✣✣ GW 立夏篇 ー 五月はいつも旅をしてた 四国 一、

GWに考えている


五月はいつも旅をしてた 四国

旅が変化したことをまず理解しよう

今から三十年ほど昔のころの話になる
黄金週間に旅をしたそのころを思い出を振り返っている

あのころの旅のスタイルや旅にかける意気込みを思い出してみる
自分の生活スタイルや人生観の捉え方が長い年月をへて変化してきたことを見つめ直している

「昔は良かった」という回想はよく聞く話で、しかし、良かったこともあれば、逆にあんな時代遅れで(古臭いやり方で)やってきたのか‥‥ということもある

科学技術は進化した。特に情報科学の進歩がもたらす便利さは長い歴史の中で二十年三十年の間に急激な変化をした。それを今の人々は驚かずに筋書き通りに近代化したのだと思っているところに 実は世代ギャップを発生しさせている根源がある

裏を返せば 長い歴史の手順に従って進化をすればこれほどまで便利に変化しなかったわけで 古い時代(三十年以上昔の世代)の人はその点が心地悪く許せないわけだろう

だが、「その点」を丁寧に拾い上げて三十年の進化を論ずるのはそれほど意味がなく何よりも面白くない。だから ざっくりと 科学技術進化論を またいつかどこかで書いてみることにするとして

あまりにも旅のスタイルが変わったのは 旅そのものが「全く別の商品」になったと考えている。一例として昔と今を同じキャンプという「言葉」を考えれば 共通の宿泊手段として扱うのが難しくなったことがわかる。ルーツが同じだけで全く違うことなのだ

さて、それほどまでに姿を変えた昔の旅を 今の旅と並べて『比較』などしようものなら(昔は良かった‥など言い出せば) 誰も読まないことになる

❇︎ ❇︎

だが 少し、せっかくだから昔を思い出そう

つづく


写真 : GWのころのあれこれ

➤ 書きかけ

誰にも言わない・誰も聞いてくれない話 ✦ (わはく百話、その十二) - 四月下旬号

今の季節(四月)は学生さんがちょうど新学期を迎えている、オリエンテーションを終えて履修届を提出して、講義が始まっている候だ

ちょっとした切っ掛けで大学時代を回想してみるのだが 思い出話をすれば苦汁が滲み出る

そんな話など聞きたいとは誰も思わないだろう、ボクは有名人でも偉人でもないただの凡人だから、でも、たとえ誰も読まずとも、自分の愚かさと反省を、ここに書き残しておかねばならない、懺悔のような気持ちがある

と言うわけで・・

✦ ✦

ぐうたらな学生時代

大学合格を目指して熱くなったあとに、勉強をサボった愚かな学生時代を振り返る

何とかなると思っている一面、高望みしすぎた希望に対して反省もしないで 滑り込めた大学にも感謝せず、「大学の勉強は必須でしょ」というブライドだけ抱き続けて、しかし、実際にはサボってしまって、遊ぼうと思っていたわけでもなかったが、アンニュイで曖昧な学生時代を頭の中で築いて過ごした五年間(六年間)

毎日講義に出かけても、詰まらない、眠い、面白くない(というバカにした)気持ちで 教室から抜け出す日が多かったのだが、それもやがて、サボってゴロゴロするか古本屋に出かけるか、音楽ばかりを聴いていた

深夜まで夜更かしをして朝寝をして、大学は休んでばかりで、何しろ、英語講義やLL授業でさえも「そんなもんアホくさい」と思って ぐうたらに受けるか、時々欠席した

成績がどん底で返ってきたときに『自分はこの仲間の中に優秀な成績で飛び込んだのだ』という入学時に持った思い込みに拘った

そんなものは早々に捨て去り素直に勉強をするべきだったのだが・・そうしなかったプライドが手伝ったのだろうか、甘い認識力が働いたのか・・大学に真面目に出ようという学生に変身することはなかった

反省の日々

そうは言っても滅茶滅茶に遊び呆けていた学生でもなかったが、やっぱし勉強はせず、楽して単位をもらえればいいと考えていた安易な甘えた学生だったわけで、悲しいことに天性の怠け者が丸出しだったわけだ

そのことを自覚するのは卒業してから二十年以上経ってからで(後悔は先に立たず)

親に学費を出してもらっている感謝は人一倍持っていたものの  日々の行動は全く極悪の怠け者だった・・ことは消し去れない

もしも その時・・僕が親なら息子を強く叱って連れ戻しただろうし大学もやめさせるほどの剣幕で怒っただろう

もしも あの時代に今の僕が戻って学生をするならば・・

講義にはくまなく出席をして1分たりとも無駄にはしない、休講があろうものなら文句を言って授業料を返せと言い出すかもしれない

感謝も間に合わず

そういうわけで、親には説明のつかないことをして取り返しもつかず申し訳ない失態を犯していた学生時代を、社会人になって即座に振り返ってわけではなく、いつまでも気づくことなく反省を怠ってきたのだった

四十歳を過ぎてから魘されることが増えて、またちょうどそのころに 父が亡くなってしまった

学生時代に犯したアホな足跡を消すことはできず、父に詫びることも叶わず、本当に取り返しがつかなくなったのだった

自分の蒔いた種で残した足跡であるのに、それを思い出すのは辛いし、思い出しても今 誰に懺悔ができるわけではない

打ち明け話をしたとしても悔いばかりが湧いて、あまり触れたくない話になるのだ けれども、どこかに白状しておかねば ボクも易々とは死ねないと思い日々が募っている

✧✧・・✧✧

最終コーナへと向かう

そんな愚かな学生時代の暮らしを送りながら 平松先生や関谷先生、菊地先生と巡り会えたおかげで就職もできた

社会で使い物にはならないような奴を使ってくれた京都の「オ社」の皆さんにも感謝が絶えない

オ社は八年ほどだったが社会人になったヒヨコのぼくを育ててくれた恩人の会社だ

その後 三十路に入り人生は「オモテとウラをひっくり返したように」荒波に打たれるものの、さらにその十余年後に幸運に恵まれて四十五歳頃からは「生きているだけで感謝しなあかん」という二十年を送れた

✧✧・・✧✧

「ひとこと」で言えば

ぼくは『その程度の器』だったのだということだと思う

しかし最初から『その程度の器』なのだと悟って生きていたら こんな生き方はできなかっと思う

ありがとう みなさん

✧✧・・✧✧

※ 写真と本文は無関係です

雨水✰天皇誕生日篇 ─ 生きることや死ぬことの意味を 車谷長吉のふうに見直して (わはく百話、その十)

車谷長吉の「四国八十八ヶ所感情巡礼」と「世界一周恐怖航海記」を読んだことで『人生とは・・』を考え 生きることや死ぬことの意味を 車谷長吉の視点を真似して見直していた。小説家と比べるつもりもないが 人生の足跡を冷たい目で見ることは 必要なのかもしれない

(わはく百話、その十)


これまでに人生の行手を左右するまでに揺さぶった人物、出来事や事件にどの様なものがあったか・・とふと考える

他人から見れば何の面白みもないが荒波人生だった

今となっては どうってことないように見えるものだけれども あの時は 死に物狂いだったはずだ

曲がり角があり、一直線の位置であり、凸凹道であり、その都度思案に暮れた

具体的に考えてみる

1。黎明期

受験の失敗
大学受験への挑戦
小中高の友との出会い

2。飛翔期

将来を夢みる二十歳前
大学時代の友
社会人(初篇)

3。不惑に向かう

夢からの目覚め現実を考える三十路前
社会人(結婚そして子育て)
ひとり旅の放浪
仕事の方向転換(社会人中篇)

4。天命耳順

社会人最終コーナー篇
能力不足の気づき
新しい人生観
子どもの自立

5。低空飛行

ラストスパート
加速をするか
スキップするか

﹆﹅

四十歳を過ぎたらオマエを叱る奴は誰もおらんようになる。ええ気になって生きていたら アカンということや』そう言って教えてくれたのが誰であったのか。今になってはもうわからない誰かのコトバで 最後に私を鼓舞してくれたのが人のコトバだ。実はとても貴重で重要な人であるはずだが 誰なのか記憶がない

その神のような人が思い出せない申し訳なさを抱きながら その人に感謝をして人生をここまでやってこれたのだから有り難い

﹆﹅

人生は失敗の繰り返しで 未完成を叱られてばかりだった

この世の悪い奴らの圧倒的な多さに地団駄を踏みながら「バカ正直」呼ばわりされて僅かな正義で仕事に向き合ってきた。一つの信念で情熱を守れることの歓びに感謝し 多数決で割り切る今の現実社会に刃向かってでも孤高の人あろうと夢を見た

ほんと「あほんだら」な自分が情けない反面 自省の中で湧いてくる美学に少しうるっときている

行き着いたのは
自分とはその程度の器の人間だったのだから その器の中で咲けばよいのだ
ということだ

※ つづく
※ それぞれの時期については別途考えてみたいと思う



三連休 ❃ 春はもうすぐ ー 人生を揺さぶる 外伝

ヒトの生き方を見て 振り返ってみる ─ 九月下旬

「転職」や「人生・今の生きがい」に触れている記事を目にすると あれこれと古傷をほじくられる。これを「取り戻せない時間」と感じるのか 輝かしい過去の栄光と思うか 難しいところだ・・

(しばらく考えている日が続いた)

転職に直面していたころ 血が騒いだ時期(とき)があった

あるときに母校同窓会関西支部総会で大先輩と巡り会い 僕の二倍あるいは五倍以上の年収をもらっている人の話を聞いて「僕もそうなろう」と決意し それに刺激されて意気が上がった。しかし 気合いが大きすぎて 空回りになったり夢を追うだけの結果を招いてしまう。人生のゴール近くまで来て 振り返ると反省点も多い

転職を思い立つ人は多かろうし 理由は様々だろう。昨今は転職斡旋(人材賞紹介)の会社のCMが目立つ。給料が伸び悩んできた社会が長年続いている。ここらで一踏ん張ってチャンスを掴もうとする人がいてもは 必然のチャレンジ精神だ

転職を ギャンブルに例える人がある。しかし それとは違って「大きな手術」に例える方が相応しいかもしれない とも考えてよいのではないか。病気を治癒し健康な身体へ脱出を図りながらも 人生に(身体に)メスを入れる事が どのようなマイナスをもたらすかは 実際に体験してみて失敗に気づいた人でしか実感できない

年収が30代から40代には 500万円、600万円、800万円と増えていった。家族は豊かな暮らしを手にし 働く充実感がある反面、ストレスにも直面していた。精神的な圧迫は 人それぞれで受け止め度合い(衝撃)や形が違ってくる。簡単にヘコタレて逃げ出せば 衝撃は軽く済むだろう。転職という大きな使命感を背負い 人生を歩みながら目に見えない束縛を背負ったときが自分にもあったのだ。しかし それは家族と共に将来を築きあげる構想の上での 必然の重みでもあり歓びでもあった

長い年月で失ったものも多い反面 家族と共に歩んだ足跡は 掛け替えが無いものだ。転職の良し悪しの判別は難しい。現在の人生の到達点まで歩いてきて 今や巻き戻してやり直せない故に「そこにはただ風が吹いているだけ」を回想することしかできない。なのに これから変化を起こそうとする人の行先に変化を与えるような刺激や意見を言うことは 歴史の改竄に手を出すのに似ているかもしれない

今の子は完成された(ように見える)社会システムに恵まれ 「豊か」で「幸せ」な暮らしをほぼ保障されている。二世代も隔たった新しい人からすれば 歴史的な進化の過程に耳を貸す気にはならないだろう。自分で進める自信に溢れている。だから関心も示さないようだ。だが・・

野生で生きる力を潜在能力として失いつつあるかもしれない現代人。完成された携帯電話を与えられ 便利を結集させた列車の予約や運行システムを利用し 科学に基づく天気予測をリアルタイムで手に入れて行動できる。何が問題なのかと胸を張るのだ

嵐が来て電気が途絶えたり 水が枯れたり 寒さが襲いかかってきたりすることへの対策として 充電器を備え水を蓄え保温グッズを準備する。人間の姿の原点を求めるなら 暗くても明るくなるまで持ち堪えて 自然の水を有効に活用して 寒さに負けない工夫をするところまで遡るべきだ

ライフステージががらりと姿を変えてしまっても、転職という深い溝を飛び越すことに 新旧もないと思いながらも 役に立つことはもはや幾許もないかもしれない

そう感じているにも関わらず 何かをカタチにしたいのだ。どんどん脱線していってしまう・・

複数の職を経験したことによって自分の層が一枚上になったと感じる根拠をいくつか挙げてみる

⚾︎仕事をかわるならその行先を しっかり『見る』

バク転するときに 上手くできない人は着地をする手の先の地面を見ていない・・からで、しっかり手をつくところを見ること(森末慎二)

「見る」ということは 人生でも何でも大事だ。数学の恩師の先生が入試の難問を出して『しっかり問題を見ること』と指導してくれた。恋人ができた時も彼女の顔をしっかり見ることが大事だと気づいたし、大学の進路を決める時も就職する時も 目標点をしっかり見ることが大事 (〜だったのだ)と気づいた

転職紹介会社のCMのようなノリは軽い。惑わされずに しっかり『見て』分析して 裏まで探って 予測して 悩んで 決めることが大事だ

そう言われてもピンとこないだろうけれども 二十年ほどすれば「ああ、あのことか」とわかってくるような事かもしれないけど その手法を今 手にするのは やはり難しい

⚾︎魅力ある人に出会う
新しい仕事について何年もの月日が過ぎると いい人材と悪い人材を 自分が人事部長なったように見えてくる。複数の色合いの会社を渡ったのでなおさら善し悪しが区別できる

⚾︎働きアリは二割、期待にそぐわないアリは八割
どんなに立派な会社でも使えない奴は必ずいる。経験を語れば 名門大学と有名国立大学のデパートのように 華やかな経歴の面々が並んでいる組織にいたのだが 安全パイではあるもののスカな奴は必ずいた。人物の知識や経歴と、仕事の出来栄えが一致しない奴をどう始末して組織を運用するかは 結構難題かもしれない

⚾︎有能人と仕事をすると仕事が楽だ
有能な人に恵まれると 仕事が楽だ。言ってみれば当たり前で 毛並みの劣った自分までもが 上出来な人間に思えてくるから 天狗にならないように気をつけねばならないが 仕事のやりがいは満たされる

⚾︎自分の才能(器量)を振り返る
優秀手段で仕事をして痛切に感じるのは 世の中には凄い奴がいくらでも揃っていると言うことだ。母校の名前を大声で叫び大きな顔をしていたのはほんの束の間で やがてそんな名札にしかならないようなプライドは打ち砕かれ 器の大きさが問われるようになる。器量というのはその懐の深さも含めて誤魔化しなど効かない。その人物がどれほどか、つまり自分の相応を知っているかが生きる道では大切なのだ

そのように自分を見通して仕事ができるようになって もう一度その職場に戻ってきたくなるような職場があれば そこを最も勧めたい。だが、ヒトは進化を使命としているゆえに、未熟だ。そんな理想の職場を引き当てるなんて、至難の業である中で どうやって自分とベストマッチする職場を見つけるのか

そこにはただ風が吹いているだけ

そうなのだ。私は科学者になろうと思ったり 医科学者になってみたいとも夢見た。(気が多いから)政治家になろうとして地元議会に立候補しようと考えたこともある

とりあえず二十年ほどは設計開発者としての道を進み 最先端の技術とも触れ合って一区切りをつけたのだから そのあとに自由にストレス無しで暮らせてもいる。どん底の暮らしがよく似合う運命だったのだ(「これでいいのだ」バカボンのパパ)

先代から 村長さん、村会議員、公務職員と三代を来たのだ。しかし ここに来て反発したのか もっと大きいことを狙ったのか 違った分野で飛び出したいと思ったのか、人にはそう言って暴れることも不可欠なのだろう

自分が阿保な夢を追いかけたことを認めて 夢のために可能性を無視してチャレンジしてしまう性格を反省している。ギャンブルには興味を示さない人間がギャンブルよりも危ない道を選んで渡ってきたことに 自ら驚きながら 自分の才能がないにもかかわらず 挑もうとしたことに足跡を振り返りつつ気づいた自分はその不確実な行動に呆れるばかりだ

自分の『器量』と言うものをしっかりと把握し それ相当の道を選び自分に当てはめて その道で花を咲かせていくことが社会への恩返しだと思うようになったのは 最後に勤めた職場で黙々と日々の責務に就いた時だった。

(その職場が公務だったのだが)

曽祖父、祖父、父が服した仕事に何を思って反発したのか、今更ながら苦渋の念が襲う。遠回りしたが 「そんなもんやろ」と 自戒している


続いてきて

-- 言い残したことはないですか?

必死に考えても 思うようには行かんことを伝えたかった

-- 転職で年収が増えた時があるのですね

そうです。給料を増やすために、そして偉くなるために、いつかは重役になっていこうというような勢いを持つ奴が多かった

-- 給料が増えるってやり甲斐じゃないですか

確かにやり甲斐は出ます。
600万円だった給料が800万円に、さらに転職をしてもっと増えていく

でも転職で給料増加を狙うのは 筋が違う

-- 一生懸命仕事に励めるわけですね

しかしよく考えると 増えることは大事じゃない。なりふり構わずに会社は仕事をさせたました。金曜の夜などは土曜の明け方まで煌々と研究室には電気が灯り 不夜城と呼ばれていました

-- 頑張れば お給料ももらえますから

僕の新人時代は 電気労連の初任給は 14万円に満たなかったのです。80年頃です。しかし、10年ほどで10万円ほど月給がアップした時代です。

どんどん仕事をして 優秀な奴にはいくらでも仕事が回ってくるし それをこなして給料も増えて出世もします。

でも、バブルが弾けて 給料は増えない暗黒の時代が来ます。初任給上昇曲線がずっと横ばいです

-- どうされたんですか?

リストラで会社から弾き出されました。優良な人材も悪質な人材もまとめて三万人とも四万人とも言われています。阪大や早稲田出身の同僚も転出して行きました。きっとどこかで成功していると思います。僕は田舎に引き篭もりました。

同時期に辞めた工場勤務のパートのおばさんは勤続二十年余りで リストラに合う条件として退職金は五倍もらって四千万円だって言ってました。そこまでして 会社の三割近くの人員整理をした時代でした(内実はニュースにはなってないけど)

-- 仕事を弾かれてどうなりましたか

自営で仕事をしてましたけれども 能力がないのだから それほど繁盛しませんでたが 知り合いが (多分本来なら定年後に再就職するような)仕事を紹介してくれまして 私の定年後人生が二十年早く始まったわけです

-- 二十年も早くからご隠居生活ですか

お給料はそう言うわけでそれほどなかったのですが 仕事は私の能力にあった程度のゆるい仕事で 責任はもちろん求められますがストレスや使命感のプレッシャーは昔ほどもなかったので 二十年間 粉骨砕身で働いた反動と思って 少しステップを緩めて過ごしました(年金受給額は少なくなります)

子どもは少し遅れて大学を卒業したので 幸運だったとも言えます

-- 転職のことを振り返ると色々と思うことが多いのですね

給料をもらうために人の顔色を見て働くとか 職場の雰囲気を気遣うと言うようなことに神経も使いました。もっと 正直に生きるべきでした。見栄も張らずに 身に応じた夢を追い続けることが大事です。若い時はパワーがありますから それ相当に気合いも入れますが 毎年自分と同じような(またはそれ以上の)実力者が増産されてくるんです。(スポーツの世界でもそうです)
そこで勝ち続けるのは 自分を見極める冷静な判断と将来を見る視線が必要なんです

ずっと後になって築くことです。ですから 先んじて言葉にして伝えることはそれはそれで適切では無いのかもしれません

-- そうなると伝えたいのは 失敗をしないように何かを伝えることですか

転職の手法などは紹介サイトが氾濫してますから それに乗っかるしかない。自分が自分をどうしたいのか、今のお悩みは何かということを振り返るときに、Z世代の人は 昔の世代から見るとどうしても甘いわけです。しかし 今そのことに小言や助言をすることはナンセンスです。このナンセンスが気の毒でかわいそうです。小言や助言は聞いても 不採用にすることができますから なるべく多くの意見を広い視野で聞いて欲しいです

食べログの例になりますが 他人がつけた点数が氾濫しています。世間がどう評価するかを参考しにて判断するわけです

経験的に 他人の声を集積させたサイトの点数を信じて その店舗を利用し失敗をした経験がある人で そのことは何を意味するのか を考えたことがある人は 今の社会のいい加減さがわかっていると思います

現代社会は 本質までしっかりと考えることを嫌う社会でありますが、働く社会というものの「そもそも論」を見直してみるのもいいでしょう

ああ、今はさらにこれにAIが絡んでくるのか

後日追記

白露篇 その二、循環器科で診断を受ける (裏窓から)

心房中隔欠損症
上室性期外収縮
洞結節
房室結節
─ 平岡内科循環器科 説明妙録

白露から三日ほど過ぎて 十一日に『平岡内科循環器科』で診察を受けた

メモ用紙に病気の用語を書きながら説明をしてくれた先生は 私の母親が子どものころからよく知る田舎の先生の息子さんだった。とても気やすく話をしてくれて今後の診察のことも聞かせてくれた

それほど心配をするものでないとみるけどしっかり検査をして見極めておきましょうということで 十月の中旬に二十四時間の心電計を装着する予約をしてきた


子どものころに「心臓に穴があいていて・・」なんていうように親から言われたことのある人が多いだろうが それがこの病気で実施に寝室の壁に穴があいているそうです

生きるのには別状なく 大人になって心配するほどのものでなくなって行くケースが多いものの、やはり中には非常に深刻なこともあり 決して侮ってもいけないようだ

今は エコーがあるから しっかりと確認をできるので 僕は十月の検査を待つばかりとなった

﹆﹅

循環器科受診の前の日には 駅前の大口屋に鰻を食べに行き ステーキ皿を買って 黒毛和牛のステーキ(80グラム)を食べた。季節の移り変わりのはっきりしない天気が続く

受診のあくる日から京都に移動した。京都もまだまだ暑いといながらも 朝夕は涼しく 汗まみれで眠れない夜を過ごすことはない。大津の国道沿いでラーメンを食べたりしながら京都入りとなった(十一日)

北海道 旅日記  草稿(二版)

26日 なぎさまち〜セントレア〜新千歳空港〜帯広〜東横イン

出発は朝8時前で 9時ころになぎさ町エアポートライン乗り場に到着。第二駐車場に車を置いて 荷物を押して船乗り場までゆっくり移動

なぎさまち〜セントレア

船は 時刻通り10時に出航し 定刻にセントレアに到着。はじめての飛行場(セントレア)を散策をして回る

ぐるぐるして徘徊している間に迷子の心配は消えていき チェックインの場所などを確認しながら たくさんの店を覗いて回って お昼の食事にお弁当を買ってオープンスペースのテーブルで済ませる

飛行機の展望デッキに出て 離着陸の飛行機をしばらく見て過ごし コメダでお茶をして時間調整をして 定刻に搭乗チェックインを済ませると 心配事が順番に消滅し 安心してピーチに乗り込める

新千歳空港へ

定刻(14時30分)に離陸し 定刻に新千歳空港に到着(16時半ころ)

心配だった荷物の受取りも難なく済ませることができ 到着後一時間以内で新千歳空港駅から列車に乗ることができ、南千歳駅でも迷うことなく乗換えて 特急『おおぞら』に乗車し帯広へ向かう。心配したような混雑もなく やや空席も目立つ程度であった

南千歳駅からは特急おおぞらに乗り少しずつ暮れてゆく北海道の景色を見ながら電車に揺られる

帯広駅(20時過ぎ)

帯広駅に着くとひんやりとやや肌寒く感じる。北海道らしい寒さだ。駅構内にあったセブンイレブンを見つけてビールなどを買ってホテルへ

東横インへ

東横インは駅から数分ホテルで、利用履歴があるので 安心。何もないホテルであるが 泊まるだけなので 簡単な朝食がついていてこれで十分だ。風呂に入って 寝るだけ

27日 オンネトー〜阿寒湖〜900草原〜摩周湖〜硫黄山〜多和平〜細岡展望台(釧路湿原)〜ドーミイイン

晴れ

朝食は東横インのスタンダードな食事で 8時前にチェックアウトを済ませ 駅のすぐ傍のオリックスレンタカーに向かう

車を借りる手続きも順調で 東横インに荷物を引上げに戻り カーナビに阿寒湖を入力して走り出したのが 8時半頃だった。阿寒湖をナビに設定し 足寄町を回って 阿寒湖を目指す

途中でオンネトーの表示が目に止まり 懐かしくなって 寄り道をする

オンネトー

オンネトーへは 車が2台通れるほどの広い道で 交通量はそれほど多くなく、湖岸まで綺麗に整備された道を走り難なく行け、駐車場には車が5台ほどで 最初の展望台で雌阿寒岳をバックに写真を撮る

1977年に野中温泉に来他頃は 山深いひっそりとしたボロボロの一軒宿だったが 今はキャンプ場などの 施設が周囲にできて賑やかになっている

雌阿寒岳が綺麗に見えるのを写真に撮って あんな高い山に夜間登山をしたのだな と感慨に浸る

1977年の周遊券ヒッチハイクの旅は 人間的にも未熟であったし まだまだ未経験で何も知らない危ない青年だった。野中温泉YH主催の雌阿寒岳夜間登山を終えた僕は田辺くんの免許証を預かってウトロへ行くのだ

1977年の北海道(R2)

オンネトーから阿寒湖は近くですぐに到着

阿寒湖畔の観光案内所の駐車場に車を停めておき 少し湖岸を散策する

エルム

『エルム』という喫茶店風の店をガイドブックで見つけていたので そこで『ミートソースとカレーのハーフ掛け』のパスタを食べてお昼とする

駐車場に戻る前に遊覧船が接岸する湖畔に出て記念写真を撮る。その後、松浦武四郎の石碑を訪ねたいと考えていたのだが、車を止めようと予定していた環境省ビジターセンターが閉館日で乗り入れられずに断念する

900草原@弟子屈

松浦武四郎記念碑は早々に断念したので 急いで900草原を目指す。大きな牧草地は広がっている360度の視界の高原だ

ルートに迷いはなく到着できるが 人や車はそれほど来ておらず 牛が放牧されている高原の中を頂上へと向かう

予想以上に時間が押していたので 次は 摩周湖を目指す

展望台には売店も設置されているが 閉まっている。ちょっと寂しい感じがした

摩周湖へ向う

真っ直ぐに摩周岳へと登って行く道路脇は牧草地で むかしに見た景色を思い出す

摩周湖では 第一展望台の駐車場(500円)車を止めて展望を楽しみ 『摩周ブルー』というソフトクリーム(500円)を食べる

摩周湖の展望台で寛いでいる間に突然 霧の雲が流れてきて湖面が隠れてしまった。写真だけを撮って 駐車券が 硫黄山とセットなので 硫黄山も経由で 多和平へと向かう

86年に来た時は硫黄山で食事もし 川湯温泉で宿泊もしている

多和平

多和平には寄りたいと考えていた。むかしに開陽台によった話を懐かしみながら道を辿る。だが カーナビが案内をするルートは寂れていて 地図を持たない旅なので全体が見渡せず不安を抱いての移動だ

天気が 小雨混じりに変わり 多和平の駐車場では少し時雨ていたので 車の中から草原を見渡すだけで済ませて 釧路湿原の『細岡展望台』を目指す

細岡展望台(釧路湿原)へ

釧路方面への道路は 地方道(道道)を通ってゆくが、牧場を横切るところもあり 牛の横断で車を止めねばならないこともあった

国道から 数キロほどくねくねとそれて行き交う車もない道を山の中へと入っていくと釧路本線が通る付近まで行ける

細岡駅釧路湿原駅があって 晴れていれば 綺麗な景色を見下ろせたはずですが・・少し霧雨っぽい

少し雲が出たり霧がかかったりの変化であっても 雨には降られず 傘なしで少し散策ができた

この展望台は 期待以上に良く 感動的だった

幣舞の湯 ドーミーインPREMIUM釧路

ホテルには夕刻6時前に到着できたが、遅かったので 立体に車を止めることになった

小雨がパラパラと降っていた。チェックインを済ませてすぐに食事に

釧路フィッシャーマンズワーフ MOO へ

ちょっと節約ムードであったが せっかく来たのだからと ビールを一杯飲んで ホッケも食べて 地場産の焼き鳥やアスパラも食べてみた

部屋に戻ると ホテルから夜鳴きそばサービス(無料)があるというので 一階のフードコートへ。ちょうどお手頃の量の 美味しいラーメンがご馳走になれて大満足

展望温泉 

13階に展望温泉がある。さらに 休憩スペースがあって アイスや飲み物がご自由にとなっている

アイスクリームは 小さい目だが 何個食べても良さそうなので 何度か足を運んで 二、三個ほど食べた

さらに 朝風呂の後には ヤクルトのような乳酸菌飲料も置いているという 至れり尽くせりなホテルだった

海鮮バイキング(朝食)

このホテルは 朝食バイキングが 海鮮食べ放題だった

朝は混雑すると説明があるが 六時から開けていて それほど並ぶことなくゆっくりと食事ができた

貝やホタテを焼いて一個づつ貰い 小さなどんぶりに海鮮を自由に盛り付けられる

小鉢もいくつか揃っていたし、食べすぎないように気をつけながら食べた

ホタテや貝はもう少し貰っても良かったのだけど 朝から食べすぎても 色々と心配後も起こるし・・・

28日(三日目) 帯広十勝へ

釧路は霧の朝だ。前夜から時雨気味だったが 朝にはほとんど苦にならないほどに小雨になっている。釧路は霧の街らしい

十勝帯広方面へナビをセットして 海岸沿いの道を走っていくけれども 霧が一向に引いていかない

ほんとうなら 十勝沖の大きな海が左手方向には広がっているはずだが 残念なことに 全く霧の中で見渡せない

池田ワイン城

念願のワイン城には11時頃に迷うことなく到着する。真正面で写真を撮って すぐにレストランへと向かう

迷うことなく 十勝牛のステーキを注文する。ステーキを注文すると ガラポンのくじが引けるというので チェレンジをする。なんと ワイン『山幸』ハーフボトルが当たりました

幸運は絶好調です。もちろん 夜にホテルで飲んだ

六花の森

ワイン城で気を良くしたので るんるんで 『六花の森』を目指す。入園料は千円

森の中を一通り回って 『六’cafe』(ロッカフェ)でお茶をしてくつろぐ

愛国駅と幸福駅

幸福駅跡と愛国駅跡 予定通り

今更何があるわけでもないのだが かつて訪ねて写真も撮ったので 同じ場所に降り立ちもう一度撮ってみるのも記念になろうと考えた

建物は廃れていく、人々の記憶も次第に薄れていく

駅に書かれている記録によると 僕たちが初めて来た1986年の夏には まだ汽車は走っていた

でも あの時僕たちが来た時には走っている汽車を見るわけでもなく 汽車と写真を残そうとした記録もない。完全に消滅してから色々な思いが湧き出てくるものだ

あのむかしにどうして汽車が来るのを待ってまで記念を残そうとしなかったのだろうか

レンタカー 雑感

レンタカーに止めるたびに気づくのだが 六割から八割ほどがレンタカーだと摩周湖の駐車場で気がついた。同年代くらいの夫婦か女性の友だち同士のようで、どの辺りから来ているのかはまちまちのようだが コースも似たり寄ったりのような旅をする人六十歳ほどの人が多い

レンタカー操作

レンタカーについては 運転操作は問題ないが 細かいボタン操作がわからないままであった

釧路で濃霧に遭遇するものの フォグランプがあるのかどうか未確認であったし、わざわざ降りて確認するのも面倒で そのままで走った。後で前に回ったら 補助ランプは装備されているものの 点灯スイッチの場所がわからないままだった

燃費

燃費は計算をしなかった

3500円余りの給油だったので20ℓの消費、燃費を30km/ℓとすると600kmになる

平均速度が40キロほど、12時間程度の運転時間ではないか

29日  帯広〜千歳空港〜セントレア〜なぎさまち

千歳空港まで

帯広から特急『とかち』で。空港では お昼に 札幌ラーメン を食べる。『雪あかり』という店だった。お土産を買ったりする余裕も十分

千歳からは順調に飛行機に乗れて

セントレアへ

ここで夕食とする。北海道に向かう時に食べるのを迷った丼物のお店で 今度は親子丼を食べる

待ち時間も 長すぎることもなく 程よいゆとりで なぎさまちまで帰り着けた

我が家に着いたのは九時前でした

 『一緒にかんばりましょう』と人生の舵を切ったころ - 父の日 の頃にあれこれ想う

自伝 三、

﹅﹆

ある時 面接をしている人に 多分気に入ってもらったからだろうと思うが 「一緒に頑張りましょう」と声をかけられたことがある

新しい職を求めて数々の面接に挑んでいた時期があったゆえの その時のワンシーンではないかと思う

その人が声をかけてくれた職場は 今となっては非日常になりつつあるが、 四十五歳の時に新地を求めてこれまでとは違った職種の世界に飛び込もうとする時のまさに「あの時」の面接だったのかもしれない・・と記憶に焼きついている

履歴書を何十通も書いた苦悩の日々があっても 再就職は叶わなかった
人並の資格も能力も実績もあると自信に満ちていただけに さすがに落ち込んでいったことは間違いない

外国語も問題なく扱えるし 国家検定の試験の上級レベルを自慢するように話しても そこで求めている人材は そんな能力を求めていなかった

『あなたみたいな人が来たら うちの会社を乗っ取られてしまうかもなあ』と上手に断られたこともあった。実際 そんな人物は不要だったのだろう。コツコツと謙虚に黙って仕事をする人が欲しかったのではないか

﹅﹆

「一緒にかんばりましょう」と声をかけてくれたのは 国家のキャリアの人で、三十歳そこそこで重要なポストで勤務し のちに任務を終えて国政に戻って 頻繁にメディアに顔を表していたほどの 大人物だった

たった一言「一緒に頑張りましょう」と面接の最後に出てきた言葉が 採用を意味する本心だったのか 儀礼だったのかは 今となって計り知れない

しかし 誰もが この面接でも 「不採用」だろう予測をしていたし 経験もない私にポストはないと考えていたのだから あの時に採用してくれた言葉には 私を呼んでくれる本心があって かっこよく言えば新しい私に期待をかけてくれたのだと思いたい

雲の上の人だった。職に就いてからも話をする機会はほとんどなかったものの その指導力の敏腕さは私にも手に取るように伝わって来た

﹅﹆

設計開発部門を二十年で見切りをつけて 別天地で新しい人の指揮を受けて働けることになった。心を爽快に持ち 持てる限りの情熱を注いで仕事をやり切れたのは あの時の「一緒に頑張りましょう」だったのだろうと振り返る


﹅﹆

1998年に父は無くなったので2003年の出来事は知らない
人生の後半を 技術者をして生きる道を捨てていることを知らないままあの世に行ってしまったし 親不孝な私は そのことを墓前で正式に報告もしていないかもしれない

そのこと以外にも 父には、何の恩返しも 生前にはお祝いやプレゼントもしなかったので ずっとずっと私は引きずって生きて来ている

だから 父の日は 反省の日なのだ

﹅﹆

* 書きかけ続く


外伝🔗: 父の日号 何の変哲も無い孫日記

これからの海に漕ぎ出す人は 新しい船で - 新しい水夫が乗って

宮本常一や種田山頭火の本を読んで しみじみと地方をたずね歩きたいと考えて旅をした時期がある

旅人からすっかりと足を洗い 仕事も捨てて名刺も返上し無冠になってしまった

すっかり身が軽くなったのは良いが あれこれ首を突っ込んで理屈に参加してしまうクセが抜けきらない

バックストレートを全速力でぶっ飛ばす人は応援するものの 高みの見物でいいだろう

僕にはもう出番はないんだから

未来の海へは未来の船で 新しい水夫が操縦していくのがいい

旅を少し振り返ってみることにします

✻ ✻

懐かしむ

四十年ほどバイクツーリストをしていた

歴史は着々と変化をしてゆくなかで その時代がどのような背景に嵌め込まれていたのかを考えてみると 過ぎ行く時間や目まぐるしく新しくなっていく便利さや不便さが 懐かしく思える

だが、それを考えてあれこれと言ってみたところで 『昔は良かった』的な話と すでに自分が時代に取り残された『古い時代の』人であることを 明確にされるだけで 悲しさが滲むだけである

だから そんなことはやめよう

衝動的に

いったい何があれほどまで僕を惹きつけたのだろうか

全く愚かであったと今なら思うような旅であったのに 全く自分を疑うこともなく 危険も常識も世間の声も心配にも耳を傾けることなく まさに我武者羅に旅に出たのだ

そこまですることもなかろうにと思った人があろう。家族は心配をしただろう。人生の第四幕を迎えてから思うに 自分にあんな愚かさを通せる勢いがあったのだから 自分でも不思議になる。人には おそらく誰でも一つくらいは 脇目も振らず 周囲も見ずに突っ走るような力があるのだと言うことなのだろう

惹きつけるもの

何がそうさせたのかを掘り起こすのは 少し怖いし 今更掘り起こしても仕方あるまいと言う気持ちがある

冷静になれば 見えてくるものもあろうが 暴走な旅であったことを冷静に呼び戻して考察をする必要もなかろう

現実逃避

旅先の野営場で焚き火をしながら 『何故 旅にくるのでしょうね』と話した人があった

現実逃避」だと短い言葉でそう呟きながら 心の中では様々な現実への憎しみが渦巻いていたのだろう

その言葉に大きく頷いて 気持ちは通じてゆく

ポツンと

あのころは『ポツンと一軒』だけの家が珍しかったわけでもなかった。社会もそれほど注目もしないし 面白がったりもしなかった

また そのような鄙びたところに憧れるとか行ってみようとすることが 流行りでもなく目立つものでもなく 一目置くようなものでもなかった

『ポツンと』は 唯我独尊的で孤高な息使いに溢れていた

雛をゆく

バイクの一人旅は 誰も注目もしないけれども 孤高に胸を張っているような山奥へと惹かれていくのだ

日本中でここが最高とどれもが横並びになるような山深い鄙びた山村を巡った

そこには人が居て ヒトとして自分を見つめるための静けさと素朴があったのだ

地図を見て雛な場所を探す

そこは なんの手がかりもない場所で 観光案内もパンフレットもないところだった

スマホ

四〇年の一人旅人生に区切りをつける心の準備をし始めたころに 偶然の変化がいくつか重なった

携帯電話が普及し、カーナビが出回り、高速道路が整備され、ETCを使う人が増えた

さらに、やがてスマホが一般化し、情報はいつでもどこででも手に入るようになる

天気予報やキャンプ場や観光名所や道路情報を完璧に事前に入手して旅をできることによって 新しいページを開くことができる

そのことは理解できるのだけれど どうしても 旅の『色付け』や『味わい』が変わってしまうしまうのを受け入れられなかった・・とざっくりと分析している

バイクとの別れ

(トータルに人生を見直して)新しい生き方を 考え始めて 次のステージに出会ったときでもあったので 悲しいけれどバイクを手放した

四十年間、三十万キロの旅をバイクとともにして来たのだけれど 新しい旅の形と 新しい生きる愉しみを探すことにした

これまで家族を置いてけぼりにして 一人で休日を過ごした日常をがらりと塗り替えてしまう

簡単には新スタイルが出来上がるものではないけど まあぼちぼちである

孫もできたし 人生の第四幕にもやはりスポットライトは当たらないものの 上手に幕を閉めたいと考えている

余談

あのころは 就業の都合をつけて 連休は必ず最大限になるように取得した。GWや夏休みは 十日以上の休みにして旅に出た。家族は心配をしたに違いないが そんなことは御構い無しであった

後で考えると なんと酷い事をやらかして来たのかと思う

「ポツンと」のTV映像などで山深い道路が映し出されると そんな道を血相を変えて走り回って居たころのことを思う

もしもあの時にあの谷底に転落してしまっていたらと思うと 昔を思い出すことさえ辛く 思い出に浸るなどというような甘ったるい気持ちは冷めて 申し訳なさと恐怖が混在して今に蘇ってくるのだ

ツーレポ

【バイク】小さな旅
【バイク】旅の軌跡

▶️ note

十月中旬のころ ー 誕生日がきた

🐟 🐟 🐟

サンマ1号から7号まで

🎂 🎂 🎂

書きかけてほったらかしにしている日記が続く
急いで書かなくてはならない・・と思うのも良いけれど
そんなものほったらかしでいいじゃないかとも思う

昔のようにきちんと整理して残す必要なんかあるものか
誰もぼくのことなどを振り返ってくれるわけでもなかろうし
この世から消えたら 記憶から消えて行くのも時間とともに・・となろう

何かは残って欲しい
褒め言葉かもしれないし悪口かもしれない
なんの取り柄もないただの普通の人だったのに 大きく見せようと無理した奴だっただけ

🏆

ひとつ歳を食った
ただそれだけだ

お祝いのメッセージをくれる人がある
けど 昔から 特別に何かでお祝いをして来たわけではないので
メッセージいただいても お礼を言うだけです

父の年齢にいよいよあとひとつに迫った
そのことが 理由もなく嬉しいみたいで
あの頃の父親が何を考えて生きていたのかを想像する条件が整い始めたようで
やっと ぼくも 一人前になって来る悦びのようなものが 密かにあるのかもしれない

*書きかけ

マイナス思考からの脱出 ー 白露篇 その二

◎ ざんざ降り 迎えの母は野良姿
◎ 九十歳息子の作ったスイカ食う
◎ 息子へと母から受け継ぐ野良仕事

・・・

  • 十六夜枕元照らして花道
  • 人生にスポットライトなどなく十六夜
  • 蟋蟀の四股踏むように睨みをり
  • 途絶えてる便りを待つ十五夜
  • 中秋か 傘さしてゆく長い人生
    十五夜、十六夜 のころに

月はひとり 星は二人で見上げたい

月はひとり
それをどうして
そう言うふうに書き出したのか覚えはないけど
直感だった面もある

神秘性のあるものを独り占めしておこうと考えたのか
ロマンがあるものは二人で
多分 逆の方がいいように思うかもしれ無いけど
直感的にそう消えただろう


『人生で犯してしまったいくつかの過ち』について 少し考えてみたい

・・・

◎ 父親の還暦、退職祝いのときに 何もお祝いをしなかった
これは 自分が死ぬまでの後悔であろう

祝いをすることが大事ではない
それまでにお世話になったことを振り返り
感謝をすることが掛け替えのないことで
その結果に祝うというイベントが重要ではない

永年の苦節を経ての一つに節目である
一緒に祝おうとしなかったことが 取り返しの付かないことだ

◎ 勉強をするべき時に勉強しないで遊んでいたことでしょう
その愚かさに気づかず いい加減に弁解し自分を正当化していた
もしも私が親なら断じて許さなかただろうし
それを多めに見てくれた両親に感謝する
お目に見たというよりも 騙していたに等しく 自分を激しく咎めたい

懺悔して
終活をするしかない

・・

今日はこの二つくらいにしておく


九月十日 外出メモ
イオン津南へちょっと
帰りに丸亀製麺で食事、三時のおやつに昨日買った プチモンブラン

九月十三日 ちょっと
巨峰を買いに
名張まで

サンマ1号は 10日でした

遺すもの、遺す方法 ー sudden death と 断捨離 ー 白露篇

キーワードを考える
断捨離、エンディングノート、sudden death(サドンデス)

ついついそんな言葉で日常の思考が ぐるぐる回りをしていることがある

ならば少し 逃げないで考えてみるか


確かに高齢者の仲間入りをするわけであるが 未来をマイナス思考で考えるのはイケナイ

確かに病気を心配し健康を維持することに力を注ぐのは大事なことであるものの、その考えをメインにして生きていくのは 消極的すぎる

世の中の老人たちを見渡してみても 明るく積極的に暮らして 舗装的な様子を見せない人も多い
みんながそんなに明るく不安も抱かずに生きていけるものでもないので 不安はあってもそれを上手に秘めているのだろう

そう考えると 明るく生きた方が得ではないか
持病を持ちこれを治療しながらの人、あるいはペースメーカを体内に埋めている人もいる
この人たちはの未来は 治療や装置に依存するのだから 健康で長生きをすることは厳しいのが現実だろう
それでも明るく暮らしているのだから その姿勢は大いに尊敬できる


九月八日は『白露』

季節は 自然界が大暴れしようと 着々と変化をし 夏は終わり秋がやってきて やがて冬を迎える


遺すものはない
あえてあげれば

  • 僕の部屋にあるたくさんの書籍
  • 永年書いたブログ(日記・随想、電子)

がある

  • 残して誰かに譲っても喜ばれないだろう
  • 喜んで受け取ってくれる人にあげてほしい
  • 役立つ人に分けてほしい
  • 捨てないでほしい
  • 楽器も同じようにしてほしい
  • 安易に捨てないでほしい
  • 本当に生かしてくれる人に譲ってほしい

実現できるまで僕の部屋に保管し
『記念室』としてほしい


上述の課題とは別に
『人生で犯してしまったいくつかの過ち』を
少し考えてみたいと思っていたが
別日記で書くことにしよう

* 書きかけ 中 (改訂後 時間変更します)

梅雨の真っ最中 雑感 ー 父の日 夏至篇 裏窓から

父の日、夏至を迎える



キーワードをあげてみる


1。老後、人生、楽しみ、余暇時間
2。趣味、交流、楽しみ
3。年金、節約、家ごはん
4。支給額、格差
5。居酒屋、贅沢
6。ささやか、幸せ、夫婦
7。健康、通院、持病、成人病
8。運動、ストレッチ、会費、ゆとり
9。家族、孫、子ども


🐾 老後、人生、楽しみ、余暇時間

仕事も引退して 自分時間をマイペースで過ごそうと思った
しかし 想定外だったのは 仕事がなくなり無収入になってしまった
蓄えは 平均には到底及ばない、三年で食い潰す勘定だ
年金受給までの三年間でありったけを食い潰してしまう
年金受給開始時に手元に残っているのは葬式費用だけである

悠々自適かと思われたが 大きく段取りが狂ったというか見込みが甘かった
資金がないと 自由に動き回れない
どうしても勘定が先に立つので 車も手放した オートバイも廃車にした

🐾 趣味、交流、楽しみ

ブログを書いて 楽器を吹いて ウォーキングに行く
(腰ヘルニアで休止中)
余暇時間がたっぷりあるがおおかた家にいる
外出も控えて靴底の減らない生活をしている

お酒は大好きだったのを断ち切って今はほとんど飲まない
酒肴料理は 半分にした(刺身は八切れから四切れに)

まあ 楽器を吹いているから時間は過ぎる
コロナ渦中で 楽団には参加をしていないが そのうち戻ろう

酒を飲んで喋る楽しみは 封印してしまった
健康を意識する行動に転換

🐾 年金、節約、家ごはん

年金はまだ支給されないため 現在は無収入の暮らしが続く
友達が少し前から受給していて その金額を聞いて ガックリきて 涙が出たわ

おうちご飯は 一、二年前と比較すると半分ほどに変化した

🐾 支給額、格差

年金支給額は 友人と比較すると 『20分の12』 ほどしかないことが判明した
仕方がない
厚生年金をかけた額が少ないのだ
そのまま支給額の結果に出ている

世の中には私よりも豊かな人もあるだろう
反面 使い切れないとまで言う知人もいる

簡単に格差という言葉でも済まされないが
僕の年金の 五倍ほど(大雑把に50万円)なんていう友人の話を聞くと 脱力感に襲われる

一方で 僕よりもさらに少ない人がある
社会の制度に怒りを感じる
弱い人はより一層弱っていくだけだ

🐾 居酒屋、贅沢

お酒は外では飲まない
もう何年も前から禁止にした

コロナ渦中 出かけられないのはありがたい
外に行くゆとりはないのだから ありがたい

🐾 ささやか、幸せ、夫婦

夫婦が健康で慎ましやかに暮らす
これしかない

🐾 健康、通院、持病、成人病

健康でいることは 難しい

腎臓が弱い
特に医者の強い指示はないが我が血族は間違いなく弱い

そこで 腎臓病食の勉強をして食事を考えている

🐾 運動、ストレッチ、会費、ゆとり

ストレッチのジムなどにも行けると良いのだが そんな金銭的なゆとりはない

生活にゆとりがないから自由に動けないのが実情で
ジムなどに通える人が羨ましいものの 自分で工夫をする

そんなかで 老後のゆとりを見つけたい
日々の暮らしは 貯蓄を食い潰して暮らしていても 費目の上で貯金をし 旅行などに当てて行きたい

🐾 家族、孫、子ども

やはり
資金がないのだから 孫には何もしてあげられないのです
しかしこれも日々の支出の中で費目を分けて 孫にも使う

子どもには迷惑をかけた
大学時代には育英会から五百万円近くの借金をして それも卒業後数年で返済処理を完了し 結婚もした

これからは親が子どもに何かをする時代ではなくなった
二人で働いて頑張ってもらいたい


夏至のころには そんなことを考えていた

腰痛日記(ヘルニア) ー (四月下旬から六月中旬)

腰の痛み日記(4月下旬から)

4月20日(水) 脊椎センター(照会)、痛み激しいが通院時刻には歩行可

4月21日(木) 激しい痛み治まっている日が続く

:::

4月26日(火) 痛みは出るが短時間、腰骨痛みが出る日々

4月27日(水) 痛み軽く歩行可、脊椎センターAM

4月28日(木) 起床後〜居間、痛み激しく座って我慢、6時半〜7時半、痛み度1レベル↑

4月29日(金) のたうち激痛無し、痺れ10分、腰骨腰掛短時間(食事中沈静化)、腰骨奥突刺痛時々

4月30日(土) 杖なし4時半6時半トイレ、今横一時間痛やや沈静、朝食中(レベル1)5月1日(日) 激痛なし、腰骨の奥が痛む時が何度かある、午後少し歩けるので二千歩ほど散歩

5月2日(月) 朝のトイレは足の痺れが数分で治ってくれ、腰骨痛みも一時間以内、午前中に痛む時は横になった、午前中のトイレに座っている時にはずっと痛かった、4177

5月3日(火) 朝のトイレに痺れが出る、うめくレベルは回避できている、5099

5月4日(水) 前日同様だが、腰骨奥の痛みがジリジリ出る(午前中発生)朝のうんこの便座姿勢で痛く、うんこができない日が二日続く、5433

5月5日(木) 朝のトイレの心配はかなり軽減、痛みは午前中の尻骨奥の痛みで、座っていたり寝ているのが良いわけでも無さそう、2日間連続で公園練習に行く、公園にいる時は痛みはそれほど気にならない

5月6日(金) 朝の痺れはかなり楽(症状は数十分で鎮静)、腰骨奥の痛みはジリジリと出ている、3532

5月7日(土) 5日頃から痛風が痛く6日は朝から消炎クリームを塗る、腰骨奥の痛みが出るが直立姿勢で少し回避できたか、ウォーキングは中止

5月8日(日) 午前中に腰骨奥の痛みが出て横になる、2階の椅子で過ごす、午後はい激しい痛みない、痛風の痛みは夜中から明け方が激しい、昼間は階段昇降が痛い

5月9日(月) 明け方は昨日より激しさが少し和らぐが、痛さは横ばいなので、中田整形にいく(午後)ボルタレンの座薬をもらって、寝る前に使用する

5月10日(火) 8時まで寝汗掻きながらもよく寝る(トイレに行かず)痛みは薬の効果か、昼を過ぎても激しさは減る、歩行は困難、外観的に関節炎の箇所がくっきりと変色して、腫れが浮き出てくる、2度目の座薬を使ってから寝る

5月11日(水) 朝は前日と同程度、腫れは明確になって変色、方向は依然痛い、抑えると痛いが静止では痛みなし(ズキズキ感なし)午前中に💩をしてその後座薬投入

5月12日(木) 昨晩座薬、朝まで連続睡眠、指関節やや痛みあり、腫れ少々有り、腰痛殆ど無し、太腿の痺発生歯磨時等少々、朝食後排便8割、座薬午前、就寝前座薬

5月13日(金) 朝のトイレは正座後痺れ程度、左親指関節炎の外観は炎症を確認できる晴れ有り、歩行時は痛みを伴う、午前に座薬、夜も座薬

5月14日(土) 朝から腰の方が少し痛む、痺れも少し出る、体調が悪いようだ、夜座薬中止

5月15日(日) 体調が全般的に昨日からスッキリしない(顔が剥れている)、座薬午前中止

腰骨の多くの痛みが少しあるが、荷中に紛れてゆく、左親指の炎症は二、三日横ばい痛みも同様、座薬中止

5月16日(月) 早朝1時半頃に目が覚めて座薬投入、痛みは解消した模様、ビシッとした痛み は発生無し、痛風目視腫有、歩行時痛有、押圧痛有、夜の座薬無し

5月17日(火) 痛みで目覚めること無し、朝からやや痛く横になること度々(腰骨付近痛み)、痺れ普段より多め(午前)

5月18日(水) 座薬無しでも早朝の通風の痛(疼)は無、腰痛み痺が一番酷し、トイレ中の痺キツい、腰骨奥の痛みは横になれば数分で軽くなる、外出をする、💩9割ほど出る

5月19日(木) 朝から痺れ・腰骨痛、30分ほど居間で横になる、痛み程度はじわっと痛い、💩9割超

5月20日(金) 朝から軽い痛み、我慢しながら座れる、寝返りを打つと痺れが出るがじっとしていると消える、昼はぼんやりとした痛みがあって昼食少し横になる

5月21日(土) 朝は動き出す痛み、階段、前屈の痛み、じっとして弾くのを待って過ごす

5月22日(日) 安定して痺れと腰骨痛が出るが、腰掛けている間に緩やかになるため、ヨーグルトを食べる気になれないという潜在的な痛みは少ないようだ、💩朝のうちに9割

5月23日(月) 痺れは最近では一番軽い、腰骨痛はどんより、食後横になるが、疲れもあったのか、追い寝1時間で解消、朝💩無

5月24日(火) 軽めの痺れが続く、腰骨位tみがあるため横になることがある、トイレ中は痛くて気張れない、運子割くらい

5月25日(水) 腰骨が痛く横になる(午前中)、💩2割痺れ強い

5月26日(木) 腰の痛みは痺れが大きい、腰骨は横になったり車に乗っていると和らぐ、寝ている時間が長いと腰骨が痛い傾向強い、💩なし(最悪)

5月27日(金) 腰骨奥痛み、ドクダミ摘みを一箱分すると痛みが出て中止、💩9割くらいか、ビオフェルミン4錠とチュアプルを1錠服用

5月28日(土) 痛みも絞れも激しくはないが、朝食後に腰痛(奥)で少し横になった、💩中も腰が痛かったが気張る、昨日出なかった💩が今日出た感じ

5月29日(日) 💩1日遅れで出ている感じ、横にならねばならない腰骨痛は頻出しない、痺れは時々です

5月30日(月) 💩は出ない、腰骨通では横にならないが、朝痺れは腰発生、関節痛は歩けるようになっているが、関節を押痛

5月31日(火) 腰、通風痛みとも良くなっていると思う、サンバレーに出かける💩なし

——————-

6月1日(水)  朝起きてほぼ普通にトイレに行ける、💩は半分、便座に座ると左部尻痺れが出る、腰骨痛は立つと鎮まる

6月2日(木)  コルセット着用継続、歯磨きと💩時に少し痛く痺れる、💩出ない

6月3日(金)  浜田内科、痛み軽減、歯磨き時も軽度、💩2割、腰骨が疲れると痛、歩き回っていると平常である

6月4日(土)  早朝の痺れはあり、💩0

6月5日(日)  💩出た、痛みも痺れ外出ができるレベル、買い物に出かける、ドクダミ刈りをして疲労で横になる

6月6日(月)  椅子に座ると左腰骨が痛む、虫歯の奥をほじくるようなグリグリする痛みもある、💩はまずまず、親指関節痛が残る、様子を見る

6月7日(火)  トイレに行って帰りに痛みが出るが、それ以後は緩やかな痛み、ただし痛風関節炎の箇所は痛みが残、手を伸ばし足を触ろうとすると痺れが激しく出る、💩なし

6月8日(水)  トイレ、洗面の前屈で腰骨奥部がヘルニア痛、痛風関節炎の関節痛みは関節部のポイントにだけ痛みが残る、💩出

6月9日(木)  💩並、腰骨時々、前屈痺れ随時

6月10日(金) 腰骨奥痛みジワリ

6月11日(土) 腰骨奥はジリジリ、💩出ず、痛風関節痛みはやや和らいだ模様

6月12日(日) 💩2日間でませんでした、足の関節はかなり良くなってkた、見込みが見える、腰は洗面時に激しく痛い、昼間はときどき

6月13日(月) 外出しても痛みは気にならなくなる、歩くのは痛みを伴う(関節痛)、💩半

6月14日(火) 洗面時痛、起床時痺れ、共に安静で鎮静化、💩8割

6月15日(水)16日(木) 洗面時に強く痛く痺れるほか、腰骨がときどき痛む、生活は楽、親指関節は踏ん張っても激痛が来なくなったので時間待ち


生前葬や自伝のことなど ー 小満篇 (裏窓から)

五月の風 爽やかです



小満篇のころ 断片的に

  • 生きている間に葬式をしてしまおう
  • 弔辞は自分で書いて自分で読もう

と考えていた


小寒のころには『生前葬』について触れていた

  • 弔辞を自筆で書こう
  • 自分の昔話ってのは自らが酔い浸るには十分に面白そう

しかし 他人が聞かされる分には 詰まらないものだ

  • 運動会でパフォーマンスをしてドジをこいたこと
  • 音楽会で目立とうとしてパフォーマンスを失笑にしてしまったこと
  • 受験はことごとく失敗をして情けないこと
  • 入学式は全部雨降りの『雨男』とか

あまりいい話はなかったのだった

  • 恋愛でも 輝かしく華やかでハッピーなものはなかった

数々の出来事から100頁を選ぶのは難しい
長過ぎては誰も読まない
長編を構想しても的が絞れない

いざ死ぬとなっても なかなか難しい


スポットライト 二月の初めに考える ー 節分篇 裏窓から


正月が過ぎて間も無く 椎間板ヘルニアが悪化し
坐骨神経痛(腰痛)を発症したまま二月を迎えた

悠ちゃんは 誕生日を三月に控えて ポケモンのぬいぐるみを待っているのだそうです


向田邦子のベストエッセイを読んでいて『板前志願』という篇があり 放送作家にならなかったら「板前さん」になりたかったというようなことを書いている
エッセイを書いても天才ぶりを発揮しているのだが 僕の場合はどうだったのかと考えてみた

小学校の卒業の文集で「大人になったらアナウンサーになりたい」と書いたことを 僕が大人になってからも父は言い続けた

「おまえは大人になったらアナウンサーになるというたけど、なれなかったなあ」と残念がった

いつまでも言い続けていたのは自分のことのように悔しかったのだろう

父は夢を追い続ける人だった

数学がクラスでビリであったのに理系に進学することを決意して、その当時誰もが目指す最高峰学部であった「電気通信工学」「応用物理学」などという学科を受けた

十八歳で将来を決めようとするのは無謀だ

その頃の受験情報や大学情報などはあてにならないし、現在のようには充実していない中で決定した電気通信工学を専攻して大学を卒業するが、ずっと理系は得意ではないままだった

コンピュータが急激に身近になってきた時代だったので、人のやらないことをすれば目立たずに済むと思い情報科学の分野にも手を染めた

医用生体工学にも首を突っ込んだ

。。

向田さんのエッセイを読みながら、自分と比較するなんてのは愚かな凡人のすることだが、よくぞ才能もないのに世渡りが出来たなあと感心をしている

平成最後の大晦日の日記に


(わたしの)

人生というドラマにスポットライトなどなかった

いや

スポットライトなど
不要だった
というのが正しいのだろう

静かに暮れ行く
平成最後の師走に
静かにあらゆることを振り返ろう


と書いている


「いくつで死ぬか知らないが、死ぬまで言いたいことを言い、やりたいことをやって人から憎まれて死にたい」

芥川賞作家で政治家としても知られる石原慎太郎さんが二月一日 亡くなった
八十九歳だった

最近では「田中角栄」を書いた『天才』を読んだ
石原慎太郎って人は イデオロギーで猛反発をして 大嫌いだと思い続けてきたが
それは政治的な話をするときだけの話で

人としては
全く嫌いになれない側面を持ち
人柄でも とても好感を持てる人だった

政治家として一票を投じる事はないにしても 作品はおよそ目を通し
生き方にも憧れのようなものを感じている

。。

『憎まれて死にたい』

誰でも言える言葉であり
そう簡単に言える言葉でもない
考えて出てくる言葉ではなく
着飾っていうものでもなかろう


二月一日の天声人語が
『青年期から死まで、その一挙手一投足にスポットライトが当たり続けた人だった』
と最後に書いている


スポットライトか・・・と ため息をついた

かき氷のことを思い出す 八月初旬二号


というわけで
イオンにあるコメダでかき氷を食べる

。。。

🔖 夾竹桃 咲いて本気の夏になる


巨峰は 期待して買うたけど
ちょっと熟してなくて残念
諦めずにしばらくしたら買おう
夏は 巨峰と幸水が美味しい

毎年 ぶどう狩りか 梨狩りに 連れて行って欲しい
と言われるのですけど 実現してません

。。

🍧 かき氷 を食べながら考える

子どものころは「かき氷」は贅沢品で
製氷ができるような新型の冷蔵庫を買った時に
そのころブームになった「家庭用かき氷作り器」で
母が作ってくれたくらいのものだ

上にかけてくれる蜜が美味しいのだが
高価なので 子どもながらに辛抱をした記憶がある

その後 堂々とかき氷というものに出会うのは
大学時代まで一気にジャンプしてしまう

大学からの帰りにボロボロの丸ノ内線を降りて池袋駅で西武百貨店に涼みにゆく
見すぼらしい格好でよくぞそんなところをうろついたものだと今更ながら恥ずかしいが
小さな喫茶店があって ちょっと小銭が財布に残ると贅沢をしに寄ったもだ

「かき氷」という上品な(料理に近い)ものに出会うのも西武百貨店だった

🍝 冷やし中華

西武百貨店で出会ったものに冷やし中華がある

いつも連れにしてくれていたサイトウ君が
そこの店に連れってもらい 東京の『冷やし中華』と出会う

まあ どこにでもあるのだと考えればわかるけど
貧乏な生活で生きてきているから 
贅沢に関しては遙かに「うぶ」であった

田舎もん丸出しであろうが構わずに 
百貨店の喫茶で「冷やし中華」というものを食った

三百円の定食を大学の食堂で食っていた時代である
西武百貨店の冷やし中華はたぶん三倍ほどしたはずで
贅沢な一食を楽しんだのであろう

サンシャイン60が完成したころだから
記憶の映像は セピア色に変色している

母の日篇 - 裏窓から

📌 母の日


🔖 たんぽぽや飛びたつまえの深呼吸

🔖 そんなことを書いている


うちのんは
十五歳の時に母の日を終了し
三十三年前から
『新・母の日』
を設けている

つぶやきにそう書いて
ワインを買いに酒屋さんへ出かけたくらい

🎬 

ムスメが子どもの医者通いに忙しい

つまり
公園で走り回って転倒して前歯を折らかしてしまったり
喘息の症状が表出したり
朝起きると微熱があったりすのだ

十一月から仕事を再開して四時間勤務を経て五月からは六時間勤務
小学校に上がったらフル稼働の計画であるが
子どもは そんなことは御構い無しだ

🎬

子どものころの自分を省みる
母から話に聞いていることを思い起こす

風邪をひく 熱が出るのは日常
かいなが抜ける(二の腕)
耳垂れが出る(弟)
扁桃腺が腫れる
などで医者に行かねばならない

医者は 汽車の乗って三十分
汽車の駅まで未舗装のドロドロの田んぼ道を一キロ
汽車は 一日に五回ほどで医者に間に合うものは半分にも満たない
バスはない
自転車もない
車もない
徒歩では十キロ以上

子どもの発病は時期を問わない
子どもは歩いてくれるわけではない
頼れる人はいない

つまりは
時刻を待って汽車に乗るしかなかった

蒸気機関車の窓から煙が入り込み
トンネルでは煤が目に沁みた

🎬

今の子は 今の子で大変である
いつの時代でもそれぞれに大変である
子どもを持つ母の苦労は大きい

男女同権だとか人権尊重とかを叫ぶのはもっともなのだが
原点が見失われていないか


四月中旬 - 続・ぼんやり (号外Ⅱ)

前篇で「断捨離」と書いたが
何をどうするかというような中身はなかった

『何故 電気通信工学科か…』
なんてどーでもええやん ということになるし

たくさん溜まった資料(史料)類を始末したい


それよりも
写真を整理して

部屋にあるツーリングの思い出や記念資料を始末したいと考える

所詮 死んだら(サドンデス)

あいつには
単車で走り回っていた日々があったなあ
勝手なもんやなあ
家族ほったらかしで…

と回想されて
写真などはパラパラと捲って見たらええ方で

十把一絡げにして ポイ と捨てるのだろう

それで終わり


有名人みたいに
『わはく記念館』‥‥なんてのが できるわけないし
作るくらいなら 「おとやん」が死んだ時に私が作っておるわ


たくさん(でもないけど)ある写真を
整理して 棚に収納しておきたい

そう考える

日記は『【バイク】旅の軌跡』にあるのを参考にすると
二十冊ほどになると見込みます

四月中旬を ぼんやりと過ごす (号外)

断捨離という言葉は嫌いだ

流行りの中で作られて注目を得ようとする一種の顕示欲のようなものを感じる
私だけだろう

隠居暮らしも一年以上が過ぎると
さすがに何もすることがないので身の回りの整理をと考えることがある

そんなものに手を出したら寿命を短くするのを手助けするようなものだ
と反発心も湧き出るのだが

辺りを見回して山積みになっているものを眺めては
それぞれに理屈づけをしている


PCに保存してある日々の日記写真--それはメシの記録がほとんどである--にしても

私の死後 他人が整理するときに困るのか
または迷うことも確認することもなく廃棄となろう(どうぞ)

偉大で多大な資産が潜んでいる予想でもあれば 誰もが関心を持つに違いない
しかし 金目になるものは何もないし 目を通す時間も惜しい


では
持ち物は何も迷うことなく早めに始末しておいた方が自分もスッキリする

これが大勢の人の考え方なのだろう

サドンデスを考えて
「言い残したことはないか」などと振り返る

▶️ なぜ 電気通信工学科だったのかとか

確かに今になって語ってもいいのでしょうけど
でも それはすでに過去のことでもある

断捨離のカゴに入れて一緒に始末するか

。。。

そうこう考えていると
残すものなど何もない

サドンデス その続篇

🔗 サドンデス その続篇

二十日が大寒
二十一日に母の誕生日(九十歳)を祝い あくる日に父の命日(二十三回忌)を迎えた

という書き出しで「銀マド」を書いている

○○

概略を引くと。。。

一、

次は母の番で、母の言葉

「突然死は嫌や、一週間ほど生きて世話になった人に挨拶をしたい」

二、

死んだ後始末の人への伝言は簡単ではない

三、

歴史に残るようなものも何一つ残せなかった

四、

具体的な事務処理は数々あるが
死んでしまえばそれで終わり
伝わらなかったことを悔やまない

新しい海には新しい水夫が漕ぎだすのだ

五、

だったら 「サドンデス」でええやんかだったら 「サドンデス」でええやんか


以上のように書いている

○○

大雑把に言えば・・・死んでしまえば一瞬に消滅し不明が山積となるのだが
そもそも「不明」というのは「探そうとする」からである

「ふーん 死んでしもたか」
で済ませばオシマイ誰もが

面倒臭いことを生きているうちから考えるのは嫌である

○○

続く・・・日付を改訂して続きを書きます

うしろ姿の静かな意思 - 大雪篇 裏窓から

十二月七日 大雪を迎える

🔥 健ちゃんのうしろ姿

二人兄弟は いつも一緒の服を着ている
だから 双子の兄弟と思われてしまう

それがなかなか嬉しくて
そろいの服を選んで着せてしまうのだろう

兄弟の性格は正反対の点もある
その心理は不明だが

幼稚園に出かける毎朝に
兄は十分に余裕を見て準備ができ
早々に車に乗り込む

(時刻は読めないが)弟は時計を気にせず
急がねばならないことは十分にわかってるだろうに
平気で飯台に向かって正座でパンを食べている
その写真がある

兄の悠ちゃんは 車でスタンバイである

母は玄関で着替えを持ち
「早くしなしなさい」
と叫んだそうだ

それでも泰然としているうしろ姿が美しい

。。。。

。。。。

🔥 師走である

一月から一体どんなことが起こってきたのか
振り返ってみたいと思い手帳を繰ってみた

三月まで勤務してその後はプーの暮らしであった年である
年の初めから耳鼻咽喉科に通い続けなかなか完治せずに悶々と過ごした日々であった
コロナは以前と鎮火することはなく社会の外にいて眺めている
九十歳になる前に二十三回忌の食事として一泊で出かけたいと
母が言うていたことも実現できた

それくらいが思い起こせるような出来事ではないか

🔥 うなぎを食べる

うなぎを食べに立ち寄った
(母の耳鼻咽喉科医院への付き添いがメインであった)

三十年以上昔だろう
父と母と私ら夫婦で来た店である

あのとき 母はうなぎをよう食べなかったので
鰻好きの父の連れられて来たものの
席に腰掛けて見ていただけだったのか
ご飯だけを食べたのか
自分でも記憶が曖昧らしいのだが
その時のことを思い出しては懐かしむ

他の記事でも触れてきたが 父との思い出は少ない
食事をしたり 一杯飲んだりした思い出は
指を折ろうとしても出てこない

かと言って 父は寂しい思いをしながらあの世に逝ってしまったのかというと
残された人の話では そうでもないらしい

うなぎを旨そうに食べている姿は 全く強烈には焼き付いていない

蘇るほとんどの記憶が明確ではなく
マッタケを山のように採ってきた時の顔
ズガニをたくさん獲った時の嬉しそうな朝の顔
川で獲ってきたうなぎを 裏の流しで捌いている時の顔

そんなことを偲びながら うなぎを食った
うなぎの味は不変である

。。。。

 遺言も遺書もないと言うているが本当に何もないのか ー 霜降篇 裏窓から

10月23日金曜日 霜降

二十三日は雨の朝を迎えた
二、三日前よりもいくらか温かい
ピリッと冷え込んだ時にはすぐに冬用の布団や敷布、暖房器具の準備に慌てた

寒暖の差が体調を崩す原因になるろう
我が家族も風邪をひいたかもしれないと言うて憂鬱な様子で朝から寝込んでいる


遺言というものも遺書というものも似つかない
しかし無言で死んでしまうわけでもなかろう
「何か一言言いたかったのではないか」と誰かがぼそりと言うてくれたら
「そうよ本当は言いたいことはあったのや」と応じたいところだろう

– –

順番から考えれば、まず昭和六年生まれの母が死んでしまう
次は、長男である僕が死んで
その次は、二歳年下でうちの人の番であろう
さらに、そのあとに僕の弟となる

世間の前例を見ても絵に描いたようには進まない

母は長生きをすれば、息子たち二人のどちらかが先に逝くことがあるかもしれない
まあそんな誰かが流れを変えることが出るわけでもない話をとやかく考えても仕方あるまい

– –

さて遺言であるが、どこかにも書いたのだので重複するか、その時の話とは食い違うぞとなるのか、どちらかわからないが

子どもたち、孫たちが道を外さずに、立派にいきて行ってくれることを願いたい

この一言に尽きるのではないか
言わずと知れたことなのだろうが、自分でしっかりと物事を考えて見極めて行ける人になることが大切だ

残念ながら死んでゆく人は新しい時代を知ることができないのだから、今更何を言うつもりもない

とりわけ有名人でもないからその足跡が歴史に刻まれて後々に語り継がれることもなかろう

凡人には凡人の生き方があるのだ
道を逸らしてはいけない

**

わはく【評伝】 もしも 逝ったら その2

どんな人だったのでしょうか

❓:わはくさんはそんな人物だったのですか
🏁:周囲からは謂わゆる変人と言われてました

❓:どのような点が変わっていたのでしょう
🏁:物事の捉え方が普通に素直ではなく

誰もが答えるような言い方をせずに、ねじ曲がって聞こえた、人の言うこととは違った質問をしたり、ある意味ではズレている感想を言うことも多かった

🌺(解説)

理屈を言う人でした
人の考えないような理屈を言いました
自分では変人意識を持っていなかったのでしょうが、周囲から指摘をされて次第にそのように思っていたでしょう
しかし、何が何でも反対すると言うタイプではなく、自分勝手な考えの上で処理をしたかったのでしょう、そういった考えを持つようになるのは理由があるようです

❓:変人になってゆく原因があったのですか
🏁:小学校に入学する直前まで

おじいさん(祖父)に育てられました
その祖父の影響が大きいとされています、しかし、明確ではありません

🌺(解説)

おじいさんは、村会議員をしていたこともあるそうです
ひいおじさん(曽祖父)は村長さんだった

行政をする人としての社会を見る視点があったことから、そのような見方が受け継がれているのでしょうか、社会情勢には詳し買った祖父の膝で子守りをされてきます、新聞を読む声も自然に聞いていたのですから、なんでも物知りな小憎たらしい坊主だったのでしょう

❓:学校の成績はどうだったのでyそうか
🏁:期待ほどではなかったですね

どんなに賢い子になるかと周囲は話題にしたそうですけど
高校受験は落ちるし、大学はいくつ受けても通らないし
浪人を経てやっとの事で入った大学は 落第坊主ですし・・

🌺(解説)

おしゃべりいが好きでいつも喋っていた
先生の話を聞いていなくて困ったという記録が通知表にも残っているようです
なんでも知っている「物知りさん」ですが
おしゃべりしている間に先生の授業が進んでしまって
気が付けば置いてけぼりってことも多かった

❓:面白い話などないですか
🏁:忘れ物が多くてね、叱られてばっかし

🌺(解説)

学校のすぐ裏が家でしたから忘れ物はへっちゃらですよ
休憩時間にこっそりと取りに帰ってくるわけです

❓:ケチだったとか
🏁:確かにケチん坊でした、

節約家というか貧乏性でした、無駄遣いもしない、無駄なおやつも食べない
修学旅行に行く時などはたくさん お小遣いをもらって行きますが、
全然使わない、お土産も買わないし、記念品なんかも最低のものしか買わない、
だからお小遣いが全然減らないのです

学生時代なんか、友達とだべるときでも、
ケーキ屋さんとかコーヒ屋さんとかにも入らないで、
公園のベンチとか景色のいい土手とか、学食のホール
とかで話をして済ませることが多かった

❓:女の子からメールを聞き出すのがうまかったそうですね
🏁:モテたわけではありません

メールを聞き出すのが上手というわけではないと思います
確かに思わぬ人のメルアドを知っていることがありました

話をしていて教えて欲しいと言えば普通に教えてくれるというてました
教える方は危険を感じなかったのではないでしょうか

エンディングノートに何を書くのか ー 伝記篇 その1

ノート  伝記篇


🐤 小学校以前

おじいさんっ子

小学校に入るう直前まで祖父(おじいさん)に育てられました
入学の前年に祖父は亡くなりますが、最後まで大事に育てられたといいます

自転車が田舎にも普及し始めた頃で、祖父はいち早く自転車を購入し膝の間にサドルを設けて、あらゆるところへ乗せてってくれました

津市の中心部に三重会館のビルができた時に、そこにエスカレータという珍しいものがあると聞いてバスに乗って出かけたこともあるそうです

蒸気機関車(C11)

そのころの雲出川沿岸の地域には、川上や興津、丹生俣からバスが通っていました
名松線が走っていましたが、バスで津市内に出る人も多かったようです

伊勢川口駅から久居まで走っていた軽便鉄道は、昭和18年に廃止になって姿を消していました

名松線は蒸気機関車で、おそらく小学校4年生(昭和43年)ころまでは走っていたと思います

鉄道には、伝説的な話が数多く残っています

おじいさんの思い出

おじいさんは、村議会議員をしていたこともあって社会に関心が強い人だったのでしょうか、社会の出来事に関心が深く、農業の仕事からは引退して毎日新聞を読んだりして、まさに隠居生活であったらしいです

対話をしたとか叱られたりしているような記憶は全くありません

声も記憶にはないし、顔はおそらく肖像画とか残された数枚の白黒写真から作られたものではないかと思います

小憎たらしい孫

「大平官房長官がなあ・・・」とニュースの切り売りを読み上げるように近所に触れて回ったりした小憎づらい子供だったといいます

将来は政治家になるか何か大物になるかもしれなんな、と近所の人が褒めてくれたそうです

ひいおじいさんは村長さんで、確かに期待はあったかもしれません

🐤 保育園は不登園の魁

保育編へは行かなかった

二年保育の時期になって保育編へ通おうとしますがしばらく行ってやがて不登園になってしまいます

近所の子にバスに乗るときに引っ掻かれたのだと母が言いますが、そんな記憶もないし保育園の中で楽しく遊んでいる様子を少し記憶しているので、他に理由があったのでしょうか

明言はできないですが、今でいう「虐められっ子」のようなところがあったのかもしれません

のちになって自分の性格を分析するときに、虐められることに対してノータッチでものを考えようとする傾向がありますし、そのような状況になりそうなときには過敏に反応するような気がします

後年、高学年以降などにはどちらかというと虐める側にするりと仲間入りして済ましているようなところがあり、自己分析はまんざらでもないかもしれない

🐤 小学校

おしゃべり

よその子より時も早く覚えたし時計も早くから読めたと言います
なんでもよく知っていたそうですが、おしゃべりでした

授業は知っていることばっかしだったからペチャクチャと喋ってみんなの邪魔をしていたのではないでしょうか

(つづく)

エンディングノートに何を書くのか ー 寒露篇 裏窓から

十月八日 寒露
ひんやりとした朝になった
台風14号が接近しているからだろう
➡️ 十月上旬号 台風14号 その後さらに接近中


エンディングノートという冊子を市民向けに市役所が配布しているそうだ

そのことをニュースで知りそろそろ何かを書き残して行く準備をしなくてはならないかと考えた

どんなことを書くのか
あれやこれやと考えているとまだ簡単に死んでしまうわけにもいかない


手帳にメモを書いたので書く写すことにした

言い遺すこと言葉などない

ムスメには結婚のときに「なかよく」と書いたがそれですべてである

これに言葉を足すこともなければ不足もない

「人生は糾える縄のごとし」

まさにこの言葉の通りであり、日々縄たどるように生きているのだ

人と接する縺れ具合を確かめつつ、解くも固く結ぶも自らの意思と行いに左右されるだろう

運もあろうが縄を手繰るのも綯うもの自分である

縄とて元々は稲藁であり、所詮その程度のもの

考える葦と人間のことをパンセがいったが、縄にもその何かが似たような点が通じる気がする

控えめなスタンスでいること、踏み出すときには自信を持って確実に踏み出すこと、着地点をしっかり見ながら歩むこと、が大切だ

私が書いた「なかよく」という言葉は、何かの思考に役立つものではない、しかしながら必要不可欠な条件であることはわかろう

どんなときでも柔軟で大局的な視点を持ち瞬時には自信を持って手が打てるための条件として、なかよく誰とでも協調している自分の姿こそが武術でいう「正眼の構え」のようなものだ

したがって、遺す言葉などなく特になく、次の世代の人に伝えたかったものは一つの姿勢のようなものであったことをじっくりと考えて欲しい

時代は何百年も昔の歴史時代から昭和(戦後)へと大きく一気に変化した

それと同じくらい激しく令和へと変化をしようとしている

古い水夫は新しい海に出る船を操ろうとはしない、海とはどんなものなのかを伝えるだけにとどめたい


そんなことを書き留めたのだが、実に面白くない
これでは誰も読まん



エンディングノートには

第一章 伝記篇
第二章 遺言篇
第三章 語録
第四章 雑記

など分けて考えて見たいと思っている

この上段に書いたのは「遺言篇」に当たるところの草稿のようなものと言えるか

生きているのだから日々ころころと変わって(進化して)良いのではないか

T君へ の暑中見舞

はじめに

城君へ
元気でやっているようですね

著中お見舞い申し上げます

おおかた手紙を書いてから長くなってしまったことを苦笑いしている
手紙の最後になって「はじめに」を加筆している

子どもの話とか、家族の話とか
生きがいの話とか
友達同士が集まったらするような詰まらない話とか
あまりできる機会がなかったので寂しく思うが

知っている範囲で勝手にその後を想像している

三千記事以上の膨大なブログを書いているけど
特に誰にも伝えていません

読みたがるような人など誰もいない時代なんだと思います
自分のことと家族のことと日々の楽しみを満喫するのに精一杯
多くの人がそれで豊かさを満足している

十年間に渡って公式に県庁から発行してきたメールマガジンの巻頭言も
バックナンバーが頭の方から次第に消滅していくので
そのことを寂しく思う一方で
読者として熱心に意見をくれた人たちとの繋がりも消滅してゆくの

人生というものはそんなものなんだろうと納得したような気分になっています

手紙など出したら
明日死ぬかもしれない
というようなジンクスも囁かれそうな年齢になって
いよいよ、父や祖父の享年まで後三年と迫ってきた


1

ずいぶんと長い間手紙を書かなかったように思う
もう誰にも手紙など書くものかと心のどこかで腹を立てていたときもあったからだろう
話せば長い事情もある

2

それをさておき勝手にまた手紙を書く
社会的にも立派になった皆さんにこの世の果てでどん底の暮らしをしている僕のような奴から手紙を届けたところで
それが助けを求めて書く悲鳴ならばドラマか笑い話にになるかもしれないところだが
(別に意地を通しているわけでもないのだが)
なんとか死の淵からは救われて居るので
それが今のろころ意地を通しているみたいみ見えるのであるけど
格差社会の底流で生きている

3

前置きが長いのはいつものことだから許されたい

手紙を書くことにしたのは純粋に懐かしいから書いております
昔と変わっていなければ多分受け取って読んでもらえるだろうと思っているし
変わっているわけがないとも言うても大丈夫だろうとも信じている

4

みんなが競争社会の中にいて自分が一番で飛び出すことを策略しながら生きてきた時代を走り抜けてきた
その始まりの頃の段階(二十歳の頃)で偶然にも何の利害も考えないで出会った仲間だった大学生であった僕たちだったが
だが性格や生きる哲学は著しく違っていたのだろうと回顧しながら
そんな奴らが友だちになれたのは幸せなことだったと今になって喜んでいる
けれども、実際にはバラバラで音信不通の者もいたりするので、それは運命かもしれない

5

社会出た直後はある種の矜持のようなツッパリで生きてゆこうとした
競争意識や出世意識や人生にかける夢などが肌身に漲っていたのだと振り返っている
同僚だった(学生時代の)仲間たちもお互いを「糞食らえ」と思っているかのように散り散りになってゆく

四十歳過ぎくらいまでは無我夢中という言葉が当てはまるような時期もあった
社会が刻々と変化してゆく流れに追従するだけの知力と才能が僕には足りなかったのだろう
いや、その足りないという事実に気づくのが遅れた自分(いつまでも走りきれると思っていた自分)であったことが失敗であった
社会からスピンアウトしてみて古巣になった島々を遠くから眺めていると見えてくるものがたくさんあった
あんな努力やそんな夢などは阿呆らしいものだったと気付き始めたときに、初めて違って見えてきたものがたくさんあった
島に残って成功をする者もいたのだから明らかにこちらは落伍者であり漂流者であったとも言える
大企業というものや長いもの、大きいもの、強いものにヘイコラする生き方に激しく反発していたから子どもの未来での失敗は許されない
しかし親としての発言力はすっかり衰えている
反面教師にもなってい中たのだろう

とりあえず子どもは軌道に乗せたし結婚もして子ども(孫です)もできた

6

友が、あるいは、貴君が遠い友だちのように思えることがあって
手紙が書けなくなったことがある
でも、こんな時にこそ話を聞いてくれるのがアイツではないのか
社会が求める人ではないのか
と誰に問うこともできずに手紙を書かない日々が続くのだが

7

まとまらないのだが
静かに考えるようになっている

地位とか名誉とか金とかを追う一方で
人間関係の間にもそういう物差しを当ててしまっていた
友だちと付き合いにもそんな悪い物差しの使い方をしてしまっていたかもしれない

でもある意味では裸一貫で社会から放り出されたときに
学歴とか地位とか身分とかは過去のもので(そうでない人もあるけど)
肩書なしの名字だけで呼ぶ社会(年齢)に(特に地域では)なっていることにも気づき
違った考え方や生き方であっても対立することもなく日々を暮らすことを目指せた

だったら大学時代にせっかく友だちになった仲間たちよ
幸いにも?考え方も違うのだから今になって肩を並べれば
仲良しになることはなくとも
広い範囲に散らばった様々なタイプの人たちを
見渡せるチャンスが埋めれるのではないか
異種の生き方の交流にもなる、と考えた

学生時代の友だち、中学や高校なら
もっと純粋に人間として素っ裸で付き合ってきた時代の友だちだから
尚更、人生の第四コーナーからを肩を並べれば
静かに話ができるのではないかと思ったりしたのだった

8

そんなわけで幾人かに便りを出してみた

音沙汰のなかった(手紙を書いても返事もなかった)友だちもあった
静岡県の電話番号検索をすると名前からヒットしたので手紙を書いた
しかし、返事は返っては来なかった

どう思っているのかは全く不明
今さら手紙なんかと思ったのか
大きく出世をしていわゆる立派になったのでもう今さら昔の友なんてと思ったのか
僕の想像していなような事情のある暮らしをしていて、アホな奴には関わりたくないと思ったのか
単に「面倒だ、今はそんなにアツイ人間をやっていないんだ」と思ったのか

9

手紙を書けば友が減ってゆくのも辛い
(返事がなく音沙汰が消えてゆく)
しかしそれも宿命と思う

一年間、予備校の寮で辛くて苦い日々を共に暮らした仲間の一人だった奴も
鹿児島市内で立派な整形外科の医院を開業していた

「医者になることにした」と秋ころに言い出し突然方向転換をして
僕ら同僚の者たちが1浪でゴールへ逃げ込んで行く時に
もう一年チャレンジを続けて故郷の九州に帰って(鶴丸高校でしたので)
鹿児島に戻って医者になっている

其奴はとてもいい奴ですし心も知れている
「オレはお金持ちなったし、今の暮らしが達成できたから、あの頃の友だちはそれなりで十分だ」
というようなそぶりのメールを何度かくれて、メールもいつの間にか途絶えてしまう
彼のことはそういう友達が存在したのだという記録を残して大事にしておくことにした

10

年老いたからなのか
あれやこれやと回想をしながら
(貴殿の講話のユーチューブを ふとしたことで見つけて、さらりと見たりして)
貴殿に手紙を書いてみるかと思ったの

回りくどくて面白くないから
読んでくれないかもしれないけど
それは昔から変化ないので
すでにわかったことや

人生をたくましく生きてゆく力になるような話を聞かせてもらえるかもしれんな
とも思った

でも雑談でええのだ
雑談の中で生き返ってくる言葉があるだろう

11

六十歳で、およそ二十年ほど世話になった県庁を退職して
継続雇用的に公益財団法人に移ったのですが
割と安定していたけど体調不良で一年前の春にやめて
110日間の連続休暇(失業ともいう)をとって

夫婦で東北に旅行をしたりしてきた

旅から帰って
再び10ヶ月ほど県庁で臨時で使ってくれるというので働いたけど

この4月に本格的に再び(2度目の長期休暇)失業している

その後もパートタイムの採用試験に幾度か出向いているけど
さずがに空席の椅子は若い子が先ですので、こちらには回ってこない

一年ほどチェレンジを続けるつもりでいるけど
もう再就職は諦めるかなあと弱気のような悟りのような日々

12

あとがき

いつまでも書いていても終わらないので
ひとまず、ここらで終わりにしよう

ここまで読んでくれていたならば

とても感謝します、ありがとう


時間があれば、貴君の語りをゆっくりと聞きたいですね


wahakuma ®️

胸の前で腕組みをして考える ─ 立夏篇  裏窓から


一、五月が始まる

動き出すものがいくつもある
夏という季節もその一つで、茶摘みが始まり、日差しが厳しくなり温度計も急上昇する

子どものころには麦畑が多かったので、この季節は青々とした麦穂が風に揺れていた

今は時代が変化して麦を見かけるのは少なくなって、この季節にはおおよその水田では田植えを終えている

コロナ禍であっても田植えの姿に変わりはなかった

五月五日は立夏である

母を訪ねて家に行ったら田植えは完了したと話してくれた
農家の長男であるが、不出来な奴である

タケノコとスナップエンドウをもらって帰ってきた


二、コロナで突然死

コロナをもらったら間違いなく死んでしまう
そんな話をしてきた

死ぬのは怖くない
もう九十歳になろうとしているのやから、惜しいものもない
残すものもない
悔やむこともない

そんなことを繰り返しながらも
生きていたいと思っているのだろう

生きるというよりも
毎日を苦もなく送るのが日常で
昔のように次々とは歓びがくるわけではないものの
暮らしの中に昨日とは違った新しい変化があり
それは進化であって
ヒトがもたらすものであり
孫によるものであったりする

過去のことも振り返りながらも
過ぎたことは悔やんでも仕方がないという感覚なのか
話をしてくれる苦渋に満ちた話であっても
表面的には激しく悲しんだり悔やんだりしていないようで

今日明日をどうやって生き延びようかと考えるような毎日であるものの
日々を、日めくりを繰るように生きている


三、コロナで中断は悔しい

それだけに
コロナで中断するのは惜しいと思うわけで

誰にも会わず
特に用事がなければ出かけず
無理もせず
怒りもせず
後悔もせず
欲もなく
ヒトの言うことに耳を傾け

淡々と生きていくのが
何よりもの得策で
幸せである

言葉にして説教をするわけでもないが
そんな話をのらりくらりとして帰ってくる


四、遺言は喋り終わったか

父が亡くなって23回忌を年度の末にして
ゆっくりと家族で旅をしようとしていたが
四月に予約していた宿をコロナ騒ぎでキャンセルして
どうやらここで打つ手が失くなったと
そんな感覚でいるのだろう

父の死後23年の間に遺言にできることは全て話した
聞いた方がしっかり聞いていなかったことも多かろうが
気は済んだと思う

死ぬときは
一週間ほど床に伏し
訪ねてくれる人に惜しまれて
挨拶をしながら死にたいという

もしも叶わなかっても
おそらく悔いはないだろうけど

入選句を 思い出す ─ 三月尽 ひととき


令和元年度が終わってゆく
何もしなければ私の歴史年表には特別なマークもつけられることなく

そんなことを書き始めて放置していた
昔の作品を読み返して
その頃の情景を思い起こしてみたりした

でも
歴史は歴史やとも思いながら日が過ぎていった

この部分
書きかけ・・・ていましたが
数行を追加したところでおしまい

また来月に考える 


俳句の国

旅の一句(第2回)
山刀伐を芭焦と越えた夏の夢

風の一句(第9回)
すずむしの声のほうから風が来る

国の一句(第15回)
散る花と国の峠でわかれたり


平成24年

1月17日
あさやけを一番列車が来る季節

10月25日
満月を大吟醸と待っている


2011年には
【NHKラジオで】
雨に濡れ私待つキミもう少し

【朝日新聞、東海柳壇で】
淋しいとおんなじ夜空を見上げてる
引き潮の干潟が好きで君好きで
好き好き好きと三つ言ったら夏が来る
あのころは海が見たいが口癖で
満月を旅好きなキミに送ろう


2005年10月12日 (水)
きかせてよ柱の傷の物語


FACEBOOK 開設記念 三作
として重複してメモしているので
よほど気に入っているんかもしれない

雨に濡れ私待つキミもう少し
(2011年6月19日 NHK松山放送局アナウンス室 選)

引き潮の干潟が好きで君好きで

好き好き好きと三つ言ったら夏が来る

(2011年5月 朝日東海柳壇)

鬼は外鬼は静かに旅に出る 

初めての母の投句をそっと切り

朝日東海柳壇

大人になったら …… 

大人になったらアナウンサーになりたいと小学校の卒業の時に書いておった
もっと小さい時は船乗りになりたいと言うておった


この日記のどこかにそのことを書いている

私は大人になったら何なりたいかという夢を尋ねられた時に
幼稚園とか小学校低学年時代には「船乗り」と答えて
諸学校の卒業文集では「アナウンサー」と書いている

その時代は遊星王子や月光仮面の時代だ ※

こんな仕事をしたいと思いながらもそんな夢など叶うわけがないと心の何処かで察し
せめてその一歩 手前か傍まででもいいと考えるような子どもだった

自分が好きなもので確実に身を立てらるものでもなかろうという冷めた性格は
誰から譲り受けたのだろう

人生を農業に明け暮れた父親の心の片隅を無意識共有しようとしたのか
しかし、私は父が子どものころに描いた夢を話に来たことがない
(多分その話は口伝しなかった)

子どものころ、特に中学時代に描いた夢は記録になく特に執着は持たず大学に行くのだと考えていた

高校に入ってからは様子が少し変わってくる

学校の成績は英語や社会系の科目がいわゆる「5」で修学や物理や化学は「4」に近かった

別に一位を目指すつもりもなければ一位になってやろうという執念もなかった
好き勝手にしていて「英語」「歴史・地理」「生物・地学」は優秀で
「国語」「数学・物理」「化学」は劣った
「古典・漢文」は好きな科目であっても勉強をしなかったので成績は「3」クラスである



賢くなるためには、生物学的知能の高さも必死であるが、師匠からの技の伝授が必要である

大人になったら何になるかを夢にみるためには、そちらの世界を限り無く正確に知り、決める力を持たねばならない。そのためには、師匠からの伝授が必要だ

そんなことをやっている子どもは限られているし、そんなことに諸手を挙げて賛同できるものでもない

子どもは夢を持つべきであり、支店によってはくだらないものであろうが、子供らしくその年齢にふさわしい希望を持って大人になってゆくことで、大人になったときにのそ経験が生きてくる

もちろん小さいうちから、ときには天下り的にでも、人生を決めるような指導をするケースもあるが、凡人はその必要はないし、自分が凡人かどうかくらいは自分で決めさせてあげたい



父は亡くなる間際まで私がアナウンサーになりたいとか船乗りになるといったことを覚えていて懐かしむ話をするとそのことを問うた

工学をエンジニアをするのだ

大学時代に教養の「化学」の単位が取れなかった。在学五度目になる卒業間際の試験でも白紙になる答案に「何一つ答えはがわかりませんがこんな私も就職が決まりました何卒単位をお願いします」と書いた苦い思い出がある

新人で配属を受けたのは生物化学系の研究室であったし、四五歳ころから仕事を退くまではいわゆる「化学」技師と言われる人たちの集団で仕事する運命を授かった

人生は色々な運命で織り成されている鮮やかな糸のようなものである

 

 

わはく【評伝】 もしも 逝ったら

和百元年十月十二日、わはく氏が息を引き取ったのはおそらく未明のことであった。発見されたときには、自室の机に向かって作業椅子に凭れて天井を見上げ続けるような姿勢で静かに目を閉じていたという。

最初に発見したのはツマのJさんで、朝のコーヒーを飲んで書斎に上がってから昼食まで静かにしているのも珍しいと思い、寝心地が昨夜に限って良くなかったこともあろうか、うたた寝でもしているのかと思い部屋に行ってみた、すると、それはまるで快適な夢を見ながら居眠りをしているかのような顔でわはく氏は眠っていたというより息を引き取っていた、とJさんは話す。

死因は虚血性心不全であった。数日前からの寒波の影響で何度かの軽い脳内出血で軽い意識障害を起こしていたはずだ、主治医は分析している。若い時から腎臓も決して健康ではなく、仕事を引退して後も重篤ではないものの要注意を警告され、厳しい食事制限と投薬の日々であった。

(それでもオンナの人のお尻を夢で追いかけていた)

しかしながら、大きな病を持つような人物には見えず、普段から顔色も良好で、一時期の肥満を克服してやや太り気味を解消した後は、このごろは理想的な健康状態(主治医談)で、このままでは息が途絶える理由がどこからも出てこない、百まで生きられるだろうと、思われてもおかしくないほどの元気さだ、と誰からも言われるほどであった。

数日前には酒を飲みはしゃぎまわり大好きなエッチ話で盛り上がってJさんのお叱りを受けながらも楽しそうにしていた。

駆けつけた友人たちも彼の死を悔やみながら「ほんま オンナ好きでしたねえ お尻が大好きで 歳食えば尻が大好きぴちぴちの」が口癖でした、と語っていた。

バレンタインデーのころ に考えていたこと

二月十七日の日付メモがあったので同日の日付でアップしておきます

私は一つの事実を たとえ一人の人にでもいいので 伝えたかったのだろう


バブルの波からの脱出に成功した人と失敗した人

まさに目に見えない波が真面目な社会の人としてのほほんと働いていた多くのサラリーマンを襲ったと言える

会社はそれまで綺麗なことを言い人材を大切にする社風だと胸をはっていたのだが、なりふり構わずに自分の身を引き千切って捨て始めたのだから、初めはまさかであり、何事が起こったのかであった

信頼してたものに裏切られた気持ちだったはずだ
私のように最初から忠誠心の薄かったものは、殺られる、間違いなく棄てられるといえ確信を持った
やがてそれは冗談でもドラマでもなくただ事ではなかった
大変なことが始まっていたのだと次第に明らかになってゆく

結果は、そのあとの社会の姿どおりでる

ドラマとしてはそういう意味では捨てられた面白くないもので、独壇場で面白みはなく、期待している美しい姿がクローズアップされることなく、もとより再生してゆくたくましいドラマも作らず作れず、未だに開き直ったままで、正体は半分うまく隠したままだ

どんなに卑怯で汚いことがあったかは、パワハラの日記でも触れた
このドタバタ劇で誰が得したのか
まぎれもなぬ綺麗な顔をした世間で紳士だったパーな会社の勝ちだった

間一髪で上流に逃げて安定した波に乗れた人、さらに、波はかぶったものの命は助かり陸地に逃げ切れた人、無人島のような離れた島に流された人

悲惨な人たちが船から投げ出されたのだがマスメディアは取り上げなかったし実体は報道もされなかった

少しはちょっとしたドキュメントとして流れたものもあろうが面白くないし見る値打ちもなく、パーな会社にはそんな事件から注目を奪ってしまう力があったので、話題は燃え上がることなどなく廃れていった

(そうは言ってみても、やっぱし)

負けたくないじゃないか

だから負けないためにはここで起こっている事実を少しでも多くな人に伝えるのが一番だと考えたが、一人の小さな人間が闘えるだけのチャンスも土台もチカラもなかった

けっきょくは捨てられたものの負けで、負ける前に少し尻尾を振ったものは意地をはったやつよりマシだったということであろう

会社は勝つようにできているし、社会は落ちて散らばってゆく者たちにはこれっぽっちも優しくない、自分が生き残ることしか本質的には考えていないのだということがよく見えてしまう

幸いに死なずに済んだだけでも幸運だったのかもしれない

* 参考

🔗 書きとめておくべきことの数々がメモにあったのでここに貼っておく (パワハラ余録)

🔗 平成をふりかえる・その2 (裏窓から)

斎藤末弘先生のこと その3

斎藤末弘 罪と死の文学 戦後文学の奇跡
>> 斎藤末弘先生のこと その1
>> 斎藤末弘先生のこと その2


目次

現代のヨブ―北条民雄『いのちの初夜』
人生足別離―田中英光『さようなら』
死と焔の祈り―原民喜『夏の花』
汚辱と聖性と―椎名麟三『母の像』
不幸な女性たち―椎名麟三『美しい女』
諧謔と真剣さの統一―椎名麟三のユーモア
人肉食の逆説―武田泰淳『ひかりごけ』
生体解剖の罪―遠藤周作『海と毒薬』
心の奥に潜むもの―遠藤周作『わたしが・棄てた・女』
現代の同伴者―遠藤周作のイエス像
転生の祈り-遠藤周作『深い河』
現在の深淵-三浦綾子『氷点』
待望のうめき-丹羽文雄『一路』
境の神のふるさと-福永武彦『忘却の河』
失語と沈黙-石原吉郎の死と蘇生
贖罪の流れ-森有正『バビロンの流れのほとりにて』
無意識を掘る-高橋たか子『誘惑者』
贖罪の祈り-島尾敏雄『死の棘』
土着への闘い『モッキングバードのいる町』


目次を正確に訂正する

感想を書く

斎藤末弘先生のこと その2

「今日はこの講義が終わったら遠藤と一杯飲みに行くんだよ」

斎藤先生の顔はネットで見ると四十二年以上前を思い出せて、それで間違いないような気がする
今はもうそれなりのお歳であるが、あの頃のお若い顔が浮かぶ

別に話をしたわけではない
大きな教室の適当なところに座って講義を聴き始めたら面白かって惹かれてしまったのだ
ほぼ皆出席で講義には顔を出した

皆出席の講義など私には絶対に一つもない
「皆欠席」という講義はたくさんあるはずで、先生の顔さえ知らないという授業ばかりが記憶にある

母校はおおらかな学校だったので
出席を取る先生はあまりいなかったように思う
全然行かなくても勉強ができれば単位はくれた

できなければ容赦無く切り捨てられたので
卒業するときの顔ぶれが入学の時の顔ぶれと半分以上が変わっていたのは不思議なことではなかった

講義をサボることに成功してもラッキーでもなかったし
要領が良いと称えられるものでもなかった
話が聞けなくてかわいそう・・と思った人も多かっただろう

そんな真面目な(今では当たり前であろう)雰囲気だった

文学の講義は私にしたら完璧に出席した

第一回目が太宰治のグッドバイの話
そのあとは順不同

椎名麟三、原民喜、遠藤周作、武田泰淳、梅崎春生、島尾敏雄
などと続いた

人生で一番楽しい授業を受けた時だったのだ

十八歳までに考えていた人生がガラリと変わった
そのことに、あああの時か、と気づくのはずーっとあとになってからのこと

楽しい青春だった
素晴らしい出会いであった


>> 🔗 斎藤末弘先生のこと その1
>> 🔗 斎藤末弘先生のこと その3

 

 

斎藤末弘先生のこと その1


斎藤末弘先生のことを回想録のどこかに追加したい(自分メモ)

午後2:31 · 2020年1月20日

そんなメモを残しながら
ブログに少し書きかけている


斎藤 末弘 罪と死の文学―戦後文学の軌跡

書籍紹介内容は

「敗戦後の廃墟から新生への願い、被害者のみならず加害者としての原罪意識、そしてユーモアによる現実相対化への格闘―戦後文学を貫く課題の中で、作家たちはいかなる文学を創造してきたか。」

となっており

目次

  • 現代のヨブ―北条民雄『いのちの初夜』
  • 人生足別離―田中英光『さようなら』
  • 死と焔の祈り―原民喜『夏の花』
  • 汚辱と聖性と―椎名麟三『母の像』
  • 不幸な女性たち―椎名麟三『美しい女』
  • 諧謔と真剣さの統一―椎名麟三のユーモア
  • 人肉食の逆説―武田泰淳『ひかりごけ』
  • 生体解剖の罪―遠藤周作『海と毒薬』
  • 心の奥に潜むもの―遠藤周作『わたしが・棄てた・女』
  • 現代の同伴者―遠藤周作のイエス像〔ほか〕

と書かれてます


斎藤先生には、大学時代に一般教養「文学」の講義を受けました
上にある目次の内容でした。1977年のことです

先生はお若かったです
遠藤周作も生きてましたからね

工学部にとって一般教養の「文学」なんて
どーでもええ講義ですが

私はこれに出席して
人生が変わりました

過言ではないでしょう
詳しいことはまた追い追い


⬅︎ 藤末弘先生のこと その2 🔗

自伝のススメを噛み砕いて考える 

🔗自伝のススメ ─ 小雪篇 (裏窓から)

を書いたときに


  1. 人生の節を考えてみる
  2. 節を四つ想定する
  3. 人生は起承転結
  4. 成功物語でなくても良い

  1. 出会った人を五人あげてみる
  2. 思い出の人を五名あげてみる
  3. 男子五名、女子五名、先輩三名

と書いた

  • 四つの節って何だろう
  • 五人の女性には どんな物語が潜んでいるの

そんなことを回想すると
このあたりから書き始めるのがいいのでしょうか

日記帖をどさりと積み上げて - 言葉とイマージュ


▼ 本棚の一番上の一角に大学ノートが無造作に突っ込んである
日に焼けているものもある
古臭いリングノートもある

日記である
タイトルを覗いてみる


* ほら、冬眠していた好奇心が起き出してきた

* 人間はいつだって夢中なんだ

* 荒野では人はいつまでも少年のままだ

* このひとことで決まった
YOUにおくる現代名言集

* 限界を走り抜けば、そこには静かさがある

* イザというとき読んでも間に合う

* ロマンの復活
忘却を決して恐れない

* 感動の瞬間
いつまでも大学を卒業できないボクの記憶


 

負けるな負けるなボクたちは塵だから塵にかえる - 小雪篇(号外)

大学に入れずに浪人をした時に出会った言葉だろう

「大学への数学」の巻頭言にさらりと書いてあった一言と記憶する

その時につけていた日記のタイトルに僕はこの言葉を選んだのだった

🌱

ちっぽけな塵のようなものだ
肩に力を入れて意気込むのはやめて
平常心で受験に挑もう

そんな風に思ったのだろうか

今更日記をめくり返して読むのもセンチすぎる

そんな時代があったのだということで
バッサリと焼き捨ててしまえばいいと思う

誰もしないことを始めよう ─ 自伝のススメ

機械にできることは機械に任せ、人間はより創造的な分野で活動を楽しむべきである
約四十年前に遡り社会の新人であった私たちに立石社長はそう話した
純心にその言葉を受け座右に置き人生を走り続けた

真剣に夢を夢見て技術者は未知へと挑戦しようと挑み続けた時代だった

生体信号を検出処理して臓器をコントロールすれば人工臓器が実現できると考えた時代である
現代では当たり前の挑戦であったが血圧や心電位や体温を計測するのに必死だった
デジタル画像を処理して特徴抽出をする技術にも関わった

二十歳の頃の輪講テーマまで遡って自分の情熱の源流を思い起こしている
コンピューターが鉛筆が二本重なる画像を認識するのに何時間も要していた
CCDカメラは現代と比べるとおもちゃよりも粗末で処理能力も電卓以下であった時代があった

科学技術史を丁寧に辿って人々の心意気とポリシーを学ぶことはとても有意義で重要と考える
開発エンジニアにならなくても技術者であれば基礎学問として必須にして良い

技術が空(empty)から抜け出して新しい輝きを始めるとき
その技術を求めた人たちの気持ちや夢はもちろんのことであるが
人々のその時代の暮らし、技術と向き合う意識、生活の不便や不満の感触などを分析しておくことは不可欠だ

どういった思考の過程で新しいものが生まれてきたのか(思いついていったのか)という流れを明確にしておくことが次の世代がさらに次へと進む時に軌道を確かなものにしてくれるだろう

・誰もしないことを始めよう
・超一流を目指そう

そういう言葉に情熱を燃やしていた時代があった

自伝のススメ ─ 小雪篇 (裏窓から)

小雪

自伝のススメ

のようなことを考えている

他人(ひと)に薦めるようであり
自分のためにまとめている節もあり

そんなことを思いつくまま書いてみた(初版)


  • 何を書くのか考える
  • 人に読まれなくてもOK
  • 伝えることを書く
  • 百年後に面白いもの
  • 隠れた思い出でも良い
  • 当たり前のことはさらり
  • 未完成で良い
  • 言いたいことから書く
  • 思いつくことを五つ挙げよ

 

  • 長編は読みにくい
  • そもそも誰も読まないと思え
  • 私などには興味はない
  • タイトルを重視しよう
  • 作品名を考える

 

  • 出来事をピックアップしてみる
  • 事件があればいくつか挙げる
  • 発言を掘り起こしてまとめる
  • 意見をまとめる
  • 座右の銘を書いておく

 

  • 人生の節を考えてみる
  • 節を四つ想定する
  • 人生は起承転結
  • 成功物語でなくても良い

 

  • 出会った人を五人あげてみる
  • 思い出の人を五名あげてみる
  • 男子五名、女子五名、先輩三名

 

  • 出版のことは別ステージ

自伝のススメ のようなことを考える輪講のようなものをやってみたい

先日ある人に

「自伝のススメ」のようなものを考えてみたいと思うのよ
自分では 格好のいい自伝は書けないから
周りにいる人を集めてきて寺子屋風にして輪講をするの

というような話をしてみた

みんなで自伝を書こう
誰に読んでいただくものでもない
自分のために書こう
回想したことをピックアップして書くのだ

例えば

  • 思い起こしてみて事件だったことを三つ挙げよ
  • どうしても自伝に登場させたい人物を三人挙げよ

なんてどうかねぇ

1974年の5月31日のこと 大雨の日でした

1974年の5月31日のこと

大雨の日でした。


文化祭か何かの準備で帰りの電車が一本遅かったかもしれない。(1本=1時間です) だから、駅からの道を急いだんだと思う。
集落から集落へと小さな山を越える小さな切通しの峠道で、道路脇から飛び出した車と接触して転倒し大怪我をしました。高校2年でした。

雨が激しかったので、目に入ると痛い。だから、うつむき加減で坂道を下ったんでしょうか。脇から出てきた車に気づくのが遅れ、右ひざから足首まで40針ほどを縫う怪我をしました。

事故の状況のことは、機会があったらどこかで書きたいと思いますが、今日は、あの出来事にまつわる読書の話をします。

大雨。
事故。
そういう、ありふれたハプニングが、幾つもあって、私の人生の筋書きをねじ曲げてきたのかもしれないな、とつくづく思います。

元々は、遠藤周作さんの「どっこいショ」という本の出会いを書いたのですが、5月31日のことが絡まっていますし、自分のために今日の日記にアップしておこうかなと思ったのです。
「どっこいショ」のレビューにしてもいいかなとも考えましたが、そちらには既に別のことを載せていましたので。

——

あのころの私は国語が嫌いで、決して活字というものを好んで読みませんでした。ところが、おかしな勘違いをしている友だちがクラスに一人おりまして、彼のおかげで人生が変わってゆくのです。

彼の名前は宮崎といいました。毎朝、電車の中で一緒にバイクや車、夕べのテレビの話をする仲間でした。休日には近所をバイクで走り回る親友だったのですが、私が読書好きだと思いこみ、さらに遠藤周作のファンだと思っていたらしいのです。

高校二年の五月三十一日の夕方、下校途中に私は車と接触事故を起こしてしまいました。バイクは破損し右足の脛を四十針ほど縫う大怪我を負い、六月と七月は入院生活となりました。

一週間ほどして宮崎が見舞いに来て単行本を一冊差し出し、「オマエは本が好きやろう、遠藤周作が好きやろう」と言うのです。そして「どっこいショ」という分厚い本を私にくれたのです。遠藤周作という作家はこのときに初めて知りました。そして、宮崎が勘違いをしていることにも気づきました。

その本は、病院へ来る途中で買ったらしく安っぽい袋に入れられ、彼はそのまま私の枕元に置きました。何でも言える仲だったので「俺はお前が思っているほどに本が好きじゃないのだ」と白状したかもしれない。傷口の縫合直後で、あと一ヶ月は安静だったので「まあ、そのうち読むわ」と返事をしたかもしれない。

そういうわけで「どっこいショ」は、枕元に置かれて幾日も過ぎ、退院してからも読まれずに棚に積み上げられたままとなり、やがて、宮崎からの見舞品であることさえも忘れられてしまうのです。

私は二学期から学校に復帰しました。宮崎にとって、私は読書好きな友人のままです。そして毎朝、彼と一緒の電車で通学し、バイクや車の話をする。だから、二人の間にはそのおかしな勘違いが続いたままとなっていました。

それから一年後の秋、十一月十四日の夜のことです。彼は取りたての免許でドライブ中に運転操作を誤り海へ転落してしまい、あっけなく命を落としてしまいます。きっとそのときもまだ、「どっこいショ」は読まれないまま本棚にそのまま置かれていたと思います。

私は受験生でした。葬儀が終わり、秋が過ぎて時雨の冬がやってきて試験の時期が近づくにつれて、見舞いにもらった本のことも宮崎自身のことも次第に頭の片隅に追いやってしまいました。

受験は失敗でした。故郷を離れて上京し一年間の浪人時代を始める私は、めまぐるしく変化する時間に埋もれて、親友を慕うことや読書のことなどは、あとまわしの生活を送り始めます。

一年が過ぎて大学生になる時期が来ました。新しい下宿に引っ越した日、荷物の山の中から色褪せた「どっこいショ」を発見します。宮崎との思い出を呼び起こし遠藤周作と再び向き合うことになった一瞬でした。「どっこいショ」が私の手元に贈られてから二年と数ヶ月が過ぎていました。

遠藤周作と高二で出会いながら作品に触れるのはこのときが最初です。つまり、私の読書人生はこのときに第一歩を踏み出したことになります。
ちょうど偶然にも一般教養科目で文学を履修します。先生は斎藤末弘さんというかたで、先生のことにはさして興味を抱かずに履修しました。斎藤先生は、キリスト教文学などの作品群をピックアップし、太宰治を始め椎名麟三、遠藤周作の講義をしてくださいました。

「きょう、これから遠藤と一杯飲みに行くんだよ」などと、ちょっと自慢めいた話もしてくれました。
「ホラ吹き遠藤って言われるけど、ほんとうでねぇー」

電気通信工学科でしたので、一般教養の文学は卒業のためのどうでもいい授業で、少なくとも大多数の学生にとっても簡単に単位をもらえるお得な講義でした。

しかし私は、専門の講義をサボることはあっても先生の文学講義は熱心に聴いてしまうようになってゆきます。それは斎藤先生の熱意の溢れる話と椎名麟三や遠藤周作がもたらすテーマに魅力があったからでしょう。文学作品を探して母校周辺の古本屋を散策する習慣もこのころ定着しました。

そのころの遠藤周作には「沈黙」や「イエスの生涯」という代表作があり、「おバカさん」「ユーモア小説集」という馴染みやすい作品も人気でした。
私がこれまで幾度となく読み返し、そのたびごとに涙を誘われる「わたしが・棄てた・女」との出会いもこの時期です。

「なあ、君たち、『棄てる』という漢字はこう書くんだよ。この漢字はなあ、紙くずを丸めて屑籠に棄てるときに使うんだ。」

斎藤先生がそう話していらっしゃるとき、熱烈な遠藤周作ファンになってしまう今の私の姿などは想像もできませんでした。

読書人生を振り返れば「どっこいショ」だけが特別ではない。けれども、見舞いに宮崎がくれた「どっこいショ」の意味が理解できる年齢になって、斎藤先生や遠藤周作との出会いからすべては始まったのだという深い感慨が滾滾と湧いてくるのです。


2006年5月31日 (水曜日) 【深夜の自画像】 | 🔗

成人式のころ (2002年1月中旬号)

成人式のころ

銀マドも2002年に突入です。今年もよろしく。


 

成人式の話題をニュースでやってましたので、ふと思ったことを書きました。

今年も成人式の季節がやってきた。このパティオには成人する人はいないでしょ?結婚する人はいますね。それもこれもひとつの旅立ちといえます。旅立つ時にはきちんと襟を正して心新たに一歩を踏み出すと思います。その一歩が闇の中の一歩であれ晴れ舞台の一歩であれ、心は感動に満ちていることだろうと思うのです。

ところがどうも昨今の成人さんはそうではないらしい。わたし流にひとこと言えば、満たされていて何が有難いのかを見失っているので感動すらできない状態なんです。感動なんてのは与えられたり強制されたりすることは不可能で、自分で出会うものでしょうから、ただただ可哀想にとしか言いようがない。

成人式のころ、私には進級試験がありました。母校の進級制度は割と厳しく、同時入学者の約三分の一から半分ほどの面々が卒業では 顔を合わせられません。その最初の関門が成人式のころにありました。仲の良かった奴らのほとんどが進級しましたが、成人式にも行けずに家で机に向かっていた私は落第でした。「のほほん」と私は生きているようですけど、結構、辛かったなあ。日本育英会の奨学金は留め置きでしたし…。

まあ、1学年下級の人との付き合いをし始めるのは、同期連中が卒業して居なくなってからのことでした。でも、同じ特別研究(いわゆる卒研)のメンバーには私より年齢が大きい人が幾人か居ましたし、落第で落ち込んだ心は卒業のころには消えていましたけどね。それでもやっぱし、成人式に出られなかったのはひとつの痛切な思い出です。

誰にでもきっと、ひとつの節目を二十歳前後で越える時があると思います。それは人それぞれで、年配の皆さんの大部分の方々に心当たりがあるのではないでしょうか。晴れ着を着ることや式典に参加するのが大事ではなく、そういう節目を体の中にきちんと刻んで生きてきているか、ということが大事でしょう。

何不自由なく大きくなってしまったら「年輪」も「節」もないただの木になってしまう。

【銀マド:塵埃秘帖】


2002年1月15日 (火曜日) 【随想帖 秘】 | 🔗

2014年:10月。晩秋の台風19号情報を見ながら考える

10月。晩秋の台風19号情報を見ながら考える


干し柿

ちょうど今の季節に書いた昔の日記を読み返すと
不思議にもあれやこれやと鮮明にものごとが蘇ってくる。

昔の話といえば一気に時代を50年ジャンプすると

ちょうど、東京オリンピックのときの映像をTVが盛んに流していたので、毎度のことながら思い出すことをメモ書きしておく。

新幹線が開通して新大阪と東京を結んだ初列車の運転席にNHKがカメラを載せて3時間生中継をした。

とまあ、信じられないような話だが、あの時代はそれが凄いニュースだった。
でも、たかが50年じゃないか、されど50年ともいう。

赤電話の話で、先日なるほどと思ったこともあった。

知らないという人の年齢層が思っていたより高かったので驚いている。
(35歳くらいの子に聞くと知らないと言っていたのだ)
赤電話を見ながら様々なことが浮かんでくる。

当然ムスメも知らなかったわけであるから、その頃のことを伝えておかねばという気持ちが出てくる。

当たり前のように携帯して持ち歩いている電話である。生活文化や暮らしのスタイルを知る意味でも聞きたくもない歴史に少し耳を貸していただき、是非とも過去に興味を持って知っておいて欲しいことが幾つかある。

昭和50年ころ、東京で学生暮らしをしていたあのころは、郷里と電話で話をしたければ、公衆電話に出かけて行って10円玉を5秒おきくらいに投入しながら話した。

(公衆電話そのものが今では見かけることが少なくなった)今では街角から姿を消してしまった赤電話だが、あのときの電話がその赤電話であった。そしてその電話が設置されていた路地の一角は、たばこ屋であった。これも今では姿を消してコンビニになっていることが多い。

貧しかった下宿生は誰もが10円を40個も50個もポケットに入れて電話をする。それでも足りないときは下宿のおばさんの家に電話をかけさせて取り次いでもらった。(でも金持ちの子でも電話を持っている子は少なかったと思う)

時代は少しずつ変化してゆく。

公衆電話BOXの一般化が進み、街角で容易に電話をかけられる時代が来る。
(10円玉の時代が長かったが)コレクトコールや100番通知を利用するいっときを経て、100円硬貨が使える電話が登場し、すぐにテレホンカードが使えるようになる。

このころは下宿生でも部屋に電話を引いている子が増えていた。

しかし、わたしは手紙を書いた。電話はカチャンという硬貨の落ちる音の哀愁のあとに淋しさが残り、言葉は消えてしまうからだったのだろう。

古里の友だちや、会いたくても会えない友だちと交わす手紙は1週間に何通も届いた。

まだまだ手紙の時代で、わたしは下宿を引き払ったときにダンポールに幾箱にもなる手紙の束を残していた。

赤電話はやがて街角から消えて、コードのない電話が常識化され、その電話が個人のための携帯電話へと変化してゆく。

Akadenwa


2014年10月11日 (土曜日) 【随想帖 II】 | 

スズムシや親父なきとて今も啼く

スズムシや親父なきとて今も啼く


◇ スズムシや親父なきとて今も啼く ねこ作。

秋になると実家の庭では鈴虫がなく。静かにふけゆく夜に透き通るようなその声は悲しく響く。

父は、幼少時に耳を患ったこともあってかなりの難聴だったが、スズムシが啼く風流をとても好んだ。耳を澄まして聴いていた姿が思い浮かぶ。

お風呂の追い焚きをするために焚き口に行き薪を放り込みながら、「湯かげんはどうやぁ?」と尋ねてもまったく返事がないこともあったし、逆に、風呂から遠く離れた台所の片隅で何かを大声で誰かが話しても、風呂の中から「ええかげんやでぇー」と返事をしていることがあった。

世界の中のあらゆる音が、私の半分にも満たないほどしか聞こえていなかったであろうに、虫の声や風の音を、繊細に感じ取ろうとしていたのだろう。それが磨かれたものであったのか、不可欠な感性だったのかは不明のままだ。

子どものころの我が家は、田舎づくりの旧家屋だったので、じめっとした裏庭は苔がむして、鈴虫の他にカエルやヘビも居たしウシガエルも啼いた。懐かしいことが次々と思い起こされてくる。

いや・・・・スズムシが啼いているのを耳にしたので、親父がそこに居て耳を澄ましていた風景を思い出しただけである。
「おい、コタツを出そうか」と言うているような気がしただけである。


2006年10月21日 (土曜日) 【雷山無言I】十七音 のおと【銀マド・名作選】 | 🔗

ビール2本 - 能生館の思い出

ビール2本 - 能生館の思い出


下宿に商学部の黒金先輩という人がいた。

黒金さんは米沢興譲館出身で、浪人時代を仙台で過ごしており、そのときの仲間で「北山会」というのを作っていた。その会に萩山寮時代の島田くんがいて「黒金とういうのが下宿しているから君に勧めるよ」と紹介してくれたのが能生館であった。

島田は、飯坂温泉の電気屋の息子なんだが、弟に島田ラジオ店を任せて仙台で2浪、萩山で1浪、そしてわたしが1年の時にも1浪して、合計4浪で文学部に入った。

島田くんの世話になったときには、この二人がお酒大好き仲間だと気づかなかった。

あの頃(1977年)、ビールは195円ほどで、黒金先輩は毎晩ビールを飲んだ。
学校から帰ってくるときに江古田の駅前にある十一屋でビールを2本買って帰る。
下宿の廊下をカランカランと音を立てて部屋に滑り込んでゆく。

このころは風呂屋が150円ほど、駅前のメシ屋でラーメンを食うと300円以内だった。

わたしも黒金先輩の真似をしてビールを2本毎日飲むようになった。

だが、先輩は勉強家でビールを飲みながらではあるものの大学生とは思えないほど日常の時間を勉強に費やしていた人で、のちに山形の銀行に就職し、随分と偉くなったと聞いている。(休日は「なべの会」で奥武蔵や秩父の山を駆けずり回っていた)

真似をしなくてもいいところばかりを真似したアホなやつだったのだ、わたしは。


2015年12月 2日 (水曜日) 【深夜の自画像】 | 🔗

南国屋さん (@江古田)

【銀マド】 深夜の自画像 のカテゴリーから


南国屋さん

▼正月の肉ためたまま一月尽

1月も早いもので、もう25日を回ってしまった。
寒い夜を迎えるとまた昔の下宿を思い出してしまう。 (江古田(1)に書いた)

四畳半裸電球の下宿の部屋で
窓を開けると路地の向こうの同じボロ下宿に
年の似た女の子がいて、結構青春ドラマみたいに、
窓を開けるたびに顔を合わせた。私のことなど意識せず
裸で平気で、気にせず歩きまわったりして、
気さくなお隣さんだった。

その部屋は、南国屋さんという食堂の二階だった。
でも、彼女の名前は、吉川くんではなかったが。

ほかでも書いたが(※江古田(1)でも触れていたが)、

猫をたくさん飼っているおばあちゃんが食堂を経営している。
普通の民家に暖簾を出すだけで、
南国屋と書いてなければ、雑貨屋でも散髪屋でもおかしくない。

ガラガラと戸を開けて入る。
猫が出入りするので、少し開いていることが多かったかもしれない。
なかは土間である。

もうそんな下宿屋は都会にはないだろうな。

2012年1月28日 (土曜日) 【銀マド】 深夜の自画像 | 🔗


南国屋さん(その2)

蒸し暑い夜は昔(その1)の 下宿屋のことを思い出す。

向かいの下宿屋は、ぼろぼろの家で一階が食堂だった。

「南国屋」さんと隣近所の人は呼んだのだが、看板が出ているわけではなく、営業しているときでもその暖簾では食堂として営業しているようには見えなかった。だから、お客が入っていくところも入っている姿も見たことはなかった。二階の下宿へはどうやら食堂の戸をがらがらと開けて入るらしいのだが、夜中に帰ってきたときはどうしているのかはわからなかった。そうそう、寅さんの映画に出てくるような雰囲気に近いのかもしれない。

こちらの部屋と向かいの部屋は一間余りの狭い露地を隔てているだけだったので、向かいの下宿屋には跳べば移れそうな感じがした。窓を開けると向こうの部屋の中がよく見えた。

おそらく真正面の窓から見えている部屋と他には小さな押し入れがあるくらいだっただろう。この部屋とさほど変わらなかったに違いないが、この部屋は貧乏な大学生が住んでいる賄い付きの下宿屋で、向かいは一人で暮らす若い女の子が住んでいる小さなキッチンのある部屋だった。

その女の子はたぶん学生ではなかったにちがいない。

こちらから、窓辺に座ってちらちらとみながらいつも想像をしていた。

向こうの部屋にはカーテンなどなく、磨りガラスの窓が1枚の構造であった。だから、彼女はたいてい窓を開けっ放しで暮らしていた。ご飯を食べるときも、テレビを見るときも、寝るときも、着替えるときも。

こっちの部屋から見えていることは充分にわかってる筈だし、若い大学生の男子がいることも気づいていただろう。けれども、この部屋からしか見えないという理由なのか、その気がないのか、いつもこちらを意識している様子はなかった。

洗濯物も恥ずかしくないのだろうか、平気で窓際に干していた。

挑発的であったというわけでもない。存在を意識していないのだ。

こっちの部屋の住人にしたら刺激的なことが次々と起こることもあったが、やがて慣れていってしまう。

下着姿でうろうろしようが、着替えをしようが、ほぼ裸で寝転んでテレビを見ていようが、慣れてしまって平気になってゆく。

と、そうは言いながらも彼女がどんな女性なのか気にかかって仕方ない時期があった。

南国屋さんは猫を7匹くらい飼っていた。

店主であり下宿屋の主人だったおばさんは、その7匹の猫ちゃんを大切にしているのだが、機嫌を損なうと箒で追いかけまわすという、漫画のような人だった。

ぼくはその主人であるおばさんの顔も下宿人だった女の子の顔も、2年近くもの長い間住みながら知らないまま暮らしたのだった。

パンツを見れば誰かわかっただろうというおかしな自信がある。

—-

(その1)南国屋さん  2012年1月28日 (土曜日)  【銀マド】 深夜の自画像

2017年8月31日 (木曜日) 増殖する(秘)伝 | 🔗


夏休み

小さい頃の子どものお勤めといえば、お風呂の薪を焚きつけてお風呂を沸かすこと、縁側の前から家の周辺をぐるりと掃いて回ること、夕飯のお茶碗を飯台に並べること、ニワトリに餌をやること、などがあった。

他にはその日その日によって前の畑に茄子をもぎに行ったり、ニワトリ小屋に卵を取りに行ったりした。振り子のついた柱時計もあったので、こいつのネジを巻くのも仕事だったような気もするが、これはあとからそういう風景を思い出して記憶がすり変わってしまったのだろう。

子どもの私には柱時計には手が届かなかったはずだ。踏み台を置いても届かなかったはずで、毎日、たぶん、父が蝶々の形をしたネジ回し器でネジを巻いていた後ろ姿を見上げていたから、いつからか自分がやっていたような記憶に成り済ましてしまったのだろう。蝉といえばアブラゼミで、クマゼミの声はあまり聞かなかった。

友達と山へ遊びにでかけてもクマゼミを見つけると蝉の王様をつかまえたような気分だった。

私は蝉を捕ってそんなに喜ばなかった。

捕獲したところで何になるのだ、みたいな気分があったのだろう。

そのへんにたくさん散らばって鳴いているものを無理に捕ってしまう必要もないだろう、と考えていたのだろう。昆虫採集などをして整理して夏休みの宿題を完成したことなどは一度もなかった。

近所には1m程度の深さの川があって、泳ぐには最適の淵もいくつもあった。

遊泳場になっているので、午後になると保護者付きで子どもたちはそこで泳ぐのが日課だった。プールというものはこの地域には全くなかったし不要だった。

しかし、そこでも私はあまり泳いで遊んだ記憶はなく、魚釣りに行くわけでもなく、何をしていたのだろう、山の中に入って行って駆けずり回っていたような気もする。

—-

2011年8月21日 (日曜日) 【銀マド】 深夜の自画像 | 🔗

少年ジェット 〔2002年5月下旬号〕

少年ジェット 〔2002年5月下旬号〕


02/05/28

▼私らは、いや、少なくとも私は、という話で恐縮ですが、わかる方々も何名かあると思います。

▼保育園から小学校低学年くらいのころ、遊び仲間とお外で遊ぶときには必ずと言っていいほど鯨尺の「さし」(ものさし)を背中に差し二丁拳銃を腰にぶら下げて、大きな風呂敷きを首から背中になびかせて駆け回ったものだった。

▼「うーやーたー」と叫んで塀から飛び降りている自分の姿が手にとるように想像できてしまう。煙を撒き散らしフルカウルのオートバイ(スクーターだろう)で悪を追うのだ。

▼少年ジェットのマネである。でも、どうしてマントを巻いているのかということは、はっきりしない。ちょうどこの頃のTVでは、月光仮面も登場する。こちらも正義の味方で、マントをひるがえして走り去る。

▼そんな子どもの頃の影響が相当に強烈に焼きついているのだろう。高校に行き始めて駅まで6キロの道のりをバイクで通い始めたときに、学生服の上から着ていたジャケットの前のファスナーを閉めずに、あたかもマントのようになびかせて走った記憶がある。(わかるかな?この雰囲気…)

▼正義の味方がいつの間にか不良のイメージに変わってしまっていたオートバイという乗り物であるが、5月から6月というすがすがしい季節に、薫風を受けて快適に飛ばしていると、なんだか正義の味方になったような気分になれそうですよね。まあ、単純な私だけのことかもしれないが…。

▼週の後半に天気が崩れて、週末から明けにかけては晴れそうですね。安曇野パストラルYHに行きたいよー。誰か引っ張ってくれー。

勇気だ 力だ
誰にも負けない この意気だ
白いマフラーは正義のしるし
その名はジェット 少年ジェット
進めジェット 少年ジェット
J・E・T

▼この歌詞を見ながらちゃんと歌えた人には百点差し上げます。

2009年3月 8日 (日曜日) 【随想帖 秘】 | 🔗

日記伝(カテゴリ)を作ってみました

(号外)

どんなカテゴリ名称がええのか考え中ですが

■■

 自分史とはなにか。最初の講座で、真知子さんは言った。「お魚が美味しい干物になる前の、元気に大海原を泳いでいた頃のお話です」 「皆さんが泳いできた海の広さや、深さ、海の色の青さや、海から見上げた空のまぶしさを、ぜひ教えてください。自分史とは長い自己紹介ではありません。自分の出会った人たちや、自分の生きてきた時間の素晴らしさの物語なんです」


(ひこばえ):457 重松清 終章 きらきら星  (朝日:

■■

「出会った人に語られる人生が、その人のほんとうの人生かもしれませんよね」――弁解交じりの屁理屈とは思いながらも、「だって、人間って、誰かと出会うために生きてるわけじゃないですか」と言葉を重ねられると、屁理屈が二乗されて、あんがいと説得力を持つものなのだ。 「出会うために生きてるって、別れるために出会ってるのと同じなんですかねー」


(ひこばえ):460 重松清 終章 きらきら星 (朝日:

■■

というのを読みながら

むかしブログに書いたことも転載してみたり
新しく日記風に思い出してみてもいいかもしれない

と思い始めたのです

江古田(1)〜(5)


江古田(1) 〔2004年6月中旬号〕


西武池袋線の江古田駅の南口を出てすぐに線路沿いを西に歩く。しばらくすると稲荷神社に突き当たって、そこを通り抜けながら南へ直角に曲がると千川通りという大通りに出る。通り沿いには武蔵大学の塀が延びている。ここをひと区画ほどさらに西にゆくと武蔵大学の正門があって道路が北に向かって延びている、私の下宿は、駅からこのように北斗七星の形のように路地を曲がってゆくとあった。

玄関には「能生館」と書かれていて、スケールは小さいが大正時代の由緒のあるような旅館のような構えだった。どうやら昭和3年に建立されて東京の空襲でも燃えなかった幸運な建築物らしい。下宿屋のおばさんがお父さんに「空襲でも残ったんですものね」と染み染みと話をなさっていたのを耳にしたことがある。

隣に「南国屋」という飯屋があって、暖簾だけがぶら下げてある。暖簾が下駄屋ならば下駄屋らしいし旅館ならそれはそれでもっともらしく見えるという風情の飯屋だった。猫が7匹ほどいて、ばあさんが「ねこちゃーん、ご飯だよ」と夕方になると呼び寄せていたものだ。「さあおいで」と優しく誘いかけていると思えば、なつかない猫たちを「お前たち、どっかに行ってしまいなさい!」と追い払っているところも何度も見た。あの猫たち、料理されはしまいかと心配したものだ。そんなこともあって、ここのばあさんの飯はさすがに食う気になれず、よその店ばかりに行っていたが、一度は食ってみても良かったかもしれない。

南国屋さんは下宿屋も兼ねていて二階に若い女の人がひとり住んでいた。その彼女の部屋が能生館の私の部屋のまん前で、窓をあけるとお互いが部屋の中まで丸見えだった。女性は下着を干すのも平気で、まだ二十歳前の男が向かいに住んでいることを知ってか知らぬのか、あらわにカラフルな洗濯物を窓の手すりの前にいつもぶら下げてた。勉強机に向かってふと窓のほうを見ると風に下着が揺れて、その向こう、つまり部屋の中で女性の姿が動いているのが見えた。しばらくすると会釈くらいは交わすようになったような記憶もあるが、残念ながらそれ以上の知り合いになれたわけではなく、悩ましい衣類や年頃の私が最も好奇心を抱いていた女性という未知なるモノの姿ばかりが瞼に残っているだけである。

下宿屋は、早稲田の学生専用だったが、例外的に一階の玄関脇の広い部屋には武蔵野音大の岡戸さんという女性が住んでいた。毎朝8時になると「あー♪あー♪あー ♪」と発声練習をした。ピアノの練習よりも歌の練習が多かったように記憶する。聞くところでは教育課程が専攻らしい。
あのころは誰もがみんなが可愛く見えたが、女性にはまったく縁がなく、私の部屋に来るのは、もっぱら隣に並ぶ部屋に住む先輩たちだった。

続く

2009年3月 8日 (日曜日) 【深夜の自画像】 | 🔗


江古田(2)〔2004年7月初旬号〕


私がこの下宿に住みこむことになったきっかけは、文学部に進んだ島田君の紹介だった。島田君は仙台市で3年間の浪人生活を経て、4年目の浪人生活を最後と覚悟して東村山へやってきて、私と同じ寮に住むことになった。その1年間の話は長くなるのでまたの機会に譲ることにして・・・。

江古田の下宿には、島田君の仙台時代の親友であった黒金さんという、早稲田大学の商学部にかよう人がいて、島田君の紹介もあるが、私が下宿の新米として入れてもらうときには、この黒金さんの知人の紹介ならOKでしょう、ということで受け入れてもらえた。

家主さんは安藤さんといって、下宿屋の名前は「能生館」といった。おじさんが新潟の出身なんだって聞いてもその頃の私は何も考えておらず、この名前は新潟県の能生町から取ったものだと初めて気付いたのが社会人になって旅の途中に能生を通ったときだった。

安藤さんの家族は、真の親のような気持ちで面倒を見てくださっただけに、私はグウタラ下宿生だったので、おじさんやおばさんに申し訳ないかったなとしきりに反省をしたものだ。

「ねえ、お父さん、東京が焼け野原になってもこの能生館は燃えずに残ったらしいですものね。昭和3年に建ったんだからたいしたものよねぇ」と沁みじみと安藤さんのおばさんが話していたのを憶えている。おばさんは当時、40歳くらいだっただろうか。高校生の男の子と中学の女の子、そして少し歳が離れて小学生の男の子の母で、私たちの下宿人の夕飯も作ってくださる、私たちにとっても母のような人だった。

続く

2009年3月 8日 (日曜日) 【深夜の自画像】 | 🔗


江古田(3) 〔2004年7月中旬号〕


その家族と私たち下宿人は「コ」の字型の棟に同居をしていた。家族の皆さんが2階の向こう側、私たち下宿生がこちら側。家族の部屋の1階部分が食堂と居間で、下宿人の1階は数人の人が寄って何か作業をしている会社の皆さんがいた。「コ」の字の縦の部分の1階は玄関と武蔵野音大の岡戸さんの部屋で、2階は子どもたちの部屋だった。

下宿人の2階は、道路側から辻さん、私、黒金さん、大塚さん、爪生さん、林さんの順だった。黒金さん以外は皆さんが法学部だったので、夜にあれこれと部屋に集まって駄弁るときは勉強させてもらいました。

辻さんと大塚さん、爪生さんは東大法学部を目指していたスゴイ人で、1次試験には現役、浪人、早稲田1年と3度ともパスするが、2次は厳しい壁に阻まれていたらしい。毎日、寝息の聞こえるような間合いで生活するのだから、大体どんな生活かは想像できるのだが、それほどガリガリ勉強する様子でもなく普通に机に向かったり息抜きしたりしていた。なのに1次に通るなんてやっぱしスゴイ。

広大福山高校、山口高校、韮崎高校、米沢興譲館、札幌南高校と、よくもまあこんな名門ばかりをそろえたものだ。そんな連中のなかに飛び込んできた私だが、飛び込むだけで賢くなるならいいけど、やっぱし劣等感から抜け出れない日々でもあった。

続く

2009年3月 8日 (日曜日) 【深夜の自画像】 | 🔗


江古田(4) 〔2004年7月下旬号〕


四畳半という言葉は死語かもしれない。裸電球のぶら下がった部屋だった。戸板を開けて部屋に入る。もちろん鍵などは無い。廊下沿いに窓があって、その反対側に1メートルほどの小さな窓が、道路に面してあるだけで、タダの四畳半に押入れがあるだけの部屋だった。

廊下を人が歩くとペタペタと煩い。しかしスリッパを履かないと靴下が汚れるのである。トイレや洗面所は廊下の突き当たりに1セットあり共同だ。しかし、朝や夕方に混雑した試しもないし、トイレにしても誰かの後で臭い思いをしたこともなかった。というか、そういう思いがあまりにも当たり前で苦にならなかったので記憶に無いのかもしれない。

ある日、友人が私の部屋に遊びに来た。夜遅くまで話していたので、さぞかし騒々しかったに違いないが苦情も無かった。そういう社会なのだ、この下宿は。

話が脱線したので戻します。その友人と向かい合わせで畳に胡坐をかきビールを飲んでいたのだが、その彼がふとしたことでコップを倒してしまった。そのこぼれたビールが彼のいた所から部屋を一直線に縦断して流れたことがあった。

つまり、部屋が大きく傾いているので、コップを倒すと高いところから低いところに向かってビールが一直線に流れたのであった。それほど部屋は傾いていた。

私はそんなオンボロな下宿が好きだった。

続く

2009年3月 8日 (日曜日) 【深夜の自画像】 | 🔗


江古田(5)〔2004年9月初旬号〕


江古田駅の裏で降りて・・・いや待てよ、どっちが裏口なんだろうか。

武蔵野音大側で下りて西に歩いて踏み切りのある大通りも横切って歩いてくると「愛情ラーメン」という飯屋があった。

190円で焼き飯とラーメンが食えたので学食で食う300円ほどする定食より安上がりで重宝した。この頃、同じ駅裏にあった松屋が300円で牛丼を売り出していて、そちらも時々利用したが、値段と満腹度から愛情ラーメンは何度も利用した。

武蔵野音大や日大芸術学部や武蔵大学があったからだろう、駅前には割安感のある飯屋が多かった。天ぷらや焼き魚など、普通の定食屋では味わえないようなモノも置いている飯屋もあった。

華やかではなかったが、江古田が気に入ってゆく理由である。

9月18日(2004年)

2009年3月 8日 (日曜日) 【深夜の自画像】 | 🔗

黄色い麦わら帽子

銀マド>黄色い麦わら帽子

銀のマドラー〔回想篇〕


あれは いつのことだったのか
小麦色の肌の
クラスメイトの女の子と
バスの乗り場で手を振って別れた

夏休みが終わるころ
教室の席がとなりの彼女に
電話を入れた
遊びに行っていいかい?

電車とバスを乗り継いで
灯台のある
小さな漁村に私は着いた
バスの停留所で迎えた彼女は
黄色い麦わら帽子だった

強烈な印象
16才の夏

バス停から灯台まで歩いた
真っ青な海と水平線を見おろした
町の一点を指さし
— 青い屋根が見えるでしょあれが私の家よ
と教えてくれた

真夏の日差しを気にせずに
小さな漁村の狭い路地を
歩き回った帰りに
バス停まで見送ってくれた

それから数年して
彼女に手紙を書いた
名古屋の或る銀行に
彼女は勤めているという
涙が出るほど嬉しかったです
と書いた返事をくれた

東京の下宿に戻る時に
駅で待ち合わせた

でも 彼女は来なかった


別れの風景>夏の終り(黄色い麦わら帽子)99/09/15 22:04

父の日雑感 - 回想篇 その二

父の日

父に感謝を、心をこめて
そんな日なのだろうか

しかしながら
そんな日など
「もういまさらどうでもええわ」
と考える自分がいる


様々な理由がある

もはや 亡き父のことを考えることに意味がない
父が居る日常は当前だったわけで
父にはそれほど世話になっていないしな(←コレはまちがい)
元々は母の日だけやったから
ついでにできた記念日である「父の日」には意味がない

などと考えたりする


 

心の中で父は
遠い人
無口な人
飲めない酒を格好つけて飲む人
飲むことを愉しもうとする人

であったなあと回想しつつ

やはり
今となっては既にこの世にはいない
感謝したくともできない(という諦め)


子どものころの記憶にさかのぼる

楽しく遊んでくれたこと
ときどき理屈を言うて諭されたこと
何事も実践・実行をして手本を見せて説得しようとする姿があって
キャッチボールの相手をしてくれて
一緒に山芋を掘りに山深く歩き回ったことなど

を思い出す


嫌いだと思ったことは一度もなかった
傍に住みたいとも考えなかった
車を飛ばして一時間以内で到達できればそれでよかった


形見は何一つ残さず
思い出は消えてゆくばかりだ


記憶は消滅してゆく
一方で六十歳を回ってから
そんな父に私はとてつもなく似ているのだ
と気づく


だから
忘れてしまってもいいのだ


もっと恩返しをするべきだった

退職100日記念号 どこにも書かないツマラナイことも どこかに書き残しておこうではないか

1 はじめに

平成最後の日記として#パワハラ余録としたメモを貼って残しておいたが、本心を少し補足しておく

何度もしつこいのだが、おとやんが死んでしまったのもおじいさん(わいちさん)が死んでしまったのも七十歳になる前のことだった

わたしの血脈には 丈夫な身体(カラダ)を持ち育む遺伝子など それほど強くないことの証明している

だからといって悲観的にもならないし、現代を生きるわたしが短命と断言もできないだろう

しかしながら あと数年後に急逝となったら 殆どの人たちが「おとやんもおじやんも短命やったから」と精一杯生きたわたしを称えてくれるだろう

「それでいいのだ」と思っている

だから 金がなくとも旅にも出かけるし ツマラナイことも書く

2 パワハラ考

100日前に仕事を辞めた理由はパワハラを受けたのが遠因で体調不良を来たしたことであった

かくも言いながらも自分がパワハラを放つ立場ならば

そんなことで挫けるような奴は何処に行っても使い物にならん もっと工夫をして努力をして仕事を是が非でもやり遂げようとする姿勢が大事なのだ

と豪語して 辞めるヤツなど絶対に許さんぞ と大暴れをするのではないか

それでよろしい
病める(辞める)奴が悪いと思うのだが、しかし・・・である

3 やめて100日後

手の荒れ、頭皮・耳たぶ裏・尾骶骨付近の瘡蓋は血が滲むほど痛々しかったし 不整脈のようなドキドキする胸の鼓動も頻出していたにもかかわらず、100日かかったのであるが、ほぼ元どおりに治ってきたことを考えると、パワハラと断定するかどうかは考察の余地はあるものの、生活環境などの何処か・何かが改善されたことはわかる

ふたたび 社会の波の戻れば 体調に異変がでることも怯えねばならないが、弱い者は生きる資格がないとも言えるのだから 自分を改善して生き抜く対応をしなくてはならないのだ

4 早く仕事にもどろう

仕事をしたいと考えている

100日もぶらぶらしてれば ぼんやりとしてやれることはやり尽くしたやろ とも言えるが、社会のなかで生きてゆかねばならないと思う

鳥は空で。魚は川や海で。ヒトは社会で。

サドンデス妄想をまとめる

その時の妄想が次のものだった


おとうさん死んでしもうたなあ
大事なことは何にも聞いてないなぁ
どうしようか
どこかに何か書き残してないかなあ

金もとうとうよう残さんと逝ってもた
隠し子もないと思うけど
今さらかれこれこの人を惜しむやないけど
こないだから暢気に失業者暮らしを愉しんで
好きなことして
云うて 食べて 飲んで 喋って
まあバチは当たらんやろうに
誰にも憎まれてもおらんやろうし
好かれもしておらんやろうけど
変人と言われ続け 我が道を行ったもんやなあ
ケチで金もよう使わんし儲けん人やったけど
葬式のことやお金のこと
なーんも 聞いとらんあ
どーしよか


🔗 サドンデスを怯える - 裏窓から (4月24日)

🔗 花も散って春眠誘う月の暮れ 穀雨篇 ─ (裏窓から)(4月21日)

サドンデスを怯える - 裏窓から(余録)

1 「囁伝」という分類を作ってみた

先日 死にそうなくらいというと大げさだが
腹の痛みに襲われて眠れない夜を過ごした

2 その時の妄想が次のものだった

🔗 サドンデス妄想をまとめる


3 死んだら何を言われるかわからんから
何かを予想しておかねばならない

何か、「これだけは…」ということを書いておかねばならんのではないか

  • 部屋にある写真はおよそみなさんには面白くないと思いますので捨ててください
  • あれこれと書きなぐったノートも中身を確認する必要はないのでそのまま焼却してください
  • 本などは読みたい人があるかもしれないですし僕がお勧めするものは少しでも多くの人に読んで欲しいので貰い手を探してください
  • 葬式はしなくてかまいませんが、勝手にするのは任せます
  • 墓は日ごろから言うように特別なものはいりませんが、庭にでも作ってはいかがでしょうか
  • あるいは、家の中のどこかに位牌を保管しておけば、将来に引越しするなり捨てるなり自在です

🌱

4 あとがき

こんな詰まらないことしか浮かんでこないわ

続きは明日考えよう


平成31年4月25日(木) 改訂
平成31年4月24日(木) 作成

花も散って春眠誘う月の暮れ 穀雨篇 ─ (裏窓から)


  1. 仕事をやめて三ヶ月が終わろうとしている
  2. 孫っち1号は幼稚園(年少組)に通い始めた
  3. 憩室炎と緊急診断(17日)を受ける
  4. 平成が終わることで大勢が過ぎ去る時代を惜しんでいる


早いもので三ヶ月がすぎるのだ。毎朝僕の顔を見ながら「仕事をしないで家におるとほんまに元気で楽しそうやなあ」と言ってくれる

そんなに仕事をするのが嫌なのだろうか。はたまた何もしないで家で自由にしていることは歓びと愉しみに満ちているのだろうか

生活資金がないことの想像は容易い。この状態が続けば半年で干上がってしまうことは間違いがない。しかし、こうなったらやけっぱちだと思ってみたりしている。

父や祖父がなくなったのが六十六、七歳の頃であったし、親戚中を見回しても長生きの男性は見つからないことから、持って生まれたカラダの弱さは受け継いでいるだろう。それほど長く生きないのならそれに合わせて目標設定をしなくてはならない。

六月から仕事が見つかればいいなと思うことにして、GW明けに二人で旅をしてくるか・・・などという話も出ている。そんな旅は万一長生きしてしまったら、何度行ってもいいじゃないか。


孫っちは喜んで園児バスに乗って行くそうです
母は(ムスメは)二十分ほどのところにある園児バス乗り場まで
車で車でやって来るのですが、それが大変ではないかと思ったのは
入園式までで、通い始めたら何ところない、孫っち2号と買い物に出かけたりして
動きも孫っちを二人連れて歩き回るより軽やからしい

ただ、孫っち1号のお弁当を作るのはまだまだ大変そうです
おしっこもまだ三才になりたてですから心配なようです


憩室があることは十年ほど昔に大腸カメラでの検査で気づいていました
いつ暴れるか心配があったけど、普段からそれほど気にかけていませんでした

17日の夜です。15日に大腸カメラ検査を一年半ぶりくらいにしまして
気持ちよく食事をできる日が戻りつつあったのですが

夜中から痛み始めました。憩室の炎症とは考えませんでした
何か他の内臓が日常の不摂生で傷んでいる警告ではないかと考えたのです

先生はすぐに血液検査と超音波診断をして憩室炎と判断し三十分ほどの点滴をして、僕に絶食と安静を言いました

痛みが襲っている夜通しには一時間おきくらいに目が覚めて眠れなくなり、トイレに行きます。何度も寝返りを打って痛いところを指でさすってみたり軽く押してみたりして夜明けを待ちました

このまま死んでしまったらどうなるんやろうか。そんなことを考えた

🔗 サドンデス妄想をまとめる

そんなお悔やみが聞こえてくるような
朦朧とした夜を過ごしたのだった


平成が終わるのをここぞとばかりにみんなが惜しんでいる
アホどもが溢れている

何を今更 そんなことを回想して
金でも儲けようという魂胆でもあるんかい

何も良くなかった一つの時代、本当は最低やった時代を
「如何にもだった」と云いたいような回想をして
それを今となっては許してしまっているのか
大バカ総理に誤魔化されて騙されているのか

考えると腹が立ってくるけど、皆さんはいかがお考えか

平成をふりかえる・その2 (裏窓から)

🔗 平成をふりかえる、その1 清明篇 (裏窓から)
前篇(その1)ではリストラが始まったという話のところまで書きましたので、その続篇です

  • 平成14年に退職(2002年)
  • 平成15年に再就職(2003年)

1 体裁よくクビを切った

体裁のいいクビ切り(リエンジニアリング)は三万人を超える大規模なものだった。同じように机を並べて仕事をしていた阪大や早稲田大出身の人たちも背中を叩かれた。クビなのか嫌気がさしたのか、外観からは判別できない形の水面下の圧力が働いて職を去った。秀逸な人材の四割は嫌気でやめたのではないだろうか

2 判断ミスはなかった

それでよかったと思う。パーな会社に相応しくないと会社が判断し、こちらもそれ以上付き合いをすると価値観の食い違いが発生する。痕には簡単に片付けられない歪みを生じるのも明らかであっただろう。退く選択に判断ミスはなかったと讃えたい

3 貧乏に

退職金は多分全員に約束通り払われたのだろう。その職と縁を切って、あと二十年近く追い続けねばならないはずだった家のローンが消えて、そしてどん底の貧乏になった

4 育英会

子どもは私立中学校を卒業するときで、その後は継続して高校に通わねばならなかった。実際に私立大学へと進学し、日本育英会の奨学金に七年間世話になる

5 借金の返還

二十二歳の卒業時には総額で約四百五十万円の借金が育英会にできた。その借金は就職後に祖父に世話になりながら返還している。親は全く面目が立たず情けない限りだ


6 リストラ劇の報道はもみ消された

パーな会社を辞めるにあたってはそのときの自分としては最大限で考え悩んだ。立ちはだかる障壁のエネルギーは人それぞれ受け取り方が違ってくる。組織の変動が起こすマグニチュードは同じでも精神的に弱い人間であれば十分に自殺や精神障害に追い込まれたりするはずだ

詰まるところ、もうだめだという判断は他人がとやかく言えるものではなく本人が最も苦しいことになる。自殺をして生命保険を受け取り家族のためにと考えて自ら死んでいった人はさほどニュースにならなかったものの、きちんと調べれば驚く数字があったことは間違いない

数字に仲間入りしたくないと考えた人もあろうし、そそくさと投げた人もあろう、若者であれば愚れて不良仲間に入ることもあるかもしれない。それさえもできないでいた人はどうなったのであろうか

7 或る部長の言葉

パーのある部長が言った言葉がいかにもで、その内容は今になっても忘れられない

「仕事をやめてくれとはっきりは言わない、やめてほしいと雰囲気を伝えている、(会社は)無理矢理でもやめてもらうようにするだろう、例え家族で無理心中を図り明日そこらの海岸で死体が上がろうがパーの人事はそんなアホではないから負けない、どんなことを叫んでも会社の担当法律部門が勝つだろう、無理矢理やめさせられたとなんぼ叫んでも無駄だろう、会社の正当性が負けることはない、そのために法務の部門があるのだ、反発してもあかんのだ、辞めてしまいな」

そんな内容を淡々と喋った。あんな奴は地獄に行けばいいとあのときは思ったのだが、あの人も雇われの身なのだからいつか報いがあるのだろう、必殺仕置人というテレビ番組が人気である間は神様か仏様も裏切ることはなかろう、悪い奴が裁かれてほしいものだ、と仲間同士で悔しがった話も耳にする

8 卑劣で愚かなものには神の裁きをと願った人が多かった

振り返れば、京都のオ社に勤めてから大阪のパーな会社に移籍して学んだことは多かった。会社にはいい会社とよくない会社があり、世間の評判や巷に出回る情報の数字や尺度でその良し悪しを決めてはならない。松下幸之助は立派な人だったと思うものの、後継者たちに立派さは何一つ引き継がれなかった。京都のオ社は立石一真会長がなくなってもなお企業理念や社風は引き継いだ良い会社だったことを考えると見かけが大違いなことは誰も知らない。(しかし、オ社のさらにその後のことは不明である)企業はその組織人を本当に大切にしているとは言い難い。大切にしてくれる会社を探すのは一般通念を捨てるところから始めねばならない


9 教訓を得て他は切り捨てよう

会社で出世し高給をもらって優雅な暮らしを目指すという夢のようなことを考えた時期があった。それは間違っていると考えを改め、方向転換をすることにした。独立をして小さくとも企業経営者になって金持ちになるのだという成功物語も溢れているころだったが、自分に合う道を冷静に探すことにし、昭和から平成前半への二十年は教訓を残し他は忘れて切り捨てる

10 迷いは果てしなく

昭和から平成の前半に勤めてみて、およそそんなことを身体・心で感じたのだから、会社人間に戻ることはもう考えていなかった。

しかし、暮らしは逼迫してくるのも現実だ。仕事を如何にするかと悩み、迷い続ける。迷路は相当に手強かった


続きを書くと思います

ぶるっと一回ふるえて冬を思い出す 寒露篇 (裏窓から)

10月8日は寒露だった

少しずつ夏の暑さを忘れ去っていく

冬の寒さが忍び寄る
ぶるっと一回ふるえて冬を思い出す

このごろ

滾る 漲る 迸る

という言葉を考えている日々が続く

🌱

サドンデス(sudden death)という言葉が
じわりじわりと迫って来る

けれどもそれほどの恐怖感はない

恐れているわけではない
しかし
覚悟ができているわけでもない

🌱

礼を欠いたままの恩人がたくさんある
私の人生の舵を切ってくれた人もある

音信の途絶えた人もあれば
先に逝ってしまった人もいる

💦

やり残した・・・感も少しある

平成をふりかえる、その1 清明篇 (裏窓から)

1 はじめに

平成をふりかえって考えている

平成元年は1989年1月8日から始まり2019年(平成31年)4月いっぱいで終わる

わたしが就職をしたのが1982年(昭和57年)4月のことで
7年間社会人をほぼやり遂げる直前に平成となった

そしてその年の秋に転職をする
平成に移行する新年から夏にかけては
新しいステージへの準備で燃えていた時期だった

🌱

2 明るい期待の平成

平成には明るい未来の期待があった
しかし実際はどん底へと落下する時代になった

個人の能力で技術者は転職をし生活を安定させて給料を増やした
人によっては独立をして事業を始めた
実力主義というカラーを前面に表す会社がそこらじゅうにあふれた
年功序列や日本的労働の悪習慣を非難してゆく
いかにも新しくこれからの社会を提案しているようだった

3 リストラの激震

その論理のどこのどの部分に起爆剤があったのかは今だに明言はできないままだが
リエンジニアリングからリストラへと実質上の社会は大きく崩れた
紳士を装っていた会社がたちまちのうちになりふりかまわず腐りかけた企業の体質を切り捨て始めた
その姿は観点によっては正しいものの、今までの軌道からは大きく外れていたのは間違いないだろう

わたしがいたパーな会社も10万人ほどの社員から4万人近くを整理した
大切な身を切った面もある
正当な企業改革・立て直しとしているが、実際にはえげつないものだった
高度な学識の持ち主で有能な人たちも人員整理の波に乗ってスピンアウトしてゆく

4 退職金のにまつわる話

五倍の退職金をもらったという
勤続二十数年という四十過ぎのおばちゃんらは四千万円とかいう噂もある
この地の事業場にいた百人や二百人だけではなかっただろうから
相当な額にのぼったと推測できるが、細かいことを考えるのも嫌になるので大体のすごさを想像して驚いておこう

真面目にコツコツと(大卒後)四十年近く働いても三千万円程度と想像できる時代
おばちゃんたちはほんまなら八百万ほどであったかもしれないところを五倍と示されたのだから
五倍をもらった工場のおばちゃんたちは幸運だった

大リストラ(人員整理)の半年ほど後に
街の大きなショッピングセンターでばったり顔を合わせて話をした
海外旅行に何回か行ったし
娘は大学を卒業して社会人になっているし
もう仕事を探して戻るつもりもないといって笑っていた

🌱

5 未来の予兆

平成の三十年間の前半
それは 未来を予兆するものであったはずだが
愚かにもそんなことには気づかないままで過ぎゆく

(続くかも)


散らかっている本棚を見つめている平成最後の春 啓蟄篇 (裏窓から)

断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている

啓蟄


4日の午後に少し時間ができたので本棚を整理する凄まじい作業をした

じっと棚を眺めてぼんやりしながら断捨離という言葉を考えていて、片付けを思いついたのだった

ふと目をやって手を伸ばした段が不運の棚だった

そこには、学生時代の日記や論文、ノートなどがびっしりと詰まっていた

万年筆で隙間なく書き込みをしたレポート用紙が綴じることなくバラバラのままで封筒に突っ込んである一方でまだ切りはずさないままで書き始めた原稿のような(下書きのような)ページもたくさん残っている

どさりと机の上に積み上げて、封筒から一掴みを取り出してみると、想定しなかった内容で、またまた驚きに襲われる

つまり、それは青春の足跡のようなもので、ちょっとセンチなものだった

確かにオモテ面には論文の原稿が書いてあったり、また、ルーズリーフの左半分には作図や考察が小さな文字で記入してあるのだが、本論とは別に本論にも劣らないほど膨大なメモが枠外から裏面へと行間を埋めるようにびっしりと残っているのだ

しかもその内容が恐るべきもので、読み始めると恐ろし過ぎて最後まで読破するのを途中放棄してしまうのです・・・

おしなべて言えば、要するに、日記や書きかけの手紙、手記風のドラマやフィクション、詩文、妄想中の思いつく言葉たち、何か意味不明のイラストなど、とても多様なものだったのです

中には、今となっては思い出せない人の名前宛てに手紙を書き始めてあったり、それが途中で途切れて放置されていたりする

当時結婚してほしいと詰め寄った女性(実は憧れた人が二人いたのだが)に宛てた手紙の原稿もあったし、またそれらの没稿らしきものもある

田舎の父母宛に書いた近況報告・落第宣告の報告や(その報告のボツ原稿や)、生まれ故郷の旧友であり初恋に限りなく近いある女性宛ての手紙など

もしも僕が著名人であれば莫大なお宝になろうなあと感心する

最初の二、三行を読むと、キザで幼稚で未熟で甘ったれていて、意味不明も多く、独善的で、褒めるところは何もない

何が辛くて読めないのかを自問自答し考えながら中断するタイミングを計っている

もう今となってはそんな過去の『深夜の自画像』のようなメモが蘇ってきたところで、何が復活するのだ(復活するものがあったとしてもそれは儚いものなのだ)・・・と思ったのだろう

「よくこんなことを毎夜毎夜書いたものだ」とほとほと呆れるのだった

しかし、心の片隅ではなんて可愛いやつなんだともちょっとは思うが・・・

思い切ってシュレッダーに突っ込んで、ゴミ袋(大)が満杯になった

もし僕が死んだ時にこの紙切れを誰かが発見していたら、恥ずかしいのだけれど、それとは別に「コイツ勉強もせんと何をやっとんや」と叱る人がいるかも

「いやいや、待てよ、もはや僕のことを叱る人などどこにもいないのではないか、叱られることもなく好き勝手に生きて来て、これを読んだ人がいるならばただただ呆れるだけだろう、名文でもないし、誰にも話さなかったことばかりが綴ってあるのだから」

そんなふうに独り言を呟いていた

シュレッダーに突っ込んだ資料の束の中に「大久保典子」さんという人があって、その人の名前をどうしても思い出せないというヒヤリとする発見もあった

手紙をじっくりと読まずに慌てて裁断(シュレッダーに)してしまったので、今となってはどなたなのかさえ迷宮である

もしかしたら、手紙を読み返せばあの頃の何かを思い出せたのかもしれないのだが・・・と考えてもみるものの、思い出したところで何も始まらないこともわかっている

いつものように、夜な夜な夢に出てくるかもしれないけれど、その際も何処のどんな人なのかはギリギリの線で不明のまま消えるのだろう

ちょっとモヤっと、ちょっとドキドキ、青春とはそんなもんや

そういうわけで、新しいときめきを探した方が賢明と思う

断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている


断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている

断捨離断捨離

 

サドンデス(sudden death) 寒露篇 裏窓から

秋分から神無月を迎える時期に色々と思っている

其の一つに

🌱 サドンデス(sudden death)

これはジョーダンで語れるものではない時期に差し掛かってきた

祖父も父も六十五歳と六十六歳でこの世を去った

叔父もまだまだこれからというときに病で倒れて再起を図る前に逝ってしまう

顔がそっくりなように性格もよく似ていた

似ていることに薄々は気づいて大人になってゆくのだが
父が死んでからそのそっくりなことを確信する

たった十八年間しか同じ屋根の下では暮らさなかったのだし
とりわけ突っ込んだ対話をしたわけでもない

いわゆる親子で飲むことを愉しんだことも数えるほどだった

だが確実に似ていることを確信する

何故に似なくてはならないのか
同じ血脈であるのだからだ

だから身体の弱さもよてもよく似ている

ヒトは万能のように見える科学が支配する時代になっても
天地人のさらに向こうにいる神が与えた滾るものを簡単には変えることなどできない

やがて確実に来る サドンデス(sudden death)

待ち遠しいようで
怖いもの見たさで待ちわびるようであるものの決して歓迎はできない

負けないようにしておくつもりでいるが
勝てないだろうと思う、血脈には

何を受け継ぐべきなのか - 処暑篇 (裏窓から )

語らなければ何処にも記録されなかった話

🌱

私が生まれる何年か前に私には姉があった
そのことを母が話し始めたのだ

お盆の静かな午後のひととき
危険な暑さと報道や気象予報が
やかましく報じているけれども
部屋はクーラーを入れて快適にしている

八十七年あまりを生きてきたうちで
夏の暑い一日のいくらかを
クーラーが効いた部屋で過ごしたことなど
恐らくなかったに違いなく

こうして語ることも
時間を過ごすことも
歴史上で
とてもかけがえのない時間であった

貴重な宝のようなときが時々刻々と流れていった
そこで起こっていることを冷静に考えれば考えるほどに
残り時間が幾ばくかしか残されていないことを思う

しかし
残念にも思わない
悔みもしない
怒りも憤りも湧かない
もうどうだっていいのだ
感情や感動はそのうち尽きるのだ

そこにある一つの出来事を
ひとつのモノとして私は話に耳を傾けている

🌱

姉は生まれて一年ほどで亡くなった
今の時代ならば間違いなく生きていたのだが
栄養のあるものを食べされることもできず
病気になっても治療もできず
誰もが死なせてはいけないという行動も取らず
そんな心も 必要以上に持たないし見せもしない

とびきり貧しかったわけでもなかったが
この家系の家族がフルセットで同じ屋根の下に
暮らしているのだからというのも遠因ではあろう

父には弟が二人、妹が一人、姉が一人いる
これで五人
父(私の祖父)がいてその人の妻(祖母)がいる
さらにもうひとつ上のばあさん(曽祖母)が寝たきりでいた
それで三人が追加となる

母を入れると九人が暮らしていたわけで
しばらくして、義姉がお嫁に行く
そこで子どもができて
一人目の子を死産させて
二人目の子の時にお腹が大きくなって帰省する

秋に生まれるというので夏ころから
家に居座ったそうである

それが私の姉の誕生の時期と同じであったのだ
(母も同様に同時期に第一子を流産していた)

母の話の大事なところはこの先だ

🌱

「ねえさんは大事にしてもらっていた」

母はそう話してくれる
もちろん姉さんはそんな優遇のことは考えたこともないし
今でも知らないままだ(姉さん=私の伯母さん)

妹が家事や食事を取り仕切り(妹=私の叔母さん)
姉の食べものは最大限に手厚くしていた
(もちろん自分も都合よくしていた)
弟たちにも心配りをして食べさせた(弟=私の叔父さん)
高校生だったからたくさん食べたという

母は農作業にも出た

夏から秋にかけては農家の一番大切な時だ
お腹が大きくて赤ん坊が今にも生まれそうでも田んぼに出たし
生まれてからも娘をほっておいて仕事をさせられたという

「ねえさんは暖かい縁側で大事にしてもろて本読んだりしてたわ」

テレビドラマの残酷な話そのもだが
まさにそんな状態が
子どもが生まれるまでから
生まれてのちも一年間続いたのちに
私の姉は肺炎で亡くなったのだ

帰省して手厚く迎えてもらっているねえさんは一人目を死産
私の母は同時期に流産をしての二人目だったのだが
今では信じられないような差別的な暮らしだった

🌱

母は怒りも見せず
悲しそうな顔もせず
淡々と振り返りながら
あのころを話す

言い終わっておかなければ死ねないとでも考えたのか
いつまでも自分の中に置いておいても仕方がない
と考えたのか

その話を聞くと
母が言い終わってそれで尽きて
死んでしまうのではないか
とさえ思えてくる

処暑
処暑

父が亡くなって二十年以上が過ぎる
一人で二十年は長いと思う

わたしのツマは
姑が二段構えで生きていて
おまけに夫の兄弟妹まで住んでいて
さらに私の父は小さい時に耳の治療を怠って
耳がほとんど聞こえなかったという苦を患っていて
そんな苦とともに四十数年一緒に生きてきたのだから

のちの二十年の間に
孫にもひ孫にも恵まれて
のんびりと農作業を愉しむように暮らしてきたのだから
それはそれで幸せであったのだろう

今さら怒りを思い出したくもないのではないか

父が亡くなって十七年ほど後に
生前に植えた杏子の木が真っ赤な実をつけた

私はとても嬉しくて
ブログなどにも書いたけど
母は淡々と
今年は成らんだなあ
と言ってお終いだった

このマイペースの幸せがとても大事なんだろう
そのときはコロリと逝けるようにと切実に祈っている

はや夏がすぎようとして手さぐりで  立秋篇 (裏窓から)

結論から書かねば成らない

🌱

そんなメモが見つかった

🌱

  1. まずまずの人生であったと思って満足している
    周りは不満だと思っているだろうが
    人間なんてのは勝手なものだから仕方ない
    許してやってくれ
  2. 金は稼げなかった
    そのことは自分の打って出た勝負が失敗だったことを意味する
    貧乏を共有させたり金に世話になった人が多かったことで
    今更何も弁解はできない
  3. 身分相応の人生だったのではないか
    見栄を張ったわけでもなく
    必要以上に立派を装ったわけでもなく
    将又見下されて生きたわけでもなかろう
  4. 楽しく生きたという点でよしする
    金がなかったことは前に書いたが
    貧乏であったことが不幸ではなかった
    大金を使って生きる人生もあっても良いだろうが
    そちらを残念ながらその道を選択できなかったというだけで
    幾らかの無念や寂しさも残るものの
    こちらも堂々とした人生だったと思う
  5. 他人と比べるものでもなかろう
    自分の裁量程度で生き通せたのではないか
    器以上の仕事を請け負うても苦心するだけだったに違いない
    怠け者な側面も持っているのだから表裏なく生きて来たと思う

🌱

書き始めてほったらかしにしたのだろう

真面目に書くと長くなる
長くなると読まれなくなる
読んでもらえないと伝わらない

しかし
短いと誤解を招く
または不十分であったりする

本当のことはどうやって受継げばいいのだろう

8月6日 巨峰と水割り
8月6日 巨峰と水割り

8月も25日になり末を迎えているが
日付は立秋(7日)とします

お礼をいう

三十四年前に二人で暮らし始めた家を
散歩の傍ら訪ねてみたら
取り壊して新しい住宅が立ち並んでいました

京都の嵯峨嵐山というところです

表通りは観光の人で溢れて
一条中に入ると昔の雰囲気も少なからず保ちつつ
京都の普通の人たちの暮らしの空間がありました

そそくさとそこを捨てて
今の地域に移り住み
倍ほどの広さの屋敷を手に入れて
今の暮らしをしていますが

人生なんてのは
何が正しいとか間違ってるとか
表が美しいとか裏が鮮やかとか
そんな法則なんてないです

後で気がつくのですよ
あの時にああしてたら
こうなって幸せだったかも

でもね

それが幸せとは限らないでしょ
成功していたとも言い切れない

だから

こうして今まで来たことに
感謝して
かけがえのない幸せに
お礼を言わなあかんのですわ

こればかりは
遺産でも受け継げない
私が完全燃焼しておくべきもの

だから二人で
足並みを揃えるのですわ

そう思います

このメッセージは
旦那さんが胃癌にかかったブログ交流のあるかたに
治療・療養中の旦那さんと過ごすある日の日記(ブログ)に
コメントを書いたものです

それは他人に向けて書いたものですが
間違いなく自分宛の手紙でもありました

残しておきます

人生は第四コーナーから 夏至篇 - 裏窓から

第一コーナーから第四コーナーまで
それは15年という月日で区切れることに気づく

1コーナー:15歳で高校入試(失敗)
2コーナー:30歳でムスメが生まれる
3コーナー:45歳で仕事を離脱
4コーナー:60歳で再び仕事を始める

大雑把に言えばそんなところだ

振り返ってみればどの時期もすべてかけがえのない思い出がたくさんある

しかしどれも幸せには満ちてはおらず荒波に揺られている苦渋の時節だということもじわりとわかる

幸せ度という指標でみれば第二コーナーから第三コーナーへ向かうときが最高であったのではないか

ムスメが生まれて仕事もしんどいなりに充実して人生にも迷いはない

自信を持って前進をしている

一方でツーリングばっかし行っていたと非難も受ける

ペラペラとおしゃべりを始めた子どもが2歳になったばかりの夏に、二人を置き去りにしたまま北海道へとツーリングに行ったという事件がある

後年ツマとあのころのことを振り返り合うことがあたびに、ツーリングに夢中になっていた自分はいったい何だったんだろうか、と回想する

子どもを置いて休日はバイクばかり乗っていたのだが、今もしもあの時代に戻ったらそんなことは絶対にしないだろう

子どもと一日中触れ合っていることは間違いがないのだが、あのころは全く違ったカタチで日常を満たしていたし、過程をお座なりにしていたわけでもなかった・・・のではあるが

子どもを置いたまま一人ででかけてしまい、残された母と娘はどれほど寂しく心細かったのかを知っているのか……とツマは言う

ひどい父である。だから「家庭をどう考えているのだ」と指摘を受けてもそれは当然のことであろう

もしも万一の交通事故にでも遭おうものなら言葉では吐き尽くせないほどの最低の父になってしまうこともある

ともかく勝手な父であったのだが、偉大なる反面教師であったと誰かが言ってくれるだろうか

夏至

月はひとり 星は二人で見上げたい」のブログのサブタイトルに
人生は第四コーナーから」と書いている

そこへ「少しダッシュしてみた」と続けてみる

どの直線を走っている時もどのコーナーの時もいつも必死だった

割と手抜きのなかった人生だったとも思う

『父の日』で検索してみた 父の日篇

  1. 三十数年の歳月が過ぎて幻の日記が見えてくる
    らないのだそう思って黙っていたに違いない父の日記は紙切れ一枚も残っていないしかし、こんなことを必ずあの枕元に置いていた帳面に書き残していたはずだ残っていなく…
  2. 父の日記 はじめに
    父の日記 はじめに   (秘伝本篇はリンク先です)わたしが子どものころ、そう小学生から中学生のころのことだ。父は、就…
  3. かき氷
    モで日記にしておきたいようなものもある 父の日が近づいているのでそんなことを詠んだ句などが色々と気にかかったかき氷を食べながら話をする光景と父とかき氷を食べ…
  4. 人生なんて 出番など ないままそっと 幕が降りる
    何も買ってやらなかったそういえば誕生日も父の日も何も贈り物をしなかった挙げ句の果てにはいつかは一緒にお酒でも飲もうと願いながら染み染みと食卓に向かい合いなが…
  5. 父の日や仕事に来てる父ばかり
    思うのですけど家族はお肉がいいみたい▶ 父の日や仕事に来てる父ばかり写真日記から …
  6. 父の日や父に似ているムスメ哉
    子どもと親は似るもんだなと思うなぜって父の日のプレゼントが届いたといって写真に撮って送ったらムスメといったらそうやったな 何を送ったか忘れとったわと電話で…
  7. 三十年という周期 ─ 小寒篇
    たものに―2013年10月16日 (水)父の日記■子どもというものは父や母の日記や行動や考えにはあまり感心を持たないことが多い例をこれまでにもいくつか見てき…
  8. 飲むで検索する
    6月下旬篇つぶやきない。6月19日▼父の日や普通に1杯酒を飲む▼父の日や部屋で形見の絵を睨む▼父の日に鬼の顔して我を見る父の日に、三句いじって、黙り込む…
  9. 父の日記
    (10月15日)という日記のなかで「父の日記を読ませてもらった。父が日記をつけていたとは知らなかった。」と書き出している。親と子どもというのはギャップを…
  10. 父の日や貴方はあの日の朝のまま ─ 6月台風4号接近中
    ですな。台風がくるそうです、もうすぐ。▼父の日や貴方はあの日の朝のまま▼ねえ線路の向こうに繋がった町にいる貴方便りをおくれよただいま6月18日(月) こんな…
  11. 好きだよとイチゴを噛んでキスをする ─ 5月下旬篇
    かで、後悔をしている自分がいるのだ。▼ 父の日や逝って孔子の如くなり5月24日(木)▼摘み食い人差し指だからなお美味いそうだ。この日は、から揚げを食べたのだ…
  12. ヒソヒソとあなたの好きなウイスキー 6月下旬篇つぶやき
    まり好まないのかも知れない。6月19日▼父の日や普通に1杯酒を飲む▼父の日や部屋で形見の絵を睨む▼父の日に鬼の顔して我を見る父の日に、三句いじって、黙り込む…

かけがえのない贈り物 芒種篇 - 裏窓から

ジャパネットたかた社長・高田明
「私は、商品はただの物じゃない、生き物だと思ってるんです」
「ビデオカメラを買ったら、お父さんやお母さんを撮ってください」
と高田社長は強くすすめる。
子どもは成長してから自分の昔のビデオなど大して見ない。
むしろ両親の若いころの映像こそがかけがえのない贈りものになる。
2011年8月6日朝日新聞土曜「be」で

🍀

芒種がすぎても「裏窓から」に着手してません
机に座っても考えをまとめようとせず怠けている
まとめたい考えも漠然としているし焦点が定まらないままだ

そんな折に
ジャパネットたかたの高田明(前社長)語録を思い出す
偶然にも高田さんがTVで語っている場面も見かけた

お母さんお父さんと高田さんは語録では言う
おじいちゃんとかおばあちゃんと子どもが写っているところでコメントをしていた

子どもは写真なんか見ないでしょ・・・とはっきりとした上で語っている

🌱

この言葉の意味をじっくり考えてみると良い

写真やビデオに自分の姿が映って残るというのは夢の出来事だった
昭和四十年頃までは、写真は白黒で貴重なものだった

人生の歴史というアルバムのページをパラパラとめくると
昭和五十年頃になると写真はカラーが当たり前の時代に変わる

今や、写真は身近なものである
けれどもその分アルバムに貼ったりすることは怠るようになる(軽率化)
写真に写る自分は、珍しくもなく驚きもない時代が到来する

昔でも
父母と撮った写真は残っている
けれども、父母が子どもの頃の写真となるととても貴重であった
持っている人はお金持ちだろうと思う

昔の人たちは
父母や祖父祖母の若い頃の写真が見たいとは考えなかった
何故ならそれはハナから叶わぬ夢の話だったからだ

一方で今の子たちは
おじいさんやおばあさんが写っていたらいいなあ
とも思わないだろう
何故なら、写す事か簡単な事だから

ゆえに
そんな白黒世代の人のなかには、
過去の中に消えていった歴史を惜しむ人や
少しでも残しておきたいと願う人たちが多い
消えてゆくものの価値に掛け替えのなさを切実に感じているからだろう

🌱

三十年という世代交代の周期は想定しなかったほどに大きな段差を生んでいる
その段差を隔てて現代社会の文化はある

この変化の様子をしっかりと捉えて分析できていることが重要なのだと感じている

時代につれて変化する人々の心のようすとか、その心の礎となるものは何か、 そしてその礎の上に築き上げるものはどのようなもか
現代社会の犯している過ちを発生源まで遡って伝えておくことがわたしたちの使命であろう

高田前社長の言葉はわかりやすい語録であるが、その背景にある厚みやと深さには計り知れないものがあると思う

深夜の自画像(七日間)- 春分篇 (裏窓から)

秒読みが始まったとは誰も気づけない
したがって架空で語ってゆくか
過去を巻き戻して書きとどめるしかない

この際どっちだっていいだろう
七日後には消えるというものがたりを追いかけてみる

————————————————————————
◆ 七日前
朝はいつもどおりに目ざめている
歳を食ってからは床をあげるようなことは全くない
身のまわりの几帳面さも欠乏して
寝床の周りには着さらしの服を放置したままだ

日記はもう数年前から書かなくなってしまった
枕元に昨日の夜の書きかけの日記があったのは
もう数年前のことで
今では幻の風景になってしまった

最初に脳梗塞で倒れたとき
激しい衝動が湧き上がり
何十冊とあった若い頃からの日記に
火をつけ燃やして灰にした

大きな事件であったが
誰も深刻な脳梗塞の重篤さを
気にかけなかった

生涯で怒りを噴出させたのは
二度だとすると
このときがその二度目だった

寒いなあ、正月が過ぎて一段と寒いなあ
と呟いたかどうかはわからない

1月15日木曜日
脳梗塞の症状ものらりくらりだ

むかしからときどき
ひとりごとをいう癖はあった
ツマの誕生日が近いことは
気づいていただろうから
もうじき歳を食うなあと囁いたかも知れない

そして自分の誕生日が
あと二か月後にくることに
何かを期待したのだろうか
まだ67歳ではないか
しかし80際までは生きられない
そんなことを漠然と思っただろうか

まさかこの冬に
自分が67歳を2か月後にひかえながら
逝ってしまうとは想像もしていない

もう少しだらだらと生きてゆくのだと
漠然と感じていたのだろう

————————————————————————
◆ 六日前

その朝いつものように起きて
いつものように朝ご飯を食べて
寝たままで一日をはじめた

救急車まで自ら出向いて
病院まで運んでもらったことが過去にあった
死んでたまるか
そう思ったのだ

あのとき
頭蓋骨の中には
毛細血管から吹き出た血が
満ち溢れていたのだ

そんな事件があったことを
ムスコ(長男)には話したことなどない

あのときは生きていくことに夢中で
ムスコと会話を愉しむというような歓びはなかった

いつか忘れてしまうほどのむかしに
体調を崩して寝込んだことがあって
あの日のできごとが蘇る

身体は丈夫な方ではなかった
だから寝込むことが多かった
あのときは今までにない痛みを感じたのだったか
家族が(たぶんツマが)
冗談めいて
「それはガンかも知れない」
などというものだから
落ち込んでしまう

二日間ほど床に伏していた
気持ちが落ち込んだのだ

家族は
おとうちゃん気が弱っとるわ
と冗談を言ってケラケラとしたような気がする

根っから怠け者ではないので
明るい時刻に寝ているようなことはしない
そんな姿を見た人もいないはずだ

もしも寝ていたなら
たとえそれが朝であって
誰よりも遅くまで寝ていれば
どこか具合が悪いのではないかと
誰もが疑う

頭痛や腹痛で横になることもない
根っから身体が弱かったのだが
特化した症状が出るのではなく
弱い身体が全体で悲鳴を上げるタイプだった

66歳という若い年令で
死に絶えてしまったことを考えると
身体そのものの頑丈さは持って生まれたものであり
弱い人は長くは生きられない宿命を秘めていると気づく

努力をしても早く坂道を駆け上がることもできなければ
どんなに節制してさらに上質な栄養を摂取し続けても
元々が弱い人があるのだ

それがウチのこの人であり
ウチの血脈の宿命なのだった

————————————————————————
◆ 五日前

当然、自分の命が果ててしまうとは想像していない
18歳で出て行ったムスコだが
まずまずのところに住んでいる
ひと目でもいいので逢っておこう
などとは考える必要もない

この日は1月17日土曜日
ムスコも休みではないか
正月に顔を見せたきりだ

クルマで1時間走れば飛んできてくれる
その時間くらいはいつでもあるだろう
そう考えていたのか

まだ生きると信じていたから
遺言を伝えようとも考えない

そもそも遺言などと言うものは
ヒトが元気なときにぼやく愚痴に似たものでもある
オラには何の不満もなければ
言い伝える言葉もない
と思っていたかも知れない

ムスコのことを
子どものころは賢かったが
大人になっても大きな人間にはなれなかったな
と思い続けていただろう

小学校の卒業文集で
アナウンサーになりたいとか
もっと小さいときには
船乗りになりたいと
言っていたのを
強烈におぼえていて

そんな夢を大人になるまで持ち続け
実現するまで粘るだろうと
心の側面で固く信じているような人だった

つまり
自分の子どものころに抱いた夢がきっとあり
それが幾つになっても夢として心の片隅に
存在していたのではないか

夢は誰にも語ることはなく
秘めたままで
誰も夢の存在すら知ることはなく
消えていったのではないだろうか
————————————————————————
◆ 五日前

日曜日
NHKの日曜美術館を見るのを楽しみにした

ドラマは見ないし
バラエティーも見ない

脳梗塞で倒れて頭が……
というか
記憶が曖昧になってきた頃から
絵も描かなくなった

几帳面な性格で
絵を描く自分の部屋はいつも片付いていた
目を閉じても何がどこにあるかを探り出せるほどだった

それも
脳梗塞の進行とともにかすれてゆく

酒も飲まないので
遊びもしないので
時間が止まったように過ぎる日々を送り

秒読みが始まると
秒針がいらないほどに
静かに呼吸だけを続けた

————————————————————————
◆ 四日前

寒さが来るとニュースが伝えても
元々が寒さには弱音を吐かないので
それほど苦にしていなかった

死の時刻が迫っていた
そんなことには気づかない
誰かが察することができたのだろうか

姉には
わかるのだ
予感なのか

ジンはどうや
電話をかけてくれたのか
前もって問うこともなく
この家に来たのか

兄弟には淡白だった
喧嘩をするようなこともなく
付き合う人たちにも
悪く評されることなど一切ない

日常の人付き合いも
そのままの顔で
蔑まれたり妬まれたり
憎まれることなどもない

自分を主張することもなければ
無駄に意地を張ったり
相手を貶したりもしなかった

寝床に伏しても
我が儘をねだることもなかった

したがって
人間関係において敵など居なかった

しんしんと一つの方向へと
向かっていたのだろう

静か過ぎて
気づかなかったのは
ムスコがアホだったとしか言いようがない

————————————————————————
◆ 三日前

明日は大寒
明後日はツマの誕生日
そう思っていたのだろう

自分の心臓の勢いが弱くなっている
そのことに気づいていたのだろうか

周りが少しざわつき始めるけれども
隣に住むムスコは仕事に出かけてゆく
月曜日

30キロほど離れたところに住むムスコ(カズ)は
この人の微妙な変化など何も知らない

正月に会って
話したことすら
どんな内容だったかも忘れている

まさか……
と楽観的に考えているのか

最期に及んでどんな言葉を交わしたかなど
誰も知ることができない

逝く人のほうも
意識がぼーっと朦朧になり始めて
あらゆることが記憶にとどまらない

カズのことも
気にとまらなくなっている

————————————————————————
◆ 二日前

隣のムスコは仕事に出かけ
危篤が迫るのを
ムスコたちは何も知らずにいる

ざわざわと人が集まってくる
しかしながら
いつものようにお粥を啜り
えらいなあ、ぼーっとするなあ
と言うていたのか

カズは何をしとるか
正月から顔を出しておらんな
東京に行って就職で京都に来て
そのあとこっちに帰って来ても
ロクに話もしなかったなあ
と思ったは夢の中のことか

もしも
あの世で再会できたら
そのことを問うてみよう

夢うつつの時間が過ぎて
食欲も衰えてきている

————————————————————————
◆ 一日前

ミエコさん(姉)が来る
家族(ツマ)と並んで布団に入って
さすってもらったり
何やら話しかけてくれたりする

記憶はうっすら・ぼんやりとして
周囲の人は予感を感じたに違いなかろう

離れたムスコは何も知らない
誰も知らせようともしない

ムスコ(フトシ)は覚悟をした
しかし兄を呼ばない
まだ生きると信じている

————————————————————————
◆ その日

姉やツマが悟る
残された人の話によると
既に相当に意識がぼーっとしてたらしい

ビールが飲みたいと言う
しかし付き添っているツマは
こんな状態で飲ましてはならんと考えた

代わりにお茶をやる

「ビールと違うやないか、まずいなあ」
そう言うて寂しそうにする

他人(ヒト)が飲むと真似して飲んだ
だから楽しそうに飲むことが多かった

タバコも嫌いなくせに吸う真似をしたし
お酒は好きだったわけでもないのに
好きなふりをした

くしくも
そんな言葉が
最期になった

死んでしまう間際でも
そういうところがあった

ほんとうに断捨離するべきもの - 立春篇 (裏窓から)

遅くなりましたが
立春篇です

++

++

この二つを一月に書いて
ぼくは迷路に入り込む
六十年という歳月を生きてきて
偉そうなことを言うつもりは毛頭ない

むしろ
四十歳を過ぎて五十歳を回ったころに
自分の子どものことも
さらには
子どもを取り巻く社会のことにも
不満と不安をもって
社会やその体勢や
そこで先頭に立って走る人物の人間性に
どことなく怒りを爆発させていた

だが
心配はいらない

もうそんな気持ちは収まった

ぼくは
「伝える」「遺す」
という言葉が引き出そうとするもっと重みのあるものを
一生懸命に自分の人生という過去の中に探し出そうとして
焦っていたのだ

そう思うことにした
いや気づいたのだ

つまり
何かを引き継いだり伝えたりできたとしても
それは精神論であったり
形のない遺産であって

新しい時代の新しい人類のヒトたち
即ちぼくの子ども、孫、ひ孫たちには

それほど役立たないのだということを
自分自身に冷酷なほど強烈に知り
納得しなくてはならないのだ
と思うようになったのだ

あっけらかんと言えば
いつ死んでも誰も困らない

もしも一瞬だけ困ったとしても
パスワードのわからない開からない宝箱は
丸ごと棄ててしまうだろう

新しい時代の人類は宝箱などには
それほど関心がないのではないか

それにもっと言えば
宝物の価値は新しい人類が決めるのだから

断捨離という流行言葉があるが
なんて馬鹿馬鹿しい言葉だと一蹴していたのに

ちかごろ
本当に断捨離が必要だったのは
ぼくの勉強部屋(書斎)のガラクタではなく

自分の自伝や遺言じみたものではないのか

そんな自爆な(秘伝)が浮かんでくる始末だ

人生をドラマに

■人生をドラマに

わたしは人生をドラマに仕立てようとしたのか
それともドラマだと勘違いをしていたのか

あしたはいつもドラスチックなものだと描いてしまったのか

そうあってほしいと願ったのか


 

2018年2月 2日 (金曜日)
増殖する(秘)伝

十年

十年

書きかけて放置している
そのうち書き足すのだろうか

うそっぽい

年度の節目に誰かに渡すための引継ぎのための文書を書いている
そのことは普通の業務なので格別な感傷などはない

寧ろ十年間という歳月に
たったこれだけのことをしてきて
それだけのことを大切にするかのように日々を過ごしてきたことが
ある意味では滑稽であり
眺めようによれば愚かで情けなくもあり
幸せでもあり楽しくもあったのだと
客観的に評することもできる

ささやかな人生であり
掛け替えのない十年であり
もっと羽ばたけた十年であり
よくぞ墜落しなかったなとも言える十年だ

さきごろからたびたび考え込むようなネタとして思い浮かび
しばらく放置している間に日々の雑音のなかに消えてゆくことがある

何かを遺す
何かを伝える
何かを受け継ぐ

大切なものは何であるのかを見極める
不要なものと大切なものを区分する

それらを考えて答えを出すために求められることがある
簡単なことだが難しくあり悩ましいものだ

判断をすることだ
区別をして色分けをする
不要なものは切り捨てる

だが、しかし

リンゴよりもイチゴが好きだ
イチゴよりもメロンが好きだ
メロンよりもリンゴが好きだ

そういう人にとっては
白黒をハッキリさせるとか
これは右の棚で次のこれは左の棚
というように区分をテキパキとすることはできない

さてさて
困ったものだ


2018年2月 1日 (木曜日)
増殖する(秘)伝

熟熟:つくづく  年が暮れゆく前に考える - 小雪篇 (裏窓から)

「よく芸は盗むものだと云うがあれは嘘だ。盗む方にもキャリアが必要なんだ。最初は俺が教えた通り覚えればいい」

立川談志の語録にある。師匠は弟子にお辞儀の仕方から扇子の置き方まで、相手の進歩に合わせながら導いたという。

「あのなあ、師匠なんてものは、誉めてやるぐらいしか弟子にしてやれることはないのかもしれん」

「盗むほうにもキャリアが必要だ」という温かみがあってしっかりと相手を分析している眼が素晴らしい。この人の凄さの一面なのかもしれない。

🍀

「技は盗め」「黙って見て学べ」「一を聞いて十を知れ」「聞いてわからんなら見てもわからん」と一般的によく言われ、私の父もコツコツと農作業をする傍ら口癖のように私に呟くように話したものだ

それを否定する談志師匠の言葉である。

人を育てることの難しさは、この二つの正反対の言葉を融合させて同じ方向に力を向けるところにあるのだろう。

優しい心遣いと厳しい指導力があって実現できる。

🍀

私が社会人になる時にある人から助言として「自分が世に出て大物になるより人を育てて大物にしていけ」という言葉をもらった。

どこまで私がその人の助言に忠実だったかは反省するところも多いのだが、人が持っている力をしっかりと見つめて押したり引いたりしながら大きくするのだという心が言葉の奥には潜んでいる。

🍀

一子相伝。父は私に何かを伝えたかった。それはあまりにも多過ぎたのか、大き過ぎたのか、困難だったのか、私には一つとして受け継いだという納得の物がない。

年末に思う。

上手に藁縄を編み込んで草鞋を作ったり注連縄を作っている父の姿を思い出す。

正月前にはカゴに溢れるほどの出来上がった注連縄をどのようにしていたのか、友人知人に配って歩いたのかさえ知らないままで暮らしていた。

青く瑞々しく逞しい藁が注連縄に編み込まれてゆくのを黙って見ていたこともあったが、編み方の技を教えてくれと進み出たこともなければ、その注連縄を手にとってじっくりと眺めたこともなかった。

師は黙ってモノを作り言葉少なく人生を語った。

子どもに将来の生きかたを語ったに違いないが、言葉は消滅して何も残らない。

🍀

私は伝えることの難しさを熟熟とこの頃になって感じる。

語るのはうしろ姿だった。そして今はうしろ姿の面影だ。

藁をぐっと巻いて締め上げる時に彼は何を考えていたのだろうか。

何を伝えたかったのか。

年の暮れになるとその思いに迫られる。

正月があける大寒の時季を迎えると二十回目の命日を迎える。

伝えるということはなんと難しいことだと思う

ムスメに二人目の子が生まれたころに考えてメモっていたものを書き写しておく

++

伝えることの難しさを考え続けている
十箇条にまとめればいいというものでもない
そう思いながら自分のための整理を繰り返している

しかし、そう簡単に自分の思いは伝わらないだろう
その理由は、ひとつひとつを丁寧に噛み砕いて渡せないからだ
噛み砕いて話す間に意見の食い違いが生まれるだろう
膝を突き合わせて本意を汲み取りながら、お互いの考えの根拠を噛み締め合わねばならない
時には意見がどこまでも食い違うことがあろう
食い違いが寄り添えない時には、その部分を明示して記録しておくのが良いかもしれない
どちらの言い分にも間違いはないはずだ
考え方の構築手順の順番や視点が違うだけで、本質にそれほど違いはなかろうと思う

さて、
そんな風にしながら考えたのが十箇条に押し込めた私の思いだ

ひとつひとつは短いタイトルにしたが、その奥には長くて、くどくどしく説明をしたくなることもあろう
辻褄の合わないような未完成・未完熟な箇所が各論には潜んでいる

それをここでどこまで書いていいものやら
書いたとすれば、大きな気概の流れを折ってしまうことにもなりかねない

だが、
ひとまず十箇条を書いてみる
意味や思いは、これを読んでも通じないと思う
押し通せる自信はない
もちろん間違いがない自信はある

  1. 企画力を磨く、俯瞰性を備える
  2. 情熱を絶やさない、旗をたてる、諦めない
  3. 見つめる、振り返る
  4. 人を育てる
  5. 嘘をつかない、裏切らない
  6. 笑顔を絶やさない
  7. まずい酒は飲まない
  8. 夢を描く
  9. 座右の銘を持つ
  10. 才知を磨く

(番外)倜儻不羈、失意泰然、得意澹然

—–
(続く)

参考に
宮本常一が父から旅立ちの日に授かった旅の十ヶ条

父の日記 その3 ─ 月のはじめに思う

父の日記 その3

役場勤めだったおとやんは息子に夢を描いたのだろうか
曽祖父が村長、曽祖父が村会議員だったので
わが家系はその道を選ぶことを強く願っていたのだろうと思う

しかし、わたしの意思を尊重しようとした
本心は高ぶるほどに悩ましかったに違いない

自分の意思があるならばそれに従うべきだという
自由な発想を持つ側面があり
わたしが東京の大学に進学したいと言い出したときにも
何一つ反対の意見は言わず
引き留めることも
考え直すように促すこともしなかった

のちに何度か
「若いうちは勉強をしておきなさい」
「金の心配はしなくてよろしい」
「しっかり勉強しなさい」
「しょっちゅう手紙を書くと勉強の気が散るので手紙はあまり書かないことにする」
「学費を振り込んだので、しっかり勉強しなさい」
「健康に気をつけて」
などという鉛筆書きの便箋(多くは広告チラシの裏紙だった)に
走り書きをしている手紙が
小荷物と一緒に届いて
そのたびごとに
のらりくらりと怠けていた自分を見つめ直し
強い自責の念に苛まれる夜を送った

▶︎ (架空日記)

カズは勉強しているのやろうか
なまくらこいとらんかな
若いうちは勉強しろと書いておいたが
大人になったらアナウンサーになりたいと小学校の卒業の時に書いておった
もっと小さい時は船乗りになりたいと言うておった
諦めておるのやろうか
家に帰ってきて農業をしながら
役場に勤めるということは考えんか
夢はあったほうがええやろうなあ
(某月某日) ◀︎

わたしは公務の道を選ばなかった
自分で勝手にシナリオを書き換えてしまったと
血族の多くの人々は思っただろう

わたしの選択が
途轍もなく想定外だったことに
わたしが気づくのは
父が亡くなって
わたしが仕事をやめて
色々な出来事があって
幾らかの時間が過ぎてからのことだった

父の日記 その2

あまりペラペラと喋らない人だった。
私のおしゃべりは誰に似たのかわからない。

帳面を開き鉛筆を持ち小首を傾げるようにして何かを考えていた。
さらさらと書く雰囲気は持たず、どこかを時々見つめたりしながらじっくりと眉間にしわを緩く寄せるかんじで日記帳に向かっていた。

モノの道理を考えてみようとする姿勢の持ち主であった。
しかし、他人に自己を主張しようとはしなかった。
諦めがあったのだろうか。

日記にはどのよなことを書いていたのか。
毎日の出来事の不平不満を書くようなことはなかっただろう。

耳が不自由であったから周囲からイジメや阻害・排他的扱い、誹謗中傷、噂や悪言など(私には想像もできないのだが)を受けることが多かっただろう。
そして、じっとそれらへの反発をひたすらためて食いしばって堪えて生きてきたのだと思う。

辛い(つらい)ことは気にかけない、良いことだけを見つめて生きるのがひとつの道なのだ、と言葉ではなく生きる姿勢の中に持っており、そんな生き方をときどき漏らしたこともあった。

果たして、そんな自分に向けた言葉を日記に残したのだろうか。

♣︎ (架空日記)

台風がまた来ている
田んぼには出ていけないので小屋を片付ける
東京にいるカズは急に来た秋の冷え込みで
風邪をひいてはおらぬかな
栗が採れたので送ってやろか
酒ばっかし飲んで
勉強サボっとらんかな
ニンゲンは怠けたらあかん
面倒臭いということは何もない
コツコツとすれば必ずできる

♣︎

今日のような嵐が近づく雨の日には
こんな日記を書いていたのではなかろうか

父の日記 はじめに

父の日記 はじめに

わたしが子どものころ、そう小学生から中学生のころのことだ。
父は、就寝前にいつも必ず日記を書いていた。
枕を胸に当てうつ伏せで書いていたと思う。

居間や奥の間(寝間)には机などなかったし、卓上の電気スタンドもなかった。
だから、薄暗い奥の間の部屋の灯りだけで書いていたのだろう。
ペンは、鉛筆だったのかボールペンだったのか、今となっては不明である。

わたしはその日記に感心を持ったことはなかった。
こっそりと読んでみようという気も起こさなかった。
子どもというのはそういうものなのだ。
そういうことに気づくのは自分が父を亡くして、娘に昔話をしておきたいと考えるようになってからであろう。子どもは、昔話や親のことにはさらさら感心がないのだ、と知ったからだ。

日記は全く現存しない。

毎日丁寧にじっくりと時間をかけて綴っているのを見てきた。
日記帳は、1年分の分厚いもので、毎年同じものを使っていた。
部屋の片隅か押し入れには何年分もの日記が積んであったのを憶えている。
おそらく、わたしが生まれる前か子どものころから書き始めていたのだろう。
そのことを考えると相当な冊数の日記があったわけで、あれは曖昧な記憶ではないのだ。

だが、日記は消失している。
無くなった理由を想像すると二つのことが思いつく。

母がある時期に家財の整理をして、その際に廃棄するか焼却したかもしれない。
子どもが高校に行くので(または大学に行くので、または社会人になったので)
生活が一段落して、過去のあれこれやモノを整理した可能性がある。
しかし、そのように廃棄したとして、父は廃棄の様子をどう思ったか。
そこまではもっともな想像はできない。

もうひとつ日記が消滅する可能性がある。
それは父が定年前後から脳梗塞の症状で苦しんでおり、入退院を何度か繰り返した。
その症状が思わしくない時期があって精神的な(一種の強迫症のような)障害があっ たのかもしれない。
その際に、母のバックや貴重品を庭で無理矢理(病的に)焼却してしまうというちょっとした事件じみたことがあったかもしれない。

永年父が、おそらく30年も40年も継続してつけていた日記なのだから、そんなに簡単には焼却できるものではないと想像する。
父はどんな気持ちで消えてしまう記録を見つめていたのだろうか。

あの日記にはどのようなことが書いてあったのか。

あらゆることを思い出せるだけ思い出して、想像してみたいと、先日、ふと、思った。
真相はわからないのだが、あの日記にはどんなことが書いてあったのか。

架空のような夢のような想像を混じえて、少し考えてみよう。
そう思いながら、私はこれを書き始めている。

人生を生き抜く - 啓蟄篇 【裏窓から】 

平成29年3月3日の朝日新聞コラム(おやじのせなか)で小島慶子さんが

片働きになって痛感したのは、女性は仕事を辞めても責められないけど、多くの男性は「死ぬまで働け」というプレッシャーを背負い続けているんだ、ということ。男性だってもっと色々な生き方があっていいはずなのに、「しんどい」なんて言おうものなら負け犬扱いされる。その上、家で「粗大ゴミ」とか言われたら、心が折れるよな、と。

と書いているのです
このインタビューには前後があるので
この一文だけではわかりにくいですけど
お父さんの偉大さと苦労が後になってわかってきた
というようなお話です

🍀

私は
小島さんのお父さんのように一生働き続けませんでした

50歳前に仕事を放り出して
定職のない私がいる家庭でありながら
ムスメは私学の中学高校大学を出しました

450万の日本育英会の借金ができまして
就職したムスメにさらにそれも委ねました

10年以上早く仕事を辞めてしまいましたので
年金も最低レベルしかもらえないことがわかっています

一流大企業を退職して年収は4分の1ほどになっても
しかしながら
お金がないこと以外は充実した毎日を
精神的に大きなストレスもなく送れたことは
幸せであったと思っています

世の中にこんな生き方が存在したのだと
人生の終盤になって気づいたのでした

仕事のない恥ずかしさや
社会的地位や名誉がない情けなさよりも
それまで企業というところで
そんなことも知らずに
無知に働き続けていた自分が
むしろとても恥ずかしかった

平均年令よりも10年以上早く死んでしまった
父親の年令に近づこうとしています

父は定年になってから数年間に
どれほど充実した人生を過ごし
どれほどまで満足をして
人生を終わることができたのか

生前の言葉や遺作などを集めて
それを調べたり考え始めてみると
「人生を生き抜く」という
哲学めいたことを考えてしまいます

私は
仕事を勝手に10年あまり早くやめて
いつ何時に死んでもいいような人生を
貧しく(ある意味では)幸せに送りました

あと数年で父の享年になります
その年齢になったら私の新しい人生が
無一文で始まるのです

社会人になった時の同期と比べても
年金は4分の1に満たないでしょう

でももうそんな欲はありません
老後は前借りして過ごしたようなもんです

ですからこれからの私の人生は
いつ死んでもいいような
明るく軽く愉しい人生であって欲しい

だから健康に生きることが必須なんです

🍀

(こんな一筆を知り合いに吐き出しながら)

一瞬でも私がこんなことを考えていたのなら
それを後になって訂正してもあるいは願いが叶っても
書き残しておきたいと思っています

子どもが社会人になる頃から頻繁に思うことは
「人生は恩返しをすることで終わっていきたい」
ということです

そして
その心を引き継いで遺していかねばならない
それはヒトの使命であって
故に結婚もしなくてはならないし
子どももできなくてはならない

私自身も家族も子どもも
みなさん社会の中の様々な繋がりの中にいて
助けててもらいながらここまできたのですが
ちょっとそのことに
気づくのが遅すぎたんではないか
言葉だけでわかったつもりになっていたんではないか
ということです

さらに、しかしながら
何一つ恩返しなどできない私が居るんです

だったら(反面教師であっても)
ヒントになる言葉を遺すしかないです

憎しみや悲しみというものは 赦したり忘れたりできるものであろうか

一月尽

数々のいじめ報道のニュースを見ても電通の過労死事件においても茶番劇のように思えてくることがある
もはや、私は冷めてしまったのだな、という寂しい感慨を抱かざるを得ない

だが、決してこういった事件自体を突き放しているのではない
当事者のみなさんと同じように悔しい思いを持ち憤りを感じている
重要社会問題として捉え、今後の解決課題として必須であろうと思っている

しかし
メディアの御都合的報道では事の本質には何も迫れないとも思うとやるせない

報道メディアは仰々しく正義を見せて大衆に呼びかける一方で
茶番劇のようにしか見えてこないのには理由がある

それは
これらの事の実態はもっと泥臭く水面下は膨大な氷山であること、
これらの事件の陰や裏には悲惨な思いをした人たち一人一人の届いてこない無数の叫びがあること
などを丁寧に掘り下げるべきなのだ

わかっていながら追求しようとしないから歯がゆいのだ
どんな些細なものであっても切り捨てて消滅させてはいけない筈である報道メディアが
弱者のスタンスにまったく寄り添っておらず
弱者の世界での声を聞こうともしていないように思えてならないのだ

だから、冷めて見てしまうのだろう

🍀

事件の裏や陰には無数の声や叫び、怒り、悲鳴、嘆き、泣き、諦めのつぶやきが必ずあったに違いない

私が「パー」で大馬鹿な会社を辞めるときにも周囲では同様の声があった
身近な人が叫び、もちろん私も叫んだ
しかし、それらは誰に注目されるわけでもなく、どこにもオモテに出なかったのだ
報道は大勢の言い分を筋書き通りに書いただけで
社会の枠の外から高みの見物をする人たちを楽しませたに過ぎない

社員およそ10万人のうちの約3万人近くを
「自主退社」とか格好・体裁がよい「人員整理」という形で 処分したときにおいても
どれだけの人間が叫んだのか、誰も知らないままだった

声は誰にも聞いてもらえることなく時代は幕を閉じて新しいステージにすり替えられてしまった

🍀

現代でいう差別やいじめの陰湿さやえげつなさを考えてみると
それが氷山の一角であることくらいはどんなに鈍感な人でも推測できよう

電通の過剰労働の事件、世間を騒がすブラック企業の問題、いじめやそれに伴う自殺事件にしても
実際にはもっと深くて大きな世界で想像以上に泥流やドロドロとしたものが蠢いている

人殺し、惨殺は人道に背くことは自明であるが、それよりもいじめは無残で非人間的である
にもかかわらず、世の中ではそれ以上の悲惨で卑劣ないじめや強要、誹謗、中傷、差別、迫害などが起こっている
人と人との繋がりのある箇所にはもれなく非人道的な行為があると考えて間違いではない

これらは一瞬のうちに人を殺戮する残酷さとはまったく違って
石川五右衛門の釜茹での刑罰や五条河原に生首をさらされることのように
さらには、隠れキリシタンが受けた穴吊りの拷問のように
えげつないものであるのかも知れない

人が人をピストルではないもので攻撃するときはとても卑劣なものになる

何故ならば
それはまっとうな人間が社会の安泰としぬくぬくとしたところから
非人間的に行う(動物でもしないような)許されないような行いであるからで
ピストルというような明確な武器を使わない分だけ陰湿で卑劣になりやすいことを特徴付けている

いじめや過剰労働の強要、ブラックな就業体制など、
人間の醜い行為は、従来の刑法と言う枠をすり抜けるようなものの連続で
動物の世界にはおそらく存在しないものではないか

🍀

最初に書いたように
私はもう冷めてしまっている

いわゆる大企業を渡り歩いて技術者として名誉・地位・お金を得て
悠々に暮らしてゆこうと考えたことの土台からが大間違いだったと
気が付いた時には半世紀が過ぎていた

温度差がある「ヒト」と「ヒト」との関係
毅然と尺度が異なる中での歩み寄りやら繋がり
または社会での共存・共栄の考えに
もう今更何を言う気もない

それが今である

恨みがあったらあの世に行ってから
化けて出て果たすしかないだろう
と笑い飛ばしている

父が逝った十九年前のこの季節、大寒が過ぎて舞った雪も凍えるように冷たかったが
いつの時代になってもこの季節は寒いもので
あのとき逝った人は凍える土の中であの世の三途の川を渡ったのだろうかと思うと

憎しみや悲しみというものは
赦したり忘れたりできるものであろうか
と改めて思うのであった

ねがはくは花のもとにて春死なむ ─ 元旦篇 (裏窓から)

🌸 ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ 西行

年末のある日ツマと二人でおせちもどきの料理をつつきながらツマが突然「春には桜の花を見にまた嵐山に行きたいな」「死んでしまうときには桜の花の下で春に死にたいわ」というようなことを言うので驚いた

西行の歌を知っているかと尋ねたらそんな歌も人も知らないと言う

ちょっと西行を知らないのは勉強不足かと一瞬思うものの、今はそのことを指摘するための時間でも会話でもなく

この人が何故にそんなことをふと言いだしたのかが気になって私はそのわけを考え始めた

考えてもわからないことはたくさんある

ツマになぜ急に「花の下で」などと言い出したのか

尋ねたとしてもそんなものはわからないし考えようともしないと言うに決まっている

答えのないことをいつまでも問い続けその源流を探り続けることは人生の合理的に歩むという視点では全く無意味なことになろう

答えがないのにぐずぐずと考えるなど愚か過ぎると言い切る人もいるだろう

しかし

答えのないことにも根拠があるはずであるし本当は答えだってどこかに潜んでいるはずだ

見えなくなっているとかぼやけているとか邪魔が入って見つからないだけだといえるだろう

答えのない命題は、しかしながら、私たちがごく当たり前のように生きてゆく時間の中を漂い、人生という洋上を航海する私たちに無数の悩みや欲や希望や夢を及ぼし刺激もする

つまり例えば、無数の夢が無数の夢と結ばれれば「無数×無数の場合」が生まれるわけで、それに喜・怒・哀・楽の4つのケースを当てはめると「無数×無数×4倍」になる。現在・過去・未来を考えればさらに×3倍、憎しみと慈しみがあればさらに×2倍、富める人と貧しい人でさらに×2倍、忘れるものと忘れたくないものでさらに×2倍、男と女とどちらでもない人でさらに×3倍・・・

答えがないように見える問いかけを考え続けるのも人生なのかもしれない

たぶん大晦日の夜の闇を見つめて眠りを待っている時刻にはそんなことをぼんやりと考えていた

積読(つんどく)

大きな流れの波の上を
漂うように彷徨うている
そんなふうに思うことがある

若くて元気なころは時に無謀なこともしてきたけれど
今は考えもしなかったような自分がいて
それがやけにしおらしくて苦笑する

周りから仲間が抜けてゆくときもあったし
息が合わずに逸れてってしまったこともある
どっちが本流だったのか
いつまでも考え込んだものだ
さらには、この世から逝ってしまったものもいる

わたしもそんな波の上を
ときには大きく揺られながら
ここまでやってきた

もう沈んでもいいいやと何度も思い
漂うだけで幸せと泣いたこともあった
ほんと
私は今日まで生きてきました♬
と口ずさんだものです

たくさんの人に手を差し伸べてもらい
命を助けてもらい
沈まないように静かな波間を導いてもらい
ここまでやってきた

これからは
恩返しをする番なのです

若い時とは違った使命が山ほどあって
パワーは昔のようになくて
なんの取り柄もなくて
でも
人生の後半戦は忙しい

一緒に頑張ろう
まだまだ この先も

最近どうよ?

と尋ねられて

井上靖の「孔子」を
もう10年以上鞄に入れて
持ち歩いているけど
やっと読んでて泣けるようになったよ

と答えている


平成28年12月17日中日春秋(中日新聞)から
「積ん読」という言葉は、世界に誇るべき日本語らしい。オックスフォード大学出版局は、「愛書家が知っておくべき十の言葉」の筆頭に、tsundoku(ツンドク)を挙げた
▼買った本を読まないまま、積んでおく。そんな状態をずばりひと言で表す言葉が、英語などにはない。日本の読書文化が生み出した見事な言葉なのだ
▼だが、胸を張ってばかりもいられない。本棚からあふれ、廊下や枕元などで山となった本に、自己嫌悪さえ覚えるのに、その山は確実に成長し続ける。そういう「積ん読病」患者にお薦めなのが、若松英輔さんの近著『言葉の贈り物』だ
▼若松さんのお父さんも大変な愛書家で、晩年に目を悪くして満足に読めなくなっても、買い続けた。どう見ても無駄である。父の「積ん読病」を若松さんが同僚に嘆くと、こう言われたという。「読めない本は、読める本より大事なのかもしれない」
▼<人は、いつか読みたいと願いながら読むことができない本からも影響を受ける>と、若松さんは書く。<私たちは、読めない本との間にも無言の対話を続けている。それは会い、話したいと願う人にも似て、その存在を遠くに感じながら、ふさわしい時機の到来を待っている>
▼いい言葉だなと思い、こういう本はじっくり噛(か)みしめるように読もうと、枕元の本の山の一番上に置く。かくして積ん読の山は、また高くなる。

躓く・忘れる・落とす・こぼす─朔日にうるめを食いつつ考える

♠️躓く
絨毯程度のちょっとした厚みであっても足がすっと閊えてしまうことがある
足が微妙に高く上がっていないからだろうと思う
そういうふうに躓くことが増えた

♠️忘れる
頻繁に会った人なのに暫く振りにどこかでばったり再会して名前が思い出せないことがある
いわゆるド忘れである
これには特徴があって必ずと同一人物を繰り返して忘れる
意地になってメモをするものの見ないで思い出そうとしても蘇らないことが多い

♠️落とす
テーブルに腰掛けて作業などをしながら手を伸ばして離れた場所からハサミを取ろうとしたときなどに手に持ったハサミをポロリと落とす
手が握る力(握力)を加減する制御神経のようなものが微妙さを失ったからであろう
一定の力で握り続けている時にふっと筋力が緩むように見える

♠️こぼす
漬物とか惣菜などをテーブルの上で取り分けるときに取り皿までの間でぽろっと匙からこぼすとか箸から落ちしてしまう
また、お茶漬けをかき込むような動作でご飯を食べているときに口からポロポロとご飯などが零れ落ちる

うるめ
朔日にうるめを食いつつ考える

(1)忘れる
(2)落とす
(3)こぼす
(4)躓く

この4つのアクションは日ごろの行動で起こるミスだ
特にある年令を回ったころからこうしたちょっとしたミスが気に掛かるようになってきた

しかし視点を変えると面白い

人生の歩むうえでの自分の姿や道程にも当てはめることができるのではないかと後でよく考えてみて気づいて苦笑いをする

人生において起こるこれらの4つのミスは、若いときであれば日常茶飯事で、驚くことではなかったわけで、むしろそれをステップ・アップの足場にしてきたはずだった


♠️落ちると躓くは人生において痛い思い出がある

受験に落ちる
高校入試失敗で始まって高校2年の2学期の交通事故の後の成績の急落
大学受験は推薦で落ちて現役で落ちて浪人で落ちまくる
進級においても落第を体験するし
人生いろいろというのは早くも15歳の時から始まったのだった

躓く人生
元来頭は良くないのだからそんなに背伸びをしても無駄なことが多く
自分に合った人生の道を歩むべきで合ったのだと気づくのはこの年に近づいてからだ

躓いたことをふりかえるものの実力不足なのだから想定通りに壁に当たったというのが正しいか
出世もできないし仕事での成功も(私の力では)輝かしいものはあまりない
周囲に恵まれての言ってみれば歴史に残るような足跡があるともいえようが
私が一人で築いたものではない

オンナ好きの怠け者、さらには見栄っ張りでケチ
思い出したくもないオンナに騙されて人生の崖を落ちることになったのはここで封印する
(ツマには感謝します)

そもそもが競うことを嫌う性格がたたって
似たものが集い切磋琢磨して上達しながらものを作り上げてゆく集団には行きたがらない

♠️曽祖父、祖父、父と三代に渡って、村長、村会議員、公務を努めてきたのだから
何もスピンアウトして遠い都市に本社を置く企業に行くことなどせずに
故郷に御恩を返すべく奉公する職につき持ち味を出せばよかったのだ

(身近な人たちは口を揃えていうのだが、もうすでに遅い)

♠️こぼす と 忘れる
まあ歳食ったんだから仕方あるまい

幸せに生きよう
健康に暮らそう
そんなことばかりを口癖にしている

人生は死に向かう歩みである

年齢を重ねていくとは、心が豊かになっていくことだと思っています

先日ある方からいただいたメールに
書かれた一文が目にとまった

するりと読んだものの気に掛かるので
少し思いを揺らせている

その1通前の便りには
まだまだ思い出を語るには早い年齢
とも書いている

いろいろと回想することやら想像が頭の中を巡る

🍀

悩みや悔やみに満ちてこれまで生きてきたことの苦悩から脱出して
少しでも緩やかに穏やかに楽しく愉快に暮らしたいと
晩年を迎えて多くの人たちは夢見る

ストレスに締め付けられる時間を過ごすのではなく
我が儘で気まぐれな時間を送りたいと誰もが願う

豊かなモノに満たされて
欲しい物など何1つ辛抱することなく手に入れて
満足で豊かな暮らしをしたい人もあろう

人生の道筋の先に1つの姿を目標として置き
例えば幸せをこういうふうにして掴みたいと考える
それは叶うかどうかはわからない
叶わずに終わる人も多かろう

私たちは生まれたときから幸せを追い求め続け
苦しみや悲しみを踏み越えて
夢を食べながら一生懸命に歩む

ある形をしたものを描きつつ
そこに豊かさを見いだそうとしている
そんな気がする

🍀

私の想像は
単なる想像というよりも
ドラマの創作のように多様なものに変化し
もらったメールとはかけ離れていってしまう

世の中には
無数の人生の筋書きがあり
価値観があるわけで
私が考えたのは
きっとその1つを
掘り出して組み立ててみただけなのだ

豊かさを求めながら
幸せとは何だろうか
考え続ける

人生は死に向かう歩みである

スモモ成り父の形見や十六年

スモモ成り父の形見や十六年

父が逝ったのは平成10年(1998年)のことで夢のように私の前から消えてしまう。
あれからやがて20年を迎えることになる。

ヒトの人生とは考え尽くしたところで何も答えは出ない。
だが考えつくされてゆく。

生まれてから成人するころまでは父や母というのは居て当然という無意識のなかにある。
そんなふうにして大人に成長してきた人が大部分だろう。

スモモ
スモモ

私も例外ではなかった。
貧乏な農家の長男として(非常に古典的な宿命も背負いながら)東京に遊学させてもらい親不孝を鈍感に続けてきた。

ちょっと誰にも話さないような野望に似た夢を抱いていた時代があった。
「いつかはオヤジと」という言葉があるように  ─  ウチらには「オヤジ」「おふくろ」と呼ぶ方言はないが  ─  「いつかそのうちおとやんと」と考え続けて青年のころを生きていた。

二十歳を回って苦労をかけるのも限界に近づきそろそろ社会に出る時期が近づいたというころには切実に「いつかおとやんと飲もう」という気持ちも手の届くところに来ていた。
ところが、(油断のようなものだろう)自分の選んだ道は自分の手柄のように勘違いして三十過ぎても突っ走っていた。

社会人になってからその次の約20年間 ─  2ndステージで何かを実現させたかといえば勢いに甘んじていたのだった。
散々ヒトにお世話になっておきながらなんの恩返しもせずに生きていた。
今のナリで生きておれるのは自分の手柄なのだみたいな顔をして生きていた。

おとやんと話をしたのかと問われればそんな記録も記憶も殆ど無い。
何をしていたのか
キツネに抓まれたように貴重な時間や金を浪費した。
父とゆっくりと話をした記憶もない。

その大バカな人生の 2ndステージを10年ほど過ごし、33歳のころに京都から古里に戻るのだ。
だがその後の時代には、クルマで45分ほどという好条件であったのに、あまり家には帰らず、泊まることも滅多になかった。

そしてそんな20年という 2ndステージの終盤で父は夢のように逝った。

あれから18年が過ぎてしまっている。

「今年の初なすびを持って帰るか」
茄子(なすび)を袋に詰め込みながら
「スモモが成ってなあこれも持って帰り」
と母が袋に詰めてくれる。

トウモロコシが欲しくてそのことをいうと「あと二三日先や」と言う。

そんな気の利いたときにモノが思い通りに手に入るものか
親が死ぬときにも傍にいなかった者に──
と思ったかどうかはわからない。
18年前には何度もそう思っただろうがもう感情も風化したかもしれない。

「スモモの木をおじいさん(父のこと)が死ぬ前に植えてあってな それが二年ほど前から成るようになったんや 桃栗三年柿八年というやろ 桃と違うてえらい暇が掛かったわ」

母はそう言ってスモモを手のひらに載せきれないほどにくれた。

着々と


着々とその日を迎える準備をしている
時間がコツコツと音を立てるように過ぎてゆくように感じる

その日とは子どもが生まれる日で
予定では閏年の閏の日である

主治医の先生の話では
もうそろそろだということで
予想では10日ほど早いのではないかと
期待を募らせている

この子の母も
1週間ほど予定よりも早く
この子を生んだのだし
安産だった聞かされて
安心しながら
わが家でのんびりと時を過ごす

早いものだ
この子が生まれて
28年もたったのだから

忘れる

平成22年(2010年)の年末に「遺す言葉」を書き始めている。

忘れようとすることとはどういうことかをあのときは考え続けていたのかもしれない。

忘れてしまうには覚悟が必要だ。
そのことを薄々感じ始めいるようだ。

恩返しをしないままですべてを忘れてしまっていいのか。
何も残さずに命を絶やしていいのか。
そんなことを考えたのではないか。

許すということは忘れるということだ。
そのことが言葉になって迫ってきたときにこれまでの許せない数々の出来事を次々と思い出してゆく。
しかし、次々と出てくるはずのものがそう長くは続かなかったから慌てた。
こんなに少なくはないはずだ。
もっと憎しみや恨みに満ちていたはずだ。
だから、許せないアイツらのことは必ず山のようにあるはずだ。

そう考えたのだろう。

ところが、あたかも許したように出てこないのが悔しい。
許すということは忘れるということ
その言葉を何度も頭のなかで反芻した。
忘れてしまっては許したも同然だ。

怒りも湧き上がりながら
万事休すなのかと悲しくなる。
諦めもどこからか忍び寄る。

けれども、ゆるさないために思い出さねばならないのだ。
ペンを置いてはいけないと誓おう。

見てわからん者は聞いてもわからん

見てわからん者は聞いてもわからん
ヒトのふり見て我がふり直せ
この二つの言葉について考える

父には頻繁に注意をされたものだ。
小言ではない。説教でもなかった。
偉い人の説法に似たようなモノであったのかと今ごろになって回想する。

▼見てわからん者は聞いてもわからん

この言葉の本当に深い意味考えてみるとき、ずっと50年以上もの間にわたって本当の「その心は」の部分をわたしは理解しないままでいたのだと気づく。ちょっと恥ずかしいのだが、当たり前のことを理解していなかった自分の愚かさをさらけ出す話だ。

「見てわからんことがあっても、聞いたらわかるやないか」
さらには
「見なくてもきちんとした設計図があれば完璧に学ぶことだって出来るはずやないか」
と若いときには何度も思ったものだ。

そう考えた理屈は決して間違っていないとも言えるし、その言い分で成功を収めることも出来るだろう。そのまま完了して終わってしまうこともある。さらには、成長していく段階においても「見てわからん者は聞いてもわからん」という言葉の真意を理解しないままで何も困らずに安泰に過ごせた人も多いかも知れない。

しかし、この言葉にはもっと深い哲学が潜んでいるのだ、と歳を経る毎に思うのである。

見てわからん  → 聞いてもわからん
聞いたらわかる → 見てもわかる

論理式はこうなるのだが、それだけではない。
じっと見つめて、観察することからすべては始まる。

そこに隠されたコツであるとかその手法を考案した人の視線や視点・考えを想像して学ぶこと。
さらにはその技が生まれてくるまで、頭脳のなかを駆け巡った工夫や着想の切っ掛けやアイデアの変化を肌身で感じて自分のモノにしなくてはならない。

職人の技を弟子入りした者が何年もの下積みを経て身につけて一人前にしてゆくときの姿勢のようなモノを説いているのだ。襖張りであるとか寿司職人が師匠から学ぶのに十年二十年という目の眩むような年月を要して血と涙の足跡やワザを受け継ぐ。

こんな伝承のスタイルは、今の時代には消えかかっているのかもしれない。
だが、自分が1つのモノを完成して揺るぎない技として完成して、さらにそれを未来に受け継ぐ確固たる作品や無形の力にしてゆくために、本当に真剣にやり遂げようとするならば、まずは「見て」学ぶのだと父はわたしに教えていたのだ。

この「見る」と短く表している言葉の奥には果てしなく揺るぎない厳しさがあったのだと思う。

おとやんの手紙

おとやん と呼ぶ

おやじ、オヤジ というふうに呼ぶのを本や雑誌、新聞などで聞くが
私のところでは自分の父親のことを「オヤジ」とは呼ばない、言わない。
そんな言葉は辞書にないので、例えば「おやじの背中」なんてのはあれはどこぞよその地方の人の気取った言葉でしかない。

おとやん

そう呼ぶのが正しい。
しかし、友人などとの会話でアナタのお父さんをさして「おやっさん」ということはある。

そのおとやんは「為せば成る」という言葉が好きだった。トントンと思いだせないが、「一を聞いて十を知れ」「聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥」「黙って見て学べ」「面倒くさいということは何もない(言い訳だ コツコツやれ)」というようなことは、日常の口癖のように言ったものだ。

確かに、自分の日常の暮らしのなかで、数々の不可能を知恵と工夫で可能にしてきた人であったかもしれない。


手紙が引き出しの中に残ってた。

手紙1
手紙

荷物を送ります
柿はすぐ赤くなるので早くたべなさい
落花生はいってあります
芋は小さくくだいて入れましたので おばさんに早く料理につかってください
洗ふのは面倒ですがわけを言って下さい
今日は本当に寒かったので こんな日が毎日と思います
風邪をひかないようにして下さい

手紙2
手紙

今日26日小包を送ります
寒くなるまでにストーブを買いなさい
着るものは高い様で安い物ですからほしいと思ったら買ふ事
食べることも大事なので おいしいものは食べなさい
タバコ等はお金はわずかですが
なるだけ いや ぜったいと言いたいが まあ ほどゝゞにしなさい
小包の中の「のり」は下宿のおばさんに出して下さい
学校はサボらずに さようなら


父は荷物を送ってくれるたびに
いつも手紙を添えていた

鉛筆書きで
最後に何度も
さようなら
と書いたのだ

いつかはゆっくり
一緒に呑みたい

多くの人がいうように
わたしもそう思ったものだが

叶わぬままであった

ささやかにボーナス明細でた夜のケーキ

ささやかにボーナス明細でた夜のケーキ
12-05 09:00

金曜日の夜 ムスメと食事をしているときに
旦那さんがケーキを買ってきてくれたのだ
とポツリという。

ボーナスの明細をもらっただけであるが嬉しいのだ。
そういう包み隠さない一直線な心を
わたしは持たなかっただけに
素直にケーキが買えることは
いくら頭で考えても真似ができない。

お給料は二人を合わせて
今の同年代の人たちにしたら
十分な額だろう。
二人で働くのだから苦心も多いだろうが
それをカバーしあうことも必要だ。

時代は変化しつつある。

その中を生き抜くためには
まず状況が変化をしていることを知り
未来を予測し
着地点を見定めて
これからゆく道筋を冷静に決めるのことが大切だ。


拗れる、拗ねる ─ 月のはじめに考える(その続き)

荒んだ学生時代

 

  • 萩山寮(久米川寮)
  • 出席(無断欠席・サボり)
  • 落第(奨学金停止)

このことを書き残そうと考えたのは、懐かしさからだけではない。


▼ 萩山寮は東村山市の西武線久米川駅と萩山駅のどちらから歩いても同じ程のところに位置していた。久米川病院というやや大きい病院を裏に入ったところだった。

予備校の寮だった。

田舎から出てきた浪人生だけが住むところでかれこれ30人ほどは住んでいただろう。多分、ピンからキリまでの顔ぶれだったに違いない。

鹿児島で整形外科医院を開業している村永君であるとか、現在東京新聞の政治部長をしている高田(旧姓岡田)君(イオンの岡田会長の息子)もいた。1年限りの短い付き合いだったが、結構アツイ1年を過ごした。

朝早くにブリジストンのグランドへ忍び込んで野球をしたり、玉川上水の散歩道を走ったり、空調などなかったので、寮の前の道路で涼みながら話をしたり勉強をしたりした。

学校にはちっとも行かなかった。何して過ごしていたのか。夜型人間になりきっていた。


出席しないという癖は予備校時代についてしまったのだろう。週間テストというのだけを受けに行き、授業には出なかった。父や母が聞いたら嘆いただろうな。もしも、わたしが親だったら泣いても泣ききれないようなグウタラなことをやっていたのだから、思い出すだけでも申し訳なく、辛いものがこみ上げてくる。

大学時代も全然講義に行かなかった。どこでそう吹き込まれたのか、大学生は授業をサボって遊んでばかりいるものなのだというイメージを持っていて、講義に出てまじめに勉強しようとはしなかった。

勉強しなくてはいけないと考えていた点は真面目であったので、自分で独力で教科書を読んで頑張ればいいと思っていたのだ。それも浪人時代の自分勝手な考えから来ていたのだろう。

浪人時代には試験に通りさえすれば自力で勉強していても構わないと考えた。授業なんて信用出来ない。そんな考えがあった。それもこれも、できの悪い高校だったことで授業を信用できなくなったからだと自己分析している。


▼ 挙句の果てに落第だ。

人のノートをコピーするとか、試験答案を覗く、カンペを使う、などは嫌いだった。そのへんは真面目といえば真面目だったのだが。勉強が下手で、やり方も頑固だった。

勉強と向き合う姿勢は年を経て随分と変わってきたと自分でも思う。変わってきたというより遅れていたのを修正しつつあるというのが正しい。

 

むかしの話をしょうか(12月号)

11月に【むかしの話をしょうか】と書きはじめていましたが
こちらにコピーしてつづきを12月号として書いてみたいと思います。

「暑い地下鉄」まで書いていたのでその後の段からがこのページだけになります。
始まりは ▶ 最後の言葉 ─ 小雪篇


❏ ちょっとしたこと

  1. 書道をする
  2. 絵を描くこと
  3. 彫ること
  4. 暗記をすること
  5. 鉄棒をする
  6. スポーツをする

❏ 昔話をしようじゃないか


書き足し中(月が改まったらそこまでをコピーしていきます)

むかしの話をしょうか(初号)

むかしの話をしょうか とタイトル変更します

最後の言葉 ─ 小雪篇

20151122ひの菜IMG_1989
ひの菜

小雪篇で、あんなことを書いていたら
むかしの話 を書いてみたくなったので
メモをしていく


❏ ちょっとしたこと

  1. 書道をする
  2. 絵を描くこと
  3. 彫ること
  4. 暗記をすること
  5. 鉄棒をする
  6. スポーツをする

❏ 昔話をしようじゃないか

  1. 賄付き下宿・能生館
  2. 能生館の窓から
  3. 能生館の部屋
  4. 愛情ラーメン
    1から4は↓が詳しい
    江古田のことはコチラが詳しい
    江古田(5)〔2004年9月初旬号〕
  5. 銭湯
    青ガエルおまえもそこで雨宿り
  6. 冷房がない通勤列車
  7. 暑い地下鉄
    満員電車と暑い地下鉄の話
  8. 夜行列車(大垣行き)
  9. ビール2本
  10. 萩山寮(久米川寮)
  11. 出席(無断欠席・サボり)
  12. 落第(奨学金停止)
  13. 為せば成る
  14. おとやんの手紙

書き足し中

ひの菜が旨い季節

2015年11月16日 (月)
ひの菜 食う
ひの菜が旨い季節やね

20121130

20150119


そんなことを遡ってブログに書いた。
載せた写真も昔のものである。

11月8日の朝に風邪症状が出て
ミドラの練習・初参加を断ることになった。

それは、1週間後にもまだ治らず
14日の練習も断念。

仕事は9日(月)から11(水)まで おやすみ状態となる。
(火曜日は早引き)

ノドが痛いくらいで
カラダが怠いくらいで
咳が出るくらいで

仕事を休むなんて
(本当は休みたいけど)
(仕事に行っても捗らないけど)
許されないと考えていた時代があった。

そう、まさに「時代」と呼べるようなほど昔であり
何かの信仰か魔術か
自爆か束縛かのように

必死になって仕事に行ったのだ。

スピンアウトして人生を考えなおしたら
なんて馬鹿馬鹿しくて愚かな事だったのかと反省する。

尽くすことや誠意を示すこと
至誠を旨に突き進むことは大切なことではあるものの

立ち止まって考えれば
別の見方もあることを【知る】ことも大事なのだ。

もっ早くそのことに気付けば
曽祖父が村長、祖父が村議会議員、父が公務と歩んでいた本当の意義を「知り」
わたしも道を選び直すべきであった。

若い時代に自分の人生など決めようとすることは
時によっては無謀である場合がある。

そんなときに
親のうしろ姿はとても大事なのだと知るのも
ずっと後になって天命の年齢を迎えてからだった。

しかし

行きつくところは
「これでいいのだ!」(バカボンのパパ)
なのだ

これでいいのだ

遺す言葉 その2 を読み解く

【自解】
その2を読み返してみる。
大筋は以下である。


遺す言葉 - 2

  • 遺言というもの
  • 言葉として遺せるものは何もない
  • 考える前に閃く
  • 猫が玄関を閉めないので解決する
  • まずやってみる
  • 面倒くさい
  • 晩年は絵を描いていた
  • 絵を始めるときに

(平成23年6月30日)


■遺言というもの

自分でも読むのが面倒なのだから他人は読まないだろう
なかなか書き進まないのは、ゆっくりと考えることが難しいのだろう
誰かが読むのか
読まれぬ間に捨てるのか
果たして如何なる運命にあるんか

■言葉として遺せるものは何もない

父は「人の振り見て我が振りなおせ」という言葉を口癖にした
それは、親がこめた子どもへの伝言であったのだ
遺せないわたしは早くも敗北宣言かもしれない

■考える前に閃く

理屈も言うことがあった
だが、芸術的には私には理解できない感性を持っている人だった
絵を描く、 木を彫る、木を組み上げる、
物を作る、無から工夫して創り上げる
自然行動的欲求を解決する行動を天性として持ち合わせていた

■猫が玄関を閉めないので解決する

昭和30年代
ウチの猫が玄関を閉めないので自動的に閉まるように玄関の引戸を改造する
玄関前人が来るとブザーがなる仕組みも実用化
実行家だった

■まずやってみる

「何が問題か解析も大事だがまず現物を見つめなさい」
そういう注意を受けた

■面倒くさい

そんな言葉はこの世の中にはない。これは口癖だった。
次の一手には必ず理屈があるのだということも言った

■晩年は絵を描いていた

(晩年)水彩画を始めのちに油絵に
作品は九割以上が駄作で付き合いのあった人の家に散らばっている
それらを回収してどこかに飾る部屋を作りたいとも思う

■絵を始めるときに、あれこれを考えることはしなかった。
小遣いもないのに高額な画材を買ったり、人目を気にせずに写生を始めたりした。
私にはそんなストレートさも素直さもない

2011年6月30日 (木曜日) 【- Walk Don’t Run -】


大雑把に読み返して、読み解いて、贅肉を取り去ってみた。

こんな父のようになれなかったのは自分に素直さが欠けていたからだ。
あの人は素直な人じゃなかったが、純粋な人だった。

悠々自適であったかどうかは本人に確かめるしかない。
言葉を何も残さずに逝ってしまった。
きっと、わたしもそう終わりたいと思っているのだ。

もっと生きさせてやりたかった。

手が見えて父が落葉の山歩く  飯田龍太

手が見えて父が落葉の山歩く  飯田龍太(昭和三十五年)

飯田龍太のこの句に出会ったのは最近のことでそれほど深い意味もわからず静かな落ち葉の公園の遊歩道のようなところを想像していた。

然しのちになってもう少し深い意味があるのではないかと思い立ち評論や引用などを手探りで辿ってゆくと、今度はわたしの文学の知識や資質を大きく上回るような解説が出てきて、これはこれは大変偉大な作品に出会ったのだと密かに喜んだのだった。

手が見えて父が落葉の山歩く(昭和三十五年)

[自選自解 飯田龍太句集]の解説から

<実景である。早春の午下がり、裏に散歩に出ると、渓向うの小径を、やや俯向き加減に歩く姿が見えた。この季節になると、楢はもちろん、遅い櫟の枯葉もすっかり落ちつくして、梢にはひと葉もとめぬ。乾いた落葉がうずたかく地につもる。しかし、川音でそれを踏む足音はきこえない。明るい西日を受けた手だけが白々と見えた。くらい竹林のなかから、しばらくその姿を眺めただけで、私は家に引き返した。この作品は『麓の人』のなかでは、比較的好感を持たれた句であったようだ。しかし、父が、これから半歳後に再び発病し、爾来病牀のひととなったまま、ついに 回復することが出来なかったことを思うと、矢張り作の高下とは別な感慨を抱かざるを得ない。いま改めてその手が見えてくる。父は生来、手先は器用の方であった。>

昭和三十五年の秋といえば、わたしは3歳になるときのことだ。父はもちろん祖父も元気であった。
母がいる実家の押し入れには、おそらく、わたしが父に肩車をしてもらって祖父と並んでお伊勢さんの鳥居の前で撮った写真が残っているはずで、それがそのころのものだ。

伊勢まではどうやって行ったのだろうか。
写真には書き添えられてはいないが、ディーゼルカーはあったのかどうかもあやふやで、蒸気機関車が普通に長い長い客車を引いて走っていたころのことだから、汽車かもしれない。近鉄電車にも乗っただろう。

父も祖父も重苦しい外套を着てカメラに向かって最高の顔をしている。
三十歳に満たない時代は誰にでもあった。わたしは自分が子どもである写真よりも父と祖父がここにいることに大きな価値を抱いている。

祖父は二三年後に亡くなってしまう。わたしには祖父の記憶がある、と思いながらそれは遺された数少ない写真を見て作られたイメージであるような気もする。しかし、5歳ほどなら記憶があっても不思議ではなく、何となくであるが祖父の葬儀に参列しているような像も頭の片隅にある。

子どものころは事ある毎に父に肩車をしてもらったものだ。今の子どもたちがお父さんに肩車をしてもらっている光景をあまり見かけないのは何故だろう。高く突き放す感じよりも子どもを大事に抱きかかえる動作のほうが日常になったからかも知れないと推測したりしている。子どもは宝なのだがある一面で抱きかかえ過ぎていることの象徴のようにも思う。

父も祖父もいなくなりわたしが父という立場から祖父へと代わる時がもうすぐに来る。
そんなこれからのかずかずの光景のなかで、ほんの少しでよいからこの句の「手」のようにありたいものだと思う。

遺す言葉 - 29 をまとめる

遺す言葉 - 29
をブログからピックアップしている

目次ページを作成するのは「その29」が初めての試みで
これまでには このようなページを思いついていないので存在しません

構想はあとから湧いて出るものだろうから
遡って目次を作ることはせず
その1からその28までを読む人があったならば
お手数ですが ブログを辿っていただくことでおねがいしたい

こんな記事を
本当に必要とする人が
この世にいるのかどうか
不明なままである

❏ 「遺す言葉 - 29


2015年8月10日 (月曜日)
宮本監督(津商) ─ 頼まれごとは試されごと
【雷山無言・語録選】


2015年8月11日 (火曜日)
立秋と書き出す手紙蔓の花 ─ 立秋篇
【裏窓から】


2015年8月20日 (木曜日)
心は巧みなる画師の如し ─ 水のかたち(宮本輝)から
【雷山無言・語録選】


2015年8月23日 (日曜日)
稲刈り ─ 処暑篇
【裏窓から】


2015年9月 5日 (土曜日)
北海道 ─ 花も嵐もⅢ その84


2015年9月12日 (土曜日)
秋風に吹かれて鉄棒にぶら下がる ─ 白露篇


2015年9月17日 (木曜日)
舌まがりアナタを好きと言いそびれ
【余録】ねこさん通信


2015年10月 2日 (金曜日)
むかしの話 ─ 花も嵐もⅢ その85
【花も嵐もIII】終楽章


2015年10月31日 (土曜日)
等伯と永徳 ─ 霜降篇
【裏窓から】


【利賀村】 を回想する

11月1日になった
むかしを回想している

利賀村に行ったときのことが
真っ先に浮かんでくる

検索をしてみた


  • 無謀なこと 花も嵐もⅡ その56
    いい。牛首峠に迷い込んだのが初期の頃だ。利賀村にそばを食べに行って、帰り道のルートで牛首峠を越えたときだ。線路の石ころのようなバラストのダートに迷い込んで…
  • 戸隠へ  花も嵐もⅡ その25
    ングが変わり始めたのでしょうか。富山県の利賀村に蕎麦を食べに行き、長野県の戸隠に蕎麦を食べに行く。だんだんと「蕎麦ツー」というものが楽しくなってゆきます。…
  • 蕎麦ツー  花も嵐もⅡ その24
    利賀村というところがある。蕎麦がたいそう旨いという。しかしあのころは、蕎麦にはそれほど関心はなく、新しい味覚を求め…
  • 平湯・キャンプツーリング
    して温度計を見たら1℃。昔、11月初旬に利賀村でビバークキャンプをしたときに1℃だったなあ。周りの山は真っ白だったのだから、十分にその寒さだ。しかし、平湯…
  • 1994年 夏・東北を走った
    行[6] 8/11:…日本海沿岸…富山(利賀)……自宅(松阪)[8/11-1]日本海沿岸(2)[8/11-2]利賀再訪[8/11-3]帰途119行[7] …
  • 奥飛騨・信州(1996年)
    合掌造りP106/P108/P136 利賀村の蕎麦(食べて)~名前わかんない峠~楢峠P95上→下 <奥飛騨> 飛騨・高山市P92 平湯…
  • 楢峠から水無ダム方面利賀村へ  幻想篇
    楢峠は厳密に言うと「楢峠+県道34号線(利賀村方面)」をさしている。 天生峠は飛騨古川から白川郷へと東西の峠で、楢峠は天生峠の手前から北上する。さらにその…
  • 冬じたくまでに会いたい人がいる
    奥飛騨へ、いざなうもの1992年11月に利賀村を訪ねて、秋から冬に変化する瞬間の寒さを体感した。あのワクワクを子どものように待ち侘びている。そのインセンテ…
  • 楢峠、牛首峠 【峠越え】
    富山県に利賀村と行ったときの思い出話を。1992年の10月31日の朝、テントなど一式とパンツを3枚を持って奥美濃へ行きまし…
  • 第15話【花も嵐も】 利賀村への道<奥美濃>
    富山県に利賀村というところがあります。そこの蕎麦は格別に旨いのだという話をバイク仲間から教えられて知ってしまった私は、ずっ…