診察があった日 鰻を食べて 時を待つ ✷ 清明篇

月のはじめに考える
清明篇

平成三十年三月三十日に花束をもらって職場を去った写真を見て
それは遙か過去だったような錯覚に似た感情が蘇る

しかし それは
実はもう今の僕が求めているノスタルジーではないのかもしれない
と、ふと思った

方向転換をして
生きるということに
真正面から立ち向かおうとしている

世の中の動きに疑問と反発を持って 生きてゆくことが
目に見えない命を脅かすものと闘うことよりも
厳しくて楽しいことなのかもしれない

時を待つ

その言葉が頭のどこかにへばり付くように残っている

それは「待つ」という言葉を 不要なものにするかの如く
忘れかけている現代人への警鐘にも思える

書きかけて温めている間に次のセッションを迎えてしまう
「また明日あたりに書きますね」なんて呑気なことを言ってられない

一年中 次から次へと追われているか または せっかちに急いていたときは
目の前にくる課題を(適当ではないが)テキパキと処理をしていた

「いつかゆとりで仕事をしたい」と夢を見た

何を待つのか

ところがいざ 追われないところに座してみると 『時を待つ』などと
気取ったことを言っている

おい、何を待っているのか


診察があった日、鰻を食べて 雨上がりを待つ ✶ 清明篇 雷山無言