見てわからん者は聞いてもわからん

見てわからん者は聞いてもわからん
ヒトのふり見て我がふり直せ
この二つの言葉について考える

父には頻繁に注意をされたものだ。
小言ではない。説教でもなかった。
偉い人の説法に似たようなモノであったのかと今ごろになって回想する。

▼見てわからん者は聞いてもわからん

この言葉の本当に深い意味考えてみるとき、ずっと50年以上もの間にわたって本当の「その心は」の部分をわたしは理解しないままでいたのだと気づく。ちょっと恥ずかしいのだが、当たり前のことを理解していなかった自分の愚かさをさらけ出す話だ。

「見てわからんことがあっても、聞いたらわかるやないか」
さらには
「見なくてもきちんとした設計図があれば完璧に学ぶことだって出来るはずやないか」
と若いときには何度も思ったものだ。

そう考えた理屈は決して間違っていないとも言えるし、その言い分で成功を収めることも出来るだろう。そのまま完了して終わってしまうこともある。さらには、成長していく段階においても「見てわからん者は聞いてもわからん」という言葉の真意を理解しないままで何も困らずに安泰に過ごせた人も多いかも知れない。

しかし、この言葉にはもっと深い哲学が潜んでいるのだ、と歳を経る毎に思うのである。

見てわからん  → 聞いてもわからん
聞いたらわかる → 見てもわかる

論理式はこうなるのだが、それだけではない。
じっと見つめて、観察することからすべては始まる。

そこに隠されたコツであるとかその手法を考案した人の視線や視点・考えを想像して学ぶこと。
さらにはその技が生まれてくるまで、頭脳のなかを駆け巡った工夫や着想の切っ掛けやアイデアの変化を肌身で感じて自分のモノにしなくてはならない。

職人の技を弟子入りした者が何年もの下積みを経て身につけて一人前にしてゆくときの姿勢のようなモノを説いているのだ。襖張りであるとか寿司職人が師匠から学ぶのに十年二十年という目の眩むような年月を要して血と涙の足跡やワザを受け継ぐ。

こんな伝承のスタイルは、今の時代には消えかかっているのかもしれない。
だが、自分が1つのモノを完成して揺るぎない技として完成して、さらにそれを未来に受け継ぐ確固たる作品や無形の力にしてゆくために、本当に真剣にやり遂げようとするならば、まずは「見て」学ぶのだと父はわたしに教えていたのだ。

この「見る」と短く表している言葉の奥には果てしなく揺るぎない厳しさがあったのだと思う。