減塩食
減塩食を摂るように生活を見直している。伴走してくれる家族に感謝をしたい
『減塩』を考える時間が格段に増えた。そしてまず「そもそも減塩とは何ぞや」を考えるところから始める
減塩という課題は 健康な人から見れば 対岸の火事であり 死ぬまで無縁の言葉だ
では「なぜ?減塩を迫られるのか」「なぜ?塩分の摂取が増加しているのか」
この問いに一生懸命答える人は 命の危険を自覚する人だけかもしれない
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塩味
塩分は 健康を保つために必要不可欠な要素だ。しかし 過剰摂取をすれば 身体を傷めつけることになる
文明の進化と共に生活に科学の知恵が加わり 食文化が大きく変化をしてきた歴史がある。その過程で ヒトが味わう食物の旨み感覚が左右されガラリと様変わりをしてきた
人間の身体は縄文時代から何も変わらないもので、歴史のある昔ながらの漬物や燻製にも塩が使われ 塩味は表には出ない地味な味覚として身体と共栄してきた。
しかし 旨みを引き出すために不可欠であるため どんどんとエスカレートして 食材の中に知らぬ間に浸透し さらに 人間としての暮らしが豊かになるにつれて 上塗りするように近代的な塩の味覚が 厚みを増していく
「塩味」という不都合な成分が余分に体内に吸収されれば身体に支障をきたすのは当然のことだ
人類という大きな視点から見ても 人間は 美味しいものを追求し続けて「塩味」だけではなく「脂質」「糖質」「小麦粉」など 現代食物学で注目されるものを美味しく食べて 豊かに暮らしている
せっかく気持ちよく美味しい食生活を送っているのに 邪魔をしないでくれと怒りを買うのも仕方あるまい
・・と言いながら 立ち止まって考えねばならない時期を迎えている
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『食』の追求
小麦粉をまず大幅に減らして、マクド、ラーメン、うどん・蕎麦・パスタ、練り製品 を食べるのをやめた
さらに 添加物や塩分の多い食品を見直して、ウインナー、惣菜屋さんのおかず、お弁当を控えるようにし、特に今まで好んで食べていた 麻婆豆腐、ピザ、スパゲッティー、カツ丼、たまご丼、明太子、骨付きローストチキン、ローストビーフ、豚バラ角煮、濃いカレー・シチュー、ファミレスメニュー・チーズハンバーグ、竹輪・おでんの練製品、味噌田楽・濃いおでん、刺身の醤油、市販のお鍋の素、キムチ・日野菜・沢庵・梅干しなど漬物一般、昆布・しぐれ、またそのおにぎり などというものが日常の食事メニューから消えていった
(体重が8Kg 減量し三ヶ月が過ぎる)
減塩を始めてから食材の購入検討時に必ず 栄養成分表を確認し「塩分量」をチェックするようになったことで、スーパーの商品やレストラン・メニューでは「成分表」を検索すると塩分の量が記載されてることも知った
だが
塩分を1日6g にする必要などあるのかという疑問や反発を持っている人にはこのような話は全く無意味でしかない
「どうぞ 健康な方はどんどん塩分を摂取して美味しいものを食べてください。美味しい毎日をお過ごしください」
そう言って 別世界に消えるまえに、少しお節介をしてでも 話をしたくなるのは 「美味の追求」に一息つき『食』を見直してみようではないか と提案したいからだ
(だが、まあここまで読んだら マシな方か・・
「僕には関係ないんだから」って思っているヒトは多いだろうし)
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塩味の認識
塩分削減の料理を作ると「味ない」と感じる。今の時代の人は「まずい」という表現を使うが 昔の人はおいしくないものを食べると「味ないなあ」と言った。そのことを考えていると「まずい」と「味ない」は微妙に違うようにも思えるようになってきた
塩味を減らして 味わいを出す工夫を怠って 簡単・手軽に味覚を刺激する料理や調理補助食材を開発し続けた料理人や食材会社を責めることはできない
しかし 人間がこういった「食欲」を深い欲望として追い続けることに応えてきた社会は 反省して新しい道を考え出す節目が来ているではないか・・と思うことがある
(人間が持つ大きな欲に「性欲」「食欲」があるが)・・「食欲」は追い続けながら「性欲」はそれなりに抑制をかけてきたのか。しかし、裏面・水面下で黙々と「性欲」も増殖し続けて 社会の片隅で節度を求める危ない事件がで噴出しニュースに出ている
「塩分」の抑制と「色欲」を同じカテゴリーで言うつもりはないが 人間の身体の生理的特徴を考えれば 無限大に塩分摂取に溺れていくのは危険だと認識を持つべきだ
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塩味調理の取組み
そこで 「うぇーまずいなあ」というような醤油も効いていないような煮物を作ってみて この延長に「この濃さでも美味いと思える調理方法があり得るのか」を日々考え続けている
古代人が美味しいと言って食べていたものに還って 生活を見直すことは きっと有意義なことだと信じている
豊かになりすぎた道具や社会システムが 想定上に災害などの危機に脆いこともわかってきている。脆いものにパッチを当てるように綻びを繕う新しい暮らしを 現代人はもっと立ち止まり巻き戻して考えねばならないのではないか