無痛文明論 ー 芒種篇 (裏窓から)

六月になりました

* このころ 考えていたこと (書きかけに追記)


無痛文明論の記事の中で

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『私たちの社会は痛みや苦しみや不快を取り除く方向へ進んできました。一見よいことにも見えますが、そこでは「生きる意味」がどんどん見失われていると私は思いました。痛みを排除する仕組みが社会の隅々にまで張り巡らされた現代文明のありよう。それを無痛文明と名付けて批判したのです』

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『つらいことに直面させられ、苦しみをくぐり抜けたあとに、自分が生まれ変わった感覚を抱くことが人間にはあります。古い自分が崩れ、新しい自分に変わったことで感じる喜び。それは人間の生きる意味を深い部分で形作っているはずです。無痛文明とは人々が生まれ変わるチャンスを、先手を打ってつぶしていく文明なのです。』


と書いている
これを読んで少し考えて行く

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(私見)

どれだけ『無痛文明』という言葉に食いついてもらえたか

現代社会では こう行った言葉に食いつくことすらしなくなるほど 感覚が衰えて行ってしまっているのだから 一生懸命に論じようとしても届かない

レストランの前でネットで店の口コミやポイントを検索してから入るのが普通で その行動を否定したりしようものなら 白い目で見られる時代だ

『無痛』の何が悪いんだと斬りかかられる恐れがある

貧困や苦しみ 生きて行く上での不都合を取り除いて 豊かで幸せな暮らしを (自分だけでいいから)勝ち得たいと願う

社会を幸せにしてこそ 豊かさや幸せが全てに訪れるという考えが消滅しようとしている

しかし すでに豊かな人は 無痛文明によりいっそう豊かになってゆく

不幸せで貧困で思うように暮らせず 不平等な行政の制度で貧しいものはより貧しい補助で我慢しろと強制されているような社会

憤りを抱き 辛さを乗り越え 苦しみをくぐり抜けて 頑張れば いつか夢に描いた目標が叶う
そう信じて生きてゆく

頑張るという言葉は そんな時の普通の言葉であって何も惨忍な言葉でもないのに それを「頑張れー」と声援することに疑問を投げる人が出てくる

そんな意見が生まれてくる社会背景に 疑問を持つ人は少ない

生まれ変わって新しい自分を作り出すという 無痛でない文明があった

それは その時でしか味わえない生きるための感動であり 次の世代を作るパワーでもあるのだろう

無痛文明について 考える

兼ねてから『豊かさと幸せ』を追いかけて暮らしている現代人の 『どこか何かが違ってないか』的な疑問は ここでいう『無痛』という言葉が紐解く手がかりをくれるように思う

可愛い子には旅をさせろ
情けは人の為ならず

古臭い言葉だが そういった思想からも伺える人の姿勢を 哲学的に見直せという提案ではなかろうか

ネット社会である

そんなものを切り捨てられるところは切り捨てて 不便な暮らしをして これからの文明が滅びないように考えた出す必要はないか



無痛文明論

『親ガチャ論争に見る人生の勝ち負け 運命の中で生きることを諦めるな』
という森岡正博先生の記事が載ったのは去年の10月のことで、世間がアホくさく『親ガチャ』の流行語で騒いでいる真っ最中のことで、その陰でひっそりと記事は語っている・・・

全文を貼ります

 人生の勝ち負けは親次第――。親は選べず、親次第で人生が決まってしまう。日本社会をカプセル玩具の販売機に例えた「親ガチャ」という言葉がいま流行しています。この諦観(ていかん)にも近い人生観を巡ってネットでは論争もわき起こりました。哲学者の森岡正博さんは、人生を単純に勝ちと負けに分けてしまうのは間違いだとし、「諦めとは違う形で運命と和解することはできる」と語ります。どういうことなのか、聞きました。

 自分の人生がうまくいかないのは、この親から生まれたせいだ。そんなやるせない不満を、多くの若い人たちが「親ガチャ」という言葉で表現しています。根本にあるのは「他の人生があり得たかもしれないのに、現実はそうなっていない」というやるせなさです。

 しかし、私は「私の人生」しか生きたことがないわけです。他の誰かの人生と比較することはできません。にもかかわらず、「勝ち」か「負け」かという単純な人生観・人間観が噴出しているのは、いまの社会がそれだけ息苦しく、生きづらくなっているからかもしれません。

■「自由意志か、運命か」みんな悩んできた

 今回の論争を聞き、最初に私が思ったのは、人間が考えることはいつの時代も変わらないなぁ、ということでした。「自立した個人が思考し、努力を重ねれば未来は必ず開けていく」という自由意志論と、「個人は運命によって敷かれたレールの上を進んでいくしかない」という運命論の関係をどう考えるのか。これは、哲学で繰り返し議論されてきた問題です。

 ギリシャ悲劇の「オイディプス王」、シェークスピアの「リア王」、近松門左衛門の「曽根崎心中」……。文学の古典作品でも、「人間は運命にどうあらがえるのか」という主題が幾度となく扱われてきました。

 この問いは、人生を「他でもあり得たものとみるのか(偶然性)」と「必然によって支配されているとみるのか(必然性)」の対立ともいえます。

 もちろん、どちらか一方が人生の真理であるという決着をつけることはできません。運命に意志であらがったオイディプスも、最期は運命の外に出られていなかったことに直面させられます。運命的な結末に向かって突き進む二人が「心中」という死を自分で選ぶことで解放される。そうした様子を近松は書きました。

 自由意志か、運命か。偶然か、必然か。矛盾するこの二つが絡み合うから、人生は一筋縄ではいかない。だから古今東西、多くの人が悩み、考え続けてきたわけです。「親ガチャ論」にさまざまな意見が噴出している現状も、こうした潮流の中に位置づけられます。

 「親ガチャ論」の不満に対する社会的な答えを出すことは案外、難しくありません。それは、「どんな親から生まれても、個人の努力で未来を切り開いていける社会にしていきましょう」です。

 権力者である政治家の多くが世襲だったり、お金持ちの子どもがお金持ちになったり……。いまの日本では、「平等な個人」という理念が風前のともしびになっています。このままではいけない。だから、生まれてくる環境によって圧倒的な不平等が生まれないように、いまある格差を極力是正していきましょう。これはとても正しい答えであり、社会の一員として私も賛成します。

 ただ、同時に、平等な社会を一朝一夕で実現するのは困難なことも、私たちは知っているわけです。

 格差の消えない現実の社会の中で、どういうふうに自分の運命と対峙(たいじ)して、生きていけばいいのか。この問いをもう一度掘り下げてみるべきです。「親ガチャ論」の本質は、ここにあるのではないでしょうか。


■ 人生の価値は他の人生とは比較できない

 これは、「不平等を甘んじて受け入れろ」という話ではありません。

 たとえば、あなたが大学受験に挑戦し、第1志望の大学に合格できなかったとします。「受験に勝ったか、負けたか」を問われたら、負けたと思うでしょう。「予備校の授業をたくさん受けるだけの教育投資をできるくらい親が裕福だったら」と悔しがるかもしれません。

 しかし、受験では失敗したとしても、進学先の大学では、さまざまな新しい学びや出会いがあるでしょう。その中で「自分なりに頑張ってきたことが実った」「誰かと心が通じて幸せだ」と感じる瞬間がきっとあるはずです。第1志望ではなかった、という悩みが小さなものと思えてくる、なんてことがあるかもしれません。

 さて、あなたの人生は本当に「負け」でしょうか? 「いや、勝ち負けで測るなんて意味のないことだ」と言い返したくなる部分もきっとあるのではないでしょうか。

 たしかに個別の局面で「勝ち・負け」「成功・失敗」はあります。しかし、それらをくぐり抜けて続く「人生の全体」を考えてみれば、勝ちも負けもありません。人は一回限りのかけがえのない人生を生きており、人生の価値は他の人生とは比較できないからです。

 人生には、偶然と必然の両面があります。未来は開かれており、私は自由意志によって未来を作っていける。これが偶然の側面です。でも現実には、未来を思うように切り開けないこともあり、私たちは運命だったのかと諦めるでしょう。これが必然の側面です。

 でも、私たちはこのつらい運命と和解していくことができます。起きてしまったつらい出来事に対しては、それを人生のかけがえのない貴重なピースとして自分の人生に組み込んで、運命と和解し、未来に一歩を踏み出すこともできるのです。長い時間がかかりますが、不可能なわけではありません。そして、格差社会の残酷な現実はみんなで協力して変えていきましょう。

 今回、「親ガチャ」という言葉を巡ってネットで論争がわき起こったのは、「人生の勝ち負けは親次第」という考え方とは正反対の、「人生の全体は勝ち負けなんかでは語れない」という直観を、実は多くの人が共有していたからなのではないでしょうか。(聞き手・高久潤)

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 もりおか・まさひろ 1958年生まれ。専門は現代哲学、生命倫理学。著書に「無痛文明論」「生まれてこないほうが良かったのか?」など。

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あれから もやもやと気になっていた『無痛文明論』

6月7日の記事で
再び 登場

(リレーおぴにおん)痛みはどこから 2 
「無痛文明」に生きる残酷さ 
森岡正博さん

 「無痛文明論」を発表したのは19年前のことでした。私の全存在を懸けた本です。海外でも読まれ、今年は一部がトルコで翻訳・刊行されました。

 私たちの社会は痛みや苦しみや不快を取り除く方向へ進んできました。一見よいことにも見えますが、そこでは「生きる意味」がどんどん見失われていると私は思いました。痛みを排除する仕組みが社会の隅々にまで張り巡らされた現代文明のありよう。それを無痛文明と名付けて批判したのです。

 つらいことに直面させられ、苦しみをくぐり抜けたあとに、自分が生まれ変わった感覚を抱くことが人間にはあります。古い自分が崩れ、新しい自分に変わったことで感じる喜び。それは人間の生きる意味を深い部分で形作っているはずです。無痛文明とは人々が生まれ変わるチャンスを、先手を打ってつぶしていく文明なのです。

 しかし、無痛文明を批判するのは困難です。私を含めて皆がそれに絡め取られ、慣らされているからです。「無痛文明の外」に立つことは実は誰にも出来ない。この難題を解決する答えを私はあの本の中で見いだせていません。ただ「この問題を前に目を閉ざすのはやめよう」とだけ書きました。

 あのときなぜ「苦」や「不快」ではなく「痛」という言葉を使ったのか、ですか? 痛みは誰もが直接に感じるしかないもの、逃げられないものだからかもしれません。苦しみや不快に対しては「見方を変えればそうではない」と言えなくもありませんよね。

 この19年の間に日本社会では、経済格差問題への注目が高まりました。貧困の苦しみにあえぐ最中の人々にとっては、その苦しみを取り除くこと自体が第一でしょう。無痛文明は基本的に、豊かな人々の問題なのです。

 ただし無痛文明には、社会改善を推し進める側面もあります。貧困などの苦しみを社会から取り除こうとするからです。長い時間がたって、貧困の痛みから解放された人々は、再び、生きる意味があらかじめ奪われてしまう現実に直面します。無痛文明は、そんな残酷なシステムでもあるのです。

 私にとって無痛文明論は未完です。続編を書きたいと思っています。(聞き手 編集委員・塩倉裕)

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 もりおかまさひろ 哲学者 1958年生まれ。早稲田大学教授。「無痛文明論」(2003年刊)のほか、「人生相談を哲学する」「感じない男」など著書多数。

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