- 萩山寮(久米川寮)
- 出席(無断欠席・サボり)
- 落第(奨学金停止)
このことを書き残そうと考えたのは、懐かしさからだけではない。
▼ 萩山寮は東村山市の西武線久米川駅と萩山駅のどちらから歩いても同じ程のところに位置していた。久米川病院というやや大きい病院を裏に入ったところだった。
予備校の寮だった。
田舎から出てきた浪人生だけが住むところでかれこれ30人ほどは住んでいただろう。多分、ピンからキリまでの顔ぶれだったに違いない。
鹿児島で整形外科医院を開業している村永君であるとか、現在東京新聞の政治部長をしている高田(旧姓岡田)君(イオンの岡田会長の息子)もいた。1年限りの短い付き合いだったが、結構アツイ1年を過ごした。
朝早くにブリジストンのグランドへ忍び込んで野球をしたり、玉川上水の散歩道を走ったり、空調などなかったので、寮の前の道路で涼みながら話をしたり勉強をしたりした。
学校にはちっとも行かなかった。何して過ごしていたのか。夜型人間になりきっていた。
▼ 出席しないという癖は予備校時代についてしまったのだろう。週間テストというのだけを受けに行き、授業には出なかった。父や母が聞いたら嘆いただろうな。もしも、わたしが親だったら泣いても泣ききれないようなグウタラなことをやっていたのだから、思い出すだけでも申し訳なく、辛いものがこみ上げてくる。
大学時代も全然講義に行かなかった。どこでそう吹き込まれたのか、大学生は授業をサボって遊んでばかりいるものなのだというイメージを持っていて、講義に出てまじめに勉強しようとはしなかった。
勉強しなくてはいけないと考えていた点は真面目であったので、自分で独力で教科書を読んで頑張ればいいと思っていたのだ。それも浪人時代の自分勝手な考えから来ていたのだろう。
浪人時代には試験に通りさえすれば自力で勉強していても構わないと考えた。授業なんて信用出来ない。そんな考えがあった。それもこれも、できの悪い高校だったことで授業を信用できなくなったからだと自己分析している。
▼ 挙句の果てに落第だ。
人のノートをコピーするとか、試験答案を覗く、カンペを使う、などは嫌いだった。そのへんは真面目といえば真面目だったのだが。勉強が下手で、やり方も頑固だった。
勉強と向き合う姿勢は年を経て随分と変わってきたと自分でも思う。変わってきたというより遅れていたのを修正しつつあるというのが正しい。