時を失う ✣ 車谷長吉 赤目四十八瀧心中未遂

赤目四十八瀧心中未遂を読み返している

車谷長吉の小説で「時を失う」という表現が出てくる

赤目四十八瀧を彷徨い 物語の結末は心中未遂なのである
二人は 生きてゆくことの儚さと まさに「時を失う」衝撃を 感じながら 自分の生きる道の運命と闘う

「時を失う」
ものがたりの中で言葉にしてちらりと見せて しかし それが一体どういうことなのかには触れていない

この世で生きていく限りは 夢がありその夢に敗れることがある

明るい未来を諦め 現実に向き合い その泥のような沼で踠きながら さり気ない顔をしながら生きている

泥に塗れて生きていかざるを得なかった人生を 何も恨むことなく 受け止めて この道の先へと二人の行先が展開される

「生島さん。うちを連れて逃げて。」
「えッ。」
アヤちゃんは下唇を噛んで、私を見ていた。
「どこへ。」
「この世の外へ。」
私は息を呑んだ。私は「触れた。」のだ。 アヤちゃんは、私から目を離さなかった。 私の風呂敷荷物を見て、ほぼ事情を察していたのだ。私は口を開けた。言葉が出なかった。
アヤちゃんは背を向けて、歩き出した。その背が、恐ろしい拒絶を表しているようだった。私は足が動かなかった。アヤちゃんは遠ざかって行く。私は私の中から私が流失していくような気がした。小走りに追いすがった。(208P)

「おばちゃん、いまごろがっかりしてるわよ。」
「はあ、よう分かってます。私はいっつもこないして、時を失うて生きてきたんです。」
「生島さんは、やっぱりむつかしいことを言やはるわね、 好きなんやね。 時を失うやなんて、私らよう分からへん。」
「 は、 すんません。」(213P)

赤目四十八瀧心中未遂

なんべん読んでも後半部分はどこを読んでも泣けてきて仕方がない

悲しいからではない説明ができない

説明をされたとしても聴いている方もわからないだろう

迦陵頻伽(かりょうびんが)
なんて美しい悲しみだろう
涙も出ない
泣けてくる

全篇を何度も読み直す
何度読んでも

頭の中に突っ張っている人生というものの 自分なりの理解を 鋭い刃で刺し込まれるような衝撃が伝わり 何が悲しいわけでもないのに 感情が揺さぶられる

どういう理由があって この作品に引き込まれていくのかは 自分でも本当のところがわからない

目の前の現実から 逃げ出したいというわけでもなさそうだ新しいドラマを手にしたいという願いがあるわけでもない

自分とは全く違った世界での 大人の童話のようなものなのかもしれない
車谷長吉という人のナマ人物と会ったわけではないが 小説が生み出す世界とのかけ離れていながらも すぐ隣にあるような決して夢物語でもない小説のどこかに惹かれてしまったのだ

作風が私の中に自然に溶け込んできているのだろうか初めて読んだ時は数行で放り出してしまったような記憶もあるものの 何を切っ掛けにしてかすっかり引き摺り込まれてしまったのだ


時を失う

何気なしに読み流してしまい
消えてしまいそうな言葉に
見事に引き留められてしまった


さて
この師走のテーマにしている考察に入ろう

と思ったが
別日記にしようかな 長くなるし

夏休み 作られたアウトドアな気が少しするのだ・・  八月はじめに考える

八月初めになっても考えることがなくて


7月29日、30日 孫たちはキャンプ
8月1日 図書三冊

  • 澤田瞳子
    火定
    星落ちて、なお
  • 山脇りこ
    50歳からのごきげんひとり旅 だいわ文庫

八月回顧

八月になればソワソワしていたものだ
夏休みを十日間ほどもらえたサラリーマン時代には 取り憑かれたようにバイクに荷物を積んで旅に出た

冷静に回顧すれば あれは異常なほどに職場から逃げ出そうとしていたのだろうか
家庭も置き去りにして一人旅に出るのは のちに反省しても 行き過ぎていた身勝手だという感が残る。もちろんその時の当人はそんなことなど反省もせずに既得権として遊びに出掛けてしまっていた

数々の反省が 残される時期であるものの もう後悔しても戻せない
もしも あの時間のあの行動がなかったとしたら 人生が違ったものになっていたのかどうか

責めることもできないし いまさら 塗り直すこともできない

自分の足跡に自信と確信を持つのが 一番なのだろう

アウトドアな時代

孫たちはアウトドア三昧で夏を過ごす

むかしなら 夏休みは学校科から解放されるのだが 今の子は親が仕事をしているのでそうはいかない

爺さん婆さんが近所に住まなければ 夏休みであっても普段通り 学童や幼稚園に行く

それが当たり前だからそれでいいわけであるものの 昔の世代から考えると やりきれないものも感じる

子どもは 勉強や習い事を淡々とこなし 夏休みは 滞りなく終了してゆくのだろう

熱い夏

水の事故のニュースも届く中 猛暑日の最高気温記録も日々更新をしていく

命に関わる危険な暑さ という言葉も飛び出す

大変な時代がやってきたと言って騒いでいるだけでは済まされない時代が近づいているのを感じる


池の底の月を笊で掬う ━ 赤目四十八瀧心中未遂

生島さん、あなたにはも早、小説を書く以外に生きる道はないんです。人は書くことによってしか沈めることが出来ないものがあるでしょう。

尤も小説を書くなんて事は、池の底の月を笊で掬うようなことですけどね

赤目四十八瀧心中未遂172ページ 山根

﹆﹅﹆

赤目四十八瀧心中未遂 (車谷長吉)を何度も読み返す

何度読んでも初めてのときのような感動が迫ってくる

なかにし礼 作詩の技法  (読後感想)

老驥櫪に伏するも志は千里にあり   (ろうきれき)

を座右の銘として、1980年に連載をしていたものに2020年になってあとがきを加筆している 

本のタイトルも「作詩の技法」と改めた 

なかにし礼の意思がとてもよく出ている 

この本を読みながらやはりなかにし礼という人は詩人なのであると思っていたことに確証を持つことができた 

この本を書いた後も40年間に作品を残し続け小説も手がけ随想も書いている 

歌謡曲の作詞をしている人でありながら文学色が豊かであることは歌を聞けばわかる 

一方で小説を読めば ありきたりの物語を作ってドラマ仕立てにまとめる作家とは全く違い 根底を詩が流れている上での小説を書いてきている 

なんとか賞をとって騒いでいる作品がたくさんあるが それらが年々売れであるとか受けであるとか話の流れに囚われているのが目立つ時代だ 

それらの近年の作品の作文そのものがおろそかになって行くのを嘆いても仕方がないが 

そういった意味でなかにし礼の作品は詩的な作品を提供してくれた貴重な もしかしたら最後の歌謡曲の詩だったのかもしれない 

そんなことにこだわったいてわけでもないのかもしれないが なかにし礼の作品がそうであったことの説明がこの本を読めば見えてきた 

最後まで読んで 本人が作詞ではなく作詩であるというているところで モヤモヤとしていたこちらの気持ちがスキッとした 

数々のヒットを生んだ著名な作詞家さんとは ちょっと区別して鑑賞したい 

読後に彼の作品を歌ってみた 

数々の自伝的小説も読みつつ、どこからこのセンスが生まれるのか 不思議なままだが 


🔗 なかにし礼 セレクション

🔗 なかにし礼 赤い月

(2021年1月24日 読了)

佐伯一麦 山海記  (読後感想)

佐伯一麦という作家は こはるさんに教えてもらった

全く読書の域が違う方から教わると不安があって 難しくて読めないいとか好みが全然違うと投げ出すしかなくなるので ヒヤヒヤドキドキで読み始める
佐伯一麦は 私小説作家で・・と聞いていたし、西村賢太を代表にするように私小説作家を全く僕は受け付けなかったから 詰まらないという心配もあって 相当に尻込みをして居たので不安は募る

同じ私小説でも車谷長吉は バイブルにしているから 不安の傍ら期待もしながら佐伯の小説を読み始める

作品には素直に入っていける


八木から新宮まで伸ばす路線は国内で最長の路線バスで 前から注目して実際に乗る計画も練ってみたこともあるだけに まずそこから始まれば よし読むぞ と気持ちも高ぶる

奈良盆地から紀伊半島を縦断して十津川村を経て新宮まで走るバスに乗って旅をする紀行であって 中身は軽くても それほど楽しいものではなく 面白さもなければドラマ的なものもない

実際にネットで地図を開きながら場所を確かめ さらに こまめに歴史資料を調べながら 読んでゆく

歴史には関心があるもの 全く詳しくないし 高校の供与レベルにもいかないほどの知識なので 幕末の志士の話を書いてあるが 小説を読むよりも資料を調べる時間の方が長くなる

紀伊半島の豪雨災害や東北の地震の話も 個人的な話を元に書かれている
わからないから読み飛ばしたいけど そうするとこの小説は骨抜きになってしまって面白くないだろう

佐伯一麦の作品の全てが面白いとは一二冊を読んだくらいでは言い切れないと思うが、とにかくこの『山海記』は飽きずに興味も保持しながら最後まで読めた

幕末の十津川の志士の話が出てくるので 勉強ができたので ありがたい

半島を襲った豪雨災害の記録のことも出るので、過去の災害記録も調べながら読む

さらに、自分で走った十津川村への山岳国道を思い出しながら、険しい山間を走り抜けた国道をバスが走る様子を思い浮かべる

ツーリングで紀伊半島は走り回ったし 半島の大山塊の飲み込まれてしまうような深さが 数々の旅で味わっている

その日本でも屈指の山岳道路をバスでゆくのだから そのことだけでも面白いのだから 佐伯一麦の視線と思っていることが一致すれば 小説を超えてハマりこんでいけるのだ

千早茜 しろがねの葉 (読後感想) - 小満篇

生きるということは一体どういうことかと考え、はて、相対して死ぬことを見つめている自分の姿がある

それは 手に負えなくて自力ではどうしようもならない人生というものと立ち向かうことでもあって ヒトは いざ そんな得体の見えないものと立ち向かうとなったら闘わねばならないと知らされる

時には自分の信じることには反発をしながら それは諦めという弱い心になって跳ね返ってくることもあり、勝ち負けとは違った大きな舞台で生きながら生きていく数々の壁に抗うことになる

人生を一度でも考えたことがある人であれば 勝てないものに抗うことや時には諦めることが あまりにも当たり前の筋書きの一種で 勝ち負けではなく自分の人生という道を勝手に決めてゆく一面を持っていることも知る

もしも この物語の最初の頁から読者が引き止められるとすれば この恐怖と畏れと悲しみと幸せと歓びが滲んでいる一節に 脳みその痛点をつかれるような感触を感じるからだろう

作者の 頭の中で滾るテーマへの 雄叫びのようにも思えてくる

いかにも今風の人気作品とは 正反対の 分かりにくく難解で馴染みのない筆致がもたらす 底知れぬ震えのようなものを感じながら 特に直木賞ということも気にかけないように心得てながらも 「まやかしの」賞から久々に一歩抜け出す気迫の作品に出会ったと歓びが湧いてきたのだった

読み切る自信がないほどに読者を跳ね飛ばしてやろうというようなパワーが漲った文芸といえようか

なかなかの文学作品であり今の世にも捨てきれない作品があるのだと嬉しくワクワクさせられた

読後の感想など 他人の月並みな言葉をつなぎ合わせばいくらでもかける

大切なのは 歯を食いしばって 軋ませて 死にそうになって血が滲むような怒りや無念や憤りを そして無念と失望を活くる力に変えて行く人物の 強さを どれだけ共感できるかどうかだ

読んだ人にしかわからない

それは歴史の一つの時間をステージにしているのだけれど テーマは果てしなく作者の中で脈打っているのを 感じながら愛すること 生きることを 自分に問い詰めてみたいと思うのだった

❄︎ ❄︎ ❄︎

(読後余話)

作者は女性だと書籍のどこかに書いているし 各種の情報で年齢や紹介までもが書評と一緒に目に飛び込んでくる

物語のいわゆるネタバレはどれだけされても作品自体が持つパワーは簡単にはバレて来ない

そういう意味でネタバレは怖くないが 作者のお顔などの写真や経歴などは 全く初めての私にとっては いささか邪魔な情報だった

学生時代には書物の情報というのは簡単に出回ったりせずに 作者の顔(時には性別)なども謎のままだった

何かの書物の裏表紙などに紹介されるわずかな本の情報でその作家を知り興味を持って やがてはのめり込んでゆく人になって行くケースもあったのだが 今の時代は 出版社の戦略もあろうがすっかり時代が変わってしまった

そのことを責めても仕方がない

ただ この作者には 昔のような出会いをして その作品に踏み込みたかったというような夢のようなことを考えて 作品を読み進んだ

自分を整理すると男性の作家の方を圧倒的に贔屓にする傾向があるが この人は私の中で贔屓の中に男の味を漂わせて 静かに居られる

佐伯一麦 渡良瀬 (読後感想)

山海記を読んだ後にこの作品を読んだ
作風は まったく同じだが、山海記と比べると日常の物語になる

関東平野の古河市というところで働く若い主人公の日々だ
家庭が出てくるののだけど 作者はこの後に離婚をしてしまうので どうしても悲壮的なイメージを持って読んでしまう

電気機器の会社に勤めている
自分も電気主任技術者としての日を送ったことがあるだけに 話の内容はよくわかるが 無縁の人には退屈な作品かも知れない

何も事件らしいことが起こるわけではない
そんな日常だけが読後に残る

十一月の或る日切り取りペンを置く ー 下旬のころに考えていること

🐤 🐤 🐤

霜月中旬に とーさんに微妙な変化が出始めたことに これまでに触れてきた
想定外ではないにしても「急に変化が…何故に今ごろ」とも 言える

九十歳を超えているのだから 何を油断していたのか
もっと早く手を打っていたならば 病状の進行は最低限に抑制できたのではなかろうか

そういうことを 寝ても覚めても悶々と考えつつ 一方で
本人は 日々 時間を何も考えることなく 曜日も日付けも怪しいまま 時間を送っている

医学も精神科学も 時代と共に進化する
幸運にも 現代人は 幸せを目指しながら 長生きをできるようになってきた

こういう状況に追い込まれて はじめて
「幸せとは何か」ということを 改めて考える人も多かろう

🐤 🐤 🐤

🐤 🐤 🐤

🐟 🐟 霜月の暮れ尽きる時の秋刀魚かな

二十九日(水)にサンマ15号を食べた
京都にしばらく居住することになる
そんな言い訳を持ち出し 鰻を食べてきたのが三十日(水)

ゴールへと漂流すること ー 霜降篇

霜降 二十三日

🍊 🍊 🍊

『思えば生まれた日以来、母と私は同じ年齢差で生きてきた。時には手本に、あるときは性格の違いに驚いたりしながら生き合ってきた。その人が突然、老人になったのだ』

池田澄子さんの「本当は逢いたし」のなか(21頁)でこう書いている
そこまで読んで 私は立ち止まって自分の思いを探っている

こういう気づきに「ふと」引き止められる
誰にでもそんな思いに気づくことがあって 容易に時に流してしまえない
何かを掴もうとしてしまう

九十二歳になる母親と私との間には二十六年という隔たりがある

この隔たりのことを朧げながら考えることは度々ある
父も同様に二十六歳の隔たりであったが
死んでから来年が二十六年で いよいよ私も追いついてしまう

ムスメは 三十年
孫ちゃん2が六十年(酉年)
縮まることのない年月だ

🍏 🍏 🍏

人生も後半を迎え 還暦の節目を超えたあたりから この隔たりを『周期』と捉えてじっと考えることが多くなった

それほど大きな意味もないことかもしれないし 深い運命が隠れているものでもないと思いながら 見過ごせない数値だ

ーー

さらに池田さんは続けている

『若さの素敵さは、痛々しさの素敵さかもしれない。若くなくてはできないことがたくさんある。といっても、若い日に戻りたくはない。人間の中の単なる一人と言う気分は佳いものだ。過去に戻って、また世の中心にいるような錯覚に陥るのは面倒。戻りたく思うのは、今は亡き人に会いたいときくらいだ』

🍏 🍏 🍏

このまま私は
どのように
どんな姿で
漂流するのだろうか

小池真理子を読みながら ー 雑感

雑感を書き残しておく
断片記述とします


小池真理子 月夜の森の梟

なあビール飲みたいわ、くれるか
このビール味ないなあ

これが私の父の亡くなる間際の最期の言葉だったらしい

小池真理子さんが夫を失ってから一年間書き綴った随想を読みながら幾度も頭の中には父の言葉が蘇ってくる

ビールが好きなわけではないし、お酒が飲める人でもなかった

晩酌をしている姿もそれほど記憶にないし、酔いしれて饒舌に喋る姿なども思い当たらない

だからこそ ビールくれと言った言葉が本当かどうか疑わしいし、しかしながら、それなりに絵に収まるのだから、死ぬまで自由で気ままだったように大勢に思われて幸せにこの世を去れたのだろうということにしている

私が私にそう言い聞かせている

死に際には間に合わなかったというか誰も私に急いで帰ってこいと知らせてこなかった

後で考えても一体どういうことだと言い出しても良かったのだろうが、こんな風に冷静に振り返れるようになったのは何年も何年も過ぎてからのことだった

だからその思いは誰にも話したことはない

父の年齢が刻一刻と私に近づくにつれ往生際のことを考えることが多くなって、六十六歳にまであと一年と迫るこのごろは毎日一回は最期の言葉に出来そうな文句でも浮かばないかと考えている時間がある

阿川佐和子と檀ふみと太宰治と檀一雄の話 - 十一月初旬号

夏頃の書いた日記を思い出す

ちょっと読んでみると
秘伝には書いてなかったようなので
書き 写しておく

夏から
色々と変わったようで
何も変わっていないようで

コロナはどうなって行くのだろうか

昔のことなど
覚えていない

それでいいのだ


。。。


。。。

水モノに惑わされる (八月十八日の日記から)

・・

約半分が 感染経路不明という 
ウワサが伝染するのと 同じやんけ
。。
水モノに惑わされてはいけない


秋の長雨のような雨降りがお盆に入ってから続いています
うちの近所では稲刈りをしたいのでしょうが
農家の方々は 困っておられるのではないかと思います


何も目新しいことが起こらないので
日記は増えることなく
下書きが溜まるばかり


シャワーのような雨がざーざーと降り続くのを窓に凭れて見ていると
心のあちらこちらにあった凸凹が取れてゆくような気がしてくる

こうして雨降りの中にずっと暮らしていると
海の中で暮らしているのと変わりないなあ

フェイスブックに 落書き日記(つぶやき)を書いたりして

普段はこんなことは書かないのだが
暇すぎるのかねえ

—-
新聞記事に

ある時、父・檀一雄が太宰治と熱海で豪遊し、宿代が払えなくなった。
檀を残して金の算段に走った太宰は何日経っても帰らず、捜しにいくと、井伏鱒二宅で将棋を指していた。
怒鳴りつける檀に「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」。
そんな逸話から生まれた「走れメロス」は今、教科書の定番だ。

—(時代の栞)「ああ言えばこう食う」 1998年刊、阿川佐和子・檀ふみ 結婚してもしなくても

という一節があって

かつてこんな話を酒の肴に
とめどなくつまらん話をした友達(仲間)がたくさんあった

いつの間にかそんなことなくなり
そんな友達もめっきり減ってしまったな思う

向田邦子、遠藤周作、司馬遼太郎、宮本輝、なかにし礼の
読後感想文を引っ張り出して一冊にまとめている

五万字を超えてる
文庫にすれば一冊になるほどだ

これも
死んでしまったら
消滅してお終いや

西條奈加 心淋し川 (読後感想)

『心淋し川』は一月に図書館い申し込んで今頃順番が来て
市の文化事業の心の籠らないことにも反感を持ちながら
「ほんまに期待できるのか」とも思いながら読み始めた

だが期待以上に なかなか 面白い

映画のシナリオのタネを箇条書きにして並べたような作品が多くなって
読者は文章を味わっていないのではないかと思えると
人気の作品でもあっという間に嫌気がさして来たのだが

この作品は なかなか
作者が音読をしながら(朗読をしながら)酔いしれて書いているように思えて

読んでいて嬉しくなってくる

短編集であるが それぞれが繋がっていて
心淋し川のほとりにある心町に住む人間模様を描いている

。。。

昨日書き始めて放り出したこの日記を
今こうして書き終わって

夜明けになって
「心淋し川」の最終篇を手にしたところでこの日記はおしまい

最後の章はこんな風に書き出しています

——


灰の男

忘れたくとも、忘れ得ぬ思いが、人にはある
悲哀も無念も悔根も、時のふるいにかけられて、ただひとつの物思いだけが残される。
嘘に等しく、死に近いもの-その名を寂寥という
(最終篇 かきだしから)


。。。

西條奈加 心淋し川

読み終わった後に静かに大きな息をして 纏めきれない言葉を手繰りたくなるような余韻のある作品に久しぶりに出会った

書物として、物語は話の終焉の頁を閉じた時に 言葉が作り出していた情景の余韻として響き残っている

昨今は 物語の筋書きや人物の感情の衝突やらが荒々しくでダイナミックな作品が人気を博していたり スター俳優を擁して派手な宣伝と触れ込みでドラマや映画化して注目を集めてゆく直木賞作品が目立って そこに多少失望していた

それだけに この作品がもたらす静かな感動は それは激しいものではなく じんわりと緩やかに身体のどこかを熱くしていくような不思議な力であって 味わいながら読み終われたことにも感謝をしたくなる気持ちにもなるのだった

短い六篇の作品を集めたこの本は 一貢づつ ときには一行づつを息継ぎをしながら あるいは後戻りしながらでも 丁寧に読んでいきたい作品だ

そのような読み方をしても 綻びることもないようなしっかり作品だと 読みながら湧いてくるそのような感触に浸った

失礼なことに昨今の直木賞の横並び程度に思っていたことが申し訳なくて 読み始める前の期待をしない予想を恥じる思いだった

場所は江戸の下町あたりで 聞き慣れた地名が出てくるのだが 架空のところもあるのだろう

話も史実にあるようなものではなく 庶民が密やかに むしろ貧しく暮らしているところを 切り取って人情味を加えた人間味のある物語にしている

暮らしてゆけるのが不思議なほど貧しく にもかかわらずしたたかに生きている姿を 不幸な過去や思わぬ出来事に交えて書いている

下町の中でも 特別に暗く 淀んだ川が流れている

世の中のあるいは人々のあくせくに疲れたため息をどっぷりと染み込ませた塵芥が沁み込んで堆積しているうら寂しい川が流れている

だから「心(うら)淋し川」と呼び 町の名前を「心町」(うらまち)としたのだろう

「さみしい」という文字は『淋しい』と書く

「さんずいへん」であるところに心の悲哀を 音も立てずに激しく映しこんでくれるような気がした

日々は辛く 何も明るい未来が見えているわけではないにしても 決して真っ暗ではなく 完全に閉じてしまった暮らしではないのだ

心待ちの人々の緩やかで慎ましい日常を 絶妙に切り取って 温もりに味わいを添えて 美しい文章で綴ってくれる

声に出して読んでみて感動に自らが読み詰まってしまう苦味と甘さを味わいながら 何度も何度も頁を行ったり来たりしている

森村誠一 老いる意味 うつ 病気 夢

図書館の本がやっと順番が来て
森村誠一 老いる意味 うつ、勇気、夢
(中公新書ラクレ)

中身は それほど濃厚なものではないにしろ
われわれが普段から思っていることを
きちんと代弁してまとめてくれてあるという感じです

。。。

仕事を退いて新しいことを始めようと切り替えにかかっている

収入も無いので
負け惜しみです
けど

いまさら誰かと勝負をするわけでも無いのやし
貧相な暮らしで生きて行くしかない

最も血気盛んなときは
優雅な暮らしも目標に置いたこともあったが
先輩や同輩たちのように
取締役、部長とか執行役員などには無縁であったし

よく考えると
そのような才能があるわけないし
夢を見たり手を伸ばそうとしたことが 間違いだ

そんなことを振り返る日々で
森村さんのエッセイは
モヤモヤとしている老後の暮らしや
その姿勢、取り組み意識を代弁してくれている

誰もが考えていることであっても
まとめて書いてもらうと
うなづけて嬉しい

。。

朝の三時に起きて
パラパラと読み始めて
一日でおおかた読み終わります

斎藤末弘 罪と死の文学 戦後文学の軌跡 読後の感想に代えて

斎藤末弘 罪と死の文学 戦後文学の奇跡
解説の書き出しで作者の最期についてどうしても触れることになる

太宰治、田中栄光、芥川 龍之介、原 民喜、三島 由紀夫、川端 康成・・・

作家の自殺の背景をかれこれと考えても私のような素人に何がわかるわけでもない

斎藤先生の講座に登場する人は壮絶な生き方であったことは間違いない

先生の身近にいた(あるいは友人であった)福永武彦、島尾敏夫、遠藤周作たちとも死別をしており、まだまだ生きられる可能性を持ちながらくしくも病で例えれてゆく人も見送っている

このような文学の作家たちがこの世から消えてゆくのことを直視しながら、斎藤先生は戦後文学とは何をどの様に訴えてきたのかを考えていく

県立図書館で借りましたが期限が来たの16日に返却します

この本を教材に先生の講義をもう一度聴きたいなあという感慨が襲ってくる

まだ二十歳になる前にふと飛び込んだ教室で一年間を通して先生の講義を聴いたことで私の人生は大きく舵を切ったことは間違いない

電気通信工学なんてほったらかしで本屋に通うようになってしまうのだから

(続く・・かも)

斎藤末弘先生のこと その3

斎藤末弘 罪と死の文学 戦後文学の奇跡
>> 斎藤末弘先生のこと その1
>> 斎藤末弘先生のこと その2


目次

現代のヨブ―北条民雄『いのちの初夜』
人生足別離―田中英光『さようなら』
死と焔の祈り―原民喜『夏の花』
汚辱と聖性と―椎名麟三『母の像』
不幸な女性たち―椎名麟三『美しい女』
諧謔と真剣さの統一―椎名麟三のユーモア
人肉食の逆説―武田泰淳『ひかりごけ』
生体解剖の罪―遠藤周作『海と毒薬』
心の奥に潜むもの―遠藤周作『わたしが・棄てた・女』
現代の同伴者―遠藤周作のイエス像
転生の祈り-遠藤周作『深い河』
現在の深淵-三浦綾子『氷点』
待望のうめき-丹羽文雄『一路』
境の神のふるさと-福永武彦『忘却の河』
失語と沈黙-石原吉郎の死と蘇生
贖罪の流れ-森有正『バビロンの流れのほとりにて』
無意識を掘る-高橋たか子『誘惑者』
贖罪の祈り-島尾敏雄『死の棘』
土着への闘い『モッキングバードのいる町』


目次を正確に訂正する

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秋旨しサンマ7号をクリアす - 即位礼正殿の日 記念号


十月下旬になります
今日はゆっくり書こう(書きかけです)

そんな風に書き出して置いたままにして22日から26日までの日が過ぎました
その間に24日の霜降もありました

23日にサンマ7号をクリアしました


雨が降る日があれば晴れる日もあります
千葉県から東北地方そして信越地方にも大きな災害をもたらした台風20号が過ぎ去ったあとも繰り返し大雨警報を出す前線の襲撃に遭い続けながらも列島の秋は深まります

怒りはどこにもぶつけられるものではない
ひとえにニンゲンとして「驕り」「油断」がなかったのかと反省をするわけであるが
科学技術史が提起し紐解ける教訓などを諄諄と飲兵衛の管巻き話のごとく話すと嫌われる

ヒトが技術を開発する苦労や着想、機転などを技術史学として整理してやると本当に未来が求める技術とは何かというものが見えてくる

そういう観点から現代の技術開発を見つめ直すと多くの間違いが見つかる、というのが私の意見だが、そんなものはここに埋没するだけか

自分たちが築き上げた輝かしい科学技術を今一度振り返ってこれからの暮らしに役立てるための方向を見直す必要がある

便利さや楽しさなどを追い求めて幸福を追求しようとするのは、過去の哲学だ
これからの新しい創造技術哲学は違ったものにしなくてはならない

しかしそれはやはり無理なことなのだろう
人工知能は哲学までも提起できるようなものではないし
その「人工無脳」といかに付き合うのかが「無哲学」だ
そこに一石を投じてくれる人は出現しないのだろうか


霜降

去年からコタツを出さなくなった
多分今年も出さない

寒いのでコタツ布団だけ出している
居間で横になって布団だけを被っている


サンマ7号(10月23日)

秋から冬にかけて10匹あまりしか食べないので改めて驚く
もっとたくさん食べているような気がしているに
秋の味覚として何を楽しんでいるのだろうかと考え込む


旅や探検の醍醐味は「気づき」 -  関野吉晴


旅や探検の醍醐味は、「気づき」。自分が普遍的だと思っていることが、実は他の人にとっては特殊なことだと分かる。そうすると物の見方が変わり、自分が変わることがおもしろいんです。

エチオピアでは、ヤギやラクダを飼っている人に「もっと増えたらいいですね」と声をかけたら「いや、これを大切に育てるのが私たちの役目です」と言われた。足るを知る人たちなんですね。いま、「好きな言葉を書いて」と言われると、自戒を込めて「ほどほどに」と書いています。


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壇蜜日記3 あれこれ うなぎ

13日 壇蜜
13日 壇蜜


テーマ:
好きな食べ物紹介で
「うなぎ」と書いていた人があって
それが誰かを思い出せずに
モヤモヤしていたら
今朝、壇蜜さんの日記を読んでいて
ぱらりと裏表紙に「うなぎ」とあるのを見つけた

そうだ、これを読んでからずっと頭の片隅に
「うなぎ」が好きな人の人物像が残っていたのだ
と気づいたのでした

うなぎが好きだとプロフィールに書いている人を
見かけるのは意外と少ないにもかかわらず
本当は好物にしているけど「うなぎ」とは
書いていない人も多いのではないかと思う

そうこう考えていると、
好物も含めて
ちょっと変わった人なのかもしれない
と想像を巡らせてしまい
差し向かいでうなぎを食べつつ
少しおしゃべりなどができたら楽しかろうに
などと
夢のようなことに発展してゆく
壇蜜日記を読んでいる
悔しいとか、悲しいとか
苦い記憶とか、暗いできごととか
そういう物語や感情を綴ると
旨味が出そうな人だ

日記エッセイというのはこういうふうに
ねちっとしていて詩的なのがよろしい

 

又吉直樹 火花

たとえ純粋なように見える賞であっても
所詮売り上げを睨んでいるのは自明で
その中で上手にステータスを掴んだのが
例えば直木賞のようなものなのだろう

芥川賞は初期の頃の受賞者のころの顔ぶれから
少し路線変更をしたのかと思えてくることが
何度か続いていた

だが、一方で選考委員の顔ぶれを見れば
そんな疑いはなく
ぼくの気のせいか
疲れか、好みの変化か、
読書力の足りなさなど
様々な理由が考えられた

読者側の意見や書評や声が
大手を振って
オモテに出てくる時代になった

誰もが自由に発言できるのだから当然の結果だ
その声は威張っているようにも見える時代になっている

だからぼくのように
「恩田陸 蜂蜜と遠雷」(恩田陸)
を詰まらない
などという奴は
黙殺されて相手にもされない

たくさんの書店が
本の陳列に変化を付けて工夫しているのもわかるが
詰まらないのか面白いのかさえ
独自には判断できないかもしれないような人たちにも
買ってもらわなあかんというか
その辺にも売り込みたいのだから
苦心をしているのだろう

火花は本屋に何度足を運んでも
一発で見つかるところには
置いてなかった

ぼくが時代遅れになったのだ

もう本を読むのはやめにしようか
とも思うほどに
本屋がチヤホヤする新刊本が並ぶ中で
やっとの思いで今風の人たちが目に付きやすいところに
山積みされた「火花」を見つけたときは
こんなカテゴリーの棚に置く本なのかと思い
本屋のセンスまでも推し量ってしまって
本嫌い(本屋嫌い)になってしまいそうなのをぐっと堪えた

++

又吉さんの漫才を見た記憶はあります
ステージで喋っているの様子を思い出せます
画面の右側の位置で話していたように思う
けれども、どんな漫才であったかの記憶が余りない

詰まらない芸人もたくさんある中で
なんにも悪い印象などなく
近ごろ売れているお笑い芸人さんという良い印象が残っている

本が好きでその延長で小説を書いたというのを聞いて
大人しく物静かで
やんちゃなところがない雰囲気から
なるほどそういう人柄なのだ
というのが先入観の第一印象だ

作家になるには並大抵の努力では済まされないだろう

阿保になりきれるほど打ち込めるタイプで
自分を省みるような甘っちょろい面があってもならないし
さらに突進する力も強い意志も必要だろう
しかも孤独で思慮深くて
そして最後に作文をする才能が求められる

立ち読みをしてみると
丁寧に文章が綴ってある印象を受けたので買うことにした

芥川賞作品を
勢いで買うような危険な投資は少し懲りていたので
最後まで読み切る自信があったわけではないが
そのときには「期待ほどに面白くなかった」と
言い訳をするしか無かろう
と思いながら買った

そんなセッティング状況で
こんなに短いのに恐る恐る読み始める

又吉直樹 火花
又吉直樹 火花

やっと本題

いい本でした
若い人から老人まで
みんなが読める作品で
文學(ブンガク)の匂いがしてます

はじまりは酔いしれるようなところがあり
真ん中あたりで
ぼくは漫才のことがわからないし
タレントさんが書いたという先入観が邪魔をすることもあって
詰まらないというか退屈を覚えるところもあるけど
勢いがあったから読み切れた

この人を占うつもりはないけど
似たように同じような賞をもらって
テレビに登場している作家さんを見ると
こちらを応援したくなった

ところどころに
作品の本流とは少しずれて(?)
哲学的なことも書くのだけれど
書かずにはおれんのだろうと思うと
ちょっと好きになる

内容に賛同するわけではないが
姿勢に一途なところを感じる

酒を飲んでは
オロオロしたり
涙を流して泣いてみたり
熱くなっていたりする
まこと この登場人物はよく泣く

純粋というわけでもなかろうが
情熱を持っているならば
次々と作品が出てきても
手にとってもいいなと思った

柴崎友香 春の庭

宮下奈都「ふたつのしるし」絲山秋子「離陸」柴崎友香「春の庭」の三冊が棚積みのなかで目立ったので、とりあえず書店員さんのセンスを信じて三冊の中から絲山秋子を選んだ。

裏切りも失望もなく読み終えたのだが、残してきた二冊に後ろ髪を引かれるようだったので、柴崎友香を買って読むことにした。

宮下さんは慌てなくてもええような気がした。
春の庭は芥川賞作品なのでちょっと期待も大きい。

読み始めた時に私の芥川賞読破履歴をきちんと調べず、とにかくワクワクで期待も大きい。
読後に調べて見たら、宮本輝の螢川と絲山秋子の沖で待つ、さらに、村上龍の限りなく透明に近いブルー、朝吹 真理子のきことわを読んだくらいに過ぎない。
芥川賞の読書経験はほとんどなかったことになる。

学生時代に登場した村上龍という作家のなんともシャレたタイトルの限りなく透明に近いブルーの読後印象がイコール芥川賞だったのかもしれない。
それで今回久しぶりに、最近の受賞作品を。
なるほど、これが芥川賞か。

柴崎友香 春の庭
柴崎友香 春の庭

時代の変遷で賞の色合いが変わってきたのか。
昔から一貫した方針だったのか。
なんとも言えない。

美味しいと評判のレストランを紹介されて喜んで店に行き特別料理を食べたら、近所の商店街の人気店の方が旨かった・・・みたいなかんじ。
芥川賞はしばらく無関心でいることにする。


というような感想を書いてからも
この本を持ち歩いて列車の中で読み続けた

無機質な感触でありながら
作者のもつ味が随所に出ているのかもとも思えてくる

タイトル作品(受賞作品)よりも
巻末の書き下ろしの方が
深みがあっていいのではないか

絲山秋子 離陸

サスペンスタッチな面があるけれども中途半端なところがある。
だから、サスペンスがそれほど好きじゃないわたしが読めてしまうから、この物語のサスペンス色は気にしないことにしよう。
読感のタッチは満足。

女性とは思わせないような冷たくて非情な風味を出していることで、作家像においても男性的な一面を垣間見せる人なのだ、と読みながら気づく。その感性が生む筆のタッチで、オトコの人の - 特に主人公の - リアクションや行動や心も嬉しいほどに小気味好く書いている。やはり男性作家ではないか、と思えるくらい。 ロマンチックとかスイートな感覚は欠片もない。

わたしは男性の作家が好きな傾向に(結果的に・無意識に)あるらしいが、絲山さんのこの作品を読んでいるときはその線から外れて、作家の魔術に神経が痺れてゆくようだ。マッチしているのかもしれない。

池澤夏樹が解説を書いているのを読みながら、この作品が「マシアス・ギリの失脚 」と似た雰囲気だと思った人も多いのではないかと想像してニッタリしてしまう。
一方で、ミステリアスでハード・ボイルドなら、高村薫というバリバリでコテコテ、読んだ後どっぷりと疲労感が満ちてくる作品があることを思い、絲山さんはまたそういう人たちとも違った路線で、謎を秘め込めることができる人なのだと思うのだった。

酔いしれるようなドラマティカルな小説ではない。
ドキュメンタリーが得意な公共放送局が得意としている「土曜ドラマ」的な色があって、進展に面白みがあるとか主人公に入れ込んでしまうのを楽しむのではなく、不安定でそれっぽくないミステリアスを追いかけて読み進んでゆく。だから、この作品では主人公がくっきりとクローズアップされてくるわけでもないし、オンナの人や主人公の生き方に同調するというわけでもない。確かに、乃緒という人物の神秘性に魅力を感じたりはするが、心を移入してしまうというようなものではなかった。

普段ならばこのように入れ込めないような小説であると、ツマラナイと感じて投げ出してしまうこともあるのだろうが、こんな小説でありながら惹きつけら続けたのは、やはり絲山さんの男性的な作風だったのでなはないかと確信している。

サスペンスは好んでは読まないのだが。中途半端と批判もあろうが、この作品には、こういった色合いがあったのも大きな持ち味であったと思う。

絲山秋子 離陸
絲山秋子 離陸

(話題の)恩田陸の「蜜蜂と遠来」のすぐ後に読んだのであるが、比較してもこっちの方が文学かもと思えても来る。買う際に迷った宮下奈都の作品ならば、文章に溶け込んでしまって、読みながら作家に少し入れ込んでしまうことがあるが、絲山さんにはそれもない。そういうところでも、味わいは異色と言って間違いない。

(P12)
そして悲しいことに、ぼくはしばしば自分に近しかったひとの面影すら忘れてしまう。
なによりも大切に思い、「好きだ」と何度も言ったひとのことでさえ、きっとどこかで元気に暮らしているんだろうという楽観のもとに忘れ去ってしまうのだ。
人間には想像力があるといっても、結局のところ思い浮かべることができるのは、現在とその僅かな周辺、森の端の川辺のようなところでしかないのではないだろうか。
(P43)
彼女のことを思い出すとき、人間の記憶は時系列じゃないんだな、と思う。
最初に彼女のことをどう思って、どうやってつき合い始めたかではなく、どうしても別れのところから記憶がはじまってしまう。
今でもまだ懐かしさより苦しさを感じる。
肌にくっついたガーゼが傷を破らないか気にしながらじわじわと剥がすように、言うなれば男らしさの微塵もない態度でしか自分の記憶にアプローチできないのだ。
(P94)
「回り道をするような相手はだめだね。上手くいくときは何も考えないでもサッサッといくんだから、そういうんがいい。最初に苦労すれば後からやっぱり苦労する。
なにも考えてなさげなひとのほうがしあわせなふうだよ。」

付箋は貼るつもりでもなかったのだが、電車の中でカラーマーカーを持っていなかったこともあって、何箇所か貼り付けたところがある。そこを読後に見直しても価値あるところだったので、自分の感覚にちょっと拍手を送りたい。

(付箋を貼った)前半のこんな部分を読むと、「沖で待つ」という作品で絲山秋子という作家に出会ったときの冷たさのようなモノを思い出す。

こてこてと着飾ったり、思わせぶりであったり、いかにもなセリフを言わせてみたり、壁ドンのようなシーンも無い。着々と冷たい男の作家が男の心を切り裂いてゆくような淡々とした筆を感じる。そのくせちょっとは揺らぐ心にも触れている。こういうところが好きな人には、程よい辛さが味わえる小気味よさと言えよう。

しかし早い話が、謎を放ったらかしたのか、空想に任せるとハナから決めて謎のままにするつもりだったか。という点など、野暮ったいようにも思えて、面白くないとも言えるけど、そこが味わいだとも言える。

まさに何処に行くのかわからない作品だった。
しかしながら、エピローグはすでにできあがっていたのだ。
だから、ミステリーなのかも知れない。

最後に、四日市の言葉が上手に使われている。涙が出るほどに感動する。
この作品は、テキトーに書いた作品ではないことがそこからも窺い知れる。

恩田陸 蜂蜜と遠雷

(ともだちに書いたメールでは)

読み終わったけど 確かに良かったけど
みんな大絶賛してるのが 共感できずに 少し沈んでいます

感想を纏めながら今日1日を過ごすかな

確かに直木賞だけど
恩田魔術にハマってないかな みんな
今はこういうのが 作品として輝いているのかな

モヤモヤな読後
考え込んで 布団の中
言い訳

恩田陸さんは合わなかった
というわけでもないと思っているんですが
高級で豪華なホテルのコース料理を食べに行ったけど
完璧満足というわけではなく
あれが美味しかったという印象もなく
もう一度食べたいというのもなかったままやなあ
というような感じかな

同じアヤさんという人が登場する
赤目四十八瀧心中未遂 (車谷長吉)
のことをずっと思い浮かべていて
あの作品は直木賞の中の最高の傑作と思っていますので
余計に物足りなかったのかもしれません

恩田さんのこの作品は
感動的なところもたくさんあったし
ドラマチックな流れもあったし
作者の腕を見せているところもたくさんあったけど
美味しい料理じゃなかった・・・みたいな

恩田陸 蜂蜜と遠雷
恩田陸 蜂蜜と遠雷

(さらに続きを)

恩田陸を考え続けていて
Y先生にもメールで感想を伝えて
返事で

「蜜蜂と遠雷」、合いませんでしたか…💦💦
あんなに分厚い本を読んでもらったのにねぇ

と慰めてくださったんですが
私はモヤモヤとしていて
あんな感想【BOOKs 】を書いているのです

けど

心を切り替えて
宮本輝の満月の道( 流転の海 第七部)を
鞄から取り出してふたたび続きを読み始めると

恩田陸のモダンなタッチと違う
宮本輝のしなやかさのようなものに
再会するのです

宮本輝を読んで今までには一度も思ったことはなかったのに
谷崎潤一郎をふっと思い出すような宮本輝の物語の作風であったりして

ここに戻ってきてみると

私がモヤモヤしていたのは
恩田陸のこの作品の良し悪しではなく
味わいの違いに旨味を感じられなかった
としか考えられない

宮下奈都 静かな雨 (1日後の)感想

静かな雨
宮下奈都 静かな雨

  • 眠れば消えてしまう月
  • 速すぎてつかまえられない夢の場面
  • ふたりで歩いた帰りに浮かんでいた月
  • ただものじゃないこよみさん

そんなふうに走り書きを残して
これは宮下さんが夢で描いた物語の断片であって
それを丁寧に集めてきた作品なのだ
と思っていた

人のイメージをさらさらっと説明するように軽々しくは書かないで
不安と喜びとを混ぜ合わせて
不思議と不明とどうでもいいことなんかもミックスして
そこに優しさもブレンドして攪拌するようにしているみたいだ

そんなふうに言ってしまえば誰だってできるみたいに思えるのだけれども
宮下マジックのようなものがあって読者はそれに掛ってしまう

夢は不幸せあっても幸せであっても構わないし
男の子が情熱的でなくてもいいのだ

日常の詰まらないできごとをちょっとスパイシングすると感動的になってくるのだけど
そんなわかりきったことであっても
いつか覚えていたはずなのに
忘れてしまうでしょ

きっと宮下さんはそれが悔しくて
失ったり忘れたくなかったから

自分の中である日
幻のようにできあがった物語に
意地悪なスパイスも振りかけて
忘れかけていたドラマのようなドラマでない日常を
思い出して
夢の断片のように纏めたんだろうなあ

すらすらすらと書けないときもあったさ
その時間も苦悩も大きな凹みもそれ自体も姿を変えて物語にしてしまった
それが第一作だった

本当は消えていった作品が山のようにあったんだろうけど
いかにもこれですよ…みたいな第一作

宮下さんはもうこれを書いた宮下さんには戻れなくなっている
それでいいのだ

困ったことが僕に一つできたのですよ

鯛焼きを食べるときに宮下さんとこの物語のことを思い出すのです

そして恋するとか愛するとかそういうことを考えて
諦めてきた哀しい過去と叶わなかったいろいろを思い出して考えてしまう

物語には続きもなければ終わりもないのだ
おしまいのシーンって何だっただろうか

それでいいのだ

銀マド(初出ブログ)

宮下奈都 静かな雨 (10分後の)感想

静かな雨
宮下奈都 静かな雨

平成29年(2017年)3月 5日 (日)

どうしてもこの作品を書いた人を
ああだこうだと定義づけて
作品の感動とペアにして
心にしまっておきたいと思うのだ

そう思わせてくれるような作品であり
読みながら何度も立ち止まって
詩人のような変な小説家だと
少し悪口じみたことを呟いてみたりする

そのしばらくあとで
何ページかを読んだところで
ほら哲学者みたいなことを書いているから
物語の後ろにはドラマにならない構想がどっさりと隠れているんだろうな
と思っていたりする

しかしながら
乙女チックには気取らないし気障でもない
詩篇のようなことを歯が浮くような下手くそなタイミングで
書いている

いいえそれは計算どおりなの
いいえそれがセンスというもの

真似ができない
真似しようと思うのが愚かなのか
でも手を伸ばせばそこにいるような普通の変なおばさんな筈だから
私にだって真似ができるような気がするの

「諦めること」をサラリと書いて付箋を貼ってしまうそうになるんですけど
ここで付箋を貼ったらその行だけが一人歩きするからあかん

満月のお月見の話もそこまでで
私の脳みそにメモるだけで
烈しく読み返したくなったら
もう一度最初から読もうじゃないか

「世界の深さ」のこともあれこれと書いてるでしょ
物理学の教科書みたいに
一本の式を紐解けば五ページくらいの文字で埋まるように
付箋を貼りたいところは五倍くらいに言いたいことが詰まっていたはずだ

だから明日になったら私も忘れてしまえばいいのだろうな
ある日思い出したら誰かがこの話をしたらもう一度思い出そう

好きだという言葉も使わないで恋をしているし愛もしている
誰もが夢の中で追いつけなかったようなあのできごとを思い出そうとしている

でもこの人はきっとアルキメデスみたいな考える人なんだと
想像してしまって私は深い深い記憶の沼に沈んでいくのです

銀マド(初出ブログ)

堀川惠子 裁かれた命 死刑囚から届いた手紙

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堀川惠子 裁かれた命

永山事件とその裁判において、私たちが日常では触れることのない数々の背景を深く掘り下げて報告をしたのが堀川惠子著

  • 死刑の基準-「永山裁判」が遺したもの
  • 永山則夫 封印された鑑定記録

の二冊だ。少し間を置くがそれに続いて

  • 裁かれた命 死刑囚から届いた手紙

を読んでみた。読めば随所で身体が震え上がった。ストレートに衝撃がくる刺激的なルポだ。

これまで抱いていた刑法への考え方の浅さを知り、また一人の社会人として、刑法をあるいは刑罰の概念を見直さねばならないのでは、とガツンとやられたのだ。我々の持つ罪と罰の概念が、古くさくて不明瞭だったことに気づく。

この「裁かれた命」は永山事件よりも昔の事件である。死刑囚はもしも生きていたら70歳ほどになる。

事件当時二十歳を少し過ぎた若者で、その兄のような年齢の検事が捜査をし、親に近いほどの歳になる裁判官や弁護士が被告人を裁いた。(一審の弁護人は亡くなられている)
永山事件で「死刑の基準」を考察した堀川さんは、新しい歴史から古い歴史へと事件を戻り、一人の人間に適用される刑法とその罪と罰についてテーマを選んでいる。
決められた仕組みのなかであたかも決められたような手続きで確定してゆく罪と罰を、堀川さんが掘り起こした資料や事実を読んで、もう一度考えてみる。

…と書いたものの刑法がわかるほど私は専門的な人間ではないし、日常でもそれほど興味も抱くチャンスもない。

現代社会に平凡に暮らす人には、刑とか罰というものを深く考える時間などほとんどないのではないか。更に言えば法律(の学問)は面白いとか楽しいとは言い難い。そういう点で、非日常的な(謂わゆるドラマのような日常の裡を)まったく違った切り口で突きつけてくる。

私たちの誰もが心の中に善と悪、罪と罰に対する考えを持っているだろうから、当然のことながら照らし合わせて、テーマが問いかける答えを模索する。

現代であっても、裁判員制度の上で刑事裁判が行われれば注目度が高く、殺人事件などであればさらにメディアが騒ぐ。死刑が求刑されるようなケースは、やはり大勢の人が事実を見つめて、その裁きのゆくえに関心を示す。そのようなことと同じ背景にあって、さらに今と50年近く昔との尺度や仕組みの違いや変化があって消化不良な面を残したままなだけに、このような作品は惹きつけるものがあるのだ。

永山事件とこの作品には共通点がある。死と向かい合う人間がいて、それが死刑とはほど遠い人間であること。必ずそこに日本の歴史背景があって、家庭的で人間的な事情があって、誰もが答えを言葉にできないような人間の心の深層(真相)に迫るものがある。さらにドラマではなく事実だということも重要だ。

終わってしまっているけれども事実が残る。NHKがドキュメントにしたそうだ。たぶん難しかっただろう。中身が濃くても視聴者のレベルにずり寄ってしまえば別のものになる。

テレビは怖い。事実をベタに並べればいいというものでもなかろう。書く人の視線の方向も大事だ。

死刑囚は、事件の捜査検事に宛てて独房から九通の手紙を書いている。さらに、二審と上告での弁護士に四十七通の手紙を書いた。その手紙はいつも、便箋で三十枚にも四十枚にも及ぶ分厚いものだったという。

調査資料として要約した原文を引用しているが、一文一文がしっかりとしていて、手紙として非常に完成度の高いものだということがわかる。二十二歳の若者が書いた丁寧な手紙を読んでいく。

死刑が確定して執行を待つ死刑囚が書いているにもかかわらず、とても冷静で落ち着いていて内容も明瞭だ。手紙の文章は上質で殺人という犯罪を犯すイメージとはかけ離れている。
上告趣意書も一部分を引用している。

関係者を探し出して、話を聞き、上告趣意書や手紙を整理し、公表された数々の資料を掘り起こして、手紙を書いた人物(死刑囚)を見つめ直す。
死刑という刑罰を見直さねばならない、というような表現は、作品のどこにも記述していない(と思う)。死刑を宣告された登場人物の裁かれた判決に(結果に)異論があった、と書いているわけでもない。

捜査検事は、三十年の検事生活の間に一度だけ死刑を求刑したことがあり、それが前科もなかった二十二歳の青年だった。おとなしくて真面目な青年であったという周囲の評ばかりが目立ち、手紙には苦しみや償いについてのあらゆる想いや生きる意志が綴られる。

関わった人々を探し当て歴史を掘り起こしてゆくに従って見えてくる青年の実像のようなものを洞察すると、死刑という裁きについての他に、刑法が捉える犯罪概念と人間への罰のことを考える事になる。

偶然、半月ほど前にも新聞記事が目にとまった。2010年に宮城県石巻市で当時18歳の少年が元交際相手の少女の実家に押し入り、少女の姉ら3人を殺傷した事件で、死刑判決が確定した。裁判員が裁いた少年事件では初めてということでメディアが騒いだ。

犯罪者を「生きる価値がない人間」として社会から消すことで何が生まれるのか、と問い続ける声は世を絶たない。奥に潜むものが解決されないままになっていることを意味するのだろうと思った。

堀川惠子 原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年

(読後日記)

堀川惠子さんとは永山裁判の作品で出会い、そのあとはしばらく文芸作品を読んでいました。
直木賞作品や本屋大賞受賞作品を読んだりして、緩やかな気持ちになっていたのです。

ふと、ヒロシマの被爆の日の読売新聞の社説であった。


♠2016年08月06日 06時00分 広島は6日、長崎は9日に、それぞれ71回目の原爆忌を迎える。♠非人道的な悲劇を、二度と繰り返してはなるまい。より多くの世界の指導者に被爆の実相を伝え、核軍縮の機運 を高めることが大切だ。♠広島市の松井一実市長はきょう発表する平和宣言で、5月にオバマ米大統領が広島を初訪問した際の声明を引用 する。「核兵器のない世界を追求する勇気を持たなければならない」という一節だ。♠松井氏は、オバマ氏が声明で示した「情熱」を「あの『絶対悪』を許さないというヒロシマの思いが届いた証 し」と評価する。♠広島平和記念資料館は、オバマ氏自作の折り鶴4羽が展示された後、入館者が前年同期比で4割も増えた。オバ マ氏の歴史的な被爆地訪問は、日本人が原爆と平和を改めて考える機会にもなった。♠オバマ氏の訪問を一回限りのものにしてはならない。今後も、様々な核保有国の首脳らに対し、広島や長崎で原 爆の惨禍に直接触れるよう働きかけ続けたい。♠核軍縮交渉が停滞する中、その努力が、核廃絶という究極の目標への長い道程の一歩となろう。 米国社会でも、原爆投下への評価は着実に変化している。 「戦争終結を早めた」と正当化する人の比率は、終戦時の85%から昨年は56%にまで減少した。♠今春には米国で、ドキュメンタリー映画「ペーパー・ランタンズ(灯籠流し)」が制作された。米兵捕虜12人 が被爆死した事実を発掘した広島在住の森重昭さん(79)と、現地を昨年訪れた米国人遺族らの心の交流を描い た作品だ。♠森さんと遺族が灯籠流しで死者を弔う場面は、平和への思いを静かに訴える。森さんは、オバマ氏と広島で抱き 合った被爆者だ。♠年々、風化しがちな被爆体験を継承することも重要である。♠広島市は昨年度、「被爆体験伝承者」による講話事業を始めた。伝承者が被爆者から聞き取った話を、次代の 人々に語り続ける。♠平和記念資料館は2018年度から、遺品や日記など、実物中心の展示に切り替える。被爆者の人形や模型では なく、「実物の力」を最大限生かす狙いだという。♠今年の大宅壮一ノンフィクション賞は、堀川惠子さんの「原爆供養塔」に贈られた。原爆犠牲者の遺骨約7万柱 を納めた平和記念公園内の塚と、その塚を長年守り続けた女性の物語だ。♠貴重な被爆体験を正確に記録して、世界へ発信する。日本人が忘れてはならない責務である。 2016年08月06日 06時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun


社説を読み堀川恵子さんの名前を思い出しここで紹介された作品をもう一度じっくりと読みたいと思った。

このようなルポは、誰でもが書けるものではない。この人がこのテーマに遭遇したことが幸運だったと言って良いだろう。誰が書いても、誰が調べても、こんな作品ができあがるわけではないことを考えると、読ませてもらった私たちも幸運だった。

だからこそ、堀川さんの書いた物語を読んで欲しい。

堀川惠子 原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年


(私の感想)

堀川惠子 原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年

堀川惠子さんに出会えたのは、とても幸運であったと思う。それは、 ちょっとした書評の何かに閃きがあって手にした
●永山則夫 死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの
●永山則夫 封印された鑑定記録
という二冊を読んだのが2年ほど前で、あのときの出会いがなければこの作品は間違いなく読まなかった。

原爆供養塔は、広島平和記念公園の片隅にある小さな塚で、そこの地下にはおよそ七万人の遺骨が眠っている。この物語は、この原爆供養塔に毎日通い世話をしていた佐伯敏子さんという女性がヒロシマで闘った歳月を、堀川さんが取材をして、さらにこの人のやってきたこととやり残してきたことを受け継いで、遺骨の家族を訪ねて歩き、話を聞き纏め上げたたものだ。だがしかし、それでも見えているものはヒロシマのほんの一部であり、終わりのないことなのだということを知ることも大事なことだと思う。

取材の中で語られる一言一言の想像を絶する出来事や地獄のような風景、佐伯さんの半生から語られる壮絶な事実は、ヒロシマから経験者が消えてゆくけれども、次の世代へと受け継ぐ貴重な言葉だとして絶やしてはならない。

ヒロシマを語った人もそれを聞いた人も、消えてしまった形で登場した人たちも、七十年というあれからの年月に言葉に出来ないモノを滲ませている。作品を読むとそれが伝わってくる。

その堀川さんは、まずその佐伯さんを訪ねたのだった。序章はそこから始まる。

テレビは周知の通り映像で勝負をするドキュメントを提供するメディアである。そして、その正反対の方向から「活字」や「写真」で迫るが書籍によるルポルタージュである。

テレビならば無駄になるような些細なことや面白くないこと、だらだらと長すぎること、細かいことなど、 さらにはゴミのネタもみんな活字にして積み上げて(それでも涙をのんで削るのであろうが)私たちに提供してくれる。 しかも、一過性のモノではなく、文字として残って自由に読み返せる。 声に出しても読める。 (この作品もぜひ声にだして読んでもらいたい)

今の時代、何もかもがデジタル化になり、テレビのような映像ドキュメントは、接しやすく入り易いため人気があることもあって、 予備知識や興味と無関係に、誰もが目に飛び込むモノを深く考えずに見て触ることができる。

映像の刺激が強烈であれば簡単に食いついてしまうこともあるだろう。

確かに映像(動画)は、美しいモノを美しく醜いものもありのままの姿で確実に伝えることが比較的容易だ。音も伝える。 匂いもやり方次第ではかなりリアルに近い形で伝える工夫ができるかもしれない。

しかし、活字のルポはそうは行かない。 膨大な調査・取材をする点ではどちらも同じでも、 活字メディアでは、資料の吟味を怠ってホイホイと積み上げてしまったら途轍もなく不出来な作品になってしまう。 読者に伝えたいことの肝心な部分さえ伝わらなかったら、ルポが死んでしまう。

堀川さんはテレビの報道の人であったのだが、 活字のドキュメントを書く人に姿を変えている。しかしながら、 どこかしらに映像のセンスが流れているのが読んでいて伝わってくる。 一字一句を絵に描くように綴ってゆく。

活字出身の映像作家がいいのか、映像出身の活字作家がいいのか。 ぼーっと頭の片隅で考えながら作品を追い続ける。

取材に何の甘えも手抜きもないヒロシマの物語にグイグイと引き込まれいていってしまう。

いったい誰に読んでもらいたいのか。
今の我が国の人たちのどのような人々、年齢層に読んでもらいたいか。

必要性として、誰が読むべきだろうか。
何故、これをルポとして伝えなくてはならないのか。
伝える意義や意味とは何なのか。
ひとつひとつをここで紹介したいが、それをすれば1冊丸ごとになる。無駄のない1ページ1ページは淡々と語り続ける。

作者は焦ることも気負うこと無く、この膨大な(分厚い)本を、五倍も十倍あった資料から纏め上げている。

作品は静かに事実を語り続け、読者はそれを堀川さんの魔術のような構成や記述により映像に変換してイメージを膨らませる。だからこそ一人でも多くの人の目に届けたいと思う。

現実をぶち壊した残忍なこのような事実を書いた作品が書店に並び、 大勢の人が想像を超越した事実に触れる。

読んだ人だけが知っていればいいことなのか。
知らない人があれば届けて皆が隈無く読むべきなのか。

70年という歳月が過ぎてゆくなかで 作品に書かれた事実や実情が歴史の1ページに変化してゆくのを嘆くことは必然としても、埋もれた事実がまだまだあることへの歯がゆさのようなものが湧く。

人の心に触れながら、その生きざまを真正面で受けとめて、 決して揺るがずに事実を地道に掘り起こしてゆく。 余韻のような問題提起が続く。

感情を限りなく高ぶらせないで、事実をきちんと正確に伝えているのだろう。 その感性や技術を図り知ることは到底できないが、 ルポルタージュとしての完成度の高さが波の揺らぎを受けるように伝わってくる。 そこに、しっかりとした強烈で熱く煮えたぎるものも感じる。 読者は、目を背けずにそれらを受けて、見つめる。

ヒロシマに関わった、あるいは反戦に関わった日本中の多くの人々が、 切実に願ったことを叶えるために、改めて一歩進み出そうとしなくてはならない。

焼け焦げて融けて消滅してしまった数々を蘇えらせてやるためにも、出来事や足跡を遺すルポルタージュという活字の力で国民はヒロシマと向き合わねばならない。

平成28年8月10日 (水)〜平成28年8月18日、読了

ピンチはチャンス

ピンチはチャンスだ、って誰かがいっていた。何かで読んだんだったか。だとしたら、たぶん、私は今、チャンスの近くにいるんだろう。もしかしたら、目の前にいるのかもしれない。ピンチには気づくのに、チャンスには気づかないなんて不公平だと思う。どうせピンチに気づいたって打てる手などない。黙ってピンチに打たれるだけなのだ。チャンスに打つ手がないのも同じかもしれないけど、気づくことができたら楽しい気分が身体じゅうをぽかぽか温めてくれるはずだ。


いろんなことを誰かが決めている。算数の式では、足し算と引き算よりも掛け算と割り算を先にやる。加減乗除の法則を知ったときのあの驚き。英語でhaveは「持っている」なのにtoをつけると「しなければならない」に変わると教えられたときもうろたえた。世の中は後出しジャンケンに満ちている。


宮下奈都 窓の向こうのガーシュウィン
切り抜いてきたものが二つあったのでここに残しておきます

宮下奈都(その6) 神さまたちの遊ぶ庭

宮下奈都 神さまたちの遊ぶ庭
宮下奈都 神さまたちの遊ぶ庭
平成28年(2016年)5月11日(水)
基本が大事だという。スポーツをするときの指導者の言葉だ。当たり前のことが当たり前にできること。ファインプレーにしてはいけないとも言い換えることができる。

宮下一家は最寄りのコンビニまで37キロもあるという僻地へ山村留学に行く決意をし実際にやり遂げてしまう。遂げるということはファインプレーではなく普通に誰でもができるようにプレーしたのだ。

野球でもテニスでもラグビーでもサッカーでも、普通の処理を失敗なく必ず成功してさり気なくしていること、これはファインプレーより難しいだろう。

この作品を読んで詰まらないとか味気が薄いという人は、これからの人生でも努めて生き方を見なおしたほうがいいかもしれない。

少なくともこの物語は筋書きはなく、そこがオモシロイ。でも、正義の味方は悪役には絶対負けない約束に似たようなものがあるように、留学する主人公たちには突き抜ける勢いがあって、それ加えて、惹きつけていくモノがあるのです。

読書をしておそらく大勢の人が感じ取ったものは共通していながらも、言葉にまとめるにはなかなか手ごわかったりする。

あることを決めるときに1つの物差しあるいは多数決で決めた尺度で測っていこうとする社会、何かルールを作って見つめ合うようにしておく社会から、勇気を持って飛び出そうというのだし、心の何処かで一度は考えた夢の様な社会に、ワープするみたいに行く。飛び出した先は無法でもなければ、規範がないところでもない。人の理想とする夢の様なところ。なのにあらゆることを考えたり悩んだりしながら、留学することに成功した人はおよそ帰還するときも成功を喜んで帰るから、不思議なコミュニティーです。

しかも子どもたちと大人までもが浸っている日常を、どっぷりと感情移入して読ませてくれたのだから、言葉になってすぐには出なくても仕方がない。

宮下さんのペンはじっくりと観察しているはずで、間違いなくその節々で判断をしているのだけど、例えば子どもたちの心の揺れ動きを丁寧には綴っていない。育児日記ではないのだし報告書でもないのだからそれで良いのだが、いわゆるサバサバしている。それが余計に読者とこの村で起こっている現実との間の壁を半透明化しているのかもしれない。

チャンスの神さまの前髪の話、コンタクトレンズが凍りつく話、村の人は純朴と言われて憤りを感じ37キロのコンビニと30分の通勤時間のことを考察して一石を投じるところなどを読んでいると、決して脳天気ではない哲学者だ。(おっと哲学専攻だってね、なるほど)

時にはひょうきんを装い、天然であり、楽天的である。そんな人なわけ絶対にないことくらいわかってますけど、なかなかの役者だ。

そう考えると、このリズムとステップでこれからも宮下風のほんわかコミカルポエムのようなタッチで、リリカルな色合いでやさしい視線を絶やすこと無くドラマは続いてほしい。

多くの読者がトムラウシに出かけてみたくなるでしょうし、こんな理想のような暮らしに自分も飛び込んで行きたいと夢みるだろうな。

家族が仲良しでなくてはと最後のほうでポロリと書いています。毎日そのことに感謝して、うまく言葉にできずその言葉の本意をも間違って伝わらないように考えてみたりするようなことも(私のまったくの想像ですが)多かったに違いないが、さり気なくひとことで多くの読者に一番大事な自分たちのファインプレーをファインプレーに見せないように伝えているのではないか。

作品は1だけ書いて9は読者が考えてみようみたいな哲学書のようなものだったと思えるのだが、これもやはり先入観でしょうか、宮下さん。

宮下奈都「羊と鋼の森」を読んだあとに (その5)

❏ 感想 まえがき

春の連休は宮下奈都さんの本を何冊か読んでいました。
そのなかで「羊と鋼の森」は、急がず焦らずじっくりと読むことができました。

第13回本屋大賞で大賞に選ばれていることが先入観としてどうしても大きな妨げになっているのは避けられないものの、大衆の声がどうであれきちんと見極めるためにもここは本屋大賞を眉唾だと思わずに読んでみようと、博打に出かけるような気持ちで読み始める決意をしたのでした。

嫌わずに読もうと心が動いたのは友だちからメールで宮下奈都さんの作品の感想を少し聞いたからです。
友だちは高校の国語の教師です。
本屋大賞決定の際にも先駆けてノミネート作品やその作家さんの作品を何冊か読んで予想をするなど楽しんでいるそうです。
宮下奈都さんの作品においてもこの大賞作品だけでなく「神様たちの遊ぶ庭」の感触も聞かせてくれました。
そんなことがあって背中を押されたみたいになったわけです。
(こんな先生が高校時代にいたら先生も好きで本も好きという青春時代だったのかななどとアホなことを思い浮かべながら作品に突入です)

実は先生の押しの他にもうひとつ事件があったのです。
それは宮下さんの名前を「宮下奈都」ではなく「宮下奈緒」と間違ってツイッターで書いて(mentionして)しまい、そのミスを宮下奈都さん自身からのツイートで指摘されてしまうということがありました。
一生懸命に書いたラブレターを間違って渡してしまった挙句その子に惚れていってしまう…なんてことはドラマでもありえないのかもしれませんが、わたしは宮下奈都を読み始めるはっきりとしたきっかけを自分で上手に作ったのでした。

「羊と鋼の森」を読み始めるまえに「はじめからその話をすればよかった」を読んでいました。
初めにエッセイを読んだことが親しみを持たせてくれて息を抜きながら少し軽めに宮下さんと接することができた感じです。
偉い先生にインタビューをしに行くとき、十分に予習を済ませたようなゆとりのようなものを持って「羊と鋼の森」へと進んでいきます。


❏ 感想

宮下奈都さんの印象というか作風のようなものをはエッセイを読みながら少し想像をしていました。
詩人みたいなタッチがあるなとか、あれこれと堅苦しく物語を作り上げてしまうようなタイプでもないなとか、どうやって好きになっていこうかを悩むようにあれこれ考えました。
メモを取る習慣の話が書いてあったので、作品の中のひとつひとつの展開がそんなメモから掘り出してきて築きあげられていくのだろうなあ、と想像してみたり、
子どもたちのことを日々眺めている目線から着想を得ているような会話や場面もあります。「面倒くさい」なんていう言葉が小説のなかで急に作者らしく無く使ってあるのをみていると、こういうところも苦心の表れなんだろうなと、余計なところまで考えてしまう。
そんなふうに考えたくなるような身近さを放っている人なのかもしれません。

ストーリーを作っていくタイプではなさそうですし、後になって語録をまとめ上げられるほどに課題を提起するタイプでもない。

優しく(失礼な言い方ですが)行き当たりばったり的に場面や心を映す場面が展開していくみたい。もちろん「だいたい、どの小説にも精魂なんてものはとっくに込められているのだ」と「はじめからその話をすればよかった」のなかで書いてますから、行き当たりばったりなどはないと思いますけど、そのさり気なくファインプレーのようなところが好感度を上げているのでしょう。

ドラマをシナリオ化して映像作品に作り上げたとしても、ドラマになりきらないようなことをしっかりと作文して纏めてくれて(イメージっぽく表現して)わかりやすく伝えてくれる人みたいだ。

悪く言えば純文学のこってりしたものを想像して期待するとがっかりすのだろうけど、まろやかで心がほんのりとほっこりするような末永く大事にお付き合い出来そうな作家なのかもしれないとも思ったわけです。

そういうわけで、作品にも大いに興味があるんだけども、欲張りなことに人間的にも大いに興味が湧いてきて、むかし(40年ほど前ですね)遠藤周作さんに会いに行ったみたいに、宮下奈都さんにも家の玄関に普段着でお邪魔してドアをコンコンとノックしてしまいそうな(それを許してくれそうな)味も感じてしまうのでした。

「 羊と鋼の森」というように、タイトルに「森」とつきます。けれども実像としての森は登場しません。作品でイメージされた森は、わたしたちが触れている環境創造活動や森林やみどりとの共存、さらにはおいしい空気や水を育む森と通じ合っているものがありました。
主人公はピアノの調律師をする若者です。ピアノは鍵盤の奥に隠されているフェルトのハンマーが鋼の弦を叩いて音を出します。このフェルトや弦を工夫・調節してピアノの音は調節します。森に生まれ森の大きさに守られて成長する若者の話です。
物語のなかで「古いピアノの音の良さは、山も野原も良かった時代に作られたからだ」「昔の羊は山や野原でいい草を食べて育ち、その健やかな羊の毛をぜいたくに使ったフェルトをピアノのハンマーに使って」いたからいい音がするのだ、と書いています。

作者の宮下奈緒さんは、北海道に山村留学をして家族で1年間過ごした経験があり(それを素材にして)「神さまたちの遊ぶ庭」という作品も書いています。

「羊と鋼の森」も「神さまたちの遊ぶ庭」に出てくる森も、ふだんから仕事で自然保護や環境創造、森や緑との共生などをテーマに仕事をしているわたしたちみんなが夢見ているような森ととても似ていました。
しっとり・どっぷりと何度も読み返せる作品でした。


❏ 感想 あとがき

(試しに本屋大賞を読んで)直木賞とは色合いが違うなあと、優劣ではなく、感じたのでした。
そもそも同じラインに並んで比べなくてもいいような風に感じます。

「博士が愛した数式」という小川洋子さんの作品をむかし読んだけど、ああいう作品のように鋭利でない切り口で魔法にかけたように作品が読者に忍び入って来るのようなところが宮下さんにもあった。
決して軽くはないのだが、作者は冷たい人を装って、熱くならない物語を淡々と続ける。
結論だけどこかで暗示したらいつ終わってもいいような甘いベールに包まれたお話だったのかもしれないな。

・・・・と、ここまで書いて、本屋大賞のことをパラパラと調べたら、さらにわかってきたことはその「博士が愛した数式」(小川洋子)が第1回本屋大賞だったということです。
本屋大賞なんて眉唾やなあ、なんて書いておきながらも楽しく読んでいる作品が何篇かあったので、ちょっと言い過ぎたかと反省しつつ、
小川洋子や石田衣良、絲山秋子、角田光代、三浦しをん…と読んでいるから、あゝわたしも結構ミーハーだったのだ。

自分で書いた感想をもう一度読みなおすと
「ストーリーが荒削りで躍動感のあるモノや、感動の押し付けのような作品が巷には多いこのごろ、素直に小さな物語を、しかも、文学的に彼女は綴っている。
こんな作品は次々と生み出せるようなものではなく、作者の宝物のような感性を繊細にかつ満遍なく出すのですから、きっと彼女の中でも数少ない名作になることでしょう」
と小川洋子さんの作品のことを書いている。(11年前の感想)

わたしが大好きな「赤目四十八瀧心中未遂」(車谷長吉)とか「利休にたずねよ」(山本兼一)ような滾りがない。だからこそまた違った読者が吸い寄せられるのだ。

♠️

もう一つ特記したいことがあったので記録しておく。

読書真っ最中のこと、原民喜の作品を引用している箇所に出会う。(P57)

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」

これは「沙漠の花」という作品のなかにある一節だ。ちょうど半年ほど前に「原民喜全詩集」を見つけて考慮時間0秒で買ったわたしですから、原民喜という名前が登場するだけでもうお涙頂戴ものでした。

そのことをツイッターで mention したら reply がもらえたのでした。

遅読なんです(老眼とも闘いながら) 羊と鋼の森 ぼちぼち進んでます
原民喜 の名前が出てきて超嬉しがっています
去年の秋に「原民喜全詩集」を見つけて即買ったんです
わけもなく好きなん
何か通じるものを感じているのかな
(そんな 予感もしていたのだった)
@NatsMiya

@wahaku よかった たぶんどこかでつながっているのですね


写真日記から

羊と鋼の森(宮下奈都)

宮下奈都さん(その4)「羊と鋼の森 」へと

 宮下奈都さんの話を続ける

宮下奈都さんの「はじめからその話をすればよかった」を
じっくりと読みだして好きになった

しっかりさんなのだが
ちょっとエキセントリックな面もあって
でもお茶目そうな雰囲気も漂わせていて
好きになってしまうタイプなのかも

四月が尽きる頃からちょっと
いろいろ心を刺激することが立て続きあって
今 宮下さんで オロオロしてる
私の心はたった今音楽アプリが流してきている
IT MIGHT AS WELL BE SPRING
そのものなんです

上智の哲学科って城くんが選んだ学科と同じだし
年代も近いし
城くんは結構長い間在籍してたし
もしかしたら知っているかも
なんて考えてるとまんざら遠い人じゃないみたいな
都合のいい錯覚が満ちてくる

♣♣

名前を間違ってツイッターにあげてしまい
すかさず 宮下奈都 さん本人から
間違いの指摘を受けて
顔面から血が吹き出しそうなくらい焦りつつ

魔法にかかったように
宮下ファンになっていくのでした

「羊と鋼の森」の購入はもう秒読みに入っていた

「神様の…」からか「はじめから…」の作品を
ひとまずじっくり読んでから買いに行こうと考えているうちに

めきめきとサイン本が欲しくなってくる
どうしてかって…
一目惚れした高校生にその瞬間の心を尋ねてみれば
同じ答えかもしれない

ともあれ
ときめきに満ちながら5月が始まっている

宮下奈都 はじめからその話をすればよかった(その3)

メモ帖に書きとめたことがらを書き写す。
トリガーになる部分だけ。


【048】 いつか、また会える
もうこれで終わりだとそうはっきり感じることができるのは若さの特権だと思う。痛々しく、残酷な特権だ。泣きながら、さようならと手を振ることができるのは若いからだ。いくつもの人や物事との決別を繰り返し、人は年を重ねていく。

【066】わからないということ
小説というのは、わからないことに言葉で挑むことだと私は思っている。わからないけど、知りたい。つかみたい。何か。それを根気よく追いかける。いい小説には答えではなく、問いがある。

【077】宇宙飛行士になりたい!
子供は種である。どんな種なのか、ぎざぎざの葉っぱが出るのか、赤い花が咲くのか、甘い実がなるのか、ぜんぜんわからない種だ。種に刻まれたDNAがどんなふうに発露するか、それだって誰にもわからない。親にできることなど、少しばかりんことだ。できるだけやわらかい土に蒔いてやり、水をやり、日に当て、すくすく育つように祈るくらいのことだ。

【081】同じ月を見ている
「同じ月を見ている」というのは使い古された言いまわしなのかもしれない。離れていても、隣に並んで月を愛でることはできなくても、きっと同じ気持ちで月を見上げている。そういう糸がいると信じられるだけでどれほど心を強く持つことができるだろう。

【123】 おついたち
その気持が、こどもを生んで少し変わった。誕生日って生まれた日だけじゃない。生んだ日でもある。こどもにとっては、生んでもらった日なのだ。

【126】 チョコレート
若かった頃、バレンタインに意を決して、好きだった人にチョコレートを贈った。

【129】 パン
たぶん、適当に粉と卵と砂糖と牛乳を混ぜて、フライパンにバターを溶かして焼いてくれたんだと思う。

【141】 眺めのいい道
桜はまだ咲かない。凛とした空気の中、上着を羽織って散歩に出る。青い空の下を歩きながら、生き方を突きつけられているのは子供たちではなく、私のほうだ、と思った。


「いつか、また会える」と「おついたち」は
なかでも余韻が強くてピリピリと心の片隅に滲みている。

こういうところがこの人のとても魅力的なところなのだと思う。

いい人に出会えた
小説家でよかった
リアルだったらしばらくは痺れきってしまうかもしれない

宮下奈都 はじめからその話をすればよかった(その2)

昨日あたりに文庫が出ているみたいです。
お安くてお買い得。
買ってもいいなと思っています。

何度でも読めます。
同年代の人ならなおさらに。

宮下奈都
はじめからその話をすればよかった


はじめからその話をすればよかった

惹かれるタイトルだと思う。

小説なのかエッセイなのか無意識で手に取れば見当もつかない。
エッセイだとどこかに書いてあったからそのつもりで読み始めるけれども小説だと思って読み始める人も多いかも。
あり触れたエッセイ集よりは随分とライトな感じで読ませてもらえる。
もちろん作者は見た目ほどライトには書いていないことは分かる。
むしろ、作家でありそれをプロとしている以上、ライトであっても心を込めて真剣勝負で書いていることも伝わってくる。

羊と鋼の森を図書館で予約してみた。
面白半分で予約ボタンを押したら40番目と出たのでさらにおもしろがっている。

40人×2週間も待ってこの本を読もうとしている人の感覚を疑う。
そんなに待ってでも読みたいってのは本当にこの作品が読みたいのではないのではないか。
と同時に図書館のあり方も考えさせられる。

そんなことや他にももっと様々なことを考えながら宮下奈都の本を探してみて待ち時間がゼロの本を借りてきたのがこの1冊だった。
この本が待ち時間ゼロなのは発刊後の時間が過ぎていることもあろうが、図書館の借り手のレベルが新刊に馬鹿みたいにとりつく程度の人々で構成されているからかもしれない。
コンスタントに借り出されて然りというような作品であると思う。

この作品をエッセイというジャンルでそんなに簡単にひと括りにしてしまってはイケナイ。
この作家さんの人柄はもちろんのこと、環境や作風も混じってくるととても温かみのある優しい1冊になっているのだから。

生活のこと、家族のこと、生い立ちのことなどに軽く触れながら、色んなことを考え喜んだり悲しんだりしながら生きていく。
そこにプラスされてこの作家固有の文体が味をつけてくれる。

作風というものはそう簡単には変化もしないし自分の意志でも変えることができないだろう。
それだけに人柄に触れあえたような気持ちになれて、人を好きになってゆくように本も好きになってゆく。

WEBでメッセージを書く欄があったので次のように書いた。

—-

正直WEBで立ち読みさせてもらっているだけです。 すみません。
早く本屋に行きたいけど田舎町には本屋がないしネットじゃ嫌だし手にとって買いたいしと考えてそわそわしながら「はじめからその話をすればよかった」を半分ほども読み進んでしまった。
友だちがメールで「神様たちの遊ぶ庭」がよかったと教えてくれて高校の国語の先生なんですけどこんな先生に現代文を教われる生徒は羨ましいなと思いつつ、宮下奈都さんと先生を重ね合わせて勝手に活字の世界で生きている人に憧れてゆく。
しばらく、不思議でありながらもどこか似ているような感じのするこの人を読みます。
短いツイートが好きですね。短いほどいいわ。スカートみたいに

—-

「羊と鋼の森」の順番を待つつもりは今や全くない。

友だちが教えてくれた「神様たちの遊ぶ庭」を読み終えるころには買いに行こうかということになっているはずだとウキウキしている。

スクリーンショット 2016-04-19 午後1.50.57
宮下奈都

宮下奈都


宮下奈都の「羊と鋼の森」が本屋大賞に選ばれてざわざわと騒がしい。

そもそも何たら大賞というのは好きになれないのだ。
そのわけはきっと同じ思いの人ならば表現こそ違うだろうけどよく似た感情を持っていて、
詰まるところチヤホヤされているわりに期待が外れることが多いからだろう。

では、期待が外れなければいいのかとなる。確かにその通りなのです。

昔でも超売れっ子作家とかがいて、何たら大賞にノミネートされると渋い顔をされた。

遠藤周作や司馬遼太郎、向田邦子、藤本義一、井上ひさし、村上龍、村上春樹、宮本輝、石田衣良…など。形は違えどもチヤホヤされて歴史を刻んできた。

今は広告メディアや自己主張が前に出やすい時代になって、売れる物ならば善し悪しは二の次の感じもする。
社会がスピーディの情報化されていなかった時代は、本との出会いは素朴だった。
純粋に本屋や古本屋に行って、積んであったり並んでいる本を見て手にとって選んだ。
購入した本の裏表紙の作品リストなどを眺めては今度買う作家に夢を馳せてたりすることも多かった。
あの時代はハズレもあったと思うが、読者が揃って目指している方向を見つめ合いながら、ゆっくりと噛み砕いて作家なり作品を選んで行けたような気がするのだ。

本屋大賞などというのが出てきた。書店員が選ぶというところが惹きつけるところなのだろう。
並んだ本にラベルが欲しいのか、ある種のカリスマ性のようなモノを放たねばならないのかもしれない。
けれども、読者は多彩であり志向も疎らになっているから、ハズレを訴える人の声がオモテに出やすい。
さらに大声で叫ぶ力があれば正しかろうが無茶であろうがまかり通るという側面もある。
それは逆に、大賞を押す人の声も当然のことながら前面に出てくる。

早い話が大賞などそれほど当てになるとも言えるしそうでもないとも言える。

自分の好みや読みたい本であって、さらには感動できたり共感できるような作品は、多数決では決まらないし、他人には決められない。
大声で推薦したり金をかけて宣伝してればいいとも限らない。
書店員が薦めてくれてもホイホイとは選べない。
自分で読んで選ぶしかないというのが一番確実な選択手段となる。

ですが!!
宮下奈都の「羊と鋼の森」を図書館で40人待ちなのに予約したのだ。
借りて読むつもりはそれほどないといえばそうなのだが、ミーハーになってみたい面があるのと、非難ばっかりしてないで読もうではないかと思ったのだった。

40人×2週間の間も待てないので、「はじめからその話をすればよかった」というエッセイ集を借りてみた。それがドンピシャであった。

というところまできて、今になっている。

宮下奈都の「羊と鋼の森」を古本屋に探し行くことになるかもしれない。
でも我が田舎町のピントのずれた古本屋にはそんな本は出回っていないだろうな。

ウドもろて
ウド

宮本輝 田園発 港行き自転車 (上)(下)

宮本輝 田園発 港行き自転車 (上)(下)
2016年4月21日

15年前に父が急死した地・富山で、父の足跡を辿る絵本作家の賀川真帆。東京での暮らしが合わず、富山に戻ってきた事務員の脇田千春。出会うことのないはずのふたりの人生が思いもよらない縁で繋がっていく、富山の美しく豊かな自然を舞台に描かれた長編小説です。人の思いの強さや、それによって繋がっていく人と人との縁…ぐいぐい物語に引き込まれていきます。

yuri mizutani さんの装画が素敵です。コレ

さて わたしの読後感想富山県を流れる黒部川にかかる愛本橋が物語に登場する。この端の少し下流に「墓の木自然公園キャンプ場」というところがありわたしは平成13年8月18日にここを訪れた。この作品よりも遥か昔、今から15年ほど前です。

その明くる日には周辺を走り回り道の駅でトイレを借りたしながら独特な景色と格別に違う風が吹いていると感じた田園地帯をブラブラと散策しながらバイクで巡った。ここで登場する愛本橋も走って通り過ぎた違いない。

だが、写真を見て思い出すことはできない。けれどももう一度行けば確実に記憶がよみがえる気がする。あのときにこの田園地帯で感じた風の匂いと水のせせらぎにここにしかないもの凄いパワーを感じていた。日記では言葉で明確にはしていないが、黒部の山々と小さな扇状地に漂う畏敬のようなものを確実に感じ取っていた。

もっとむかし、さらに15年ほど遡って1984年にも富山平野を横切っている。それはクルマで東北を目指した旅の途中のことで、高速道路は富山平野の中ほどまでしか開通しておらず、京都から走ってきた終点は滑川インターで、黒部川は一般国道である8号線を走って越えた。

川が急流なことはもちろんだが、有名な割には川幅がそれほど広くないし水が脈々と流れているわけでもないのに、どこか異色の景色を放っていた。それが石のせいだと気づく。しばらく考えているとわかってくる。山から急斜面を流れだした水はあっという間に海に到達するから、蛇行したり河原を作ったり、石が砕けて砂になるような緩やかな流れはないのだ。

二度目にこの地に旅してきたときにも初めて来たときの強烈な印象が蘇った。ただ、せせらぎに手を差しのべてその水の冷たさや美しさに触れたのは墓の木自然公園にテントを張った時が初めてだった。

この本を読み始めながら次第にそのときの感動が蘇ってきて、宮本輝が蛍川に書いた富山への熱情と合わせて、この作品の感動を整理しなくてはいけないなと思う。

そうすると、宮本輝が作品の書き出しで大きく息を吸って深呼吸をしたかもしれないような息づかいまでもがわたしの中に満ち溢れてきて、仕事で書いている4月号のメールマガジンのあとがきでも紹介をした。

宮本輝さんは「田園発港行き自転車」という小説を<私は自分のふるさとが好きだ。ふるさとは私の誇りだ。何の取り柄もない二十歳の女の私が自慢できることといえば、あんなに美しいふるさとで生まれ育った ということだけなのだ>と書き出しています。ちょっとしたきっかけで読み始めたこの作品は、富山県を舞台にして立山連峰と黒部川と富山湾を背景にした田園地帯と、この豊かな自然の中で織りなす奇跡的な出会いのドラマです。この作品の中には終始偉大な自然に育まれた豊かな心の人々が登場します。作者は冒頭で「自慢できる」という表現をしています

という具合に震えるようなものを感じ取ったのだった。

全てはこの書き出しにある。

作品は現代屈指のストーリーテラーである宮本氏が魔術のように人間関係を練り上げ、それぞれの出会いや事件の場面を絶妙に切り刻んで並べて、ヒトの真正面の生き方を宮本美学的に綴り、味わい深いドラマにしている。

TVや映画でのドラマではなく宮本氏が詩篇を意識したような風景や心の描写で、時には(いつものようにともいえるが、宮本流の)思わぬ展開や出会いで編み上げていってしまう。
作者はこういう複雑で、実際にはありえないような(ドラマチックな展開を)螺旋のようにもつれた関係や展開を味わい深く作品の中に散りばめた。

確かにいつものように退屈なところもあるのだけれど、それもお見通しかもしれず、作品の結末を構想しながら絶妙にあれこれを集約してくる。

書きはじめるときにラストシーンをはたして固めてあったのか、3年近くも書き続けながら熟成するものなのか想像の領域外だが、散りばめた感動を纏めて、幾 つもドラマを投げ出して走らせてストンと終わってくれるところなどにも、この人の真面目で哲学者で詩人でお茶目な面を感じる。

作品の完成度としては大雑把に真ん中(星3つ)くらいと思っている。新品を買ってきて手垢も付けたくないというような作品にはならなかったが、どんな一流のドラマや映画も寄せ付けない味わいを持っている。それはコレこそがドラマなんだというスリリングなものでもあり、人間の生き方へのひとつの提示であるのかもしれない。

「禍福はあざなえる縄の如し」と明確に引用をしていた作品もあるのだが、この作品では言葉自体には触れていない。螺旋の人生を送ってきた人だから書ける作品なんだろうと思う。

あとがきから
わたしは、螺旋というかたちにも強く惹かれます。多くのもののなかに螺旋状の仕組みがあるのは自然科学において解明されつつありますが、それが人間のつながりにおいても、有り得ないような出会いや驚愕するような偶然をもたらすことに途轍もない神秘性を感じるのです
本文から
好不調はつねに繰り返しつづけるし、浮き沈みはつきも のだが、自分のやるべきことを放棄しなければ、思いもよらなかった大きな褒美が突然やって来る

古川智映子 小説 土佐堀川─広岡浅子の生涯

平成27年から28年にかけて
NHKの朝ドラの主人公だそうです

ドラマを夢中になってみている人が
身の回りにはたくさんいて
この本もツマがドラマに並行して読んだものでした

ドラマは半年間ほどするようですから
早々に読み終わってしまっていて
コタツの上の放置してあったのを借りて読む

小説とタイトルに書いているけど
ほとんど実話なのだろうと思っていいのではないかな
作者に小説のような架空は書けないでしょう

というわけで ほぼ伝記に近いような物語で
とても面白く読めて 為になったような気持ちになれる本です

主人公は結核を患っていても生き抜いて
数々の業績を遺すのですが
TVを見ていた人に尋ねると
ドラマではまったくそのことには触れていないそうで
物語として楽しむのであればTVドラマが良かったかも

俳優さんも味がある別嬪さんのようで
映像・演劇作品として楽しんでみたかったです

小説は取り掛かりでやや面白みがありますものの
中盤から後半に掛けては
教科書で伝記を勉強している副読本のようで
味気ないし 小説や文芸の味はないといえましょう
何度も繰り返して読んで味わうこともなさそうです

辨野義己 免疫力は腸で決まる、他2冊


リヴィエラを撃て(高村薫)を読み終えてから
家にあった土佐堀川と
図書館で借りた2冊を
並行線で読んでいます


図書館で借りているのですが
延長してもらいました

京都ぎらい 朝日新書
の予約をしているのですが
返却された連絡が届かないので
出かける用事を減らすために
もう少しじっくりと読むことにしました

でも
この2冊は

わたしにしたら
買う本ではなかったので
借りてよかった。


♠♠

❏ 免疫力は腸で決まる

本の内容は面白いですし
ためになりますので
おすすめします

高級なことや学術的なことは書いていませんので
そういうつもりで読んではいけません

味わいや深みや厚みや楽しみなどの満足感もないです。
タイトルのことの周辺情報を埋めている週刊誌の読み物欄のような記事を集めた本です

作者は真面目な方で
わたしも生活習慣や曲がった知識を見なおさねばならないと思いました


筆者が終盤でおすすめの食事を書いています。
★ ヨーグルトを1日500グラム

無理でしょ

ミキサーで混ぜて飲むと比較的行けるかも
とも書いていますが

◯ ヨーグルト
◯ 豆乳
◯ 乳酸菌飲料
◯ バナナ
◯ ヨーグルト
◯ 抹茶・ハチミツ


また、腸を良好に保てば
美肌にもなれるから
女子はチェックです

乳酸菌食品が重要です

◯ ヨーグルト+バナナ
◯ ヨーグルト+ニンジン
◯ チーズ+アスパラガス
◯ チーズ+さつまいも
◯ キムチ+豆腐
◯ 漬物+リンゴ


♠♠

❏ バカボンのママはなぜ美人なのか

柴門ふみさんのファンならとても楽しい本と思いますが
タイトルのことを掘り下げて書いている側面が少なく
柴門さんのエッセイ的な本のような印象ですので
嫉妬の心理学について書いているのではないのだなと
思い始めると興味が少し萎縮したかな


♠♠

広岡浅子の生涯ってのは
NHKの朝ドラです(だそうです)

話は面白いのですが
読み物としては味がないです

感想はのちほど

高村薫 リヴィエラを撃て(上・下)

登場人物がかっこいい。
オンナがクールで美人だ。

物語は難解で全然わからないので何度も読み返して進まないから2ヶ月も電車のなかでにらめっこをしていたけど、こういうのが好きな人は絶対に★★★★★になるでしょう。

高村薫
どんな人だろうって。
思うのかもしれない。

読み終わって
もう一回読んで
今度は感動をしたいと思う小説です。

季節は冬ばかりだ。2月とか3月とか。
この国の物語をこの重たさで書こうとすると最も合う季節なのかもしれない。
年末買って1月いっぱい、ちょうどそんなふうに同じ季節に読んできた。

エスピオナージ。耳慣れない言葉はどこかに記憶があるものの、スパイ小説なんてのはふだんから触れる小説や映画、ドラマでは007くらいしか知らない。(それに私は007の映画は1度も見たことがない)

「愛する者を傷つけないために別れ、愛してくれる者を傷つけいないために愛し、遠ざけ、キムは結局ひとりで逝ったのだ。」

こんな一文が目にとまる。
この言葉と出会うのは、物語として第4コーナー付近に差し掛かるあたりになろうか。
もしかしたら、さり気なく行き過ぎる物語のシーンのなかで、ふっと一息つく瞬間に痺れたのは私だけではなかったのではないか。

人が人を愛するとか何かに情熱を燃やすとか執念を煮え滾らせるとか正義を通すとか、そういう人間味からはまったく無縁にも思えるハードボイルドな側面をオモテにしている物語であるはずだったが、作者の思いは決してそんなにもクールではなかったのだと思う。

そんな想像を絶やさせないような只ならぬ作品だと難解と闘いながらも読み始めれば誰もが感じ取ってしまうだろう。

そして読み進むにつれて、人間の愛情や社会の不条理のようなものに熱いものを滾らせているのではないかと思いはじめるのだった。

登場人物が次々と狙撃されて死んでいってしまう。
これほどまでに非情がどこにあろうか。
死んで欲しくない人がことごとく無残に死んでいく。
しかしながら、タダの殺し合いの小説ではないことくらいは、それも少し読めば直ぐに分かる。

スパイ小説とはどんなものなのかをお手本で知らされたわけではないし、このような作品の経験がない私には最後まで読み切る自信が持てなかった。だが、とても難解な物語であるはずだったのに、未知のジャンルに戸惑いながらもドキドキで読んでいく。どこかしらに最後まで読んでしまう理由と確信があって、それは読み終わってみてはっきりと見えたのだった。

私たちの非日常のテロリストというものが登場する。
スパイがいる半ば非現実の社会で、そこには民族の意識の闘いが潜む。
情報機関が事件の水面下でざわざわと動く。

伊勢志摩サミットの警備のニュースはお茶の間で流れ、身近でも囁かれている。

各国でのテロ事件も騒がしいときに読み始めたこともあって、公安警察や外事警察の物語としてもグッドタイミングでドキドキとして読む。

スコットランドの地名や地形や民族の闘争の背景の資料を探して読んで、読者に求められるスタミナをつけた。
さらに、登場人物リストを大きな紙に書き出して自分なりに関係図を描いてみた。
それでも、何度もページを最初までめくり直す日が続いた。

山本兼一 花鳥の夢  感想

2015年10月21日 (水)

長谷川等伯を書いた安部龍太郎「等伯」を読んで山本兼一の「花鳥の夢」へと思いを誘われた。

かつて、山本兼一「利休にたずねよ」を読んだときに、それまでに接してきた歴史的な小説とは全く違った味わいを知らされ、激しい情熱やドロリとした人間味を読ませてもらった。

芸術的に美しく且つ煮え滾る感情のようなものであったのかと、今になってもう一度思い返しながら考えてみている。

歴史小説としてポピュラーな司馬遼太郎の作品は例えれば落語のようで、吉川英治の作品は講談のように読者をその世界に惹き込んでゆくと、私はそう思っている。

では、安部龍太郎や山本兼一はどうなのか。
二人を同じに考えることはできないが、人物が絵師という芸術のうえで、激しく自分を押し出したり、控えたり、噛み堪えたり、ぶつけたり、自省の檻に叩き込んでみたり、もっと激しく自分を責めたり、悩んでみたりして、生きるてゆく人間の姿を手法を違えて物語にしてゆく。

司馬作品のように 俯瞰的な視線はない。吉川英治のように読者を踊らせてくれるような巧妙さもない。

骨子にあるのは、芸術的な視線を持つ山本兼一の眼差しが捉えている狩野永徳の生き様だ。

ときには、芸術素人読者や非読書虫である私のようなものには、些か退屈なところもある。しかし、扱う人物(素材)の力は遥かに大きく、引力が激しい。

安部龍太郎を先に読んだときに、安部龍太郎は自分を等伯と確実に重ねているということを感想で書いた。まさかと思うことを感じたので、そんな思いの人はそ れほど多くも居ないだろうと思いつつそう書いた。なのに、後になって多くの人の感想や談話を読んでみれば、安部龍太郎自身が「私は等伯です」と直木賞受賞 時のインタビューで語ったと書いているから私は驚く。
私は間違っていなかったらしいのが嬉しかった。

「花鳥の夢」の文庫の解説を書いている澤田瞳子さんは「狩野永徳は山本兼一だ」と書いている。そのことは読み始める前に拝見した。その書評を読んだからこ の作品を読まずにはいられない。ということで、歴史作品を連続読書するなどという前例がないまま、二人の絵師の世界、戦国の激しい時代のなかを生きる 人々、芸術家であり人間である姿で真正面から自分の使命と運命に立ち向き合ってゆく物語のなかに私は踏み込んでいった。

安部龍太郎の文章は読み手の心を上手に捉えて離さない。
一方、山本兼一は、美的で考え抜かれて吟味され尽くした厚みのある一節一節で、いかがでしょうかというように惹きつける。
美的なものをきちんと美的に伝えて、物語のなかで粉塵のようにして読者に吸い込まれてゆくように、作品にまとめ上げ てゆく。さながら、この物語のなかの永徳のようでもある。

小説家という人物の頭のなかはどんな構造になっているのか。安っぽい小説なら「ボクも真似して書いて」みたくなるのだろうが、山本兼一はそれを寄せつけないような凄みがある。決して詩的で美文でもないが、やわらかみのある作風だ。

どこまでが史実で、どこからが架空であるのか。それは全く不問でいいのだと思えてくる。そんなことは歴史の教科書や図書館の美術史の書籍に任せよう。狩野永徳という人間の心のなかに踏み込ませてもらうことで、知らない絵の世界が見えてくるではないか。

こんなに激しく燃えて、悩みぬいて、自分を問い詰めて、芸術を極めて生きぬいてゆくなんてことは、誰ができるものでもあるまい。しかしながら、歴史に名を残した人物にはしかるべき苦心があったのだ。

作者は、狩野永徳が持っていた天才肌の他にあるもう一方の面で、彼を責め続けた自分に問いかける正義のようなものを書きたかったのではないか。

いつの時代の凡人にも非凡人にもあるような側面を、歴史的芸術作品の絵の裏にある泥っとした過程のようなもののなかに、物語として書いて、凄まじい永徳の本当の姿を表現したかったのではないか。
等伯と永徳の絵を見に出かけたくなる。そんな作品です。(平成27年11月6日)

花鳥の夢

ここまで一息ついて、最後の方をもう一度読む。
終章(第九章)花鳥の夢の段は興奮も収まり静かな章になっている。
一度登場した利休も姿を表し、芸術から哲学の色合いをもった問答や自責が続く。
戦国の世の激しい闘いのなかでその波に揺られながら命辛辛生きている人間たちである。
物語のうえでは少しばかり悪者のイメージで描かれていて、実像はどうであったのかも気にかかるものの、強くて華麗であった人に少し物語上は悪役を買ってもらったというところなのか。
志も半ばで、等伯よりも遥かに早く、利休が無念で切腹をするより半年早く、永徳はこの世を去る。
なるほど、こうして考えていると、山本兼一は狩野永徳だったという点も見えてくる。
─2015年11月8日 (日)

安部龍太郎 等伯 (感想篇)

20150924等伯上

等伯下
直木三十五の「南国太平記」か吉川英治の「鳴門秘帖」か司馬遼太郎の「梟の城」か井上靖の「風林火山」か。これらの作品を初めて読んだときの興奮と読後の震えのようなものが、等伯を読み終わった私の身震いの中にあった。

終章まで熱気が冷めずにとことん気持ちを入れ込んで、しかも、物語の面白みと人間の心の闘いの醍醐味を存分に味わわせてくれる作品である。

安部龍太郎という人、読んだことがなかったので、いかに読まず嫌いだったのか、と反省する。(人は見かけで判断はしてはイカン:余談)…と言いながら、実は、19年前(平成8年)に私はこの人の記事を読んで、「誰やこの人、只者ではないぞ」と赤ペンでナゾっている。

それが安部龍太郎 「龍馬脱藩の道 ─ 竜馬がゆく<高知>」(文藝春秋平成8年5月臨時増刊記事/文藝春秋社「司馬遼太郎大いなる遺産」に掲載)の(追悼の)記事だった。
印までつけて何度も読み耽って、付箋まで貼って、とても面白い作家だとまで思いながらも彼の作品は読まないままだった。素直じゃなかったのだ。安部龍太郎って誰よ、と思ってストンと忘れたのだろう。

ところが、読書ブログ繋がり(ともだち)こはるさんが、直木賞が文庫になったので(読みました)と、感想を書いていたのを見てわたしも読むことにした。

絵にはからきし弱く、私にはチンプンカンプンだろうし、歴史小説は根性入れないと読み切れないし、文庫で上下もあるし、(それほど知らない)安部龍太郎だし…と思い悩んでいたら、「迫力があって小説であること忘れそう…」とまで言うので思い切った。

久しぶりの★★★★★ですし、私のように10分程度の列車の中や15分程度の昼休みしか(寝床では読み始めると1分で眠ってしまうことが多い)ない人には打って付けの作品でした。買いましたと書いてから随分と時間が過ぎた。敢えて言えば寝床で眠ってしまわず読めば朝になる恐れが高いのでオススメできないようなそういうアツイ作品だった。


能登半島・七尾の下級武士の家に生まれるが、幼少のころに染物屋に養子に出される。それがやがて絵師として見いだされ、何度も降りかかる不運や不幸を突っぱねて歴史に残る絵師として認められてゆく。そういう中の激しい生き方に感動しながら読む。

義父母の壮絶な死、兄の野暮、戦に巻き込まれる被害、筋書き通りにいかない人生、理屈に合わない人間関係、突然襲いかかる不幸、貧困、裏切り、憎しみ、駆け引き。意地、見栄、希望、懺悔、度重なる身内の死。等伯と人生をともにする女性たち。すべてがクセのある人間味を帯びていながらも美しくある。

いつどんな時代であってもこのような人物は存在したのだろう。戦国の世の中のことだ、どこまで自分の願いが叶ったのだろうか。京の都に出て絵描きとして認められたいと夢見ることは、その人の才能にかかわらず、現代ならば宇宙飛行士になりたいとか大リーガーになる、ノーベル賞を狙いたい…みたいなものだろう。私たちも子どものころそんな夢を語ったこともあったものだが、それは夢であるから好きなように語れたのだった。現代の若者は─とくに小中学生は宇宙飛行士とか大リーガーなんて現実的ではないと言って弁護士だとか医者などを将来の夢に挙げるとも聞く。

等伯の時代も今も同じように夢は夢であったのかも知れない。しかし、どこかが違ったのだ。安部龍太郎は、そんなどろっとした部分を程よくそぎ落とし、運命に引きずられて都に出て、絵描きとしての道を歩んでゆく情熱的な等伯の姿を書きたかったのだ。烈しい気性を淡々と書いて、講談のシナリオのように、不運をひらりひらりと裏返すように単調な成功物語にしたくないと考え苦心したように見える。

これだけの才人の伝記だから、物語にすれば歴史ファンが増えて仕方なかろう、利休を見直す人も出てこよう、日蓮を読んで学ぼうという人も出てくるだろう、そういう逸る気持ちを鎮めながら一方でどっぷりとハマって読みふける。等伯の苦悩や不幸、不運を、そしてさらには挫折や読者の反発も、全てを味方にしてどんどんとおもしろい物語になっている。どこまでが史実なのか、どうでもよくなってくるくらい、夢のように嬉しい展開である。そこが安部龍太郎の(きっと努力の)文芸の技ではないかと思う。

等伯を安部龍太郎が書かなければ、等伯に関わる文献は歴史の副読本程度で終わっていたかも知れないし、落語のネタ本のようだったかも知れない。そんなことも思いながら、作者・安部龍太郎のことを想像する。情熱を感じさせてくれる人だ。そう意味でも、安部龍太郎が等伯を書き上げてこそ本当に良かった。等伯がつまらなくなる恐れがあったのだから。

人は激しくて揺るぎのない強い執着を持っていれば成就できる…というお手本の生き方をした人物ではなかった。等伯の人生は、ある点では下手くそな生き方だった。だから等伯は、時代のヒーロー的な人物でもなかったし成功をするのも晩年である。そんな人をここまで魅力的に書けたのは、安部さんアナタが共通するものを感じ持ってるからではないですか。(と質問したい)

物語を書くにあたって、安部龍太郎という人は文芸のチカラで引き込んでゆける様々な手段や技法を研究し、知識や常識も調べ上げるなどして研究に余念がない人だったに違いない。そういう厚みを備えて書いたことがこういう巧い作品を纏める才能であった。おそらくこの作品に限らず、一文一文しっかりと着実に書いてゆく作家のだろう。読みながらそんな作者の顔も感じ取りながら読み進む。

それは推測だが、安部龍太郎自身の生きざまや人生そのものに等伯が重なるのではないか。安部龍太郎は、等伯に成り切って命を賭けてこの作品を自伝を書くように書いたのではないか。そうであってもおかしくないほど、等伯という人物には魅力もスリルも意外性もあった。もちろん、あらゆるものを燃え尽きさせる熱いものも持っていた。

歴史を新しい側から辿っていけば、もしかすると、しかるべき成功物語で語っておしまいになっていたかも知れない。しかし、安部龍太郎のマジックのような才能が、誰にも書けない等伯を完成させた。

歴史の試練をくぐり抜けた一つ一つの場面が余りにも激しいながらも真摯であり、単純ではない波乱な人生であったが、決してそれだけで終われないものがある。それは等伯の、漲る才能や絵に対する執念だけではなく、向こう見ずな側面を作品では見せている。

その上に、その強運不運に死なされてしまわずに生き延びた史実を、はらはらとさせるような作り話のような筋書きにして、たぶんほとんどのところが資料に基づく史実に近いものだろうが、小説としてまとめ上げた作者・安部龍太郎のレトリックの凄さでもある。

そして終章。等伯は逝くのだが、逝ったとはどこにも書かずに、安部龍太郎はぐっと映画のようなシーンで終わりとしたのだ。
この作品は、映画にもできない、安部龍太郎の書いたペンが激しく読者にぶつけてくる等伯の叫びを綴ったものだと思う。そんな気がしている。