診察があった日 鰻を食べて 時を待つ ✷ 清明篇

月のはじめに考える
清明篇

平成三十年三月三十日に花束をもらって職場を去った写真を見て
それは遙か過去だったような錯覚に似た感情が蘇る

しかし それは
実はもう今の僕が求めているノスタルジーではないのかもしれない
と、ふと思った

方向転換をして
生きるということに
真正面から立ち向かおうとしている

世の中の動きに疑問と反発を持って 生きてゆくことが
目に見えない命を脅かすものと闘うことよりも
厳しくて楽しいことなのかもしれない

時を待つ

その言葉が頭のどこかにへばり付くように残っている

それは「待つ」という言葉を 不要なものにするかの如く
忘れかけている現代人への警鐘にも思える

書きかけて温めている間に次のセッションを迎えてしまう
「また明日あたりに書きますね」なんて呑気なことを言ってられない

一年中 次から次へと追われているか または せっかちに急いていたときは
目の前にくる課題を(適当ではないが)テキパキと処理をしていた

「いつかゆとりで仕事をしたい」と夢を見た

何を待つのか

ところがいざ 追われないところに座してみると 『時を待つ』などと
気取ったことを言っている

おい、何を待っているのか


診察があった日、鰻を食べて 雨上がりを待つ ✶ 清明篇 雷山無言

令和五年新年コロナ爆発物価急騰 ー 老後を考える

最近 高齢者の仲間入りを果たした。するとそこで 身の回りに 高齢者として心配を呟く人が妙にたくさんいる ことに気づく

そのような人たちが急に増加したわけではなく 自分がその世界に仲間入りしたのだ

🍏

  • 妻はいなくて 独り者だ
  • 独身貴族できたが もはや独身を通さずに六十歳を過ぎても結婚をした方がいいのか
  • 子どもはないので 一人で生きてゆく計画を立てている

そんな友達が居る。「未婚は気の毒 だが 結婚も地獄」と談笑をした日々がある

どっちが幸せなんだろうか

  • パートナーを探すのがええのか それとも一人の覚悟を決めるのか
  • 子どもがないので どうなるか心配だ 子どもがあればよかった
  • 不妊治療は百万円以上も掛かり それでも恵まれなかった友もあり 人それぞれ事情で子どもが持てなかった人が予想以上に多いので驚く
  • 訳あって夫婦は別れてしまって交流もない
  • 夫婦は仲良しだけど 夫は(妻は)優しくない 老後を円満に暮らせるかどうかが不安

夫婦円満でない人もあるし 別居中に人もあり 人それぞれの考えや事情があろうし 一致しなのが悪いと断じることもできない。マッチング率が 5%程度で暮らしている(我が家のような)夫婦もあるだろうから 趣味やスタイルが合致することだけが全てではない

  • もしも夫が(妻が)先に死んでしまったらどうするか
  • 一人ではうまく暮らしていける自信がない
  • 早く一人になってのびのびと暮らしたい
  • 一人になれば 誰に気を使うこともなく皆に羨ましがれるのだろうか

多くの高齢者が行き着くのは 残された時の不安(歓び)であり どちらが先に死ぬかを予測する人もあって 残される側は深刻な問題だ

先に死んでしまいたいという人が とても多いのに驚く

  • 年齢が近いか離れているかでも事情が変わろうし 残された側の幸せとは何か どうやって保障するかということも深刻だ
  • 病気がちだが 一人になるのは怖く もしもの時に夫婦での相互の介護はどうなるのか
  • 病気がちな人や痴呆が心配な人も不安が募る
  • どれほどまでにお互いを介護し合うのか
  • 今 どれだけ考えても答えは出ない

富裕な人と貧困人での格差も問題で 中には不十分な老後を送る悲しい結末の人もあろうが こういう人は表には出てこない悲しい結果になる

『悲しい』とは 何だろうという社会制度に問いかけるテーマも生まれる
老後の資金がなく 一人残されたら生活費が確実に不足する
中には 家もなく兄弟もいない人もある

時期が来たら『ストン』と終わりたいと願う人は絶えない
社会精度を構築する側の考え方・・なのだが 国家とな何か 誰のためにあるか という事に考えが及ぶ

﹆﹅

30年たてば 高齢者が30%のから 50%の時代になり 二人に一人は 高齢者の時代を迎え 年金制度が今のままならば 働かずに年金で暮らす高齢者が半数となる

高齢者でも働くか または 不要人は早く死んでもらうと歓迎されるというそ時代が来る

﹆﹅

世の中には苦しい人ばかりでもなく 年金は十分にあり生活に困らない けれども 子どもがいないので 夫婦の墓を悩んでいる人もいた

🍏

ここまで書いて ペンを置いて少し考えていたのだが 後で書こうとしても 何を今更 書き足すことがあろうかと思えてくる。それで全てかも知れない。では 答えとして何を求めようとしているのか。混沌としているのだ


🍎

  • 物価が上がる
  • 電気料金も上がる
  • ガソリンも
  • 医療費はかかる

なのに 収入は増えない。もはや何も頼れず 細々ともらう年金だけを頼るという人が多い。しかし 年金は減少し続ける生活は逼迫し 今後も明るい未来は見えない
生活を守る仕組みを考えくれる人が 弱い人をしっかり見ておらず 将来を考えていない失策政治が続くと嘆いても政治には新しいこれからは見えない

『鉄砲で撃ったろか』と思う人が出てきても仕方ないと思う人があっても責められない
こっちは『生きるか死ぬか』なんやから 『撃ったろ』と思うことが正義かどうかは別として すべてを燃やし尽くしてしまえば平等ではないかと思い付く。豊かなステージで豊かな社会を見ているだけの人にはわからないことなのだろう


🍎 🍎 🍎

上記のように書いたら コメントをくれた人があった。お金があったとしても家族があっても老後は不安定な時代だ・・という。そこで私の思案は続きます

人は「ストン」とは死ねません、種田山頭火にしても車谷長吉さんにしても ストン に近かったか

生きるための努力があるならば 死ぬための努力もあってもよかろう
生き延びれば ふたたび 人として活動をできるが 難しいのは 死ぬ場合で『命』を奪えば「終了」となることだ

現代社会には 命を奪う規約がない

伴侶が倒れて看病をして甦ってもそのあとで看病をしていた側が倒れてしまい甦ることなく死亡した例がある。こんな例の組み合わせを上げればキリがない

残された伴侶が自分も後を追って死にたいと思うかどうかは 発生事象の状況によるものの 生き延びる人や生き残る人の命を(「奪う」ではなく)「切り上げる」ということを法的にはできず またモラルや通例としても明確にされてはいない

実際に自分はどうなるのかという可能性を考えると 若くて元気な人ほど曖昧で 高齢で健康でない人ほど現実味を帯びる

もはや他人事ではない時代が来る(30%が高齢者から 50%が高齢者の時代、30年以内になる)

さて 新しい時代に対応した仕組みを考えねばなならないのは 若い世代の人だ
今はまだそれほど問題ではないかも知れないけど 間違いなく深刻な課題になる時代が来る
心配なのは 今の世代の人がぬくぬくで満足そうな暮らしをしているから何にも考えていないならば・・それは大変なことだ

無痛文明論 ー 芒種篇 (裏窓から)

六月になりました

* このころ 考えていたこと (書きかけに追記)


無痛文明論の記事の中で

+ +

『私たちの社会は痛みや苦しみや不快を取り除く方向へ進んできました。一見よいことにも見えますが、そこでは「生きる意味」がどんどん見失われていると私は思いました。痛みを排除する仕組みが社会の隅々にまで張り巡らされた現代文明のありよう。それを無痛文明と名付けて批判したのです』

+ +

『つらいことに直面させられ、苦しみをくぐり抜けたあとに、自分が生まれ変わった感覚を抱くことが人間にはあります。古い自分が崩れ、新しい自分に変わったことで感じる喜び。それは人間の生きる意味を深い部分で形作っているはずです。無痛文明とは人々が生まれ変わるチャンスを、先手を打ってつぶしていく文明なのです。』


と書いている
これを読んで少し考えて行く

ーーー
(私見)

どれだけ『無痛文明』という言葉に食いついてもらえたか

現代社会では こう行った言葉に食いつくことすらしなくなるほど 感覚が衰えて行ってしまっているのだから 一生懸命に論じようとしても届かない

レストランの前でネットで店の口コミやポイントを検索してから入るのが普通で その行動を否定したりしようものなら 白い目で見られる時代だ

『無痛』の何が悪いんだと斬りかかられる恐れがある

貧困や苦しみ 生きて行く上での不都合を取り除いて 豊かで幸せな暮らしを (自分だけでいいから)勝ち得たいと願う

社会を幸せにしてこそ 豊かさや幸せが全てに訪れるという考えが消滅しようとしている

しかし すでに豊かな人は 無痛文明によりいっそう豊かになってゆく

不幸せで貧困で思うように暮らせず 不平等な行政の制度で貧しいものはより貧しい補助で我慢しろと強制されているような社会

憤りを抱き 辛さを乗り越え 苦しみをくぐり抜けて 頑張れば いつか夢に描いた目標が叶う
そう信じて生きてゆく

頑張るという言葉は そんな時の普通の言葉であって何も惨忍な言葉でもないのに それを「頑張れー」と声援することに疑問を投げる人が出てくる

そんな意見が生まれてくる社会背景に 疑問を持つ人は少ない

生まれ変わって新しい自分を作り出すという 無痛でない文明があった

それは その時でしか味わえない生きるための感動であり 次の世代を作るパワーでもあるのだろう

無痛文明について 考える

兼ねてから『豊かさと幸せ』を追いかけて暮らしている現代人の 『どこか何かが違ってないか』的な疑問は ここでいう『無痛』という言葉が紐解く手がかりをくれるように思う

可愛い子には旅をさせろ
情けは人の為ならず

古臭い言葉だが そういった思想からも伺える人の姿勢を 哲学的に見直せという提案ではなかろうか

ネット社会である

そんなものを切り捨てられるところは切り捨てて 不便な暮らしをして これからの文明が滅びないように考えた出す必要はないか



無痛文明論

『親ガチャ論争に見る人生の勝ち負け 運命の中で生きることを諦めるな』
という森岡正博先生の記事が載ったのは去年の10月のことで、世間がアホくさく『親ガチャ』の流行語で騒いでいる真っ最中のことで、その陰でひっそりと記事は語っている・・・

全文を貼ります

 人生の勝ち負けは親次第――。親は選べず、親次第で人生が決まってしまう。日本社会をカプセル玩具の販売機に例えた「親ガチャ」という言葉がいま流行しています。この諦観(ていかん)にも近い人生観を巡ってネットでは論争もわき起こりました。哲学者の森岡正博さんは、人生を単純に勝ちと負けに分けてしまうのは間違いだとし、「諦めとは違う形で運命と和解することはできる」と語ります。どういうことなのか、聞きました。

 自分の人生がうまくいかないのは、この親から生まれたせいだ。そんなやるせない不満を、多くの若い人たちが「親ガチャ」という言葉で表現しています。根本にあるのは「他の人生があり得たかもしれないのに、現実はそうなっていない」というやるせなさです。

 しかし、私は「私の人生」しか生きたことがないわけです。他の誰かの人生と比較することはできません。にもかかわらず、「勝ち」か「負け」かという単純な人生観・人間観が噴出しているのは、いまの社会がそれだけ息苦しく、生きづらくなっているからかもしれません。

■「自由意志か、運命か」みんな悩んできた

 今回の論争を聞き、最初に私が思ったのは、人間が考えることはいつの時代も変わらないなぁ、ということでした。「自立した個人が思考し、努力を重ねれば未来は必ず開けていく」という自由意志論と、「個人は運命によって敷かれたレールの上を進んでいくしかない」という運命論の関係をどう考えるのか。これは、哲学で繰り返し議論されてきた問題です。

 ギリシャ悲劇の「オイディプス王」、シェークスピアの「リア王」、近松門左衛門の「曽根崎心中」……。文学の古典作品でも、「人間は運命にどうあらがえるのか」という主題が幾度となく扱われてきました。

 この問いは、人生を「他でもあり得たものとみるのか(偶然性)」と「必然によって支配されているとみるのか(必然性)」の対立ともいえます。

 もちろん、どちらか一方が人生の真理であるという決着をつけることはできません。運命に意志であらがったオイディプスも、最期は運命の外に出られていなかったことに直面させられます。運命的な結末に向かって突き進む二人が「心中」という死を自分で選ぶことで解放される。そうした様子を近松は書きました。

 自由意志か、運命か。偶然か、必然か。矛盾するこの二つが絡み合うから、人生は一筋縄ではいかない。だから古今東西、多くの人が悩み、考え続けてきたわけです。「親ガチャ論」にさまざまな意見が噴出している現状も、こうした潮流の中に位置づけられます。

 「親ガチャ論」の不満に対する社会的な答えを出すことは案外、難しくありません。それは、「どんな親から生まれても、個人の努力で未来を切り開いていける社会にしていきましょう」です。

 権力者である政治家の多くが世襲だったり、お金持ちの子どもがお金持ちになったり……。いまの日本では、「平等な個人」という理念が風前のともしびになっています。このままではいけない。だから、生まれてくる環境によって圧倒的な不平等が生まれないように、いまある格差を極力是正していきましょう。これはとても正しい答えであり、社会の一員として私も賛成します。

 ただ、同時に、平等な社会を一朝一夕で実現するのは困難なことも、私たちは知っているわけです。

 格差の消えない現実の社会の中で、どういうふうに自分の運命と対峙(たいじ)して、生きていけばいいのか。この問いをもう一度掘り下げてみるべきです。「親ガチャ論」の本質は、ここにあるのではないでしょうか。


■ 人生の価値は他の人生とは比較できない

 これは、「不平等を甘んじて受け入れろ」という話ではありません。

 たとえば、あなたが大学受験に挑戦し、第1志望の大学に合格できなかったとします。「受験に勝ったか、負けたか」を問われたら、負けたと思うでしょう。「予備校の授業をたくさん受けるだけの教育投資をできるくらい親が裕福だったら」と悔しがるかもしれません。

 しかし、受験では失敗したとしても、進学先の大学では、さまざまな新しい学びや出会いがあるでしょう。その中で「自分なりに頑張ってきたことが実った」「誰かと心が通じて幸せだ」と感じる瞬間がきっとあるはずです。第1志望ではなかった、という悩みが小さなものと思えてくる、なんてことがあるかもしれません。

 さて、あなたの人生は本当に「負け」でしょうか? 「いや、勝ち負けで測るなんて意味のないことだ」と言い返したくなる部分もきっとあるのではないでしょうか。

 たしかに個別の局面で「勝ち・負け」「成功・失敗」はあります。しかし、それらをくぐり抜けて続く「人生の全体」を考えてみれば、勝ちも負けもありません。人は一回限りのかけがえのない人生を生きており、人生の価値は他の人生とは比較できないからです。

 人生には、偶然と必然の両面があります。未来は開かれており、私は自由意志によって未来を作っていける。これが偶然の側面です。でも現実には、未来を思うように切り開けないこともあり、私たちは運命だったのかと諦めるでしょう。これが必然の側面です。

 でも、私たちはこのつらい運命と和解していくことができます。起きてしまったつらい出来事に対しては、それを人生のかけがえのない貴重なピースとして自分の人生に組み込んで、運命と和解し、未来に一歩を踏み出すこともできるのです。長い時間がかかりますが、不可能なわけではありません。そして、格差社会の残酷な現実はみんなで協力して変えていきましょう。

 今回、「親ガチャ」という言葉を巡ってネットで論争がわき起こったのは、「人生の勝ち負けは親次第」という考え方とは正反対の、「人生の全体は勝ち負けなんかでは語れない」という直観を、実は多くの人が共有していたからなのではないでしょうか。(聞き手・高久潤)

     ◇

 もりおか・まさひろ 1958年生まれ。専門は現代哲学、生命倫理学。著書に「無痛文明論」「生まれてこないほうが良かったのか?」など。

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あれから もやもやと気になっていた『無痛文明論』

6月7日の記事で
再び 登場

(リレーおぴにおん)痛みはどこから 2 
「無痛文明」に生きる残酷さ 
森岡正博さん

 「無痛文明論」を発表したのは19年前のことでした。私の全存在を懸けた本です。海外でも読まれ、今年は一部がトルコで翻訳・刊行されました。

 私たちの社会は痛みや苦しみや不快を取り除く方向へ進んできました。一見よいことにも見えますが、そこでは「生きる意味」がどんどん見失われていると私は思いました。痛みを排除する仕組みが社会の隅々にまで張り巡らされた現代文明のありよう。それを無痛文明と名付けて批判したのです。

 つらいことに直面させられ、苦しみをくぐり抜けたあとに、自分が生まれ変わった感覚を抱くことが人間にはあります。古い自分が崩れ、新しい自分に変わったことで感じる喜び。それは人間の生きる意味を深い部分で形作っているはずです。無痛文明とは人々が生まれ変わるチャンスを、先手を打ってつぶしていく文明なのです。

 しかし、無痛文明を批判するのは困難です。私を含めて皆がそれに絡め取られ、慣らされているからです。「無痛文明の外」に立つことは実は誰にも出来ない。この難題を解決する答えを私はあの本の中で見いだせていません。ただ「この問題を前に目を閉ざすのはやめよう」とだけ書きました。

 あのときなぜ「苦」や「不快」ではなく「痛」という言葉を使ったのか、ですか? 痛みは誰もが直接に感じるしかないもの、逃げられないものだからかもしれません。苦しみや不快に対しては「見方を変えればそうではない」と言えなくもありませんよね。

 この19年の間に日本社会では、経済格差問題への注目が高まりました。貧困の苦しみにあえぐ最中の人々にとっては、その苦しみを取り除くこと自体が第一でしょう。無痛文明は基本的に、豊かな人々の問題なのです。

 ただし無痛文明には、社会改善を推し進める側面もあります。貧困などの苦しみを社会から取り除こうとするからです。長い時間がたって、貧困の痛みから解放された人々は、再び、生きる意味があらかじめ奪われてしまう現実に直面します。無痛文明は、そんな残酷なシステムでもあるのです。

 私にとって無痛文明論は未完です。続編を書きたいと思っています。(聞き手 編集委員・塩倉裕)

     *

 もりおかまさひろ 哲学者 1958年生まれ。早稲田大学教授。「無痛文明論」(2003年刊)のほか、「人生相談を哲学する」「感じない男」など著書多数。

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断念をするということ − 芒種篇 裏窓から

六月・芒種

六月五日は ツマの誕生日で ささやかなお祝いをした

そもそもの私にはそのようなお祝いをするような習慣もないのであるが
違った暮らし文化の人が一緒に暮らし始めれば
新しいものができるのは当たり前のことで
結婚後は誕生日であるとかあれこれの記念日にはお祝いをしたきた

ことしは 誕生日が芒種でした
なんと地味な季節に生まれたものだ

さてその日に「裏窓から」を考え始めるのだが
一向に思い浮かばず日々が過ぎてしまった

タイムスタンプだけは五日の儘で これを書いているのは実は11日である

梅雨に入ってしまったのでここに何かを書くのは断念します